2015年3月12日木曜日

煙草の害について

とうとう煙草を買ってしまった。大学のころ、ふかし方から肺の中へ吸い込んでいくやり方を教えてくれた先輩のおかげで、今でも目眩のしないように吸うことができる。だからといって無理はしない。中途半端に3ミリグラムのものを吸う。最初に始めた時は8ミリグラムで、そこから長らく6ミリグラムと決めていたのだけれど、昨日たまたま入ったコンビニで、新製品を見かけたので買った。硬派マールボロの大衆マイルドセブン化が進んでいる、と思って、もうマイルドセブンじゃなくてメビウスっていうんだった、と思った。私が知っていた銘柄で、販売終了になって見かけなくなったものもずいぶん多い。煙草を辞めた日のことは、思い出したくもないほどよく覚えている。だからこれはほんの気まぐれにすぎず、案の定すぐに喉が痛くなった。夜はぜんぜん眠れなくて、久しぶりに睡眠導入剤を飲まないとどうにもならなかった。翌朝起きると喉の奥に薬の苦みが残っていて、ああこの味だわ、と思い出してひどく落ち込んだ。

2015年3月9日月曜日

ふるさと

中学生の時、学校の奉仕活動で特別養護老人ホームへ行った。介護の仕事を手伝えるわけもないので、お掃除とかレクリエーションの時間に何かさせてもらいに行ったのだと思う。クラスの半分くらいの人数で行ったように記憶している。食事の後、入居者の人々とビーチボールを使って遊ぼう、ということになった。それが、幼かった私には傲慢に見えてしまった。当時は祖母がまだ存命で、学問が好きで働き者の祖母のことを思うと、ビーチボールで遊ぶなんていうのはただ敬意を欠いたおこないに思えた。15歳だった私は、引率の数学教師に「おばあさんたちとボールで遊ぶのは子ども扱いしているようで嫌だ」と言った。数学教師は、私が輪から外れたことを別に咎めもしなかったが、遊びの時間が終わってから私に話しかけてくれた。「僕も、今老いた母を介護している」と彼は言った。「うまく言えないけれど、人は年を取ると子どもに戻っていく時間があるんだよね。だから、単に甘く見て子ども扱いしているわけでは、ないんだよ」。数学教師のつたない言葉に、当時の私はやっぱり納得できなかった。でも、今こうして書くことが出来るくらいには、記憶に残った。

木更津に行って、とある託老所を訪ねた。ちょうどお昼が終わったくらいの時間で、そこでは翁や嫗がめいめい、お昼寝をしたりこたつでテレビを見たりしていた。私はこたつに入って、彼らと少し意思疎通をしたり、お菓子の袋をあけてあげたり、彼らが飲むためのお茶を冷ましたりした。言葉を話すのが難しい翁がひとりいたけれど、彼はテレビに岩手の寿司屋が紹介されているのをうれしそうに指差して教えてくれた。彼が岩手の出身であることを、ボランティアの人が説明してくれた。私は彼らの日常を邪魔しないように、だけど心をこめて出来ることをした。15歳から倍以上も年を取って、何人かの死や、人の生き方のバリエーションを多く知って私も、翁や嫗がいつか来る未来の自分の姿の一つであることを理解できるようになったのだな、と考えていた。それから、数学教師のあの言葉をやはり反芻したりもした。おやつが終わると、場所の空気はゆったりと緩んで、少し静かになった。先ほどの翁がひとり、熱心にテレビに見入っていた。ふと、職員の若い女性が、童謡の歌詞を書いたスケッチブックを、私の隣に座っていた嫗のところへ持ってきた。嫗は歌が好きだという。私にも、ぜひ一緒に歌ってください、と職員の女性が声をかけてくれた。スケッチブックをめくると手書きで『ふるさと』の歌詞が書いてある。


兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷

如何にいます父母 恙なしや友がき
雨に風につけても 思いいずる故郷

こころざしをはたして いつの日にか帰らん
山はあおき故郷 水は清き故郷


職員の女性は「よかったね」と言いながら嫗の背中をさすった。「前は歌ってる時に泣いちゃったんだよね」。テレビには、四年前の津波の映像が大映しになっていて、先ほどの翁は食い入るようにそれを見つめていた。映っていた場所は、岩手の陸前高田だった。


さ霧消ゆる 湊江の
舟に白し朝の霜
ただ水鳥の 声はして
いまだ覚めず 岸の家

鳥啼きて 木に高く
人は畑に 麦を踏む
げに小春日の のどけしや
かえり咲きの 花も見ゆ

嵐吹きて 雲は満ち
時雨降りて 日は暮れぬ
若し燈火の 漏れ来ずば
それと分かじ 野辺の里


『冬景色』は嫗の好きな歌だという。嫗の声はか細い。側に寄っている私でさえ、聞き取るのがやっとだ。それでも彼女は確かに歌っていた。


かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
きたかぜぴいぷう ふいている

さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
しもやけおててが もうかゆい


秋の夕日に照る山紅葉
濃いも薄いも数ある中に
松をいろどる楓や蔦は
山のふもとの裾模様

渓の流れに散り浮く紅葉
波に揺られて離れて寄って
赤や黄色の色様々に
水の上にも織る錦


歌っているうちに、私の身体が拡張されて、喉から嫗の声が響いているような心持ちがした。嫗に身体を貸したつもりで、春も秋も冬もなくどんどん歌った。歌い終わった頃、ちょうど私たちの帰る時間になった。別れのあいさつのために嫗の手を取ると、彼女が小さな小さな声で「またきてね」と言ってくれたのが、私には聴こえた。

