2022年9月28日水曜日

流行り病

 週末から何か、起きにくくて眠りすぎる感じがあった。


▼8月15日(月)

普段ならしないような寝坊。多摩永山病院へぎりぎり向かう。12:30出社。バレエレッスンにも行けた。この時点では特段の体調不良を感じてはいない。


▼8月16日(火)

起き抜けに、エアコンで乾燥したときのような喉の痛み。少し不思議に思いながら出社。問題なく業務をおこなう。海外出張に向けて一応受けようと思い、PCR郵送の手続きを9:30に出す。何となく予感がしていたのかもしれない。上司は15:30ごろ帰宅。喉がチリチリ傷む、と母には14:30にはLINEで一報。咽頭痛は良くならないまま退社時間。帰りの地下鉄でやけに眠い気がして、普段なら寝ないのに座ったまま寝てしまう。喉の違和感消えず。

嫌な予感が消えないのでクイーンズ伊勢丹でアイスクリーム、ゼリーを買い込む。帰宅してホワイトシチューを作り、一人前食べきるが最後の方、飲み込むのが少し難しい心持ちがしたので熱を測ると37.7ほどあり、これはと思いつつ母に電話。その後37.8~38度くらいに上がる。咳も出ていて、喉が、これは絶対エアコンのせいでは無いなというぐらいには痛い。

取り急ぎ上司に連絡。明朝また電話することにする。風呂を済ませ21時頃眠るが、数時間と続けて寝付けない。ネットスーパーアプリで買い物をする。

深夜1時、寒いので脚立を持ち出し、冬用の毛布を出してくるまる。目が覚めるたび喉が痛い。カロナールを飲み、熱は3時過ぎ現在、37度に落ち着いている。


▼8月17日(水)

発症二日目

4:51 体温37.6度 咽頭痛のため声が潰れる。関節痛あり。そこから体温上昇と痛み、体調の異変により眠れなくなる。

5:10 バレエの先生に一報を入れる。しばらくクラスはお休みし、引き続き注視して連絡することになる。

5:16 寝付けないので、いつも早起きの上司にWhatsAppし、6:15に電話。その時点で熱は37.8ほど。上司は枯れた私の声に驚いていて、出張はキャンセルとする。朦朧としていたので、上司がすべてアメリカへのメールを書いてくれて助かった。アメリカはまだ前日午後なのでレスポンスも早く、ホテルのキャンセレーション・コンファームがすぐに来た。

カロナールのおかげで、37.2まで下がる。日本の旅行代理店や、大使館関連でいくつかメールを書く。10:00からのオンラインミーティングはとても傍聴もできない状態なのでキャンセル。ここから解熱剤をいったん止める。

家族、3-4日以内に会った友人には状況を連絡し、気をつけてほしいと頼む。

13:00前に自治体に電話相談。東京都陽性者登録センターの案内を受ける。

38.9まで上昇した熱は下がらず。パルスオキシメーター97。発熱、咽頭痛、痰、悪寒、頭痛。14:30にいつものネットスーパーのおじさんが来てくれるがインターホン越しに、今は話せないから置いてくれと頼んだ。おじさんが帰ってから、届けられたばかりの雪見だいふくのごく小さいのを3つ食べた。

暇なので体温を測ってしまう。38.8から、39.4まで上がったのが17日のピーク。


▼8月18日(木)発症三日

激烈な喉の痛みは昨日よりあるが、起き抜けの体温は37.3まで下がる。

調子の良いうちに風呂に湯を張り、洗髪と入浴。閉めたままのカーテンの向こうから雨の音が途切れず聞こえるので洗濯はしない。

その後36.9まで落ち着くなどし、会社とのメールやり取りも進める。食欲が特になく固形物ではなくゼリー、果物を食べる。アイスクリームは重そうなので今日は控える。

火曜朝に出していた唾液検体では時期が早すぎたこともあって陰性だった。にわかには信じがたく、また何か証明書がないといろいろ困る、と思い、病院紹介ダイヤルにかけて近所のクリニックを20:15に予約。

16:00 平熱近くまで下がったのがまた38度前後を行き来するようになる。熱っぽく怠い。

17:15 38.2、その後38.3まで上がって病院の時間まで何とか少し眠ろうと思うが、1時間半ほどで目が覚める。都の案内者には「公共交通機関はなるべく避けて」と言われていたので、私的交通機関であるところの自転車で行こうと決める。何とか運転もできるだろう。

なんとか時間をやり過ごし、予約時間にクリニック到着。外で診察するから中には入らないでくれと言われていたので、まず到着を知らせる電話。先客の付き添いがベンチを占領していたのでクリニック横の道端ににへたり込んでしまった。しばらくすると医師がガレージに招き入れてくれ、医療用抗原検査。これは自分で鼻腔を拭いとるもので「しっかり取らないと陰性出ちゃうから、しっかり取って」と言われる。見た感じ、声の感じ、様子の全てで私が陽性なのはわかるのだろう。そのかいあって、即座に陽性が出る。あっさり出てほっとした。解熱剤、喉の痛み軽減、痰切り、咳止め薬などももらって帰る。帰宅後すぐに厚生労働省からのSMSが来た。

