落 雅季子
岡田智代が、かつて私に語ってくれたことがある。今でこそ還暦を超えたダンサーとして精力的に活動をしている彼女だが、結婚して子供を持った当初は「10 年間は、自分のまわりからダンスの存在をシャットダウンして、子育てに専念する」と決めていたと。そうしなければならないという枷を自らにかけ、芸術から離れた時期があったのだと。子供を産み、母になったという理由で。
だから彼女が「この作品について、書いてほしい」と私に言ったとき、私は彼女が話を終える前にうなずいた。書かなければならない、と思ったからだった。「この作品を、女の人が観てどう感じたかを、言葉にしてほしいの」。私はふたたびうなずいた。上演に登場した俳優 4 人のうち 3 人が女性だったこと、本作『都庁前』がフェミニズムを題材とした戯曲であること、その戯曲を執筆したのが岡田利規という男性であること、それら様々なファクターが絡み合ってクリエイションの中で、俳優おのおのが抱えたもどかしさを私は瞬時に想像した。二度目の私の返事に、岡田智代はやっとほっとした顔を見せた。
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劇団ダンサーズは、2018 年 10 月に生まれた「ダンス作戦会議」から派生した、ダンサーによる演劇プロジェクトである。今回上演された『都庁前』を含む岡田利規の『NŌ THEATER』は 2017 年にドイツのミュンヘン・カンマーシュピーレで初演された。同作は 2018 年に京都でドイツ人俳優による輸入公演が行われたが、劇作家岡田の書いた「日本語の原文」で『都庁前』が上演されるのは今回が初めてのことだ。『都庁前』は、夢幻能のかたちを取って書かれた戯曲で、40 分ほどの短い作品になる。
まず地謡、アイを兼ねる岡田智代がグレーのセーターに黒のパンツという装いで、椅子を持って現れた。彼女はマスクを付けており、上演中は外すのかと思ったがどうやらそのままのようだ。続いて、青年(ワキ)を演じるたくみちゃんが壁沿いを這うように変形クラブステップで登場する。オレンジとグリーンのジャケットにジーンズというラフな服装だが、やはりマスクをつけている。(その後登場するふたりの女も同様だったことも付記しておく。)
青年は、自分は広島の出身で東京見物に来たと話す。羽田空港からモノレールに乗って都庁前に来たということは、浜松町・大門駅から都営大江戸線に乗ったのであろう。東京でもっとも地下深くを走る大江戸線。路線図を見るとわかるのだが、大江戸線は不完全な環状線で、ひらがなの「の」のような形をしている。その「の」の字の交差地点にある都庁前駅は、終着駅のようでもあるが実際は練馬方面・両国方面への分岐点となっており、非常に使い勝手が悪く乗換も難しい、東京の吹き溜まりのような場所である。
青年が、ソフィア・コッポラ監督の映画『ロスト・イン・トランスレーション』(2003)の舞台になった西新宿のパークハイアット東京を見てみたいと語りながら地下鉄の出口を探しているところに、女1(シテ)を演じる神村恵が黒い服をまとって現れ、下手にうずくまった。照明も薄暗くなり、女1を蛍光灯で下から照らすように変化する。女1は喋っているあいだ青年に一瞥もくれないが、青年の方は、急に自分に話しかけてきた女1をきちんと見ているのが印象深かった。きちんと、とは言っても堅さや真剣さがあるわけではなく、色素の抜かれた好奇心とでも言うべき、ピュアネスによるものである。
神村は足先でわずかに床を摺ったり、壁に触れたり、しゃがんだりという小さな動きを繰り返しており、そこはかとなくその土地に張り付いている地縛霊のような粘着性を感じさせる。女1は広島出身の女性都議会議員の話を唐突に始め、その議員を知らないという青年に「物を知らないですね」などと冷たく言い放つ。神村の話し方はやや冷淡過ぎるが、これはマンスプレイニングの構造を青年女逆にしたものではないか。だとすると皮肉に見せかけた権力構造(社会的強者が弱者にこれ見よがしに説明する)の反復強化になりかねず、女性がかつて男性に苦しめられてきたやり方で、男性である青年を苦しめることになってしまう。そんな不安を抱きかけたとき、客席でひとりの男性客が声を出して笑うのが聞こえた。
青年が「どうして僕今こんなに非難されてる状況にいつのまにか置かれてるんですかね」と言ったときのことである。
