2013年9月23日月曜日

無花果

ここ数日と言ってもいいし、ここ数年と言ってもいいくらいで、この日記もそうなのだが、ふとまとめて読み返すと自分が同じことばかり書いていて愕然とする。驚くべきは、書いても書いても、こちらの切実さはちっとも摩耗しないということだった。 でも、読む側の神経は摩耗するかもしれないから、気をつけなければならない。そしてこれを書きながら、同じ手法が続くと飽きる、とか、その先の表現に行ってほしい、とか言われているいくつかの劇団のことが頭をよぎった。私は、手法はともかく作品ごとの切実さがまっとうならばそれでいいよ、と思っていて、つまり私にとって一番重要なのはそういう切実さの表れなのだということが、奇しくも自分の日記の山を通して明らかになったわけだが、そこの機微をどう説明していくかが、次の自分の課題かもしれない。

無花果のことを、自分では好きだと思っている。でもそれは祖父の好物だったから好きなのであって、食べるとだいたい「こんな味だっけ」と少しがっかりする。がっかりしたところで無花果を嫌いになるわけではなくて、これをおいしいと思えるようにまた食べたくなる。だいたい、好きな理由を簡単に説明しきれるものは本当に好きではないのだし、そう考えると無花果のことはかなり好きなんだろう。

何に向けたものにせよ、自分の愛がどのように結実するかには大変関心を持って取り組みたいが、全方位への「もて」みたいなものはなるべく遠ざけて生きたいし、他人の愛情の行方にも正直興味は持てない。なぜなら私の愛が一番強いに決まってるから!……というパフォーマンス的なことを常に嘯きながら、波風立てて生きていたい。

それはあなたがものを書く人だから、とある文脈で最近言われて、普通なら、条件つきの言説にはクレームのひとつもつけたくなるところだが、私がなにかを書くための頭をなくすことは(おそらく)ありえないから、まったく動揺も苛立ちもせず、全部水割りで流し込んでしまえるくらいには、うれしかった。しかし「言われてうれしいこと」というのは得てして「自分が一番認めてほしいこと」であり、その自覚なきまま安易に喜んだりはしたくない、とも思ってしまったのでどうも可愛げがない。

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