2015年5月9日土曜日

DEAD OR ALIVE

行方が知れず連絡もよこさない男だが、それでも私のことを本当に好きなのだと、占い師が言う。気付くと動悸がして、床に座り込んでから2時間ほども経っている。生きた体は、一時的に目をくらませるだけだ。執着でも愛でも狂気でもなく言うけれど、この目で耳で、信じさせてもらえるなら心も体も生死は問わない。

浅い眠りから覚めて、指先をこわばらせるところまではいつもやる。そこから枕の端に手をかけて、渾身の力で絞り上げる。 明け方に首をしめることくらい、いつだってできる。

2015年5月7日木曜日

卵の不調

40過ぎからだんだん閉経していきます、という文章を読んで、それでは私の生理がなくなるのももうすぐだなあと思ったりする。生殖生殖とか騒いでいられるのもあと10年かそこらで、もしかしたらもっと短いかもしれず、生理がなくなってからどれくらい生きられるのかは分からないけれど、場合によっては初潮から閉経までより長いだろう。そのレベルで見ればいったい何を悩んでいるのかとも思う。生理がしばらく来ていないのだ。低温期が異様に長かったので、生きる力が身体にないのだろう。2時間も3時間も部屋の真ん中で泣き、体力を消耗したところで眠ることもできない。

大型犬をお風呂に入れた。シャワーでびしょびしょに濡らして行くと、ふわふわの犬はぺったりして小さくみすぼらしくなった。愛しい生き物が、濡れて小さくみすぼらしくなっているのはかわいい。観念したようにおとなしくしていて、ときどき私に鼻面を寄せてくる。水が目に入らないように、上手に上を向いている。眠いのにごめんね、でもきれいになると気持ちいいよ、と話しかけながら、押し黙っている犬を洗った。

2015年5月4日月曜日

あいつがヒロイン

目をかけられることには慣れている。私も知らない私の能力を、さとく見つける男がたまにいて、声をかけては自分の領内に引き入れる。半信半疑についていく私も、やがてやりがいなんぞを見出してしまい、おろおろしながらも出来ることを出来るだけ時には出来る以上にやって、自分の何がよかったのか結局わからないまま搾取に遭い、求めるのは愛、となった頃にまぬけにも、男の中には本当の、別の、ヒロインがいたことを知る。いくつになっても繰り返す。男はいつも私のことを引き止めようとするけれど、それは私がなまじ頭、都合、聞き分けのよい女であるためで、追いかけられるより先にそこで待ち続けている安心感をあなたに与えられるからである。私よりも年下の、少し冷たくて、表情のあまりない女を、男たちは好む。頭、都合、聞き分けなどが多少よくても何にもならない。ミューズ、ファム・ファタル、勝手な名前をつけて男どもがすがるその女に、私は何にも勝らない。ミューズだのファム・ファタルだのは気まぐれなので、自分を好いた男には目もくれず、どうでもいいわ、と言いたげに去ってそれきり姿を現さない。現れなくてもそこにはいるので、男のことは忘れても、喋ったこともないミューズだのファム・ファタルだののことは、今もたまに考える。

2015年5月1日金曜日

女の子のお母さん

うなされる夢をいくつも見て、目覚めてから、これでは生きた心地がしない、と思った。いや、それよりは起きた心地がしない? っていうか、眠った気がしない? 何ていうか、とにかく目をきつくつむって歯をくいしばるような夢ばかり見ていた。実際そうしていたらしかった。

生来かんしゃく持ちで、きれやすいたちなのである。浴室に男が入り込んでおり、ちょっかいをかけてくるので、私の穏やかな入浴がいちじるしく妨げられた。そのことに立腹した私が、たがが外れたように怒鳴りまくって壁もこぶしで殴りまくったら、男は泣いて風呂場から出て行った。よかった。

あるいは足が痛くなって、実家の近くの裏道を這って進むはめになり、七転八倒しながら、両腕を使って移動したりもした。足は不随意に動き、はきものは脱げ、下着もずれて、もうどこに進んでいるのかも(とりあえず実家の方向ではあったけれど)わからずにただただつらかった。目が覚めてからも右足がじんじんと痛んでいて、夜になるまでそれは続いた。
 
