2013年8月29日木曜日

日本の大人(であるところの私の話)

朝早くに家を出て西に向かい、瀬戸内の島へ行った。好きな人(が作った演劇)を追いかけて日本を移動する、というのは久しぶりで、私もまだやればできるじゃん、と思ってフェリーの上でついモナカアイスを食べてしまった。自分がモナカアイスを好きだったことを思い出すほど、自分を取り戻していた。フェリーには、MさんやY夫妻などが同乗していた。
こんな性格にも拘らず、私は強力な晴れ女である。私が屋外にいるときは、ほぼ降らない。島に向かう途中は大雨も降ったが、着いてからは青空が広がって今回も無事、能力を発揮できたのが分かった。

開演前に、子どもたちと一緒にぬりえをやった。でも、いわゆる自由な発想というやつで色を塗ることがどうしてもできなくて、ただきれいに塗り分けるばかりの私はつまらない人間だな、と思った。昔から、絵画についてはどうも逸脱ができない性分らしい。

終演後に、どうも、と声をかけてくれた、それまで見たことのない赤いチェックのシャツを着ていた人が、私の憧れの人なのだった。しばらく話して、この島で行くべき場所とか、これまで彼が見たものの話とかをいろいろ聞いた。アンケートを書いてから、その彼の話を頼りに散歩に出た。海が一望できるという山の墓地を、目指して歩いた。普通、見知らぬ墓地に入るときは後ろめたい気持ちが少しあるものだが(というか、見知らぬ墓地に普通の人は入ろうと思わないだろう)山の墓地は「おじゃまします」と一言いえば、のんびり死者が迎えてくれそうなきもちよさがあって、ちょっと感動的だった。そのままぼーっと眺めていたら、先ほど会場でお会いした横浜の某カフェのスタッフの方がいらして、ふたりで18時の「夕焼け小焼け」を聞いた。港中に響く音楽と、子どもたちに帰宅をうながすアナウンスが、何だか泣けた。

そのあと、ひとりで坂を下るところで憧れの人に再び会い、あろうことか別れ際に手を振ってもらい、胸を打ち抜かれるような思いをしたのであった。私がその人を好きな理由は、彼が、身体の外にある原理的な美しさのためには、自尊心を滅却することをもいとわないからである。そういうものを捨てて(きれいに埋め込んで)作品をつくれる人のことをあまり知らないし、いつもその立ち居振る舞いに見惚れて、何とかそれを描写したいと思う。

その日は深夜まで、パソコンで書き物をして、ベッドの上で布団もかけずにへんな格好で寝てしまった。翌朝、思い切って車を借りることにして、土庄港からまず島を一周した。島の道は、起伏も激しく、うねっていて運転しづらかった。福田港からほど近い、廃校になった小学校でアジアの現代美術家たちが各教室に展示をする企画が、とてもよかった。コンセプトと展示の勢いがきれいに合致していて、現代美術にありがちな抵抗(電気抵抗のほうの意味)の強さが極めて少なく、うつくしい形で発露していた。シンガポールのある作家集団が作ったというポストカードのセットを買った。12枚組で、それぞれ12か月を表していて、裏面にアジア諸国の言葉で愛の歌が描かれている。でも、とにかく表の "WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW?" という文字を見て、手に取らずにはいられなかったのだ。「明日もわたしを愛していてね」だなんて、口にするだけで震えてしまう。

その後、街のあちこちにある瀬戸内国際芸術祭の看板を頼りに見て回った。街の休憩所に誘ってもらって、案内のおばさんたちが一生懸命、私の残りの滞在時間をもとに、見に行ける場所を考えてくれたのがとてもうれしかった。

東京から演劇を観に来たんです。
「え!面白かった?」
はい。 すごくよかったです。
「一回しかやらないの?もう終わっちゃった?」
あ、えっと、明日も2時から、坂の途中のあの幼稚園でやってますよ。
「場所はわかるわー。えー、私明日仕事休みなのよね、行ってみようかしら」
ぜひ!
「じゃあ行ってみるわね!」