 陽性が確定したので、バレエの先生にもお詫びとお休みの連絡メールを書いて眠る。

 

▼8月19日(金)発症四日目

喉の激痛で1時すぎから断続的に目が覚める。まんじりともしないまま明け方5:00過ぎから仕事のメールをいくつか書く。夜通し回していた洗濯槽のクリーニングがやっと終わる。声はかなり出にくい。

一眠りして8:53。体温は38.4。洗濯機を回してみる。二度目の宅急便が母から届く。飲料多めで何ものどを通らない身としてはありがたい。母が何度も電話をしてくるので、声がほとんど出ないから閉口した。

厚生労働省からのSMSに従ってシステム登録をする。眠るとストーリーの入り乱れたおかしな夢を見ながら眠る。

昨夜内科で処方された薬のおかげで喉の痛み、たんの絡みは少しましになるが、痛いことに変わりは無い。発熱は午後に至るまでずっと38度を下回らず。14:08時点で38.2。以降そのようなラインがずっと続く。

悪寒が強くなったので湯たんぽをつくる。不思議と良く眠れる。

ゼリーは飲みこめるがプリンとアイスクリームは吐く。甘さと濃度の問題なのだろう。喉の奥のひどい炎症のせいで、何を飲んでも苦みを感じる。体温37.7を確認して就寝。テレビ、YouTubeのたぐいは見る気が起きない。ラジオなど音声メディアは聞くことができる。


▼8月20日(土)発症五日目

ついにいっさいの声が出なくなる。昨日までわずかにここに残ってくれていた私の声も、どこかへ避難してしまったようだ。すかすかささやき、テグスのような細さの糸で空気を震わせるのが精一杯である。熱は下がり、36.6となる。今日の夜上司は米国へ出張へ出る。そう思うと同行はとても無理であった。13:48 ちょっと顔が熱くなってきたので測ると37.3。36度代との違いは大きい。14時過ぎにまた37.4でそこから貼り付き。午後になると上がる傾向なのだろうか。熱はあるが、レッグウォーマーにひざ掛け、長袖のパジャマを着て、籐椅子でかぎ針編みをはじめるくらいの落ち着きは取り戻した。固形物は受け付けず、むしろゼリーの中の果物も食べられず、水とナトリウム飲料を混ぜてひたすらストローで吸っている。ちょうど医療保険担当者から連絡が来たので、自宅療養でも出るという入院日額給付について尋ねる。37.5から張り付きで今日も日が暮れる。深夜1:21に目が覚め、習慣で体温を測るも37.1のまま。今ひとつ調子出ず。


▼8月21日(日)

発症六日目にしてようやく少し底を打った感。喉の痛み、微熱の気配はあるものの、声以外はだいぶ元に戻ったような気がする。声はスカスカで大変小さい。起きたときの体温は36.6から37度前後。編み物などをしたい気が起きる。10:00前後で、37.3ある。横になる。ここから午後までうとうとするが、毎週見ているお昼のテレビ番組がないのでまた寝る。長袖のパジャマで汗をかく。適当な時間にゼリー飲料、ナトリウム飲料、水を取る。小さいハーゲンダッツも食べた。マルチパックという、コンビニで売っているよりもっと小さいハーゲンダッツである。かわいいので心の慰めになる。編み物をやってみたが毛糸が絡まってあきらめ、残りの毛糸もろとも、まるごと捨ててしまった。36.7を確認して就寝。


▼8月22日(月)

7:30起床、体温36.8。起き抜けにかなり咳込む。コーヒーを飲んでみるがマグカップ一杯飲むのに午前中いっぱいかかる。声と食欲がとにかく戻らない。17:00の時点でやはりまだ37度。平熱と行ったり来たりといったところである。夕方以降は37.3まで上がることもある。かぎ針編みを再開する。夕食に粉末タイプのスープと、薄い食パン(10枚切りの1枚)を食べる。友人がプライベートな音声データで励ましてくれて、非常に心強い気持ちになれた。


▼8月23日(火)

夢見が悪い。まだ見知らぬ人に期待したい願望が自分にもあるのかと考えながら起床。体温は36.6。平熱に戻ってきて、声も少しずつ出るようになる。しかし療養期間、日ごと体力が低下してゆくのを感じる。風呂を沸かす。体を流す気力体力は幸い毎日あったが、三日ぶりの洗髪と入浴だろうかと思う。相変わらず疲れやすくて食欲がない。無調整豆乳のオートミール粥、コーヒーを食べるが胸焼けする。ベッドパッド、シーツを洗濯して干すまでは元気だった。12:30ごろ、体力が尽きて横になる。しかしまたもや食べたヨーグルトで胃がもたれ、気持ち悪い。寝付けるわけでもないので、起きて少しかぎ針編みをしたりするが気持ちが続かない。18:00前に卵粥を食べて、活動限界。体温37度。咳き込むたび身体の熱を感じるのがつらい。

やはり夕方は37.2度まで上がる。結局37度台が4日間続いているとも言える。母が玄関越しに白米を届けてくれた。


▼8月24日(水)