演者やほかの観客がどうかは知らないが、私はこうした笑い声を聞き逃さない。女性から男性へパンチのある台詞や状況が繰り出され、男性が女性からある種の攻撃に遭うシーンのとき、あるいは、自分が思いもよらない、つまり自分の知る「女」、そうであってほしい「女」の範疇を超えた言動をしてきたとき、客席で男性客が声を出して笑うことは珍しくない。今まで数えきれないほどそうした場面に出くわしてきたし、それは女性劇作家・演出家の作品で見受けられる傾向がある。何がおかしいのかわからないし、黙って観て受け止めていればいいのにといつも思うが、女性から痛烈に非難されたり、過激な台詞を浴びせられたりして、ショックを受ける状況に精神が慣れていない脊椎反射なのだろう。不均衡だ。悲しい。男性の笑い声を聞くといつも思う。
話を本筋に戻す。女1は、都庁に行くなら議事堂の前の広場に立っている女の姿を見なければならないと告げ、姿を消した。両手をゆっくり広げたり、閉じたり、下げたり、まるで空気を包んでその場の温度を操るかのような動きで。
すばやく駅員に扮した岡田は青年に、今の女はフェミニズムの幽霊だと説明する。ここで語られるのは、2014 年に都議会で起きたセクハラ野次問題だ。ある女性議員が東京都の妊娠・出産への支援体制について質問をおこなっていたさなか、男性の声で「自分が早く結婚したらいいんじゃないか?」「お前は子供産めないのか?」という野次が飛び、その後、自民党が批判にさらされて対応に追われたという一連の出来事のことである。その後「フェミニズムの幽霊」が都庁前駅ホームに出るようになったと駅員は語るが、その呼称を広めたのは駅でべろべろに酔っていた品のないおっさんだという説明には何ともやるせない気持ちにさせられた。下品なおっさんが「フェミニズム」なんていう言葉を知っているとも思えないし、それならおっさんの吐いたゲロに滑ってホームに転落死して幽霊になった女性の方が、メタファーとしてはえげつないが、まだ説得力はあるんじゃないか……と私が考えてしまうほどには、徹頭徹尾リアリティが排除された戯曲であった。男性の中にあるミソジニー(女性嫌悪)を、観客に見せるための構成である可能性も否定できないが、たった 40 分の中でこうした小さな違和感を蓄積させる様は、女性が社会で日々直面する小さな理不尽の蓄積によく似ていて、わざとなら岡田利規の技巧に感嘆するとともに嫌悪感をも抱く。そう、わざとなら。
▼さて、素直な青年は議事堂の前の広場に向かった。木村玲奈演じる女2(ツレ)が、入場する。ベージュのインナーにグレーカーディガンを羽織り、ボトムスはデニムのロングスカートという、女1とはまた異なった雰囲気だ。木村の長い髪はそのまま垂らされている。女2は、野次を受けた女性議員のくやしさを胸に、日々その広場に立ち続けているらしい。青年はここで客席に移動し、観客と同じ方向から女2を眺め始める。舞台中央の女に明かりが当たり、影が出来る。女2は、議会での野次騒動の顛末を饒舌に語り始める。
たいして長い場面ではない。それなのに私は、女2が台詞を発し続けることに苦しさが募った。あまりに直截的な台詞と詳細な説明。お願いもう黙って、大丈夫だから、そんなにつらいことを話さなくていいから、とわずかな時間で何度も思った。
野次を飛ばした男は、対象の議員個人を見ていたのではなく、彼女を通して「女」の総体を罵っていた。女性という性別に属していたこと、ただそれだけで女性議員は個人性をはぎ取られ、主体性をなくした存在に貶められた。極度の暴言や暴力によって深い傷を負ったとき、人は沈黙するか笑ってやり過ごしてしまうパターンが多く、それが暴力の発覚を遅らせる構造にもつながっている。主体として語る能力と気力を奪われてしまうこと。それは性的不均衡に基づくものに限らず、暴言・暴行の被害者にとっての大きな苦しみなのである。
それでいてなぜ女2は、語れるのだろう? 尊厳と主体性を奪われ、毎日毎日どこかで、これからもそれらを奪われていくであろう「女」は、何を拠り所にしてこの戯曲を発話すればよいのだろう? それこそが、劇団ダンサーズの出演者たちが、今回いちばん苦しんだ点ではないか?
どこを見渡しても、自分の話を聞いて理解してくれる人がいると思えない世界で、自分が受けた屈辱について話して何になる? (私を含む)女たちは、今この台詞を客席に向かって言えるほどに、他者を、男性を信頼できている? 女として生きてきた中で、幾度も幾度も打ち砕かれてきた他者への信頼を、こんななめらかに言葉にできるほど、回復できている?
