2013年10月11日金曜日

判断の連続

一日、何も食べずに痛み止めを飲み続けた。水がなくたって、お茶だってコーラでだって飲む。全然平気だ。痛み止めは習慣になっているし、何しろ飲まないと痛みが止まらないのだから薬がいや、とも言ってる場合じゃない、我慢したって何にもならないという諦念がこういう行為につながっている。
 
来た道を逆にたどる、という意味をこめて、川沿いを歩いた。夕暮れの川は極端にブルージィだ。今までで一番ブルースな空気を感じたのは鶴見川だったように記憶しているが、隅田川の細い支流のことは本当に好きだし、やっぱり大岡川もすごくそそる。そうなると玉川上水は、見た目はそれらと似ていなくもないけれど、緑の深さが牧歌的な豊穣さを醸しているのでちょっと違うな、などと考えた。夕暮れの灰青の空を見ながら、アコースティックギターが弾けたらよかった。もしくは、ギタリストを従えたさすらいの歌手になれたらよかった、と思った。
 
言葉を扱って表に出すのは判断の連続、と教えられたことを思い出している。技巧的な意味でもそうだが、あらかじめ責任を持つ(何かが起きたあとに発生するのではなく)ということの方の意味を最近は強く感じている。

前者の「判断」という意味では、それこそ取捨選択の連続で、どうしても書きたくないとか書けない話はあって、たとえば試着室を出たあとに身体を眺め回されて服装に言及されたことが死ぬほど嫌だったとか(でも洋服屋では当然の行為だ)、洗面所の扉の隙間から髪を乾かす人を盗み見していたこととか(角度によっては鏡に私が映り込むはずだということも知っている)、何だか朝から脚が痛いなと思ったときのその理由とか(たいてい慣れない場所で寝たりしたせい)、忘れるには苦し過ぎたり甘過ぎたりおもしろ過ぎたりすることがいくつもある。記憶のよすがとして、表には出ないかもしれないけれど、でも、書かれなかったすべての出来事があってこその、私の考え、というものがいつか表に出ればいい。いや、本当は全部残してあるけどね。日々が過ぎゆくままに、捨てられるわけない。いやしいと言われたってかまわない。

人前で無駄に泣かないのは、たとえば抱きしめられて今にもこぼれそうだけど今は、とか思いながら涙をこらえているほうが愛が深いと信じているからかもしれなくて、それは言うまでもなく愛だけでなく業もつくづく深いからそうなるのである。今なら泣けるわ、とかいう気持ちが起こるときはあるけれど、そういうのはたいていひとりで道端を歩いているときか、キッチンでお湯をわかしているときで、ここぞというときには絶妙にすり抜けてしまうのでどうにもならない。

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