2015年3月1日日曜日

大型犬の看病

かつて大型犬は手術を受けた。もう数年前になる。生理のたびに、大きな身体から赤い血が垂れて、子どもを産めない年齢になってもなかなか閉経もせず(犬の更年期については私も不明な点が多いのだが)心配していたところだった。そこでかかりつけの獣医の英断により、子宮を摘出することになったのである。大型犬とはいえ、25kgしかない身体に手術は不安だった。寂しがりの大型犬が入院など出来るわけもないから、日帰りですぐに家に帰ってきた。毛を刈られた肌は鶏肉のようにざらざらで、かわいそうでおかしかった。麻酔が切れてからが大変で、大型犬はじっとテーブルの下で痛みに耐えており、ものすごく元気のない様子だった。私は不安のあまり、その夜は実家に泊まることにして、タオルケットと薄掛け蒲団を床に敷き、大型犬のそばで寝た。床は硬くて冷たくて、ちっとも眠れなかった。テーブルの下を覗き込むたび、少し荒い息をしている大型犬と目が合うので、優しく声をかけ、朝まで付き添った。その後、大型犬は順調に回復を見せ、今でもおっとり元気に暮らしている。私は大型犬のためなら、いつなんどきも、徹夜で世話をすることもまったく厭わない。

2015年2月27日金曜日

月下独酌

とある酔っぱらいに腹をたて、あまりに嫌気がさしたところ、帰宅してからの料理の際に包丁で深く指を切ってしまい、さらに悲しい気持ちになった。血はいつまでも止まらず、すわ血の海かと思われたが、壊死しない程度に傷口を押さえよとのアドバイスを携帯電話の向こうの友人からもらって何とか事なきを得た。

翌朝はかなり強い雨となった。劇場で演劇をひとつ観てから、神楽坂の出版社が運営するセレクトショップに行き、そこで売られている本をだらだらと物色した。「料理の本」「宇宙を感じる本」「旅の本」のような、さまざまなテーマ別にこぢんまりと本が並べられている中で、私の目を引いたのは、酒飲みにまつわる本をあつめたコーナーだった。私は『最後の酔っぱらい読本』という、吉行淳之介が編んだ、さまざまな作家たちの、酒にまつわる随筆集を手に取ってめくった。



中国語に<酒悲>という言葉がある。酒に悲しみをまぎらそうとし、かえって酒に悲しみを倍加させてしまうという意味にもちいられる。
(中略)
もちろん中国にかぎらず、人のいるところには必ず、葛藤と悲哀はあり、酒のあるところにはまた必ず、忘我とそれに背反する酒の悲しみというものがある。
(中略)
そして酒精のもつ魔性は、この<酒悲>の感情がわかりだすころに、加速度的に膨張する。一宵の宴席に酔いしれ、床の間を便所とまちがえたり、高歌放吟、その酒量の多さをほこったりしているあいだは、まだ無邪気な段階なのであって、まかりまちがえても、翌日、保護所の門をでるころには正常に復している。
(中略)
だが<狂酒>から<酒悲>の段階に移行すると、こんどは自分が無限に小さな存在にかんじられはじめる。つまり酒によって己れみずからを知ってしまうのだ。そして一人でなめるように酒をのみ、茫然と虚空に目をそそいで、なにかひとり言をしたりするようになりだすと、もう軽犯罪法ではいかんともしがたい状態になっているとみてよろしい。「いいお酒ですな」と人に感心されるようなのみかたが、あんがい静かな絶望の表現であったりする。
(「酒と雪と病い」高橋和巳)



最初に目についた章をここまで読んで、かの酔っぱらいを赦そうかという気が少しわいた。まあ、彼のあれが<酒悲>のためかはわからないけど、酒飲みもいろいろ大変だというのは、わからなくもない。私は気性が激しいだけで、そこまで強情ではないのだ。読みすすめると、筆者である高橋和巳は<酒悲>のあまり旅に出て、放浪したあげく病気になってしまい、今は酒が飲めなくてそれが悲しい、という境地に達し、それでその随筆は終わった。悲しいのにさっぱりとしたその文体にひどく同情して、とりあえずその本を買って近くの珈琲屋に行った。まあでも、私がかの酔っぱらいを本当に赦すかどうかは、次に会った時に決めよう、と思い、そこではこの本の続きは読まず、持っていた須賀敦子の随筆集(川上弘美が編者で、装丁もすばらしい。文藝春秋社の本)をしみじみ味わって、それでしばらく酔っぱらいのことは忘れた。

