2013年12月30日月曜日

すみれ色の空

「いい景色見られてよかった」と頭の上の方で人が言った。私はそのときぼうっと夕焼けを見ていて「え、何?『いつ死ぬか分からない』?」と聞き返したら、その人は私の聞き違いにあきれ、そのような耳になった私の人生を憐れんだ。空は群青とすみれ色と薄桃のうつくしい三層で、日が沈みきらずとも、今夜は星がきれいだというのがわかった。

麻辣羊鍋、というものを食べた。今年の悪い汗がながれた、と思ったが、これくらいでながせるほどの量ではないな、と思い直して、ハンカチで額を押さえた。紹興酒と一緒に供された干し梅が、今までたべたどの干し梅よりおいしく思われて感動した。途中、自分でもよくわからないスイッチが入って、隣の人が「僕にも聞こえるようにしゃべって」と言うのを無視しながら、目の前の人に向かって一生懸命、来年の抱負を語ってしまった。まあでも、語っていたのは来年の抱負だけではないのだ。

同級生と話していて、私が昔のことをよく覚えているので驚嘆していた。私はおしゃべりしあう友達が少ないかわり、みんなのことをよく見ているので、それで記憶が強く組まれる。好きな男と好きでない女にまつわることは、忘れない。

2013年12月29日日曜日

歳末小景

ある日の午後、寿司屋に行った。同伴者がふと「あ、Nじゃないか」と呼びかけるのでその方向を見ると、初老の男性が昼間からひとりで入って来るところだった。Nと呼ばれた紳士は、一瞬驚いた顔を見せたが「私、今日はお忍びなので」とちょっと笑って静かに目を伏せた。店主は、N氏を見て「こんにちは、田中さん」と呼ぶ。N氏は「田中です」と重ねてこちらに向かって言い、鯵の刺身をつまみに飲み始めた。その後、N氏が席を外したすきに店主が「あの方、昔から来て下さってますけど僕ほんとにどんな方か存じ上げないんですよ」「この辺でも銀座でも、あの方は田中さんで通ってます」と言う。N氏は、とある病院の教授であるのだが、田中と名乗ってあちこち飲み歩いているらしい。「そういうお客さん、たまにいらっしゃいますよ」と、店主は笑った。

来る早春に向けて、とある打合せをしたあと、某氏と高田馬場を歩きながら、一年前の冬のことを振り返ったりしていた。あの頃は私も某氏もだいぶ、心構えも立場も今とは違っていて、一年後に共にこんな企てを図ることになろうとは、想像もしていなかった。「ほんとにねえ」などとお互い言い合いながら、2013年に到来した様々な機会を思い返した。まだ何も始めていないし、やれそうなことを何となく掴んでいくしかない。でもやってみなければならない、他でもない自分たちが、と思うくらいには大きな変化のあった一年だった。

その日はすでに遅刻していたけれど、ライブハウスに行く前に百貨店に寄った。靴売り場の前を通ったときに、急に靴がほしいと思って、グレーのショートブーツを試着し、すぐに買った。それまで履いていた靴は、その百貨店で捨てた。どうしてそんな気を起こしたのかわからなかったが、ともかくその日は、新しい靴で、新しい場所に行きたかったのだ。

2013年12月26日木曜日

有限の人生

朝から工事のドリル音がひどく、とてもこの家には居られないと思ったが、ずるずるとしばらく居てしまった。窓をあけてもどこで何をやっているのか分からないが、階下からとにかく爆音だけが聞こえる。気がふれたかと思って幻聴の可能性も考えたけれど、身体に音が響くので、まぼろしではなさそうだった。苺を一粒食べてまた泣いた。分かってもらえないことには慣れていたって、分かってもらえない状態に慣れるわけではないのだ。あんなこと言わないでほしかったと後で泣いたって、一生そのことは言えないで終わるに違いない。

女がいやいやながらも何かに付き合ってくれるのは、ちゃんとその相手をいとしく(あるいは可愛く)思っているからだが、男が、嫌そうな態度を見せるときは本当に嫌だという意味なので、何と言うか、報われない。

赤ちゃんのころの弟を抱いて、街を歩く夢を見た。昔、「子どもを育てるには条件がある」と言われたことがある。その人によれば「どこまでも責任を取るということ」と「すべてを受け入れてやるということ」の二つだそうだ。彼は、自分はすべてを受け入れられるが、責任は取れないと言った。だから子どもは今はいらない、恋人が妊娠しても、と。 私はどう考えるかといえば、責任を取ることはできる(少なくともしようとする)だろうが、子どものすべてを受け入れることはできない、かもしれない。

総武線に久しぶりに乗ったので、一度も降りたことのなかった駅でコーヒーだけ飲んで、切符売り場で少しだけ人を眺めてから帰った。どうしてもだめかもしれないと、やはり思った。味方がこの世に一人もいない、わけはない。考えればわかる。でも、私が今のように生きることを許してくれる人がいる気がしない。一生このままだとあきらめるには、想定している人生の残りが長すぎて、つくづく悲しい。

2013年12月25日水曜日

眠りの森

「起きる」と決めてから、二時間もベッドの中で目を開けたまま、落ち込みっぱなしだった。坂の下のマンションの、奥まったこの部屋から一生出られないような気がして、最近はいつも朝がつらい。まだ午前中だ、がんばれ、というもう一人の自分の声も虚しく、つい追い込まれたような気持ちになってしまう。沈む原因を少しでも解消しようと、観劇ブログのほうにこんなエントリを書いた。いちいち傷ついていられない。ロマンティシズムを貫くためには、タフでなければならない。

クリスマスは、子どものころからミサにあずかってきたので、恋人がどうとか、そういう概念がほぼない。クリスマスだからデートしよう、とか言われたら逆に鼻白む。もう、あんまり波風立てないで生きていたい。

それにしても歯切れが悪すぎるので、今日はこれくらいにして書くべきものを書き始めなければと思う。

2013年12月23日月曜日

寒椿

人と話すべき思い出があまりない。久しぶりに再会して、高校時代とか大学時代にあったことを延々と思い出しあいながら笑うことが、私はあまり得意でない。思っているだけで言わないが、ここで書いてしまえば何でも一緒だ。覚えていないわけではない。むしろ克明に思い出して、描写もできるくらいである。世の人が思い出を反芻する時間の豊かさを感受できない、貧しい人間なのかもしれない。私は自分のことをずいぶん未練がましい人間だと思ってきたので、そう思っている自分に気づいたときは驚いた。でも私は、あの頃の私がどうたら、ということよりも、何もかも今しかない、ということのほうをずっと強く念じているのだ。あの頃の話より、今の話、未来の話をしてくれる人が好きで、何かを共に懐かしんでくれる人は(そんなには)いらない。

一番いいときで自分の時間が止まってしまうことへの恐れが強いのだと思う。若いころの自分が似合っていた服のまま年を取ってしまうこと。それはつまり、自分を測ることができていないという意味だ。「対象と自分の距離を測り、それとの誤差をできるだけ少なく出来る」のが「うまい」ことだと思っている。絵がうまい人は見たものとデッサンする手の動きの誤差が少ないし、音楽家はイメージした音に近くなるように楽譜を再現する。

まあ確かに、誰かと寝てみる、というのはいろんな面で大切だと私も思うので、一刻も早くやってみたらいいのだが、単純に多くの人と触れ合ってもまったく意味が無くて、それよりも、ひとりの相手とは何度も関係を深めたほうがいい、などという我ながら当たり前の結論しか言えなくなってくる程度には、魔女らしくなってしまった。それこそ数年以上の付き合いになる相手もいるだろうし、恋人でなくても複数回の逢瀬を重ねる間柄になる人にも出会うだろうし、そういう相手は一人じゃないこともあるだろうし、と言ったら、どこが引っかかったのか知らないが、えっ、という顔をされたので無視した。相手を通して今まで知らなかった自分を見る、ということはよくあるが、見えたその自分を信頼するためにはやはり時間をかける必要があると思うし、そういうときは、自分にとってだけでなく相手にとっても大切な何かがかなりの確率で起きている。そういう相手に出会った経験を持つ人を、私は信用する。(「そういう経験を持たない人を、私は信用しない。」 という書き方とどっちがいいかな、と迷った)

量販店で、二秒で選んでキッチンマットを買った。二秒というのはあんまりかな、と思って、他の棚も見て吟味してみたけれど、結局最初に選んだものが私には圧倒的にいい、ということになった。そのあと、文具コーナーで冬の花や雪の柄の便箋を見た。でも、こういうときに私がまっさきに手紙を書きたいと思う人は、この秋にもう亡くなっていた。そのことを考えて、忘れていたわけじゃないけどやっぱり居たたまれないほど寂しくて、綺麗だと思った便箋と封筒をぜんぶ、片っ端から買った。

2013年12月20日金曜日

炬燵に微熱

MN嬢とTA嬢と、白金のビオトープで、東京という場所で育つことについて話し合った。かつて通った学び舎が近くにあり、三人でここでたびたび読書会をしていることもあるので、とても気持ちが明るくなった。これまで、場合に応じていくつものルーツを自分の中で使い分けてきたように思うのだが、最近はこう見えて、自分の軸が統合されてきた意識があり、特に生きづらさを感じなくなっている。開き直りには注意して、でも、しなやかに生きたい。MN嬢の密かな励ましを受けたので、これからも修行にいそしむ。

炬燵に縁がない人生を送ってきた。大学時代は、同級生の家に集まって炬燵で飲んだりゲームしたりする生活からは程遠いものだったし、通った男の部屋も簡素なテーブルしかない部屋ばかりで、足下は寒かった。昔、男が家にいない間にファンヒーターをつけて部屋を暖めて待っていたら、男が帰宅後に「外気温との気温差が気持ち悪い」と意味もなく怒鳴ったということがあった。今でこそ、そんな理不尽さに屈するなんてばかな女だったな、私は!と思うことができるが、それ以来、どんな人が相手でも必ず冷暖房は相手の許可を得てから(相手が不在ならメールしてでも)つける習慣が身に付いてしまった。習慣というものがいかにくだらないか、他人の家のエアコンスイッチを入れるときはいつも感じる。まあ、それと炬燵の話は関係なくて、微熱、という言葉との語呂がいいので書いてみただけだった。

