2015年9月1日火曜日

ある日(座禅、レクチャー)

夏休み座禅の会、最後の朝である。三日前から始めて今日が最後だし、座禅は寺でおこなうし、これを本当の三日坊主と言う。座禅ではいつも何をしているかというと、まずみんなで般若心経の読経。そこから5〜10分ほど座禅をして心を落ち着けて、ご住職の子ども向けのお話。そしてしりとりや、リレーでお話をつくる遊び、九九の暗唱などをして朝8時に終わり。
 
フォトスタジオの次女が小さなリュックをしょってこちらに近づいてきて「お風呂の用意もってきた」とこっそり言う。いつも座禅を終えて朝風呂に向かうFと私をうらやましく思っていたらしく、「明日はいっしょに行く」と昨日言っていたのだった。というわけで、長女と次女を連れて鴻の湯。女の子をふたり、ほんの一瞬、神さまから預かっているような不思議な心持ち。

アートセンターで一休みしてから、ランチに出かける。をり鶴で、上海鮮丼という贅沢をこころみる。錦糸卵、糸のように細切りの大葉が乗った甘海老など、見目よい素晴らしいお食事をいただいた。Fが昼寝に帰ったので、私はひとりで駅向こうのコンビニまで振込の用にゆき、スーパーで買い物したのち、さっと一の湯に寄る。アートセンターに戻り、冷蔵庫に肉などの生ものをしまってから、近所の古美術屋へ。

古美術屋は、座禅会で知り合った少女Aの家である。少女Aは数日前、店で扱っているアクセサリーの中からおすすめの品物について話してくれた。「ぜひ来てください」と控えめに締めくくられた彼女の話がずっと気になっていて、訪れたいと思っていたのだ。店先に彼女の祖母がいらして、私が名乗るとすぐ少女Aを呼んできてくれた。店には、茶道具や掛け軸のほかに、トルコの伝統的な編み方でつくられた飾り紐のアクセサリーがたくさん並べてある。その中から、少女Aのお気に入りのものを教えてもらっていると、彼女の父、すなわち店主が現れた。なんと店主は横浜で仕事をしていたことがおありで、私たちの作品づくりの活動にも、とても興味を持ってくださった。話しながらトルコのアクセサリーをいろいろ選ばせてもらい、花のかたちのピアスをひとつ買った。少女Aはとてもおとなしく、静かな子だけれど、私がその場でピアスをつけて「どう?」と見せると、嬉しそうににこにこしてくれた。でも彼女自身は、こわいからピアスはしたくない、とのこと。

夜は、アートセンターでFによる現代演劇のレクチャー。2時間足らずでは話しきれないことも多くあるが、ある切り口を定め、覚悟をもって語られたレクチャーと思った。フォトスタジオの三姉妹たちも、両親と一緒に来ていた。9歳の長女は、ああ見えてFが人前で話すのをかなり楽しみにしており、昼間からずっと「ちゃんと話せるのかなあ、大丈夫かなあ」と言っていたらしかった。レクチャーが始まる前についとFのもとに寄ってきて「むずかしい顔してむずかしいこと言わないでよね」と言っているのが聞こえた。その横で次女は無邪気に「おうち帰ったら、ぽんぽこ見るの」と笑っていた。今宵は夏休み最後の金曜日。子どもたちのお楽しみであるジブリ映画の放映が、夜9時からあるのだった。

レクチャーを終えての長女の感想は「むずかしくない顔してむずかしいこと言ってた……」というものだった。冷戦構造の終わりだの、ロストジェネレーションだの、彼女にはまだわからないことも多いだろう。しかし重要なのは、自分といつも遊んでくれるFが、大人向けに語ったレクチャーを、1時間以上も、とりあえずは聴いたという事実のほうだ。

子どもたちがテレビを見に帰ったあと、レクチャーを聴きに来てくれた町の方々と、アートセンター食堂で飲む。なじんだ顔ぶれが多くいて、私もめずらしく、力を込めて演劇について話したりしてしまった。ひとりの僧が、このようなことを言った。
「アートセンターが町にできる時、私は全面的に賛成した。しかし、アーティストなら誰でも歓迎という意味ではない。たとえば壁に人糞を塗ったものを『これはアートだ』と言う人が来るのは困る」
人糞は極端な例であるものの、地域と芸術の不安な関係をぐっと突いた言葉であると、感じた。美しいものだけが芸術ではない。だけど、奇抜で汚くて混沌としたものだけが芸術でもない。たえまない対話と、理解をうながす翻訳的な交流がなければ、芸術は人の心に根を張れない。先日のレクチャーの中で、HO氏が残した言葉がある。
「現代芸術は、わからなくても、いいんです」
それは、どうせ考えてもわからないからわからなくていいという意味ではない。わかろうとし続ける、作り手と鑑賞者の、相互の思いがあるという前提において、芸術とはわからなくてもいいものでいられるのだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