絶対見て!と勧められた作品は、山道の中にあった。フェリーの時間が迫っていたけれど、とりあえず車を飛ばして行ってみた。段々になっている千枚田も見られて、行ってよかった。帰りにオリーブの苗木をぎりぎり買い込んだ。東京に帰ったら、きちんと植え替えて育てるのだ。

神戸経由で東京に帰った。帰りのフェリーでまたY夫妻と一緒になり、あかちゃんのIくんにバイバイしてもらって、彼の育つ未来とか、演劇のこととかをぼやぼやと思った。家に帰ってから、夜通しとある劇評を書いて、書き上げて、送付した。現時点で書ききれた、という気持ちに一瞬なれた。もう三日経ってすでに書き足りないことを見つけているのだが、ともかく、これを身体の外に出せたのはよかった。 

2013年8月28日水曜日

マディ・ウォーター

旅に出る前、思いついてまた吾妻橋まで行った。濃密に過ごしたあとの時間が妙な歪み方をすることはあって、それは私の方でもそうだったということなのだ。夜中の電話や、遠い南からのメールや、いったい今がいつなのか、何の時間が流れているのかわからなくなってしまう。そういうときは、誰をうらんでいいか分からなくなる、ということになる。自分を守れるのはやはり自分だけなのだ。いつまで自分のことを特別だと思ってんのよ、とたとえ軽蔑されたって、自分にとって自分が特別なのは言うまでもない。



さよならばかりの旅をして ささやかな夢はつれなくて
疲れた夜は恋しくなるわ

My heart cries out for muddy water
あたしの素敵な赤い靴 日々の暮らしでもう泥だらけ
疲れた夜は恋しくて泣くわ
My heart cries out for muddy water

 (ベッシー・スミス"Muddy Water" 訳:田村キョウコ)

2013年8月23日金曜日

明滅

仕事はやめないほうがいいよ、と言われるのも、結婚はした方がいいよ、と言われるのも、言われたときの感覚がよく似ている。どちらも、言っていることはよくわかる。

昨日は期せずして、奇妙な巡り合わせの輪を外から眺める役を担った。私はこういうとき、絶対に当事者にはならない星のもとに生まれていて、人からおもしろい話を聞いては忘れないで覚えておく、というのが役割なのだ。

広い庭園の中で迷って、行きたいほうと反対の建物に行ってしまう夢を見た。電話をしても待合せ相手が何を言ってるのか聞き取れないしわからなくて、途方に暮れた。高校時代の同級生が意味もなくたくさん出てきて、夢の中で惑うときにはいつも、大挙して押し寄せてくる彼女たちに翻弄されている。しかしあまりにひねりのない内容で、いささか自分に幻滅した。

このまま死んだらどうする?と聞くので全然いいよ、始末してあげる、と正直に答えたら、まだ死にたくないよ、と翻された。目を閉じたままそれを聞いていて、すとんと受け止めるように、私は今消えてもいいって言えそうだったけど、それではあまりに少女趣味だろうな、じゃあこういうとき何て言ったら少女趣味ではないんだろうな、と思ってしばらく考えた。考えたけど思いつかなかったのが悔しくて、顔を隠して少し泣いた。

2013年8月21日水曜日

この街にはいられない

電車の中でブログを書くと妙な勢いがついて口が悪くなりすぎてよくない。でも、どうせ本当かどうかも分からないことを書いているのだからいいか、と思った。早めに帰宅して、久しぶりに盛大に料理している。お米だって、もうすぐ4合炊ける。でも、全然おなかがすいていないので、まとめて冷凍することになるだろう。

期待という名の暴力、というキャッチーなフレーズは、この間上司と面談したときに思いついた。いつも彼らは、こちらが何か言う前に「あと半年がんばってくれ」「あと一年がんばってくれ」と言い続け、ついにこの前は「あと三年」と言われたので、とうとう私はあきらめた。好きな先輩、大事な後輩、楽しかったこと、可愛がってくれる人がいくらいたって、決めるときは決めて、出て行かないといけないことだってある。年を取るとそれがどんどんできなくなる。