紅茶を淹れて、象のかたちをしたクッキーを食べている。先週、港町のカフェで買ったのである。Nさんに紹介してもらった中学生の女の子と一緒に食べようと思って買ったのだが、彼女は私があげた象のクッキーを、可愛い、と言って喜んでくれたあとに丁寧にティッシュにつつみ「妹におみやげにします」と言って、かばんにしまったのだった。持って帰るまでに割れなかったかな、と今でも心配に思っているが、彼女くらい優しいお姉ちゃんであれば、この象のクッキーがいかに可愛いかたちをしていたかきっと妹に話して聞かせただろうし、割れたクッキーをふたりでわけて食べてくれただろう。あの日の港町のカフェはたいそう楽しい雰囲気であったし、彼女といろんなおしゃべりもしたけれど、今度彼女に再会することがあれば私が一番に思い出すのは、彼女がクッキーをかばんに入れたときの、あのしとやかな仕草だ。

昨夜、熱燗を飲みながら思いついたことなのだが、最近放置している観劇ブログのほうで、年内に「演劇とわたし」という、読んでも誰も得しない物語を書くことにした。主に19歳以降の、演劇とわたしの愛憎の歴史を書いてみる。学生演劇に苦悶していた時代から、いわゆる「小劇場演劇」の孤独な観客時代を経て、F/Tやら何やらの前衛的な演目に触れ、一人の女として成長していく様子を描こうと思う。そんなことやる前に書くべきものがありすぎるが、誰しも、書くべきものから書き始められるとは限らないものだ。

2013年12月18日水曜日

そういう女

夜中に、グレーパープルのネイルカラーを塗る。こういうシンプルなもので私にはもう十分だ。飾りたてても、もはや白々しい。しかし肌がもう少し赤みを帯びていたらよかった、とは思う。とにかく夜中に鏡で見る自分の顔が、ばけもののようでさっきも驚いてしまった。愛らしい色白などからは程遠く、そんなこと言ったら「愛らしい」という言葉がふさわしい年齢からも既に遠いのだが、生きている人間のように見えない、と言っても差し支えないほどの顔色にときどきなってしまう。

元気がないのはちゃんと書いていないときで、さぼったことに起因していようが、才能がないから書けないだけであろうが、とにかく、表に出さないと自分がくずになった心持ちがして、寝ても覚めても泣いても飲んでも、元気が出なくてだめなのだ。チェルフィッチュの『地面と床』で、山縣太一演じる由紀夫が「自分がクズなのを、クズ本人が何よりわかるんだよ。他人にはわからないよ。自分がクズかどうかは、他人が決めることじゃないんだよ。」と言っていて、すごくいいなと思ったけれど、ただ、私の現状を表すためにこの台詞を引用するのはあまりにも不適切な気がする。この台詞以外にも重要な構造や台詞がたくさんあることはもちろんわかってはいるのだが、全体を見ても一部を読んでもすばらしいのが、すばらしい作品(戯曲)である、という言葉をもって、私の弛緩した日常を食い破る力にしたい。

愛じゃなくて業が深い、というのは逃れられない宿命だが、それでいて情が深いのが更に致命的なところである。「どんな人よりも、大事なものがあるというだけなの」と私が言うと、S氏は鍋の白菜をつつきながら、信じられないといった面持ちで私を見た。「え、笑わないでよ」と私は反論しながらも、まあ、そう言われることにも慣れているな、とあきらめてハイボールをあけた。取り繕ったところで仕方ないので、あと二年くらいはこのスタンスで生きてみようと思っている。とはいえ、無闇にのたうち回るのは自分の精神状態を考えるとよくない。そういう私を見て、彼は「他人を気づかって関係を維持することと、より近しい人への義務を混同しなくていいんだよ。自分で自分を縛るべきではないよ」と言ってくれた。先にも書いたように、私はいささか情が深すぎるように思われがちだが、明確な但書きもたくさん持っている。その但書きに関係あるようなないようなことをつらつら喋りながら、受信したメールと腕時計を見比べていると「自分が引き止めたくせに他の男のところに行くんだね」とS氏がふざけるので私は「そうよ、私はそういう女なの」と応答した。S氏がやれやれと言った表情で手を振ってくれたので、私は先に店を出た。

2013年12月17日火曜日

冬には名前を

子どものころから、自分の姓が好きでないのだが、人が自分の名前を覚えていてくれるだけでとてもうれしくなる気持ちのほうが大きいので助かっている。もともとは、名前も好きでなかった。中学一年生の時、憧れだった副部長のお姉さま(高校三年生)から文化祭前夜に頂いたお手紙に「初めて見たときに、なんて綺麗な字かしら!と思ったの。」とあったのを読んでから、好きになったのである。しかし中高時代には「名前+ちゃん」で呼ばれることはあれど、呼び捨てにされることはなかった。女の子同士、親しげに呼び合うさまを眺めてじりじりしていたのはこの頃だ。初めて呼び捨てにされたのは、大学生の時、サークルの先輩にだった。そのとき、長年のくびきから解かれるような思いがしたことまで覚えているが、こんなことをいちいち覚えていて、今ここですらすら書ける自分もいやだ。いい名前だよ、と人に言われないと自分を承認できないような心根も自意識過剰でいやすぎる。

チェルフィッチュの『地面と床』を観て、恐れ多くも、こんなに自分の人生に寄り添ってもらえる、と思えるカンパニーがあるなんて本当に幸福だ、と思った。寄り添うというよりは、仰ぎ見る、ということに近いし、彼らの作品はけっして優しい言葉をかけてくれることはないけれど、そのことがいつも私を安心させる。『フリータイム』『わたしたちは無傷な別人であるのか?』など、観るたびに、そのときの自分の人生の状態にリンクしているように思ってきたが、それは決して作品を矮小化して解釈しているのではない。チェルフィッチュに関してだけは、劇評もおすすめも書いたことがない。書けると思ったことがない、というのが正確だけれど、今秋の『現在地』『地面と床』に関して、方法とか演劇論とか音楽論とか、いわゆる"小難しい"批評の視点ではなくても、自分の言葉で書くべきなんじゃないかと思っているのは私にとって大きな変化だ。チェルフィッチュの作品が、自分に「寄り添ってくれている」と感じるのは、私だけではないのかもしれない。でも、若手のころ死ぬほど残業して働きまくっていた自分とか、子どもが持てるのか迷っている自分とか、もし子どもを持ったら盲目的に守り抜くであろう自分の姿を考えながら見えることは、作品の外枠を形成する問題意識を理解するうえで大切なことなのだ。不思議である。理解できないと思う相手なのに、その存在を意識するときはいつも、とても近くにいる気がする。

弟が医者になることになったとき「合格してよかった」という思いの次くらいに「これでいつ戦争が始まっても、軍医になれるから、この子が前線で死ぬ可能性は減った」と思って安堵した。冗談ではない。弟が小さなときから私はいつも、この子が戦争で死ぬことがないように、と祈ってきたし、たとえば選挙権を得てからは、愛する男の人たちが戦争で苦しむことにならないことを、かならず考慮に入れてその権利を行使してきたのだ。

2013年12月15日日曜日

治癒のための血流

手の甲の傷が治らないの、もう一週間も経つのに、と言ったら弟は「そんなの仕方ないよ、血流が少ない場所なんだから」と、理論的な解をくれた。 傷も治らないし、電車や店内でがっくり眠くなるのもやめたい。家のベッドは冷たくていつまでも眠れないし、一晩かけて自分の体温がゆきわたった後では、忌まわしくて長く眠るのが憚られる。
 
したくてたまらなくなること、というのが私にはあまりない。編み物は、数少ないそれになりうる趣味だ。ここ二日は編み物のことを一番多く考えていた。あと、したくてたまらなくなることは、劇場に行きたい、とか、このまま一緒に眠りたい、とか、今すぐ焼きたてのパンを食べたい、くらいしかない。他のことは、面倒というより、人生の時間をそこに費やすのがもったいないと思ってしまうので、どうも身が入らない。毎日毎日、何か書きつけているのは、したくてたまらないからしているのではなくて、気がつくとしている部類のことで、そういうものはそういうもので、別にいくつかある。

2013年12月14日土曜日

地水火風

「私たち水のエレメンツだから」とNさんが言った。だから仲がいいの、すぐなじむの、と笑うNさんに、男たちは「何、水のエレメンツって」ときょとんとしていたが、生まれた星座のことを言っているのだと、私にはすぐ分かった。蟹座、蠍座、魚座は、12星座を4つのグループに分けたうちの"水の宮"に属するのである。「ちなみに双子座は風で、私は乙女座だから地のエレメンツです」と教えると彼らは「何ですぐ分かるの?」と訝しんだので、Nさんと二人で「女の子なら誰でも知ってますよ」と言った。もちろん人にもよるが、黄道12宮について、小耳にはさんだことくらいは、どんな女の子にでもあるのではないかと思う。

そういえば私は、集中すると意外とお酒が飲める、ということを思い出した。そんなわけで二軒目の立ち飲み屋で、理想の死に方、あるいは生き残り方について話した。F氏は『麻雀放浪記』の出目徳と言い、私は『永遠の都』の初江をあげた。ポルコ・ロッソもマダム・ジーナも捨てきれない、という話をしていたあたりでS氏が唐突に放った、『千と千尋の神隠し』に登場する大根の神様になりたい、という言葉は至言であった。