でもわかっている。これは演劇だから、台詞で俳優が何を発話していても、本当にそれが発話されているかどうかは確かなことではない。女2はずっと黙ったまま広場に立っていると、女1は言った。だから女2が滔滔と台詞で説明をするのは観客のためであって、彼女は「本当は」ずっと黙っている。これは心の声にすぎない。そう戯曲を読むこともできる。
しかし戯曲に台詞が書いてある以上、発話される声は聞こえるし、俳優は台詞を言い続ける。そのことに木村玲奈は、身体で対抗した。床に横たわったのである。体重を地面に預け、ダンサーのアイデンティティとも言える、動こうとする体の能動性を、無にした。地謡の台詞が挟まれつつ、横になったまま台詞を続ける木村。そして彼女は体の軸を回転させ、人間のさらなる受動的体勢である、うつ伏せになった。語りはやめない。そうして女たちの無念が頂点に達したとき、女2はたったひとりの女ではなくなった。女性たちがこれまで社会で味わわされてきた屈辱の総体である幽霊、女1が再びあらわれ、女2はすっと立ち上がった。女1が女2の手をにぎる。そして青年はふたりの女に吸い寄せられるように、客席から舞台に戻っていった。
女1が憑依した女2は、ゆっくり、緩慢といっていいほどの遅さでこぶしを持ち上げた。「突き上げた」という動詞はふさわしくなかった。ただ、目線よりも高い位置にこぶしを「持ち上げた」のだった。これは沈黙という抗議をつづけるに至った、女2の傷ついた内面を、神村と木村が本能的かつ緻密に表出させた動作だった。それを青年は、見つめていた。
▼ 後日、オンラインでのポストトークにて木村に質問をする機会があった。「一連の女2の台詞を発話するのは、つらくなかったですか」と私が尋ねたところ、彼女から興味深い返答を得た。
「なんかでも不思議でした。自分自身でもあったし役の女でもあるしこれをここで言うことってどういうことなんだろうみたいなこととか……お客さんに向けてもちろん台詞は言っているんですけど、(私は)俳優じゃないので言葉がお客さんに伝えられないんじゃないか、内容が入っていかないんじゃないかって心配で、あのシーンは情景というか、議員の人たちの話を淡々と伝える大事なシーンかなと思っていたので、自分や女2の感情よりも、本に書いてあることをお客さんに理解してもらえるだろうか? ということに意識がいっていたんですね。だから、言っていてしんどかったというのは正直なかったですけど……でも一回だけ稽古中に、すごい涙がぶわーって出てきたことがあって、自分でも結構それはすごいびっくりな状況で、ダンスしてても突然泣き出すなんてことは、ないので。(技術的に)出来なくて泣くっていうことはあったけど、自分の言葉じゃない言葉を言っているのによくわからない涙が出てくるのは、もしかしたら(女たちの)そのつらさみたいなのが溜まって放出されたのかなっていう感覚は、あったかな」
https://www.youtube.com/watch?v=58LgX8MfoSs&feature=youtu.be
(※1:33:00から抜き出し)
先ほど私は、暴力に遭った人間が主体性を奪われる話をした。数えきれない暴言や暴力にさらされてきた女たちの歴史を感じながらも、ダンサー・俳優として、舞台上での主体性を手放さない方法に体でたどり着いたのが、あの地面に伏し台詞を言い続ける場面だったのだと私は思う。
▼ フェミニズムの戦いは(ほかの多くの権利をめぐる戦いと同様に)終わりがなく、一歩ずつ進んではまた退いて、途方もない時間がかかる。私はもう、自分が生きているうちに女性の権利が今以上に向上することは無理だとすら考えることがある。そういう意味では、私は自分がフェミニズムの幽霊になることに、すでに覚悟を持っている。なぜ戦いは進まないか。その理由のひとつが、女性が女性であるということでこうむる不利益には、時期および内容の流動性があるということである。
若い時分には、異性から性的に搾取されることを処世術として使って生き抜くしかない場合もある。結婚すれば嫁ぎ先の慣習に従うことや、妻としてのふるまいが求められ、時には「女のくせに」と婚家の人間から貶められることもある。保育園の待機児童問題で悩んでいるワーキングマザーも、子どもが小学生になれば保育園を必要としなくなる。自分が性差に基づく偏見に晒されてきたことに気づくこと、更にそれを言語化できるようになるまでには(前述した、暴力への抵抗としての沈黙も含めて)時間がかかるし、言葉にしないまま一生を終える女性もいるだろう。
私たちは、生きている限り女であることから降りることはできない。しかし私たちがこうむる不利益はあまりに多様だ。不利益は次から次へやってきて、ひとりの女性の一生を、フェミニズムの目覚めは流動的に通過する。経験が相互に蓄積せず、ひとりひとりの苦しみは捨て置かれたままになる。そうした時間的空白、非連続の上に立つ未完の城がフェミニズムだ。
本作で、その通過に重ねられるのは、霊化である。女の幽霊が都庁前に現れることについて地謡は言う。
それがなんのためなのか、男たちよ、考えてみたらいい。
「男たちよ」? 私は台詞に強烈な違和を覚えた。続いて、絶望に似た悲しみに襲われた。違う。男たちに考えてほしいのではない。私たち女が失った主体性と傷つけられた尊厳を回復する方法を、女といっしょに考えてほしい。
私たちを弔うためにはこの都市の、この国の、
メカニズムが、変わらなければいけない。
そうでなければ私たちの魂が鎮まることはない。
人口が減り、経済がやせ細り、
あなたたちは滅びていく。
(中略)
それはもう、<女性の問題>ではない。
私たちの魂を、あなたたちは鎮められるのか?