仕事とは別のことだけれども、近いうち、今まで一度も言葉にしたことがなかった自分の中のものと、向き合わざるを得ないかもしれない。 年なんかいくら取ったって若いときの自分は成長できないまま私の中にいるのだから、それをきちんと大事にしてあげなければいけないのだ。本当は。

紫のガラス

母親が自転車の練習をしている。その理由が私にはあまり受け入れられなくて、でもその気持ちは一生懸命乗れるようにならなきゃ、と思っている彼女に対してだけ向けられているのではない。期待という名の暴力そのものが顕在化したようなこの状況に、自分でもびっくりするくらい苛立っている。うまく乗れない自分を責める母からのメールを見ながら、いくらなんでもほどがある、と思った。サドルをもっと下げなよ、と私は返信したが、彼女は限界まで下げていると言う。そもそも無理な仕様のロードバイクに乗っているとしか思えない。止まるときは身体を傾けて足をちゃんとついて、と言って寝た。翌日、彼女は20メートルくらい進めた、という連絡をよこしたので、おめでとう、と返した。

俺の、私の気持ちを考えてくれ、と言って泣く男も女も世の中にたくさんいて、私はあるとき、その全てに応えることはできないという当たり前のことに、ぎりぎり気がつくことができた。じゃあわたし自身のことを本当に本当に考えてくれる人は誰かいるだろうか?そう思ったときから、絶対、自分のことは自分で一番考えて決めないと、と思ってきたのに、気づくとやっぱりうまくできていないことばかりだ。みんな、心配はしてくれるかもしれないが何もしてくれない。誤解を招こうが何だろうが、これは(わたしの)真理だ。なんて傲慢なんでしょう。こんなことを書いて、皆から見離される日も近い。

だから、私が誰かを心配するときは、何もできないことに対する絶望と対になっている。それはそれで、相手も鬱陶しいだろうし、あまりに独りよがりだな、とは思う。

携帯電話のカメラレンズ部分に埃が入ったらしく、妙な影が写るのでお店に持っていった。店員は悪びれもせず「交換します」と言った。いろんな履歴が消えてしまって寂しいけど、もしいつか全部終わる日が来るなら私、跡形もなく去ってゆきたい、と思ってるから。

なんて、嘘に決まってる。そんなの。

2013年8月20日火曜日

晩夏の情景

人生のある時期において、やたら会って一緒にいまくる人というのは、いる。確かにいる。なんであんなに一緒にいたんだろう、というくらい一緒にいた友達が私にもかつていて、そういう人は性質上、まあ、学生時代に多くいたけれど、なんでだったかは今となっては思い出せなかったりもする。でも、あのときにしか築けないものがあった、などと安易に言ってしまうのは悲しい。

しばらく日記を書いていないうちに、いろんな人に会った。SA氏とHA嬢とごはんを食べたのも楽しかった。ひとしきり演劇の話をしたあとに、HA嬢が、このごろ食べものを飲み込むときによく噎せる、という話を始めた。それで私も思い出した話があって、私は27歳のころに一気にいろんな不調に見舞われたのだ。一番顕著だったのは、人の名前を思い出せなくなること。名字はわかるのだが、下の名前が出てこなくなってしまった。なぜか今はその症状も落ち着いて、普通に、名字、名前を漢字で覚えられるし、お誕生日がいつか、という情報なども聞けば忘れないが、当時はそれがうまくできなくて大変なショックを受けたものだった。私も、27とか28のころにごはん食べながら噎せて泣いてたかも、と言ったら、HA嬢は笑ってくれた。たぶんプログラムの書換えみたいなものが一時的に起こっているんだよ、と私は言った。

ある小説で男が、20代前半の女と寝た翌日に30過ぎの女を抱く、という状況があって、つやつやした若い娘に比べて「30歳の女の身体はどこまでも柔らかかった」的な描写があったのを、今も執念深く覚えている。それを読んだときは、私は20歳そこそこの若い女で、若さとは恐ろしいものだから「へえ、そんなもんかね」と特に無関心でいたものの、実際にそういう年に近づいて、ああ確かになあ、と今思ったりするのだ。やわらかさが増して、かわりに失ったものを惜しく思うことは、幸せなことにあまりない。しかしあの頃「胸の上にあばらが浮くようになったら、お前の若さも終わりだ」と教えられたことも、よく覚えている。鎖骨の下を撫でて、その言葉を実感したのはいつ頃だっただろうか。

