2018年6月14日木曜日

愛の苦しみ(11.06.2018)

朝食の会場でKM嬢と待ち合わせるのがもはや日課となっている。演目の開始はだいたい16時〜23時なので、日中はお互い仕事をしたり、日用品を買いに出かけたり、街の散歩をしてフェスティヴァルの空気を肌で感じている。

今日は、二人とも追われている締切がなかったので、朝食のあとに、ホテルのスパに入るための水着を買う目的で、15分ほど離れた大通りまで散策に出かけた。古びたファッションビルが並んでいて、片っ端から入ってみる。一言で、日本人に伝わるように説明するなら「しまむら」であった。服、靴、水着、帽子、何でもごっちゃに売っている。婦人服が多いが、まれに紳士物もある。フロアで分かれていたりは、しない。ワンピースや靴に花柄やカラフルなものが多く、KM嬢と二人で「可愛い!」「これも可愛い!」と連呼していた。昨日、アレクサンドラにも「可愛い」という日本語の意味と用途を教えたのだが、改めて考えると「可愛い」は本当に万能で、very useful! と伝えたのもあながち間違いではない。KM嬢は10レイほどのショートパンツをお買い上げ。

その後、市街の真ん中まで戻り、大きな教会を目指す。プロテスタントの、ホーリートリニティ大聖堂。壁画、天井画が非常に美しく、いわゆるミサ(プロテスタントだから礼拝か)のための椅子がない状態で、とてもひろびろとした空間だった。飾られている聖母子の絵の前で十字を切り、祈る。

KM嬢がアイスを買う。生姜アイスを彼女はチョイス。素晴らしく美味だった。

そのあと、私のわがままで、小道の奥にあるドレスショップに寄らせてもらう。オフホワイトの、パフスリーブで、脇が編み上げになっていて、最高に可愛いロングドレスを買った。昨日見かけてから恋いこがれ、やっぱり欲しかったので買ってしまった。200レイ。

夕方までお互いひと仕事、ということでKM嬢とホテル前で別れる。すぐそばにアイスの屋台があったので、レモネード(名物)飲みながら仕事したいな、と思い買うことにした。しかし、値段が6レイなのに、財布には5レイ50バニ(※レイの補助単位)しかなかった。あとは50レイ札とか、つまり夜店のたこ焼き屋で1万円札を出すくらい非常識なことなので、正直に「レモネードが欲しいのですが only 5レイ50バニしかありません」と言ったら「OK!」と言って売ってもらえた! この街で、何かに成功したような気がした。

ルーマニアのお買い物、特にスーパーマーケットは面白くて、細かいおつりが本当は53バニなのに50バニしか返してくれなかったり、18バニなのに20バニ返してくれたりする。細かい10バニ以下のコインが面倒なんだろう。ちなみにバニは複数形で単数形はバン。レイの単数形はレウ。

そのあと、調子に乗って別の店でグリーンスムージーも飲む。「にんじんベース」「緑の野菜ベース」「ベリーベース」など、メニューを見てだいたいは分かるようになっていたけれど、「緑の野菜ベース」のうちからなるべく何が入っているか読めないものを選んだ。15レイ。つくっているところを見ていたら、りんご、セロリ、パイナップル、パクチー、生姜などが入っていた。美味。

16時から、Kibbutz "Mother's Milk" を観劇。イスラエルのカンパニーによるもの。開始した瞬間に、ダンサーたちの圧倒的な体の軸の強さを感じる。ポジションをどう崩しても必ず高い位置に軸があり、安定感と実験的な振付の往来を可能にする。男女から始まり、親子、同性同士など人間の様々な愛の形が揺れて少しずつずれ、一個人のものとして獲得されていく様子が描かれる。黒のシンプルな衣装も美しい。 "Mother's Milk"というのは、恐らく親子の愛とすれ違いが描写されていたこともあるが、すべての生き物は母から生まれ、離れ、なにがしかの愛に出会い、傷ついたり幸せになる、という普遍性を象徴していたようにも思う。"Milk" はちょっと、作品意味を狭めてしまっていたかもしれない。暗喩があったのだとしたら私には読み解けなかった。しかし、満場一致の(というのも変だが)自然発生的なスタンディングオベーション。上演時間は1時間。