とにかくその日は朝から憂鬱で、滅びの風を召還すべくベッドの中でぶつぶつ呪文を唱えたりしていたのだが、そうもしていられない、と思って上半身を起こすころには、もう普通の人の活動開始時間から半日以上もずれてしまっていた。そのことにさらに憂鬱になり、もう今日は誰とも会える状態ではない、という思いと、いや、会いに行くべき人はきっとこの世界にいる、という壮大な葛藤に飲まれて、とにかく髪のブローは念入りにおこなっていたところ、港町のカフェに行くべき、という天啓がくだった。そうか、やはり港町か、と頭を抱えながら、天啓なら仕方ないと観念して、深緑のコートを着て駅へ向かったのだった。港町では、数人の目利きの女の子が「いい色ですね!」と言ってコートを褒めてくれたので、私はとても勇気づけられた。

S氏が、自転車の二人乗りをしている大人を見て「二人乗りって何かいいね」と言ったのを聞いて、確かにとてもいい、と思った。高校生や大学生よりも、いい年した大人が二人乗りしてるほうが、抜き差しならない感じがある。高校生が全員さわやかだとは思わないが、彼らには、込み入った感じはほとんどなくて基本的にはまっすぐだ。まっすぐであることと、さわやかであることを混同してはいけない。まあ、それは酔っぱらいの余談で、酔ってふらつきながら蛇行するほうが、この街を往来するのは楽しいし、大人になっても悲しいものは悲しい、という気持ちも素直に身にしみる。「自転車買えば」とその夜S氏に言われたけれど、私は自分でペダルをこいで進むより、サドルの後ろにすわって、目を閉じたり開けたりしていたい。そんなことを思っていたらS氏がライトで私に目つぶしを仕掛けてきたので、もう未来が見えなくなってしまった。

2013年12月11日水曜日

白いカクテル

新しい髪型かわいいと思うよ、というのは、ここ数日言われた言葉で2番目に私を勇気づけるものであった。長い方がよかった、と言われた翌日に、俺は短い方が好きだな、とか言われるのが人生というものなので、結局みんな自分の好みでしゃべっていると分かってからは好きなように生きようと思っている。好みで済ませてならない部分だけ、守り抜くために力を尽くす。

六本木のライブハウスで、リーディングの公演を観た。あんまり切実さを感じて、笑いが起きるところで私は何度か泣いてしまって、でもちょっと怖くもあって、官能的っていくらかの恐ろしさを含むものだから、これはまさに官能なんだろうと思った。想像であり、恍惚でもある。不穏なギターと、俳優の台詞の音の応酬は、絶頂に向かって同じリズムを強くきざんでいて、それは私のくちびると手の動きによく似ていた。終演して、私は白濁したカクテルを口に含み、舌の裏に溜めてそっと飲み込んだ。

夕方、深緑のコートを買ってしまった。百貨店の隅から「私を買って」と呼ぶ声がしたので、振り向いたらもういけなかった。ひとめ見て「着てみたいのですが」と言ってしまい、袖を通したら後はもうプラスチックのカードを店員に引き渡すしかない状態だった。本当はマフラーが欲しくて百貨店を歩いていたはずなのに、ずいぶん高いマフラーだな、と思った。しかし、そういえば服や靴を買ったあとは、ものが書ける、ということがあったかもしれない。その場合は、新しい服を着る、もしくは眺めながらでないと効果が出なかったように思うので、今、家の中でコートを着ようか迷っている。

2013年12月9日月曜日

みずぐすり

薬を飲んだのがいけなかった。数度の覚醒があって、でも朝の記憶ははっきりせず、結局ベッドの中でまどろみ続けて、日が南を回るころをとうに過ぎてしまった。どうしようもなさで、このままここで目が覚めなくなってもいい、とさえ思った。この自己嫌悪がなければ、薬で眠るのは気持ちいい。

2013年12月8日日曜日

全て忘れない

仕事どうするの、と聞かれたので、具体的に予定を答えたあとに、今はチョコレート屋さんになりたい、と言ったら思いがけず、いいんじゃない、という答えをもらった。でも、自社チョコレートの理解のために、年に数回は工房で製菓を手伝わなくてはならないらしいので、そういう、職人との対話はちょっと怖い。今は怖いことがとても多くて、怖くないことと言えば演劇を観に行くことしかない。

そういうわけで、港町のカフェにまた行った。広がる風景と、生み出される音やシーンの全てにどうしようもなく幸福を感じて、このままの自分じゃいられない、という気持ちになり、その場で電話をかけて美容室を予約した。「しあわせ」なんていう単語を発話することは普段なかなかないけれども、今日はそう言っても差し支えないほどの日だったし、でも、それだっていつか忘れてしまうということが寂しくて泣けはしたけれど、怖くはなくなった。折り紙を折ったり、スコーンをたべたり、明るい日差しのもとで、私はしあわせだった。

髪を10センチ以上切ったあと、別の劇場に行った。舞台には髪の長い女優が出ていて、その肩にかかるうねりを見て一瞬後悔したけれど、どうせ切らなくても私という人間は後悔したに違いないわ、と思い直した。

今のはね、スリーポイントシュートが入ったような感じ、という表現を聞いて、それは結構適切な単語だな、と思った。大人になると、何でも集中とタイミングによる部分が大きくなるのだ。

2013年12月6日金曜日

姫君

MM先輩と会うために出かけた。西荻窪の、南口の、「パン屋」というよりフランス語で「ブーランジェリー」と呼びたいような、そういう店構えの奥のテーブルに二人で座って、ランチをふたつ頼んだ。かごに盛られてきたパンはどれもおいしくて、私は特にバゲットが、先輩はフォカッチャが、気に入った。最近観た演劇の話と、仕事の話と、消失してしまった食欲が戻った切っかけの話などをしながら、年齢が上の女友達を持つべきよ、と先輩は言った。あなたの持つ悩みや身体の変化を必ず先に通っているから、と。そういう女性に、話を聞いてもらうのも聞かせてもらうのも、私にとっては両方大切なことであるだろうと思った。

頭で分かってたって年を重ねないと本当には分からなかったことだらけですよね、と言ったら、まだまだそれは続くわよ、聞きたい?とおちゃめな感じで言われて、でもそれはとても幸せなことだと思った。35歳とか40歳とか、これから私が生きて行く上で、いつまでも若いままの頭でいるわけにはいかない。私は、思えば二年前から一年前くらいまでは、普通に母親になりたいと思っていたけれど、今は全然そうなれる気がしない。精神面の不調もあるのかもね、と先輩は言った。私の人生においてその時期がどうだったか、今ここで語りはしないが、寝ても覚めても子どもがほしい、と思って涙を流すようなことが、女の人生にはあるのだ。だいたいはホルモンのしわざではないかと思う。

その後、先輩と近所をお散歩した。今度ここも行ってみたいね、というお店をいくつか見てまわって、中でも特別素敵な外観の和食屋さんを見たときには心臓がどきどきした。そのあと、有機スパイスのお店でチャイのもととジンジャーエールのもとを買った。身体、あったまるよ、と先輩が言ったので、寒い夜が楽しみになった。そういえば先輩は、かつて仙骨の動かし方も私に教えてくれたので、今でも身体をほぐすときにはよくその体操をする。

翌日も演劇を観て、好きな人にだけ会い、好きなものだけたべた。ただの目立ちたがりは変わっていると他人に言われると喜ぶが、本当の変人は、変わっていると言われると怒ると言う。それと同じ理屈で、本当にぶっ壊れた人はそれを指摘されても、何がおかしいのかわからずきょとんとしているそうだが、どうなのだろう。

2013年12月4日水曜日

チョコレートから洋梨

いらっしゃいませ、という気持ちをこめて、狂っている自覚がなくなってからが本番ですよ、と言った。いらっしゃいませ、と今書いたが、彼の方だってとっくに狂ってると私は思っていて、気が狂いそうだ、などと今も言っているのが何よりの証拠だと思ったが、その場では言わなかった。言わずに後でこうして日記に書くのである。

某氏に劇場の外で会ったとき、顔色大丈夫ですか、客席に入って来たときからやばそうでしたよ、と言われた。私はたまに、明らかにまずいと分かるほど顔が白いときがあるので、たぶんそういう日だったのだと思う。頭のほうに血が流れていなかったのだろう。だから女の子に対してばかみたいに意地悪な気持ちになるし、ささくれ立った人の気持ちを、分かりながらも邪魔したりしてしまうのだ。

引っ越すので、よく通っていた食堂のおねえさんにチョコレートを渡した。同じ東京だし、大好きな街なのでまた来るとは思いますが、と言うと、おねえさんは「あ、ちょっと待って」と言いながら、鯖を焼く火をちょっと弱め、炊飯器の下の紙袋から、洋梨とすだちを出して「これ、どうぞ」と言ってくれた。人にものをもらう(あげる)のが、こんなにもうれしいということを、すっかり忘れていた。

明るい朝が一番苦しい。夜は身体が痛い。つくづくろくでなしに生まれてしまって、何がろくでなしかと言うと、このろくでなしが治るのではないかと思いながら今日まで生きてしまったことである。でも、到底、これは治らない、ということがもうわかってしまった。いっそ海の藻屑か泡になりたい、と思って、でもきっとあの場所ならこんな気持ちも晴れてゆくんじゃないかという未練に似た希望を持って、港町のカフェまで行った。「人魚はいつのまにか海よりも、愚かな人間達のつくりだすはかないもののほうが愛しくなってしまったのかも。」 というメッセージをある人にもらって、でも、そうよね、声を失ったって陸には紙とペンがあるのだわ、と思った。港町には、象がいて、人もいて、歌があって、言葉と絵と音があった。世界が一気に美しく見えて、見ること感じることに執着を覚え始めるこの体験こそが恋だ。恋を続けなければ、私は生きられない。生きられない。

2013年12月1日日曜日

もしも明日が

MN嬢は「人間なんて変わるわけないじゃない、安心しなよ」と笑って、じゃあ会うのを楽しみにしてるね、と言って電話を切った。確かにそうだ。何度考えても、自分の中のゆがみが今後の人生で矯正される気がしない。ある時期が来たら、その道筋にしたがって、そうするしかない、という覚悟を決めることになるのではないかと思う。今固めているのは、そのための事前の覚悟のような、気がしている。