土曜日は、吾妻橋ダンスクロッシングを見に行って大いに楽しんだ。「夏らしいことした?」と休憩中に聞かれて、全然してないや、と思ったけれど、そのとき私たちは隅田川のすぐそばでビールを飲んでいて、風が時折抜けていくのを感じながら、帽子とワンピースの話をしたり、まだ誰とも出会っていないころの昔の話をしたりしていて、こういう懐かしさっていうのは、きっと夏らしいことだよな、と思った。

週明けは、仕事に行くのが憂鬱で困る。今朝は、打ち合わせがあったのでがんばって起き上がった。その前に、一度目が覚めたのに、何かの弾みでまた目を閉じてしまい、延々と人とすれ違って会えない夢を見て参った。行き違って人に邪魔されてバスを間違えて、再び目をあけたときにはもう疲れきって、まだ朝の7時でこれから一日が始まるなんて信じられなかった。あんなに会えないなら、いっそ「私はあの人に会いたいの!」って大きな声で言ったりすればよかったのに、それができなかった自分に一番疲れた。

2013年8月15日木曜日

戦争に反対する唯一の手段

「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである」という、吉田健一の文章がある。それが今日、Twitterでリツイートされて回っていたのを見て、思ったことを以下に書く。

このフレーズは、ピチカートファイヴのトリビュートアルバムのタイトルか何かで有名になったのではないかと思う。私が昔書かせてもらっていたメルマガの編集長(という名のよき友人)が、毎号、メルマガのトップに「今月の金言」みたいな感じで、いろいろ引用を載せていたのだが、その中のひとつとして私はこの言葉を知った。

気に入ったので原典を探して持っている。どこに所収かも解らないまま調べたのだが、まあ今持っているということは、とにかく見つけて手に入れたのだろう。「吉田健一著作集ⅩⅢ」という本です。昭和54年が第一刷らしいのだけど、吉田氏は昭和52年に亡くなっているので、文章自体はもっとずっと前のものとして見てほしい。 ともかく、その本の中に収録されている「長崎」という短い文章の中に、掲題の一文がある。汽車に乗ったら長崎についた…というような感じでふわっと始まる。

以下、引用するけれども、環境の都合により旧漢字などには変換できていません。


「併し今日、丘の上に立つて全市を見渡しても 、原爆の跡と分かるものは何一つ残つていない。ただ、永井隆博士の「長崎の鐘」を読んだものには、浦上邊りの明かに戦後に建つた新しい家屋が散在する焼け跡が痛々しく感じられるだけである。(中略)戦争に反対する最も有効な方法が、過去の戦争のひどさを強調し、二度と再び、……と宣伝することであるとはどうしても思へない。戦災を受けた場所も、やはり人間がこれからも住む所であり、その場所も、そこに住む人達も、見せものではない。古傷は癒えなければならないのである。
 戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。過去にいつまでもこだはつて見た所で、誰も救はれるものではない。長崎の町は、さう語つている感じがするのである。」


これを読むと、あの文章が単独で取り出されたときの何とも言えない感動は少し的外れだったのではないかと思わされる。えっ、そういう文脈だったの?みたいな気が、するでしょう。ちなみに同じ本に収録されている「清掃作業」という文章ではこんなふうにも言っている。


「広島の原爆ドオムが取り壊しになるといふ記事が新聞に出ていた。(中略)それに反対するものも相当いるといふことであるから、実現するかもどうか解らないが、もし取り壊されるならば、これはいいことである。(中略)或る恐しいことが起つたから、その恐しさを物語る現物をいつまでも残して置くといふのは、その恐しさから立ち直る決心をすることを初めから諦めているやうなものではないだらうか。又、それを見なければ決心が付かないのならば、これはもう完全に負けたのである。原爆ドオムのどこに我々の人間性に訴へるものがあるだらうか。あれを思ひ出す毎に長崎の平和公園の眺めが頭に浮ぶ。由来、悲みは醜いものではない筈である。」


