2015年1月24日土曜日

愛といっても差し支えない2

20代の最後の最後で、とうとう彼女は、恋人と四年の交際を実らせて結婚を決めてしまった。結婚なんてつまらないものだよ、もっと自由な新しい生き方をしたっていいんだよ、とあれだけ忠告したにもかかわらず。

保守的な憧れで結婚するのではないのだからいいのだ、と彼女は言った。ただ来るべきときが来た、と思ったのだと。それを保守的と言うんだってば、と思わないでもなかったけれど、今、目の前、三方向に広がる大きな鏡に映る彼女は、真っ白なウエディングドレスを着て微笑んでいる。ふんわりしたスカートには、ばかみたいに大きなリボンがついていて、ひとりでこんなものを着た自分の姿を眺めていることに、彼女はちょっと興ざめした。夫になる男は、寝坊してドレスの試着にはやってこなかったのだ。

「もうちょっと、飾りのないシンプルなものが好みです」と、彼女は担当の女性に伝えた。そのあと選び直してもらったノーブルなデザインのものを何着か淡々と試着し、好きなものと似合うものは違うのだ、ということに気がついて彼女はドレスショップを後にした。結婚式は、これまでの自分の埋葬と引換えに行われる祝祭なのだ。そう考えた彼女は、帰宅の道すがら、愛する男たちに順番にお別れを言いに行くことに決めた。

男たちの部屋はどれも違っている。ある男の部屋は、出会ったころは整然と片付いていて、散らばっているものと言えば古いコンピュータ雑誌くらいだったのだが、彼女が通うようになってから、衣服とかコンビニ弁当のごみが床に放置されるようになった。彼女はどうも、男の先天的なだらしなさを引き出してしまうようなのだった。彼女がかいがいしくこの部屋を片付けることはもうないので、早く新しい娘が現れることを願ったけれど、彼女がいなくなれば、もとの几帳面な彼に戻るだろうとも思った。

ある男は、彼女が部屋を訪ねると競馬予想に夢中で、先週の負け越し金額を得意げに話してくれた。彼女は彼のそういう陽気なところが好きだったが、彼はあまりにも陽気に昼間から缶ビールをあけたりしていたので、彼女が黙って出て行ったことにも気づかなかった。

ある男は、西の都に娘と息子と妻を持っていた。妻がときどき監視にくるので、彼女は男の部屋には何も置いていなかった。いつ来ても、この部屋には男の妻の気配が満ちていて、彼女はその生活を浸食することをひそかにおもしろがっていた。男が彼女を好きでたまらないことはよくわかったが、会っているとき常にぺらぺらと子どもたちの成長について話し続けるのには閉口した。始めは、罪悪感からくる行為なのだと思っていたけれど、他に話すことがないのだとわかってからは、彼に対する彼女の興味は失せた。男は最近家庭菜園に執心で、餞別に、と言ってプチトマトを包んでくれた。彼女は、実用的な果実よりも、もっと役に立たない美しい花束がほしいと思った。もらったプチトマトはその場で一粒食べて、あとは公園に埋めた。

ある男は売れない小説家で、独りで3LDKの広い部屋に住んでいた。本当は人と住むつもりだったんだけど、と、いつだったか彼は言葉少なに語ってくれた。男は左胸にひよこを飼っていて、彼女が彼の胸に耳を当てると、いつもその声がぴよぴよと聞こえた。彼女が別れを告げると男は寂しそうに笑って、どこへも行くな、というかわりに、どこへでも行ってしまえ、と言った。彼女は彼の、真夏でも毛布をかけて眠るところが好きだった。一緒に眠るときは暑くて閉口したけれど、男たちの部屋を知るということは、彼らの寝室のルールを知ることで、それがうれしかったのだ。

最後の男は稼ぎの少ないミュージシャンで、実家住まいだったために彼女と会うのはいつもラブホテルの一室だった。だから、彼女が彼との生活をイメージできたことはなかった。最後に君を抱きたいと彼が言ったので、彼女は了承して服を脱いだ。さっきドレスの試着をしてきたことを思い出し、今日は家の外で服を脱いでばかりだな、とちらりと思った。男は彼女の従順さに満足して、結婚してもこれやろうよ、と言った。彼女はその得体の知れない意欲にあきれながら、笑ってそれを断った。

すべての男を見納めたあと、彼女は母に電話した。母は「ドレスの試着どうだった」と彼女に尋ねた。うん、再来週もう一度行ってそれで決めるよ、と彼女は答えた。母は「再来週なら私も都合がいいから一緒に行こうかしら」と言った。そのあとで、「とにかく結婚するというのは生活を選ぶということなんだからね」と、何か釘を刺すような口調で続けた。生活を選ぶってどういうことだろうと彼女は思った。生き方、っていうことかな。でもそれもたいそう保守的な言葉だな。だいたい、こんな自分にこれから先ずっと誰かと暮らしていくことができるのだろうか? 誰かなんて言ったって、そんなの夫と決めた男に決まっているのだけど。彼女は電話越しの「幸せになるのよ」という母の言葉に適当な返事をしてから切った。

彼女は一度自分の部屋に戻った。幾度となく鍵を回して帰ってきたこの部屋からも、もうすぐ去らなければならない。彼女と一緒にベランダに出て、マンションの五階から遠い夕日を眺める。幸せになるのよ、とさっき母は言ったけれど、これはこれで今結構私幸せなんじゃないかな、と彼女は思っていた。

もう少ししたら寝坊した男の家に行かなければならない。彼は、今日は家でゆっくりすることにしたらしく、婚約者のウエディングドレスの試着をすっぽかしたくせに、掃除や洗濯なんかして過ごしているらしい。その神経が彼女にはわからない。もちろん彼のことを彼女は好きだったが、その理由は実は未だによくわからないままで、しかしそのために彼女は彼を選んだとも言えるのだった。彼が何者であるかは無関係に、彼女は彼のそばにいたいと思っていた。何もかも、理由はわからない。それが愛なのかもしれないとぼんやり思ったりもする。彼を知るためなら、彼の未知を引き受けることができると思えたので、彼女は結婚することに決めたのだ。でも今日だけは、自分が閉めてきたいくつもの部屋の扉を思って少し泣きたい気分でもあった。

未知のものに惹かれながらも怯えて、涙をこぼしている彼女のこと、可愛いなあと思うけれど、そんな彼女とももうすぐお別れしなくてはならない。もう少しやさしい言葉をたくさん掛けてあげればよかったかな。でも彼女はそんなやさしさに惑わされるような子ではないものね。だから静かに、さようなら。幸せの正体がわからなくたって、幸せになることをどうか恐れずに。今の私に言えるのは、ただそれだけ。

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