実家の庭の向こうに見える桐の実は赤い。私の顔色は青白くて、死んだ魚の腹のようだ。

飲み屋で、おでんは売り切れていた。思ってもいないことを言われたり、本当に思っていることを言ったりしながら私はかじりかけのカキフライを見て、カキは一口でたべるべき、という持論について考えていた。そのあと、自己認識より身体が強いと言われるのだ、という人に対して、私は自己認識よりメンタルがきっと頑健なのだわ、と思った。

夜中、人が小声で歌っているのに耳をすます。晴れでも雨でも、私の考えていることはひとつだ。もうだめかもと思ったって、本当に終わるときまで終わりじゃないし、いくら生きたところであなたの人生を狂わす人間の希少価値は変わらない。

2013年11月27日水曜日

今日は寝ない日

君は簡単にショックを受けすぎだよね、と、港町のカフェで言われた。そう振る舞っているつもりがないことほど本当の自分を映していることは分かっているので、恐らくそうなのだろう。自分で自覚している自分のことは、半分くらいしか信じないのがよろしい。しかし、ショックを受けながらもどうやって書くか、誰に話すか、どう描写するかを同時に考えることが、私にとっての緩衝剤になっている。私の行動に対してどうももの言いたげなので「未練がましいかな」と聞いてみると「いや、まあ何だろうね」と言葉を濁してどこかへ行ってしまった。

蜜柑をむいて食べながら、床に仰向けになって転がって、今自分が死体だったらどうかな、と考えたけれど、死んでいないので死体ではなかった。人が蜜柑を一生懸命むいてぱっぱと口に入れる姿は、小動物のようなスピード感を持っているので、どちらにしても人間ではない。

自転車で街の肌をなぞる、というモチーフが最近見た演劇に出てきて、それについてはきちんと書いている途中なのだけど、自転車に乗ると、急に街と街の断片がつながる瞬間があって、身のすくむような思いがする。街を知っていって、その肌に自分がなじんでしまう恐ろしさとかなしさを、このごろ痛感している。

母が、柿と何かでミックスジュースを作るとおいしい、と言っていたので何だったかなと思って聞いてみると、バナナと牛乳だった。まじかよ、また適当なこと言ってんじゃないの、と思ってやってみたら、たいへんおいしかった。

2013年11月24日日曜日

冬の気配

11月だから今はまだ秋なのよ、という暦主義の私の発言を受けて、もう寒いから冬だと思ってた、と気温主義の男が言った。同じ寒さなら、あたためてもらいたいと思うよりも、あたためてあげたいと思うほうが好きだ。甘えたいと思うより、甘やかしているときが幸せなのと似ている。その考えは私の傷つきやすさと表裏一体だけれども、気づいている人がいるかは知らない。

亡くなった大伯父の本棚を、老人ホームまで引き取りに行った。吉祥寺からの市内循環バスに乗ることももうないだろう。もらった本棚は大きく、いくらでも本が収納できた。マニキュアがはげ、爪がわれ、指先の水分が失われるまで、その日は紙の束を片付け続けた。

フェイシャルのマッサージをまた受けにいった。女は私の顔だけでなく、背中や鎖骨のあたりを触っていくつかコメントしたのちにふと「お母さまもこういう肌理をしているのですか」と言った。えっ、まあ私と同じ年齢のときにどうだったかは知りませんが、顔かたちやしぐさは似ているからどうかしら、と思って、一瞬戸惑ったのち「たぶん」という妙な答えをしてしまった。今回、身体の緊張は少しほぐれていて、少しだけれどベッドでねむった。

夜は近くの喫茶店に行った。とある人がその店にいることを私は知っていて、なので混んだ店に入ってその人の隣に案内されたときにも自然に「こんにちは」と言うことができた。彼はめがねをかけなおして、少し面くらったように私のことを見た。私も前髪をちゃんとかきあげて向き直った。本と音楽とお酒を深く愛する顔をしている人だ、というのがわかった。その喫茶店はテーブルでノートパソコンを広げるような風情の場所ではないので、私は帳面をひらいてシャープペンシルで、最近観た演劇について書いていった。その人も、小さな電子画面にずっと何かを書きつけていた。いくらか話もして、結局閉店まで一緒にいたけれど、この街は坂がなくてどこまでも見渡せるから、彼にもいつかまた会えると思う。

2013年11月23日土曜日

天鵞絨の声

寝付けなくもあり、早朝に目が覚めることもある。そういうときは少し起きて身体を洗ったり、簡単な掃除をしてからまたねむってみる。家からは、出ない。 

毎夜本棚を整理する。曾祖母や祖母、大伯父の俳句や短歌の草稿がたくさん出てくる。文学については血脈に伝播してにじむまで時間がかかるので、親子の作家というのはいても、それは書く習慣が遺伝しただけで、作家性を素直に認めたり、受け継いだりしていくのは、隔世であることが多い気がする。

知り合いが、小学六年生に言葉についてのワークショップをしたという話を聞いて、思い出したことがある。私が小学生のころ、あれはたぶん、当時の担任が知り合いか何かで呼んできたんだと思うけど(変わり者で有名な教師だったし)たしかどこかの記者か編集者が授業をしにきたのだった。新聞の読み方とか、文章の書き方について、国語の先生とは全然違うへんなことをいっぱいしゃべっていた。当時の私は、家族以外の大人と言えば習字教室の師匠くらいしか話したことがなかったのでよく覚えている。子どもにとっては、学校と家庭が世界の全てで、それ以外の全体は、何となくまとめて生活の背景みたいなものだ。その記者は、授業が終わったあとも教室に残っていて、何人かの児童から話しかけられていた。私は大人が珍しかったし、やや自意識過剰で構ってほしかったので、その輪に寄ってゆき、ボウリングのこつを教えてほしい、と言ってみたのだった。授業の中で彼が、ボウリングが趣味です、と言ったせいだったように記憶しているが、あとから捏造した記憶かもしれないし、今考えても何の脈絡もなくてよくわからない。それくらいの年の頃に、友だちとボウリングに行った覚えがあるので、その直前で何か心配があったのかもしれない。ともかく彼は数秒考えて「ぶれないことかな」と言ってくれた。その人の声はベルベットみたいな手触りで、うつくしい茶色だった。 

ぶれない、って何を、と思ったが聞けなかった。礼を言って、担任とその記者が一緒に教室を出て行くのを見送った。ぶれないこと?身体の芯を、なのか、ボールを持った手を、なのかは分からないがその言葉はその後しばらく不思議な吸引力で私を支配した。でも私は不器用で、身体の使い方もうまくなかったので、へたに固定すると、全体が凝りかたまってうまく動けなくなった。大人の言葉は、時に言った本人が思った以上に、忠実に子どもを従わせる。しかしまあ、おかげさまかは知らないが、今に至るまでぶれずに育ててこられたものも多くある。私はあのとき子どもで、「横顔がとても素敵」なんて男の人に対して思ったりはしなかったし、たとえば彼が、大人になった私がそう思うくらいの人であったならばロマンティックな話だが、彼の顔はとっくに忘れてしまった。

しかし、どうもほんの少し、生まれ間違った気がしてならない。いつも戻れないほど遠くまで来てしまうくせに、慕情の強さは人一倍だ。酒のしずくは甘いし、涙は苦い。毎日毎日、嘘をひとつ混ぜて日記をつけなくては生きてゆけない。

2013年11月20日水曜日

大切な嘘

「だって大切なことは何でも面倒なのよ。宮崎駿がそう言ってたわ」と母が言うので「それはアニメーション映画を手描きでつくるのが面倒っていう意味でしょう。私が言っている面倒さは、もっと何て言うか、抽象的なことなの」 と反論した。そのあと母は私がたべたお茶碗を見て「北国育ちの子ってお米をきれいにたべるって言うわよね」と言った。「お米の大切さを小さいときから教えられてるから」とすましているが「その話、今作ったでしょう」と聞くとすぐに「うん」と答える。こじつけと作り話の習慣は遺伝するのでやめてほしい。

四ッ谷に行って、坂道を下ったり神社にお参りしたあとで、ベルモントという食堂に行った。学生のころ、演劇サークルのミーティングでよく通った定食屋だ。昼下がりのお店には、おじいさんがひとりだけ窓際に座っていて、私も8年ぶりにテーブルに座った。おばちゃんがいなくなっていて、息子っぽい人が調理場にいた。最初にお豆腐が出てくることと、みそ汁のわかめが多すぎること、からあげの味は昔と同じだった。ここにひとりで来たのは初めてだな、と思った。

本当に久しぶりに、日中、前後不覚にねむくなった。電車の中で今にも倒れるかと思い、まあ、座っていたので倒れるのはまぬかれたものの、いったいいくつ乗り過ごしたのかわからないほど遠くの、青い電波塔のふもとまで行ってしまった。うなだれてねむっていたので首筋はすっかり凝り固まり、頭痛がひどかった。涙も出ないまま、反対側の電車に一生懸命乗って、病院をめざした。もらった処方箋は面倒なのでまだ薬局に持っていっていない。これが大切なことだなんて、今はとても思えない。

2013年11月18日月曜日

理解と寂しさ

老人ホームまで、大伯父の部屋の整理に行った。母の従姉とその夫君が先に来ていて、書棚やCDラックを片付けていたので、私も参加した。段ボール箱に古い本とCD(ショスターコーヴィチ、バッハ、ヘンデルが主)を詰めて、譲ってもらった。ほしかったけど言い出せずに念じていたら、大きな書棚本体も譲り受けることができることになった。