初めて読んだときは彼のこのスタンスが、まあこういう考えもあるのかな、というように、受け入れられた。(私は、今でも原爆ドームが残っていてよかったと思っているが。)でも先月、久しぶりにこの本を読み返して、2013年の今は、この限定的な考え方では、だめだ、と思った。吉田健一の文章自体は、たいへん好きだけども。お酒もよく飲む、はっきりものをいう、よく食べる、みたいな豪胆な文学者というイメージ。

この本を読み返したきっかけは、東京デスロックの公演だった。ざっくり言ってコミュニケーションをめぐる作品だったのだけど、パフォーマから観客まで、一人一人が思考するということが必要そうだな…というところから「各自の生活を美しくして、それに執着する」というフレーズを久しぶりに思い出した、というわけ。

話を戻す。なぜこの考えではだめか、というと、私たちの生活は既に彼の時代に想定されていた戦災、災害を超えたものに襲われてしまったからである。災害のあった場所に住むことはもうできない、という事実がある以上、彼の文章の含意は、読み手が刷新するべきだ。それと同時に、やっぱり今、日本が(福島が)直面している事態は、太平洋戦争以上のクライシスなのかもしれないということを改めて思って、だとすれば、あのとき以上に日本人は必死にならなければいけないはずなのだけど、68年前の日本人がどれくらい必死だったか本当のところは私にはわからないし、今の日本人が本当に必死なのか、私も含めて、どう必死になればいいのかもわからなくて、それが一番苦しい。だから、もう単純に彼の言葉の一文だけを美しいものとして心に留めることはもうできないし、そういう力のあるワンフレーズみたいなものを求めたりも、これ以上したくないのだ。

2013年8月13日火曜日

プライベートスカイラインⅡ

大伯父のお見舞いに行った。体調がよくないのだ、と電話で言っていた彼は、老人ホームの自室のベッドで、上下とも下着のまま横になりっぱなしだった。おみやげに、西荻窪のこけしやの小さいチーズケーキを持っていったので、一緒に食べた。

大伯父は、昨年から勉強を始めたという戸坂潤という哲学者の思想について、マルクス主義を使って一生懸命説明してくれた。私がときどきとんちんかんな応答をするので、あなた、それ私が以前書いたの読んでないのか、とぼやきながらも嬉しそうにして、今月出したばかりの新しい評論同人誌をくれた。彼は、自室に大きな書棚をいくつも持ち込んで、壁中を本とクラシックCDと写真のアルバム(自分で撮ったもの)で埋めているので、話に応じて「そこのあれ取って」と言われる。レーニンの『哲学ノート』は、ものすごく紙が古くて、漢字の書体も戦前ぽい難しいもので、奥付を見たら「昭和9年」と書いてあった。大伯父がマルクス主義の話を始めると、レーニン、スターリンまで網羅しないと終わらない。彼にとっては何しろ生きてその目で見てきた道なのだから、こちらも耳を傾けないわけにはいかないのだ。

どういう流れだったか忘れたけれどもヘンリー・フォンダの話になって、『黄昏』のVHSを持っていけと言って、私の鞄に押し込んだ。そのあと音楽の話をしながら、やっぱり僕にはベートーヴェンの『交響曲第九番』とヘンデルの『メサイア』が最高だ、と言うので、伯父さまがそんなふうに主観的に「最高!」なんて言うの珍しい、と私が言ったら、伯父はベッドの上で顔をくしゃくしゃにして笑っていた。

水谷豊の『相棒』はカント的な絶対正義に基づいているのだ、と、ダシール・ハメットのハードボイルドミステリに絡めて話すのは、このところ大伯父のお気に入りの言説である。そのままカントとヘーゲルの話をずっとしながら、テオドール・W・アドルノの『否定弁証法』を読みたいのだ、と彼は言った。君のスマホでどの出版社から出ているか調べて、と言うのですぐ探した。Amazonのマーケットプレイスに出ているのが分かったので、私は即断で画面を操作し、注文した。来週これ持ってきますよ、と約束すると大伯父は、古本屋の在庫まで私の手元で調べられると知って驚いていた。でもそのとき私は、早く彼にこの本を渡さなければ、時間がもうない、と思ってしまったのだ。