同居人が、身よりのない5歳くらいの女の子を連れて帰ってきたので、一緒に住むことになった。静かな女の子で、ひとりで絵を描いたり、積み木で遊んだりしていた。私がひとりで眠っていると、女の子は積み木遊びをやめて私の部屋を覗きに来て「お母さん」と言った。それで私はその子の名前を呼んだのだったかさだかでないが、おふとんを持ち上げて女の子を招き入れ、一緒に眠った。血がつながっていなくても、「お母さん」と呼ばれたら、この子は私が守るしかない、という気持ちがした。そのあと、どうしてだかちょっとバターなんかが必要になり、不安になりながらも女の子におつかいに行ってもらった。しかし、女の子はいくら待っても帰ってこなかった。私は不安にさいなまれ、さっきの「お母さん」という言葉を思い出しながら、ああ私の娘、いったいどこに、と青ざめていた。不意に玄関が開いて、あっ、と思ったのも束の間、そこにいたのは同居人とその友だちで、私が怒って「何であなたなのよ」と泣くので同居人は戸惑っていたようだったけれど、そんなこと私にはどうでもよかった。

2015年4月24日金曜日

君の名はせとか

出かけている男に何となく、ケーキを買ってきて、と頼んだことがあって、男はその時、せとかのタルトをおみやげに帰ってきたのだった。せとかという涼やかな名前を持つ果物は、柑橘類の新しい品種らしかった。でも食べてみてあまりおいしくなかったので、タルトひとつ食べ終わるのに少し難儀した。せとかは、オレンジにも伊予柑にも少し届かない青い硬さがあって、カスタードクリームとはあまり合わなかった。冷蔵庫にしまって翌日までかかってふたつ全部たべた。私は本当はラズベリーとかブルーベリーのタルトが好きで、あの時欲しかったのはそういうケーキで、柑橘類はお菓子にはあんまりふさわしくないと思っているしそんなに好きじゃない、ということを、あの人にはついぞ言えないままだった。今日、八百屋の店先にせとかを見かけたのでそのことを思い出した。私はあの人のことが本当に好きだったし、憧れていた。あの人が私の好きなものをきちんと知って、いつも望みを叶えてくれていたらどんなに幸せだっただろう。これはおいしくなかった、ごめんなさい私せとかは好きじゃないみたい、とあの時ちゃんと言えたらどんなに良かっただろうと思うと今でも涙が出る。

恋というものについて「恋とは桃色などではなく黒なのであり、私は自分の欲望のあまりに黒さに押しつぶされそうになった」などと宣った男がいて、私はそれを聴いた時にひどく嫉妬したし、安っぽく言えば、もう立っていられない、とまで思った。何かを(できれば地に膝ついて私にかしこまった男の顔を)踏みつけたいとも思った。どれだけ愛されても懐かれても欲情されても、不十分である。必要とされてもなお足りない。恋という名の淵に落ち、黒い欲望につぶされてずたずたに傷ついてくれるまで、私はあなたを信用できない。ただそういう恋がしたい。

どうしてあんな男と一緒に過ごしていたのだ、と問う人がいて、いつもそれにうまく答えることができない。私が彼と一緒にいたのは、私が彼に恋していたからということに尽きる。その恋は無色透明で、かたちは涙の粒である。透明だから、誰にも見えなくて証明もできない。わずかに、透過した光がまわりの景色をゆがめるくらいである。

2015年4月21日火曜日

順番

すぐには眠れないので、横になってから、愛する人々が順番に死んでいくことを考えてしまう。母の身体が冷たくなって焼かれること、大型犬が気配を残したままで永遠に姿を消してしまうこと、弟が不幸な事故に見舞われること、そうした人々が死んだあとの世界で私だけ年を取っていくということ。かつていた人々の面影のある世界で、自分が生きている限りもう会えないのだ、と思い詰めてから、それならやはり死後の世界で再会できなければ人間に救いはない、とまで考える。考えてひとしきり泣く。自分が死ぬことを怖いとは、思えない。いつか死ぬとあまり思っていないのだろう。

2015年4月20日月曜日

つつじの死

咲き頃を迎えた道路脇のつつじは物量としてすさまじいものがあり、赤紫の派手な色も相まって、もうこれは狂騒、これが狂騒というのだわ、と独りごちながら歩いた。子供のころは多分に漏れず、花の蜜を吸って遊んだ。うてなから飛び出る虫の触角のような雌蘂を、気持ち悪いとも思わなかった。子供のころのこと、特に小学生だったころのことは思い出しているひまもあまりないし、そうしたいとも思わない。むっと香るつつじの蜜に、たいして美しくもない思い出がよみがえりそうになったので記憶をその場ではたき落とした。つつじは枯れたあとに散らばる花がらも汚くて嫌いである。