返送しなければならない書類があったが、極限まで放置したあげく、ついに極限を越えたので、夜中に速達を準備する羽目になった。電車で新宿の郵便局まで行こうと思っていたが、近所の道をふらふら歩いているうちに、なぜか青梅街道まで歩いて行くのもいいな、という気を起こしてしまい、霜月も半ばの寒い夜ということも忘れ、片道20分弱を歩くことにしてしまった。愛する町を足で愛でるキャンペーンの一環として、ひとけのない道を一生懸命歩いた。善福寺川の中には緑の草がはえていて、たぶん、セキショウモという草だと思うが、あまりに多くしげりすぎているように思うので好きではない。郵便局に行ってから、青梅街道の上の歩道橋にのぼってしばらく爆走する車を見ていた。このまま道路に落ちる想像を何度もしたが、私が落ちる日は今のところはやってこないはずである。帰り道、歩くのが嫌になったのでタクシーを拾ってやる、と思ったが流しの車がまったくやってこず、結局歩いて帰った。途中、MN嬢に電話したら彼女は何とパリにいて(この前、ハワイにいたばかりではなかったか?)電波が悪かったのでおしゃべりはあきらめた。他にこころよく電話に出てくれそうな友達も思いつかなかったので、今日はひとりで歩く日なのだ、と思い定めて家を目指した。

夜道を歩きながら今日一日のことを思い返していたら、しばらく封印していた「寂しい」という気持ちがお湯のように涌き上って流れ出して大変だった。今日会えた何人かの人。会えたけれどすぐ別れた人。会ってしばらく一緒に居た人。でも皆、結局離れてしまう人。普通に、事故もなく生きると仮定すれば一応まだ結構人生は残っているはずで、これだけ生きた成果としては、大人になったら寂しくなくなると思っていたことは、大人になっても寂しいということが分かっただけにすぎない。

理解者を得るということが人生においてどれほど起こりがたい出来事であるかは、ちょっと考えれば分かる。顔をあわせるだけの人、訪ねてきてくれる人、好きだと言ってくれる人はいても、理解してくれる人、というのはつくづく得がたい。 会話をする人に恵まれていたり、いつもそばに誰かがいるからあの人は寂しくないだろう、などと考えるほど、この日記を読むあなたは愚かではないはずだ。

2013年11月15日金曜日

プライベート・スカイラインⅢ

大伯父に昔もらった手紙が見当たらなくなってしまい、かれこれ数年探していたのだが、本棚の奥にそれを挟んだ雑誌を見つけた次の日、彼が亡くなったという知らせを受けた。私はそのとき劇場のロビーにいて、これからレバノンの作家の演劇作品を観るところだった。開演前の暗闇の中で少し泣いて、気持ちを切り替えた。

終演後、劇場の地下階でグレン・グールドのゴルトベルク変奏曲を聞いていたら1時間くらい経ってしまって、そのあいだにいくらか涙も出たようだった。帰ろうと思って腑抜けのように歩いていたところ、知り合いが誘ってくれたので明るい酒席に少し顔を出すことにして、死者について考えながら、生き続けて作品を作っている何人かの人たちに元気づけてもらった。

本棚の奥から見つけた手紙については、近いうちにこの場で引用しようかと思う。

今日は、通夜に行った。彼は入院した日に「こんな顔であなたに会いたくないから」と言って、ホームに戻ったら会う、という約束をしていたのにそれはかなわなかった。棺の窓から顔を見て、その寝顔はとてもきれいで、私に顔を見られるのは不本意だったかもしれないけど、置いていかれるのは私の方なんだから私の心残りがないようにさせて下さいね、と心の中で話しかけた。大伯父の息子たちが入れ替わり立ち替わり現れて、大伯父が家族に私のことをどう話していたか聞かせてくれた。母の従姉が「今までありがとう。まきこさんの顔を見たら急に悲しくなってしまったわ」と言うので、一緒に泣いた。私しか知らなかった彼の顔が、もう誰にも知られることがないことに泣けた。

2013年11月14日木曜日

彼女たちの履歴

本棚を片付けていたところに、母がやってきた。私がせっせと作業している横で、手伝うこともせず急に、高校生だったころに、深沢七郎が曳舟にひらいた太鼓焼き屋に行った話を始めた。あまりに突飛な話なので信じがたいと思ったが、そこの包み紙は横尾忠則が描いていた、というので、どんなの?と聞いたら「何かすごい原色のやつ」というざっくりした、しかし横尾忠則の本質を突いた答えが返ってきたので、どうやら本当らしいと思った。「お嫁に行くまではその包み紙を持っていたんだけど」と彼女は言った。それから彼女は、「話の特集」という雑誌が好きだったこととか、そこの編集長だった矢崎泰久という男のこととか、彼女が彼を直接知っていたかどうかはその話しぶりからはわからなかったが、ともかく私の片付けのリズムにあわせた雑談を繰り広げつつ、紅茶を飲んでいた。そうして唐突に「あっ、シモーヌ・ヴェイユ」と声をあげたかと思うと本棚から『重力と恩寵』を抜き出し「懐かしい、読んでいい?」と言って、何が懐かしいのか説明もせず、持って行ってしまった。

このごろ、一族の女たちが妙な一面を私に見せる。人生の岐路を迎える年齢になった私を、新しく迎え入れた仲間として、打ち明け話でもするかのようだ。結婚前の大失恋の話とか、大きな借金をいかにして返したかとか、そういうのを次々聞かされていると、今の自分の年齢だってずいぶん生きたように錯覚しているけれど、まだまだいろんなことが降り掛かるに違いない、と思って茫洋とした気分になる。

父の妹に電話をした。あまりにメールを返さない不義理を働いていても、心が痛むし、こじれてよくない。彼女はだいたいいつもそうであるとおり、だいぶ陰気に酔っているようで、彼女の夫が飛び降りたときに私がどのように励ましたか、それがどれくらい支えになったか話してくれた。そのあと私の子供のころの話をして、私も娘がほしかったの、と湿った声で言った。

本棚を片付けていると、学生時代に買ったり読んだりしていた雑誌や演劇のチラシ、パンフレットが大量に発掘される。その中の1ページに、見知った人の名前を見つけてはっとした。もちろん当時の私とその人は知り合いでも何でもないのだけれど、しかし8年もの間、私の部屋の片隅にその人の痕跡が記された紙が眠り続けていたというのは不思議なことだ。人と人が出会うということは、顔をあわせ、言葉を交わすことだけではないと知ってはいたけれど、しかし何にせよどちらかがどちらかを認識するところからが、出会いの始まりだと思っていた。「もしかしたら、あのとき同じ場所にいたかもね」みたいなことは、ロマンチックではあるが、ただのすれ違いであって出会いではない。だが(気づくにせよ気づかないにせよ)その人物の確たる痕跡が私の人生に掠っていたということは、物理的な実感を伴うもので、こういう「出会い」について考えることは、私が演出家だったら作品につながったかもしれないが、私は演出家ではないので、このように日記にしたためて終わることにする。

2013年11月12日火曜日

教育

少し前、飲みながら、隣の女の子が別テーブルの人々のやり取りを聞いていて「なんか童貞っぽい」と言ってきたので「童貞っぽいんじゃなくて、年上の女に教育された感じが無いのよ」と答えたら、彼女は膝を打って喜んでくれた。役に立ててよかった。

環境について、このごろよく考える。「こういう環境で育ちました」とか「こういう人たちと関わりながら生きています」ということが、その人自身に影響していないわけがない。いくら抵抗しようとも、逃れられないものはあって、その受け入れ方が最近の私のテーマだ。大人になってから自分の意志でおこなった選択に意味が無くなるほどに無自覚に飲まれるわけにはいかないが、無碍に切り捨てることもできないものの中にその人がいるだろうし、そういう諦めと抵抗のアンビバレンスにとても興味がある。

正直、他人が引くほど気分と体調にむらがあって、まずい。20時間ほとんど寝たきりだったり、カーテンもまったく開けず、お湯をわかしてお茶だけ飲む生活だったり、パンを一口だけたべて捨てたり、掛かってきた電話にも半分怒りながら対応したりするので、前まで普通にできていたことがちっともこなせない。会社から来た封筒も、一週間開けないで放置しているし、どうして開けられないのか、開けたくないのかも自分で分からない。困るのは、まわりにも私が「もともとそういうところのある人」と思われていることだが、心配されたいのかされたくないのかもわからないし、されたところで「心配しないで」などと怒ってしまうだろうから、一体何なんだろうと思う。

好きでもない男が自分の認識できるほどの近くに寝ている、という状態が大嫌いで、夜中のファミレスでいびきをかいて寝ているひとがいるので、ものすごく帰宅したい。私のそばで寝ないでほしいし、寝るなら呼吸器からの音はさせないでほしい。

とりあえず三十二歳までは、途中で死ななければ生きると決めた。それまで、今好きな人たちのことを好きでいたいと切に思うし、自分も好きなことができていればもっといいけれど、好きな人たちが生きていてくれるだけで、今はいいな、と思う。フランス語は勉強したことがないけれど、フランス語の「すごく愛している」という言葉は、逆に軽い意味になると聞いた。辞書に使用例として「彼のこと愛してるの?」「すごく愛してるわ(=好きって程度だけど)」というのが載っているらしくて、べつにその精神性に共感はしないが、心の片隅に置いてもいいとは思う。

2013年11月11日月曜日

口の使い方

家にあるたべものがアイスクリームだけ、という状態が続いて長い。今日は、サーティワンのバナナアンドストロベリーを消費した。何でアイスクリームをたべているのか自分でも全然わからない、と思いながら惰性でスプーンを口に入れていたら、指がべとべとになった。たべものと言えば最近印象的だったのが、屋台で何かを買うのが苦手になっていたことだ。どうも「焼きそばください」などと言おうとするときに「1パックを、同じモチベーションで全部たべきれるのか?」という不安が先に立って動きがフリーズしてしまう。飲みものは買えるので、先日も池袋西口公園でチャイだけ買った。焼き鳥を買った人に焼き鳥を恵んでもらって、それはうれしかったので、1串ぶんくらいのたべものにしか興味が持続しないことがわかった。私はたとえば回転寿司などでも声が出せないときがあって、隣のひとに「鯵がたべたい」などと耳打ちして頼んでもらったりするが、このときの心の動きと、屋台でたべものが買えないことと関係あるのかはよくわからない。(本当はわかっているが、説明しない)