2015年2月26日木曜日

理由

私が本当は誰のことを好きなのか、私は知っている。

(2020.01.23下書き公開とともに追記 この時点で私は誰のことを書いているのかもはや忘れた)

2015年2月25日水曜日

私たちの春

その日はとても春めいた気持ちのよいお天気で、アイサが空を見上げながら「日本のいちばんいい季節はいつなの?」と言った。「私は春と秋が好き」と答えて「日本の春はお花がたくさん咲くから本当にきれいなの、ほら、そこのつぼみも春の花よ」などと話しながら道を歩いた。「秋にも花が多いの?」とアイサが続けて言うので「そんなに花は咲かないけど、私は9月生まれだから秋が好き。それから、秋は紅葉がきれい」と教えた。彼女は「あ、紅葉って知ってる!」とはしゃいだ。そのあと「じゃあこれから春が来て、秋に向けてどんな仕事をしていくの?」と言われたので、日本の劇作家や俳優に話を訊いてインタビュー記事を書くことを継続してやっていこうと思ってる、と言った。そしてこれは自分でも驚いたけれど、その後にふと「今は日本語だけで書いてるけどそのうち英語でも書きたいなって思ってるよ」という言葉が自分の中から出てきたのだった。アイサは「それはいいわ」といって、自分が私の仕事の対象に入るかもしれない未来を、ごく自然に了解してくれたようだった。

2015年2月23日月曜日

黒髪の祖父

祖父が夢に出てきたことは、記憶にない。死ぬ直前よりもずいぶん若い姿で、彼は庭のほうから歩いて来た。その時私がいた場所はもう何年も前に取り壊してしまった祖父母の家で、縁側で祖父をじっと見ていたのだった。部屋の奥には祖母もいて、しかし彼女は、病を患ってベッドに臥せっていた。手を差し入れたベッドの中で触れ合った祖母の指の細さにぎょっとした。彼女はずっと無言だった。急に、廊下のほうで、弟の泣き声がした。私の弟は三歳くらいの姿で、涙を振り飛ばして泣いていた。よく聞くと弟は泣きながら「またみんなでおうちでおひるごはん食べたい」と言っている。弟を抱きしめて、頭をなでてなぐさめて、私も一緒に泣いて目が覚めた。起きてから、弟が三歳だったころの幸せな風景をいくつか思い出して、今自分のいる場所がそこからどれほど遠い場所であるか、考えてみるまでもないと思いながら現実でも少し泣いた。

2015年2月19日木曜日

男の子どもたち

やっぱりいつかきっと、遠くない未来に、たぶん子どもを持つだろう。持ってもいい、とあらゆるものから許される時が来て、そのとおりになるだろう。そんなことを考えていた夜のこと、もう寝ようかという時になって、急に頭をよぎったのは、私の子どもはきっと男の子で、どこか遠い異国の地で戦に倒れ、私よりも先に死ぬ、という予感だった。子どもを失った私は、悲しみに暮れ、また煙草を始めて、それがもとで肺がんになって死ぬだろう、ということまで感じて涙が出た。三十年の昔、私の曾祖母がそのように、フィリピンで戦死した長男を思って死んだように。

実家で何となく時間を過ごしていた。弟が二階から降りてきて、私のために新しいアールグレイの缶を開けてくれた。「まきちゃん、人にお茶淹れてもらうの好きでしょ」と彼はなにげなく言った。人に淹れてもらったお茶は、本当に味が違う。一日に何杯も何杯も、孤独にティーカップを干す私のことを、弟はよく知っているのだ。

2015年2月5日木曜日

シルキーちゃんの涙

ある明け方に私の夢に現れたシルキーちゃんは、魔法にかかって涙を流せなくなってしまったお姫さまだった。シルキーちゃんの呪いの秘密は港町のある場所に隠されていることまでわかったけれど、赤い宝石の結界に阻まれ、謎の解明には至らず目が覚めた。シルキーちゃんの涙のゆくえが今も気にかかる。

誰かの夢に登場できるのは嬉しい。もし人が私の夢を見たら教えてほしいし、いちばんいいのは、こんなふうに日記にして残してくれることである。

2015年2月1日日曜日

愛すべき子ども

私の中の幽霊が成仏した日に、わざわざ遠くの町のドトールまで出かけていって、背広の男と会った。背広の男は私の話を聞いて「どうかよく考えてから決断してほしい。わたしも、娘がきみと同い年で、きみと同じ仕事をしているから事情はよくわかる。父親からしてみればきみの気持ちは止められない。でも、くれぐれもよく考えてほしい」というようなことを、関西弁で言った。私は関西の言葉を話したことがなく、体内にその蓄積がないので、彼の言葉をここで再現することができない。

また男の子を生んで育てる夢を見た。これまでは私が誰の子とも知れない子どもを生む不安な夢ばかりだったが、今朝は初めて父親なる男性が登場して、一緒に育児をしてくれた。子どもは静かな手のかからない子で、父親によくなつき、ごはんを食べさせてもらっていた。それで私は何も困ったりあせったりせずに、その様子を眺めていた。