2016年8月6日土曜日

ある日(乗り合い)

マスターは朝、坂手の婦人会の集まりに行って、町内で回す回覧板の説明をしに行った。来週、劇団のメンバーが来て、演劇をつくる活動を本格的にはじめるので、回覧板で協力をつのるのだ。劇団員の俳優の手書きの回覧板で、メンバーの似顔絵が随所に入っていて、かわいいうえによく似ている。喫茶のお知らせのところに、恐れ多くも私の似顔絵も描いていただいてあって、ひっそり写真に取って保存した。マスターにあとで聞いたところによると、婦人会はお知らせをする場だけでなく、住民たちのレクリエーションの時間でもあったようだった。レクリエーションの様子を見ると、演劇やパフォーマンスにできることの多様な可能性を、切実に考えざるをえないようだった。

カレーは出色の出来だった。夕方に立て続けに売れることがあり、お昼を過ぎたからといってあきらめてはいけないことは、何となく学んできた。

いつおさんが久しぶりにやってきて、暑がっているので氷をあげた。人の少ない時間帯の喫茶で涼みながら、マスターを交えて話す。ちょうどジャンボフェリーが着く時間で、港には車が並んでいた。車がフェリーに乗り込むための巨大なスロープが港にはあって、いつもはまっすぐ登っていく車が、なぜかバックでそのスロープを走らされているのが見えた。「たくさん乗せる時は後ろ向きに入れるのかな?」といつおさんが言った。「さあ」とマスターはどうでもよさげに答える。ふしぎな光景なので、しばらく見ていた。長い坂道をバックで運転してフェリーに乗り込むなんて、私だったら嫌だ。かわいそうに、とドライバーに同乗しながら見守る。おそるおそる登っていく赤い車を見て「ああ、そこ切らなくていい、右だよ右」とか「そのままそのまま、ハンドル戻して」などとみんなで励ます。赤い車が何とかフェリーに乗れた時は、一同ほっとした。そのあとのシルバーの車は、おのれの運転技術を見せつけるようにすごいスピードで坂道をバックして、乗り込んでいった。

閉店まぎわ、ひとりの女性がやってきた。カレーとビールを買ってくれた。オリーブ公園の近くのユースホステルでバイトしていて、今日の夕方だけ時間があるので坂手に観光に来たという。馬木からお兄さんが車に乗せてくれて、ここまで来ることができたそうだ。話を聞いていると、車に乗せてくれたお兄さんは「ここの2Fの喫茶で話を聞けば何とかなるよ」と言って、彼女をこの建物の目の前で降ろしたらしい。「黒く焼けてめがねをかけた人でした」と彼女は言う。あれこれ坂手の見物先の世話を焼いていたマスターが、その言葉を聞き、携帯電話のカメラロールを出して「……それはもしかしてこの人ではありませんか」と訊ねると、彼女は「あっ、そうです!」と顔を輝かせた。馬木から彼女を乗せ、喫茶に放り込んだのは、マスターの悪友、スイフの主人ことM氏であった。マスターは苦笑して、夕陽のいちばん綺麗に見える物見台への道を彼女に教えた。彼女を送り出し、物見台に着いたと思われるころ、沈む陽は海におだやかな光の綾を投げかけ、茜と薄紫のグラデーションの空は、艶やかな色をだんだんと濃くしていった。二日目の月が糸のように細く光りはじめたのは、それから1時間後のことだった。

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