生理が来ても来なくても、考える深度は変わらない。子ども、できたかな、とか、できなかったな、といつも思っている。不安になることはない。さびしいときは、ある。

今日は何人かの人に向けて何度かメッセージを書きかけてやめた。内容はそれぞれだが、一通も送らなかった。受信したものにはきちんと返答したので、受動的に人とつながっていれば、まあ良し、ということにした。途中で、今日はまったく人と喋っていないことに気がついたので、夜も遅くなってから珈琲屋さんに行き「ココア下さい」と言ったら、声が少しかすれていた。

2013年11月10日日曜日

星の兆し


占星術師に呼ばれたので、会いに行った。「あなたがどうしてるかなと急に思って」と彼女は言った。そのあと誕生日から星を三つ導き出して、淡々と私の性質について語った。これまで多くの人に言われてきたことがほとんどだったが、新しいこともいくつか言われて、性格というのが時間を幾重にも上塗りしてできていくのがわかった。最後に彼女は骰子を振って、未来を少し見てくれた。

昨夜は池袋に行って、フェスティバル・トーキョーのオープニングを楽しんだ。たくさんの人に会えるというのは、やっぱり幸せだと思う。その人たちが自分を覚えていてくれるのは贅沢なことだ。お天気ひとつでお祭り気分はだいぶ減じてしまうけれども、くもりの寒い日も、11月らしくて陰気で私は大好き。

夜になって、どうしても食事をしないと、と思ったのでおかずとごはんとお味噌汁とつけものと野菜が一緒に出てくるものを頼んだ。たべ始める段階になって、何から手をつけるか、そもそもたべるために何から作業すればいいかわからなくなってしまい、とりあえず箸を持つ、ということはわかったが、何をどういう順番で、どのくらいの分量を口に入れるのか、という概念がしばらくわからなくなって参った。占星術師には、今日のあなたは顔がしろすぎるわ、と言われたし、それは初めて電車の中で席を譲ってもらったこと(そして驚いて断ってしまった)と無関係ではないだろう。あまりに青白い顔でよろよろしていたので妊婦などに間違われたのかもしれない。順番がわからなくなりながら、口に押し込んだ揚げものの衣で上あごがむけてしまった。弱った粘膜を舌で触りながら、舌の裏に今もある口内炎のことを同時に考えていた。

2013年11月8日金曜日

青い鳥と白い服

母が「幸せは青い鳥」というポエティックな趣旨のメールをよこしてきた。趣旨はともかく、メールの結びが「伝えたいことは伝える主義だから。今日事故に遭って伝えられなくなるかもしれないしね!」となっていて、そういう刹那的なメンタリティが遺伝だということに愕然とした。そういえば私は子どものころ母から「ちゃんと”行ってきます”を言いなさい。帰ってくる前に死んだらどうするの」とよく言われていた。遺伝と言うよりは、教育の賜物かもしれない。

文房具屋さんが好きで好きで、文房具屋さんの店員になりたい、と今書きながら思った。もしくは紅茶屋さん。それはともかく、こんなときは文房具屋さんに行くしかない、と思って近所まで歩いていった。そこはすばらしい文房具屋さんで、お姉さんが個人で仕入れていると思われる品物たちを心行くまでながめ、馬の絵のスタンプと、紙細工のクリスマスカードを1枚買った。お姉さんは、私の着ていたドレステリアの白いパーカと同じものを持っているらしく「それ、あたたかいですよね」と言ってくれた。

そこから気の迷いで電車に乗り、大きな量販店に行ってみたけれど、文房具が大量にあるにも拘らずそれらがまったく魅力的でなかったので、行って損した。私の疲れのバロメータは「えびが虫に見えてたべられなくなるかどうか」という他人には分かりづらいもので、今はもちろんたべられない時期なのだが、クリスマスコーナーに飾られていた松ぼっくりが、これまた巨大な虫(たぶん三葉虫的な)に見えて、もうここには少しもいられない、と思った。回転寿司屋の前を通って、えびのレプリカを見て嘔吐しそうになったので、駅前でコーヒーを飲んでから最寄り駅まで帰った。

そもそも今日は、何かをたべることについて、感覚と実際の身体が切断されてしまったようだった。たべたらおいしかろう、ということはわかるが、自分がそれを口に入れるイメージまでたどり着かず、霞がかっている感じ。作業をしようと思って駅前のファミレスに寄ってメニューを見ながら、でも何もたべたくなくて、つけあわせのコーンの黄色いつぶつぶ、これはたべものなのだろうか?たべるのが恐ろしく面倒そうだけども?、ということばかり考えて、10分ほど過ごした。それだけ悩んだにも拘らず、食事が運ばれてきたとたんにお味噌汁をすべてぶちまけてしまい、隣の席の人にまで迷惑をかけた。女がひとりでお味噌汁をぶちまけて、ボタンで店員さんを呼んだにも拘らずあまりのことに戸惑って自分で状況を説明できない場面には、かなしいものがあった。私の太ももにかかった熱いお味噌汁が服に染みていき「大丈夫ですか」と聞かれたけれど「大丈夫です」と反射的に答えた。

さっきえびの話をしたけれど、ついでに言うと、そういう気分のときは、かぼちゃ、さつまいも、じゃがいもなど、ほくほくした野菜も全く咀嚼できなくてたべられない。もともと好きじゃないのだが、それが鮮烈に顕在化してしまうのは何かの発作みたいなもので、生理が来たら治るようなものであればいいと思うけど、どっちにしても生理は周期的に来るのだから絶望は止まない。夕方お姉さんが褒めてくれた白いパーカにもお味噌汁が飛んでしまったので、今は、帰ったらすぐ洗濯しないと、と考えている。なんて書いたそばから、今度はドリンクバーのカウンタで腰骨を強打して、お味噌汁でのやけどはまぬかれたとしても痣くらいはできているかもしれず、とにかく今日は距離感を身体ではかれない日だった、ということだ。

2013年11月7日木曜日

追悼ノスタルジア

初台まで行くにあたり、新宿西口を出て、高層ビル群の横を歩いて歩いて山手通りを越えて、清水橋から中野区のほうを回った。そこはかつて通いつめた道で、通うのをやめてからは一度も歩いたことがなくて、でも今日はここを歩く、と決めて家を出たのだ。坂の下にあった大きなマクドナルドが建て替わっていたり、スーパーが「まいばすけっと」に乗っ取られていたりしたけれど、クリーニング屋やスナックの看板、中華料理屋の入り口とかその並びの郵便局なんかは全然変わっていなかった。 前を通って、久しぶりなのに私はその光景にもう飽きた、と感じて、そのことに安心した。

細い道に折れて入る。ここは、遊園地再生事業団が9月に上演した『夏の終わりの妹』の舞台だった「汝滑町」とされるあたりだ。中野区と新宿区の間の、渋谷区。後ろから走り抜けてくる自転車にひやひやしながら、あのときこの道を歩いてた自分がいったい誰だったのか今は全然わからなくなっている。でも、その頃より今はずっと、なりたかった自分に近いところにいる気がしていて、このままもっと続けていって、いつかなりたかった自分になれるんだとしたらあと何年ぐらいかかるのかな、と考えながら、そのためなら何をしてもいい、と思った。

私は結局、本当にはひとりのことしか考えられないと思っているけれど、端から見たらそうじゃないのかもしれないし、そんなことには何の意味もないのは分かっている。でも、意味のためにやっているわけじゃないし、あなただってそれはそうだろう。私の自己中心的な部分が相手の気に障ったり、愛が薄いとなじられたことも、そこそこ長い人生の間にはあったように思うけど、そういうときは、お互いが望むようにお互いを愛せなかっただけなんだと思う。基本的に、自分が誰かを好きなことは少しはわかるけれど、人が自分を好きになることがあるのはあんまりわからない。自分だけが執着しないように気をつけていても、そう思ったときには逃れられないところまで来ているものだし、わざわざ気をつけなければいけないほど溺れるたちであるほうが豊かだとさえ思っている。くるしい、と嗚咽していても、この気持ちを知らずに死ななくてよかったと思うし、このまま居なくなりたい、と漠然と思いながら、でも生きてないとこれから先何にも無くなっちゃうからな、と考えている。

2013年11月6日水曜日

眠れる魔女

朝から電話が多くて、でも薬のせいで頭が朦朧としていて、何を言われたのかわからないまま応答して結局あとで掛け直したりした。掛け直したところで苛立っただけで、今日は実のあることは何一つできなかった。部屋の隅でマリアージュ・フレールの紅茶を飲みながら、何かを書くときに「数個の星から双子座を見出してしまう精神性」がにじみ出ていると人から言われたのを、一生懸命思い出したりしていた。

着るものについて、自分で決めたルールがたくさんある。「ピンクと緑は合わせて着ない」「オレンジのトップスは着ない」「黄色は似合わないから着ない」「ウェッジソールの靴は履かない」「オープントウのパンプスもできれば避ける」「レギンスとスカートを重ねない」(というかレギンスは絶対買わない) というように、気づけば禁止事項ばかりなのが性格を表しているし、バリエーションの少なさを露呈している。だいたい服はほとんど無地だし、ストッキングも黒いし、灰色もむらさきも紺も好きで、これでは魔女と呼ばれても仕方ない。

2013年11月5日火曜日

あなたについて思うこと

基本的に従順だが、それは私が相手を敬っているというしるしである。そうでない場合は、無気力、と呼ぶ状態で、その見極めは傍目にはむずかしいかもしれないが、相対している人にはきっとわかる。ちゃんと敬う気持ちを持っている人にしか許さないことが、私にはとても多い。