平熱で目覚め、午前中をやり過ごして昼前に微熱を出しながら一日乗り切る流れが定着。体力は戻らない。ビブラートの効いたような状態ではあるが、不安定な発声が戻りつつある。ストレッチ、アラベスク、パッセバランスなどをやってみる。腸腰筋の疲労が取れて、もしかしたら身体の柔軟性は左右対称になっているかもしれない。22日前後の、バレエの先生とのメールやり取りを見返しながら現実味のなさに、ぽかんとしている。「31日から復帰したい」と自分は一応言っていたが、復帰して何がしたいのか、いやもちろんバレエである、しかしそのことが理解にうまく繋がらなくて呆然としてしまう。誰が、どこに、何のために復帰するというのだろう。


▼8月25日(木)

アイスクリームは喉が焼ける。午後は14〜15時にはだいたい37.2度出てしまう。夕方から続けて眠って連絡がつかなくなり、母を心配させる。起きた合間に電話を折り返したが、そのときには夜9時を過ぎていた。ストレッチは諦めて寝続けることにする。だってこのときは、自分がもうバレエを踊りたいと思う日なんか来ないだろう、何が良いと思って舞台芸術を知ろうとしていたのかまったく思い出せない、と思っていたから。演劇はともかくとして、私は本当にバレエをやっていたのか? あの自分と今の自分がずいぶん隔絶されてしまって全然思い出せない、と本気で混乱していることを、やっと考えはじめて、絶望して、眠るしかなかった。バレエの先生の顔も何だかおぼろげな記憶になってしまった。


▼8月26日(金)

目覚め36.6。アメリカの上司から陰性の連絡がきて、ほっとする。仕事ではないがそれ以上に重要(と言える)メールのやり取りに疲れきって10:30には37度を超えてしまう。どうせ効かないけれどカロナールを飲んで、パソコンは切る。



<療養期間10日間を終えての簡単な所感>

典型的な症状はいくつかあれど、重さは本当に人それぞれ、ひとりひとりのものである。この傷の個人性と、人生観に影響を及ぼす感じは、災害や戦争の体験と少し似ているのではないか。帰還した人間が何も話せない状態とたぶん今、少し似ている。誰も同じ目に遭ってほしくない思いは強くある。でも、話してもわかってもらえないならあの時のつらさは人に話したくない。


 

▼8月29日(土)

バレエが好き、と夕べ急に思った気持ちが、朝起きてからも残っていたことが嬉しくて泣いた。夕方、地下鉄に乗って職場に行ってみる。少し作業をして20時前後に帰宅。


 ▼8月28日(日)

感染して以降、はじめてバリエーションの振りをさらってみた。そうできる体力が戻ってきたからとも言えるし、さらってみたいと初めて、そうこの12日間で初めて思えたからである。

 

▼8月29日(月)

以降出社。弱りきって疲れやすくなりすぎた自分の体を何とかオフィスまで運ぶ。運んだら終わりたいぐらい、それだけで疲れてしまう。余計なことを考えさせてくるものがあまり視野にいないのは良い。

 

▼8月31日(水)

出社三日目。まだ朝一36.8度ほどある。微熱は一週間以上続いたが、徐々に退いていくのだろうか。今日からバレエクラスに戻る緊張のために昼間からずっと手が冷たかった。息切れが不安だったが、プティ・ジャンプを少し休んだだけであとはついていくことができた。ピルエットは回って降りるときに着地がかなりずれた。


そこから後に1週間ほどかけて体と心のリカバリをし、再び踊るモチベーションを取り戻すことになる。そうして誕生日を迎えたころの私は、憑き物が落ちたように、視界がクリアだった。


▼9月28日(水)

久しぶりに日記。朝夕に微熱が出る症状は残っていて、長く喋るとのども痛むので何かの炎症反応が続いていることを感じている。微熱の収まる時期はまだ予想がつかない。


2022年1月31日月曜日

2014年7月10日

 この時間の電車には、帰り道の高校生がたくさんいて、絶え間なくしゃべっている。時々、部活の先輩を見つけては挨拶したりしている子もいる。「子」もいる、などと今書いたが、高校生たちを「子」と感じるようになったのはいつからだろう。

私の母校では、うるさくするとすぐバスの乗客から学校に電話があるので(とてつもなく目立つ制服なのだ)しょっちゅうバスの中での沈黙キャンペーンみたいのがあった。正直、うっとうしいとしか思わなかった。私はバスの中では静かにしているつもりだったし、大勢で帰る(=そういう友だちがたくさんいるタイプの)子どもでもなかった。でも今はわかる。子どもとは、そこにいるだけである種のむせかえるような音波を発している。それは弱った大人にはてきめんに響く。
高校生のころはあんなに喋ることがあったはずなのに、今は家でもどこでもほとんど黙っていて、話すことがあんまりない。今は日ノ出町のカフェでひとりぼやっとしていて、隣の席の小学生が親に「あたし幼稚園のころとは違うんだから!」と力説するのを聴いている。少女よ、君の何倍年を取ろうとも、私はあのころとは違うって、思い続けて人は生きていくみたいだよ。