それはあなたたちの問題だ。
私たちの魂を、あなたたちは鎮められるのか?
地謡の台詞の中、女1と2は地謡のいる舞台の隅へ集まる。青年は舞台中央に立ち尽くし、ぼけっと聞いているようでいて、目線を女たちから逸らしていない。それが救いだった。女1と女2が舞台から去っても青年は動かない。そして静かに、先ほど女2がそうしたように、右手を上に伸ばした。自分の意志ではなく、何者かに上から吊られるような重力の操り方で、青年はそれをおこなった。
ラストシーン、青年は都庁へ向かうべく、駅員にあらためて出口を聞いて退場していった。手を頭上に「持ち上げ」たまま、彼はトコトコと袖に消えていった。
▼ 明るくなった劇場で私はまず、自分たちを鎮めてほしいとは考えない、と思った。「滅びていくことにおいてジェンダー間に格差はない」という台詞もあったが、女は(男がそうでないのと同様に)、この国が滅びないためのメカニズムの歯車でもない。
それに、幽霊という言葉が、どうしても引っかかった。能だから、幽霊が登場する形式なのはわかる。でも今を生きる私たち女の意志は、干からびた死体や焼かれた骨に宿る未練ではない。積み重なった無念の歴史は確かにあるが、数えきれない殴打によって世界への信頼を失い続ける日々は、これからも女を待っている。その無念さを、霊化した形で登場させてほしくはなかった。今も女たちの心からは鮮血が噴き出し、流れつづけている事実を、もっと直視してはくれないのか? 集合体の霊として、個人の男性を攻め立てたいなんてこれっぽっちも思っていない。ただ屈辱を味わい、「幽霊」というよりは「非人間」とされ、生きたまま折り重なって倒れている女たちを、幽霊ではない形で、人間としてよみがえらせるような演劇を誰か見せてはくれまいか?
とはいえ、戯曲には「女2は生きた人物として描かれているし、女1は自分は『死んだ特定の女ひとりの幽霊ではない』と言っていて、整合性もバランスも取れている」という回答がしっかり示されている。その事実には隙がなく、大変明晰に理解できる。
でもこの感覚的な違和感、拒否感、反発を私は無視できない。正論であることによって反論を防御する、能的なる構造と戯曲の言葉選びに、私は苦闘してこの劇評を書き上げた。恐らくはクリエイションのさなか、俳優たちも同じ心持ちだったのではないかと思う。
都庁前で遭遇した女たちの無念を無意識にインプットされたかのような青年の右手。頼りなく、しかし高く、青年の手が女2と同じ位置に掲げられたエンディングは、希望だった。今を生きるどの世代の人間も、虐げられ非人間化された女性がふたたび人間として生きられるような、言葉や身体表現を見つけなければならない。女の無念を「鎮める」のではなく、これから先、男性と女性が共に生きて理解しあい、違和感を少しずつ解消しあって生きる未来を望みたい。切に、望みたい。
◎プロフィール
落 雅季子
1983年東京生まれ。批評家。LittleSophy主宰。2009年から演劇・ダンス批評を始め、2017年からは文体と拮抗する身体の獲得のため、クラシックバレエの学びを積極的に行なっている。
Twitter:@maki_co
<引用>
岡田利規『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』白水社(2020)より