最近、魔女みたいな黒いストールをよく着ている。先日某氏に「『マクベス』っぽい」と言われて、それはつまり予言する魔女っぽいという意味で、私はマクベス夫人みたいな物語の中心にいるヒロインになることはない。この間の読書会で『桜の園』を読みながら、MN嬢はアーニャっぽいね、という話になったけれど、私はもちろん思いの叶わないワーリャだろうし、『かもめ』だったら絶対にマーシャなのだ。

かけがえのなさ

見知らぬ番号に掛け直すと母の従姉だった。私の大叔父の、娘である。
「わざわざお知らせすることでもないかな、とは思ったんですけど」
切り出された瞬間、最悪の事態を想像して頭の血管につめたい血が走った。
「父が、入院しまして」
「はい」
「すぐにどうとか、戻れないってわけではないんですけど、もしね、いない間にお電話頂いたらあれだなあと思って。病院、携帯使えないから。まあ、帰れない入院ってわけじゃなくてね。ホームより居心地がましなんじゃないかって思ったみたいで、自分から行きたいって言い出して」
「…はい」
「すみませんねえ、知らない番号からだから絶対お出にならないとは思ったんですけど」
「いえ、そんなことは、あの。どこの病院なんですか」
言いたくなさそうだったが、絶対聞き出そうという心が働いた。母の従姉は見事に、私のことを何とも思っていない人の声で、何もかもちりとりにまとめて掃きこむような、しゃべり方をした。
「でも今日入院して『病院も思ったほどでもないな』って言ってたから、すぐ戻るかもしれませんから。だから、また会うのはホームに戻ってからにして下さいな」
「…はい。あの、私いつもご挨拶もしないままですみません。なかなか面会の時間が、その、皆さんとずれてしまって」
「いいえ、私の方がね、いい加減なものですから」
ひとつひとつ水門を閉ざされていくようで、気が遠くなった。

電話をきってしばらく茫然としていたが、盛大に部屋の片付けをしてから、横浜橋の酉の市に行った。ひとりでピカチュウの人形焼きと、水餃子を買ってたべた。日ノ出町に戻って何人かで食事をして、そのあと黄金町に行った。久しぶりにたべたスパゲティナポリタンがおいしかった。生まれかわったら歌手になる、と言ったら、今からでも歌いなよ、ウクレレでよければ伴奏練習するよ、と言われた。本当はウクレレよりもアコースティックギターがよかったけれど、まあそれもいいなと思った。

「どうして嫌なの」と聞かれたけれど首をふり続け、頑として答えなかった。失うものにいちいち言及して、悲しくなりたくなかった。光が明るいほどに黒く照らされるものが私にはあって、そういう人生であることについてはだいぶ前からあきらめている、ということだけその人に伝えようと思ったが、しゃべれなかったのでだめだった。とにかく私は今、最悪に暗くて、それ以上ここに書くことは何もない。書けもしないものを私がしゃべるはずがないし、それは強固な意志の問題だ。

結局終電を逃し、タクシーを拾って、何だか回り道をしてしまってから家に帰った。重ねた毛布も、やっと季節が追いついてきたようで暖かいと感じた。雨の音で二度ほど目を覚まして、でもカーテンの外を見ることはしないで、明けた日がまた暮れるまでねむってしまった。電車の中とか喫茶店の椅子ではなく、ベッドの中で眠気がふくらむのがこんなにうれしいというのは、久しく忘れていた。昨夜から気持ちが後ろ向きすぎて、前髪でずっと顔を隠していたら、起きてからセーターを後ろ前に着てしまって滑稽だった。

2013年11月3日日曜日

交差点

何かの試練のような胃痛でずっと横になっていた。14時かと思っていた鳥公園のマチネが15時からだというのを知って、この勢いで起きよう、と思ったので、三鷹まで行った。初日と楽日に観る、ということをこのごろたまにやる。というか、9月の鳥公園もそうだった。劇場でTK女史とFC氏に会って同じ電車で帰った。中央線でいろんな話をしたが、私はそのとき対面の席で居眠りしていた男が、大学のドイツ語クラスで一緒だったカスガ君じゃないかな、と思って気になっていた。アメフト部だったカスガ君のことなんてもう7年くらい思い出したことなかったし、だいぶ若く見えるから本当に彼かは全然わからないけど、休日に練習に行く社会人スポーツマンぽい格好してるし、まあカスガ君じゃないとしても7年ぶりに彼のことを思い出したという事実は私の中に残るし、彼がこの世のどこかで元気にしているといいな、と思った。そして、鳥公園のラストシーンの会話について、考えた。 

五反田で用事をすませようかと思って現地まで行ったけど、18時からの公演が気になってしまって池袋に戻った。本当に勝手だ。でも、誰に対して勝手なのか、責任所在があいまいな事柄は勝手にするのがよい。私は広い国道とか三叉路とかが大好きで、なかでも池袋東口の五叉路はすばらしい。赤信号を待つのもいいし、青になって人々がいっせいに渡り始める瞬間もいい。それと同じくらい好きなものは、あとは、おなかすかした男の人、というのがある。

2013年11月2日土曜日

作り花

僕らは手書きの文字がもう読めなくなってしまったのですよ、と昨夜彼は言った。飲めない彼は、それでもノンアルコールを何杯か干していた。自分の考えてることを分かってもらえると思ってない人って字がきたない傾向にありますよ、数学が一番できる人の答案って読めなかったでしょ、と私は言った。そのあとは、コピー機のない時代は台本をガリ版で刷っていただろうけれど、それすらない時代は写本していったのですかね、おそらく車座で、などという想像をしあった。

寝つけなくて、身体の半分かそれ以上はずっと起きたまま、少し陽が高くなったようだった。二度、明確に目を覚まして行動したのは覚えている。しょうがないので本気で眠ろう、と思って目を閉じたら本気を出しすぎて、次に目を開けたときには、しばらく何もわからなくなっていた。あれ、私今死んでたんじゃないかな?と思って身体を起こした。危なかった。電気をつけないままの夕方の室内ほど、寂しい場所はない。

ステージで女の人のエロティックな振舞いを見る、というのは男性にとってどういう体験なんだろうと、六本木の新世界で思った。でもまあ、「見る」ことが何かを喚起する特別なものだということは、あれだけ強い視線を向けられたら想像がつく。歌を聴くとか、ステージの女を見るとかいう体験は、比較的他人と共有しやすい。でも、たとえば酒をのどに流し込むときの感触とか、それが口もとからこぼれてしまった、というようなもっと閉じた瞬間があって、それは(私にとって)見られることで知らないうちに身についてしまった媚びの毒を抜くようなことなのかもしれない。

2013年10月31日木曜日

三十二歳


家にやって来た彼女は、私のうしろから階段をのぼりながら、黒いストッキングをはいた私の足の腱の張りかたについて言及した。おみやげに、マリアージュ・フレールのÉrosというフレーバーの紅茶をもらったので、こけしやのケーキにあわせて、一緒に飲んだ。ポットの中で、ハイビスカスとモーヴの花びらが浮くのがかわいい。私の部屋は、明確な仕切りやいれものはないけれども「これは缶バッチを置くところ」「これはノートを並べるところ」というようにあなたの中で所在位置が決まっているのだね、というのが彼女の分析だった。何ごとも頭の中で完結させがち、という自分の傾向は知っていたが、部屋の全体までそうだというのは、ただの自分勝手なのかもしれない。

机上のものをだらしなくずらして、紙に文章を書きつけながら「わたし適当なのよ」と彼女に言いわけしたとき、私の頭をよぎったのは、今の口調はあまりに母に生き写し、ということで、イントネーションから声色からこんなに似た生きものが育つというのは、もはや逃れようがないのだな、とひそかに観念した。昨日は家の近所で、幼いころの私にそっくりの2歳くらいの子どもを見かけてぎょっとしたし、気分はだいぶ走馬灯である。

やまだないとの『西荻夫婦』の中で、みぃちゃんが「ねえ、60歳のわたしたちって、本当にわたしたち?」と旦那に言ってみる、というシーンがある。次のページで、漫画家の旦那は「途中で老人の自分とバトンタッチするんじゃないかな!」と言いながら元気に焼き鳥をたべていて、わたしはそこも含めて好きなんだけど、彼女は「でもそういうばかっぽい感じでも、答えてくれる人自体なかなかいないよ」と言ったので、またわたしは目がひらかれる思いがしたし、ひらかれた目からは、いつか涙が落ちるだろうとも思った。

2013年10月30日水曜日

青と深緑の幻想

呪いをとくためには自転車を買うしかない、と思ってみたが雨が降り出したので、私が生まれ変わる機会は失われた。水飴の中にいるようにあゆみが遅かったので、自転車ではなく靴を買いにいくことに決めた。新しいところにいくには靴が必要だ。でも隣駅のビルに行ってみたらマネキンが着ていたワンピースに一目惚れしてしまい、申し訳程度にフロアを一周したあとそのお店に戻った。「これ着てみていいですか」と口が勝手にしゃべったので仕方ない。私が服を試着したいと思うときは、サイズやかたちが合わないとき以外「買う」と決めているときだ。(よく吟味してあきらめることは、基本的にしない)そしてそのワンピースは、私の身体に合ってしまった。実を言うともうひとつ深緑のスカートも着てみて、そのあとはただ「お願いします」と言ってカーテンの外で待っていたお姉さんに服を渡した。カードにサインをしたあと、別の店でついでのように当初の目的である靴も買った。
夕方喫茶店に数時間いて書き物をしていたが、途中で浅いねむりにおちてしまった。喫茶店の椅子でひとりで寝るなんてまともな客のすることではないと思って、起きてすこしショックを受けた。コンタクトレンズを入れていなかったのでしばらくはずっと目がさめなかった。

2013年10月29日火曜日

二つの手

友達にはめぐまれてきた、とわたしも思う。物語の主人公になれるか、なれないか、ということで言えば、わたしはなれない方の人間、という信念のもとでこれまで生きてきたし、わたしではない誰かを主人公にするために、今夜も相変わらず「だけど」と「だが」の使い分けについて悩んでいる。友達について考えるときに、たまに思い出す文章がある。小説に共感するような読み方はもうしないが、しおりがはさんであったということはリズムが気に入ったりしたんだろう。