お昼ごはんのチャイムが鳴ったけれども、大伯父は黙ってベッドに横になったままだった。しばらくすると、介護士さんがごはんを持ってきてくれた。介護士さんは、机の上の食べかけのチーズケーキを見て「わ!よかった!食べたいもの、好きなもの、食べてね」と喜んでいた。それで私は、普段彼がもうほとんど食事を取れていないことがわかった。その日は老人ホームの夏祭りイベントで、お昼のメニューは焼きそばだった。

背中が痛い、と言うので手を伸ばしたら、触らないでほしい、と言う。 肺の悪性腫瘍が、広がっているのだ。私は自分の手を引っ込めたかわり、大伯父の手をじっと見ていた。彼の手は、亡くなった祖母(彼の妹)の手と、骨張り方や指のそり方がよく似ている。帰り際、本棚に九鬼周造の『「いき」の構造』を見つけたので借りた。読んだら、返すためにまた会いに来るのだ。つかの間のお別れ、という意味で手をぎゅっと握ると、彼はぼそっと「君と話すのが一番うれしい」と言った。その声がずっと耳に残って、駅に向かう市内循環バスの中でちょっと泣いた。私たちは確かに血もつながっているけれど、年齢を超えてつながる魂みたいなものがもしかしてあるのかもしれないと思ったら、たぶん、何年経って思い出しても、泣いてしまう。

わたしの繭

マームとジプシー『cocoon』を、二度観た。月曜日の初日と、その週の土曜日。演出のニュアンスが大きく変わっていたところがあり、どこにクローズアップして書くかは迷いどころ。そのあとナオミちゃんと、芸術劇場の1階にあるお店で夕方早いうちからビールを飲んだ。そういえばこのお店には、好きな女の子と来ることが多い。ナオミちゃんはそこで、ふと恐ろしいことを私に言った。

「あなたは人生の中で安定と呼ばれるものを、何かひとつ持って書くべき。わかるでしょう。そういう人にしか覗けない不安の淵が、あるのよ」

私は手のひらを口元にあてて、撃たれたような顔で彼女を見てしまった。

2013年8月10日土曜日

ため息と独り言

ある人にはどうしてため息ばかりつくのと言われ、ある人には何でなにもしゃべらないのと言われ、ある人には独り言が多いねと言われたりして、その他よく指摘されることを統合しても何だか整合性が取れない。ただ、どうせ正直ではあるから、そのとき向き合っている人に対して一番素直な感情が出ているのだと思う。そして全然関係ない話に見えるかもしれないが、髪に触れたいと思うかどうかが、自分にとって決定的な差だというのがよくわかった。

とにかく蒸し暑い。歩いていると、背中や胸の間を汗がつたうのがよくわかって、顔に汗をかくより忌々しい。歩きながら、この暑さの中での戦争を思う。遠いフィリピンの地で死んだ、祖母の兄を思う。彼が敬愛してやまなかったという、夏目漱石の全集は私が今譲り受けて持っている。祖母もとっくにいないが、彼女が読んだ俳句にはよく兄が出て来た。いずれ句集をまとめなければと思っている。明日は、ただひとり残っている祖母のもうひとりの兄に会いに行く。

最近また町歩きをよくしている。この間会ったKちゃんにも「よくお昼休みにお散歩ツイートしてはりますね」と言われた。知っている場所から出発して、知らない道に逸れていくのがいいのだ。先日は、歌舞伎町から大久保まで歩いた。同じホテル街でも渋谷の円山町のほうが、道が狭くて急な坂とかがあって秘密っぽくていいと思った。歌舞伎町のラブホテルは、なんというか開き直っている感じがある。でも、あのバッティングセンターあたりの雰囲気はいい。新宿は特に、ソウルとか台湾とかと、欲望の混沌具合が似ている。アスファルトの感じ、看板の立ち並び方や情報量が、とてもアジア的だという感覚があるが、ああいう感じの原点がどこの街にあるのかは何だかよくわからない。