20時から、Teatrul National "Radu Stanca"Sibiu (国立劇場の俳優たち)による『ヘッダ・ガブラー』。こちらは休憩ありで3時間。初日にブカレストから車で一緒だったアシュリーとロビーで再会して、抱き合う。

宇宙船のようなSF仕立てのセット。下手に配置されている、黒い鋭利な形をしたソファが、おそらくガブラー将軍の棺なのだろう。そこに、ヘッダの母が座り、幼少期のヘッダが懸命に母の気を惹こうと健気にがんばっているところから物語は始まる。なお、ヘッダの母はのちのち何度か舞台に登場するが、いっさい言葉を発することはない。死んでなお娘のコンプレックスの根源でありつづける亡霊として見事な存在感だった。ところどころスタンドマイクを使って、俳優たちの発声を意味ありげに聞かせる演出が特に成功していたと思うが、それは別としてもヘッダ役の俳優がとにかく魅力的に感じられた。コケットでありながら、強さ、脆さをあわせもっていた。特に、強気であるほど弱い部分が引き立つのだ。ヘッダは男を振り回す魔性の側面を全面に出すと、食傷気味になるし、後々のスキャンダルを恐れて弱気になる側面との整合性が取れなくなるため、本当に難しい役だと思う。

演出は終始SFであり、宇宙服を着る場面があったり、ロケット発射の描写があったり、"Hey, Siri" と登場人物がiPhoneに話しかけたりしていたけれど、物語の筋は丁寧に原作をなぞっていた。それがもしかしたら、イプセンの時代の女性の葛藤のリアリティを下げていたかもしれないけれど、でも時代がどれだけ変わっても、みずからの女性らしさに時に縛られ、苦しむ女性は居るものなのだ。たとえ、何人もの男から愛されたとしても。

休憩前に、登場人物たちによる自己紹介(リアルなもの)とダンスタイム……アメフトでいうハーフタイムショーのような感じと言えば伝わるだろうか、紙吹雪が乱れ飛び、観客は手拍子でのりのりになる中、ヘッダが妖艶に踊り、男性たちもそれぞれソロダンスを披露する時間があった。ここで終わっても、名作になったかもしれない。実際、終演したと勘違いして帰った客も散見された。ちなみに休憩前直前のシーンは、テアがヘッダに、レーヴェボルクとの不倫を打ち明け、涙にくれるところで、誰も死んでいないから後半を観るべきだったけれど、盛り上がりとしては確かにハーフタイムショーが一番だった。

後半まで観て、ヘッダが追い詰められて死を選ぶところは説得力があったけれど、先に死んだレーヴェボルクとヘッダが、ラストシーンで仲良く宇宙船で宇宙に飛び立ってしまった。いや、お互い、生きたいように生きられず、人間同士としては激情を交わすには向いているけれど平穏な結婚生活は送れない相手だから、死んでからともにある、しかし孤独に宇宙に放たれてしまう、というのは悪くはない。スケールが大きい演出だけに、また、イプセンの女性描写というものは万人の納得できる演出というのは難しい、ほぼありえないと私は考えているので、ラストが綺麗に収まりすぎてしまったのはややもったいなかった。

イプセンの上演は2018年現在、ますます難しくなっていると感じる。どんな演出にせよ一長一短で、だが、ノラ(『人形の家』)のような世間知らずの弱い女、ヘッダのようなスキャンダルを恐れて自分を出せない女が滅んだわけではない。実際には、今もノラ、ヘッダのような女性は居わけで、そういうのを知らずして「イプセンの戯曲は今の女性像に合わない」とは言いたくないし、やたら強い女性に改変された演出も見たくない。時代が進むにつれて、様々な女性像が可視化されて、ある程度(ある程度、というところが重要だ!)許容されてきただけであって、変わらぬ苦しみの中に居る人は居る。

国立劇場のレパートリーのためか、終演後、ロビーで薔薇の花を観客たちに配っていた。ホテルの部屋に帰り、空いたペットボトルに水を入れて挿した。部屋に赤みがさして、美しい。

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