他人とけんかをするのは好かないが、けんかになることの方が私の人生では稀で、ずっと対等ではない関係のもと、私が相手を怒らせる、あるいは私が傷付けられる(と思い込むことも含めて)ことの方が多かった。けんかにもならない、もはや諦めが先に立つほどに大きな差異がある人とばかり、関わりを持ってしまう。

思うことを適切な言葉にできないせいで、他人や自分の生き方を無自覚に縛っているという人は本当にいる。たくさんいる。Twitterアカウントを開設している数十億の人のうち、あなたが気に入ってフォローしている人を除いたすべての人がそうだと言ってもいいくらいだ。私は言葉にして発することに希望を見出す人間である。巧拙を問うているのではなく、できるか、できないか。私はまだ、(自分にはある)能力がない、こと(人)への対応をどうするか迷っている。それは私が、言葉を駆使して生きようと思う決意とは何ら関係のないことではあるけれども。

2015年4月15日水曜日

元気がないと思ったんだ

浅い眠りに苦しむぐらいなら、薬を飲んで幻覚を見たほうがましなのだ、ということがなかなか伝わらず、薬をやめろとか飲むなとばかり言われてしまう。昨夜はチロルチョコが歩いてポケットに入るという幻覚を見て騒いでしまった、らしかった。携帯電話にはメッセージ履歴もたくさん残っていて、どうしてあんな状態であんなにたくさんの言葉を打つことができたのか、はなはだ疑問である。わけのわからないことを喋るが喋ったことは覚えていないし、そんな時にひとりで行動させると家の中でも何をするかわからなくて危ない。そう思うとたちの悪い酔っぱらいに近いのかもしれない。かくて今夜も、眠れない私の理性と薬に頼りたい気持ちのせめぎあいが始まる。単に薬をやめろと言う人は、私のこのせめぎあいのつらさを理解しようとしない。

お酒を飲めればしあわせ、というタイプの人が世の中にいる。そうした人々は、お酒で浮き世の憂いを束の間忘れ、また生きる気力をみなぎらすことができるらしい。私はお酒が飲めない。趣味である観劇をすれば思いわずらうことが増えてしまい、好きな読書をすれば没入しすぎて生活が疎かになり、ストレス解消に最適なスポーツは不得意で、その上お酒もたいして飲めないとなると、私はセックスにその効き目を託すほかない人生なのであった。

私のやりたいことが誰かをがっかりさせ、苛立たせ、私のやりたい気持ちを消沈させて暗く貶める。そこから自由になることは、その誰かを傷付けることでもあるけれど、ではどういう自由を選択したらいいのか、というようなことを、きっと書いていくことになるのだろう、と、さっき髪を乾かしながら思った。

2015年4月13日月曜日

誤嚥

何か食べるたび、喉が灼けるようになってときどき吐く。好きだったチョコレートが食べられない。電車の隣の席で男が読む漫画本の、紙のにおいが耐えられなくて途中下車して休んだりする。

そのうち話すわね、という言葉はもちろん、今は何も話したくない、という意味である。
 
人のメモ書きとか、ごく私的な手帳、秘密めかされて書かれた日記を見たりするのは嫌だが、見つけたら開くのをやめられないのがなおさら嫌だ。これまでは、私の知らないあの人を知るのが嫌なのだと思っていたけれど、あの人の目が見ていたものを見るのが、本当は怖い。

2015年4月8日水曜日

夕闇

とある中学生から、わたし遠距離恋愛をしているんだ、という話を聴いたけれども、それはたぶん身体を伴っていない話なので、私には恋愛とは呼べないと思った。身体がつながるから心がもつれるし、しがらみも生まれる。身体がなかったら、何をよすがに恋をしていいかわからない。

眠りが浅くて浅くて、とにかく目が覚めてしまう。薬を飲んでもいいのだが、幻覚を見るのではないかと怖くなるし、翌朝まで口の中が苦いし、明け方の行動の記憶はなくなるし、気力がない時にはちょっと避けたい。夕方、太陽が傾いたくらいの時間にセックスしてそのまま泥のように眠る感じがきっといちばん休まるのだけど、今はそのきもちよさを想像するだけだ。