わたしは夜ときどきベッドの中で、友だちの中で誰のことが本当に好きだろうと考えてみることがあるけれど、答えはいつも同じだ。誰のことも好きじゃない。この人たちはみんな仮の友だちで、そのうちに本物の友だちができるんだと思っていた。でもちがう。けっきょくこの人たちが本物の友だちなのだ。わたしの友だちはみんな、自分の好きなことを仕事にしている。いちばん古い付き合いのマリリンは歌うのが好きで、名門音楽学校の事務局で働いている。もちろんそれだっていい仕事だとは思うけど、口を開いて歌うだけっていうほうがもっといい。ラララ。

好きかどうかということで言えば、これよりもっとあとの文章のほうがいい。

わたしのもう一つの欠点がそれだ。今あるもので満足できないこと。そしてそれは一番めの欠点—あせること—と手に手をとって結びついている。もしかしたら手に手をとってるんじゃなくて、同じ動物の二つの手なのかもしれない。もしかしたらその手はわたしの手なのかもしれない。わたしがその動物なのかもしれない。
(ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』 訳 : 岸本佐知子)

ひとりきりの本当の「孤独」について考えると「密室殺人」という言葉を思い出す。たしか森博嗣が書いていたのだが、「密室殺人」という言葉は正確ではなくて、というのは犯人が脱出している以上、それは密室”前”の殺人であり、 あとから密室になるからである。孤独もそうで、孤独”前”の状態がなければ、孤独にはならないだろうと思う。本当の孤独は誰かと一緒のときにやってくる、とも言うが、それだって同じことだ。

わたしは、好きな人は見えなくなるまで見送る、と自分で決めていて、その人々が改札にのみこまれてゆくとき、階段を上がってゆくとき、自転車で走り去るときなどの局面では(できるかぎり)そうしてきた。その行為と同じくらいの濃度で振り返ってこちらを見てくれる人はこれまでいなかったので、たいがいの男はわたしのその取り決めを知らない。

2013年10月28日月曜日

This Is How You Lose Her

午前中、ごく親しい友人たちと行っている読書会をした。MN嬢は、書く人と編む人の合間にいる瞬間もあるのだけれど、TA嬢の編集者的な洞察はいつもながらすばらしく、本の読み方だけでなく、この世の見方までいつも変わるような心持ちがする。今日は、ドミニカ共和国の作家であるジュノ・ディアスの本を読んだ。ドミニカ共和国や隣国プエルトリコについて知りたいと思ってインターネットを検索すると、野球のことしか出てこないので、こんなにも狭い社会に暮らしていることにうんざりした。それなら、日本に忍者がいると思われているのも仕方ない。いくら技術が進歩して飛行機が遠くまで飛ぶようになったって、人間の身体と脳みそと想像力のサイズは変わらないのだ。それを思うとときどき、茫洋とした気分になる。

気分について詳述するのが、日本人の書く文章の特徴かもしれない、というのも今日の話題だった。確かに、自分の心情に関する記述をいっさい排除してみると、新潮クレストブックスのパスティーシュみたいな感じになることがある。自分に対する頓着の仕方は文体に如実にあらわれるし、文体そのものとさえ言ってもいい。

人と親密になる、怖がらずに関係を深める、というのはどういうことだろう。どこまで行ったら、何をしたら、怖がっていないことになるのだろう。でもそういう湿っぽさで、他人の来し方を解釈するのも嫌だ。私たちはいつも、事実と身体を重ねて年を取るしかない。 それこそ、過剰に感傷的になったりせず。

ひとつき後に引っ越しを控えて、当然ながら、ものを捨てるとか段ボールにつめたりとかしなければならないのだが、身体が動かない。眠れない日記を書いてもしかたないのだが、日中もいよいよ眠くなくなってきてしまったので困った。フェイシャルマッサージを受けていても意識が覚醒しきって冴えわたっていたので、もうリラックスのやり方が身体から抜け落ちてしまったようだ。

2013年10月26日土曜日

君に届かないブルース

追いつめやすいたちである。追いつめられやすくはない、とは思う。わからない。大雨は行き過ぎた。昨晩遅くにあった地震は、長く揺れてとても怖かった。終わりの見えないものほど怖い。 今は眠れなさへのあせりがひどい。眠る努力をしていないとか、改善する気がないとか、言われてもいない言葉に先回りして傷つくことはやめたい。

「どうでもいい」という感情は結構大切だとも最近思っている。もともと、他人が私のことをいつどうでもよくなるかわからない、という強迫観念があるので、それを心底受け入れることはきっと私には難しい。でも、すがりつくのでもなく、振り払うのでもないやり方で人と接することについて、考えてみるくらいはやったほうがいい。

『ハスリン・ダン』という曲があって、もとはベッシー・スミスが1930年に歌ったとのことだが、私は浅川マキが歌っているので知った。私は、ブルースの幕切れが好きなんだろうと思う。たとえば俺の女がどれほどいいか歌っておきながら最後は「あいつは出ていった」と続いたりするし、このハスリン・ダンも死ぬ。アメリカの乾いたブルースは、バックビートの手拍子でどこにでも行ける気がする。


聞いて頂戴よ 私の彼のことを
彼は満足以上の最高のブラックマン
ハスリン・ダン 私のいい人

私のいいひとはいつもどこかの土地で
博打打って暮らしてる 最高のギャンブラー
ハスリン・ダン 私のいい人


彼は名うての博打打ち 彼のそのやり口は
正々堂々と勝負する 最高のギャンブラー
ハスリン・ダン 私のいい人

誰が何と言おうと私は彼が好きだわ
彼は最高のギャンブラー 最高のブラックマン
ハスリン・ダン 私のいい人
 

(『ハスリン・ダン』より抜粋 日本語詩:浅川マキ)

町が剥離する

「好きにすればいいんですよ、二週間海外に行って逐一ブログに上げたりしなければね。しないでしょ?」と、女が聞くので、そんなことしません、と答えた。家に閉じこもっていなくてもいい、と言ってくれてほっとした。待合室には初診の男が来ていて、事務の女の人に「前の病院でもらった薬がねえ、効いてる気がしないんですよ」と10000回くらい繰り返していた。女の人は困って「先生に言ってみてください」と丁寧に応対していた。男はしつこく「いや、あのね、効いてる気がしないもんですから」と言って、引き下がる様子がなかった。

帰りの地下鉄では本を開いたが、地下鉄の駅名のカラフルな看板の光が窓から入って、紙にちらちら映るのがうっとうしくて、まともに読めなかった。7年もこの電車に乗っているのに、こんな光が気になるのは困る。茅場町という駅が、自分の身体からとても遠いところに行ってしまって、どうやってもくっつかない。

母校の演劇部のコーチをしている同級生から、最近の高校生と教師と保護者の話をあれこれ聞いた。聞きながら私は、どうやったら母校に講演に行けるくらい偉くなれるだろう、とぼんやり考えていた。女子中学生や女子高校生に火をつけて、一生母校に出入り禁止になるような熱っぽいスピーチをしたい。シェイクスピアの喜劇戯曲から「寝る」という単語が含まれる台詞だけを丹念にカットするような学校だもの。追放されるくらい簡単なことだろうと思う。
 
これからの人生の方がずっと長いのよ、と母に諭されたけれど、3年前のことを思い出しながら、あのときから今までを100回繰り返したら300年だな、意外とすぐじゃん、と思っている。

2013年10月25日金曜日

漂流

日に日に、気力がそがれていく。ねむったところですぐさめる。実際は寝ていないので、そのまま起きていると体が疲れていくのがわかる。思いついてオムレツをたべた。鶏卵をたべたのは、いつ以来か思い出せない。よく考えると、卵を割って中身をまぜて焼いてたべたことが気持ち悪く思われたが、そう思ったのはたべ終わってからだったのでよかった。

昨日は二人で黄金町の映画館に行って、街の裏道をめぐったあと、同じ歌を鼻歌でうたいながら、中華料理屋で乾杯するという夜を過ごした。透明感のある女の子について考えたり、理想のプロポーズの話をしたり、すばらしいコンテンポラリーダンスの話をしたりした。そのあと駅までまた歩きながら、よく飲んでたべる人が好き、とか、色の白い人が好き、とか、太っていない人が好き、とか、男の人って何かをたべている最中に休んでまたたべ始めたりしない?とか、陰気に酔っぱらう人はきらい、とか、明るい酔っぱらいも人による、とかいう話をした。横断歩道を待ちながら彼女は「大人になるといちいち物事に感じ入ってしまって参るわ」と言った。別れ際に私が手をとったら「つめたい」と驚いていた。私は自分が男なら、手があたたかい女よりもつめたい女に触られたいから、これでいい。

何年たっても、どうにも、自分で当時の自分を肯定できない、わりきれない気持ちがわき上がる場所がある。顔なんてずいぶんおぼろげになった気がするけれど、あのときの気分だけがいつまでもべっとり張り付いて残っている。今の自分の背後にあの頃の自分たちが連なり、過去から伸びている時間をはっきり視覚化されて、不安になる場所。

私の場合、土地の感覚は外国語と同じで、恋人や親友がいるから必要に迫られて身につくことも多い。私が池袋の道をいつまでたっても覚えられなかったのは、池袋を拠点にして人と付き合ったことがないからだと思う。自由が丘や渋谷、恵比寿は、通りの名前など気にしたこともないほど青春の肌にしみついているし、新宿なら西へ東へ、地下道と方南通り、甲州街道を使ってどこへでもゆける。下北沢や横浜界隈だって、いい加減いくらか覚えていい頃だ。長く生きるほどに好きな人がほんの少しずつ増える、ということは、はなればなれになる人も増えるということで、いつしかその人のぬくもりを忘れて、ビルや川や電車を眺めていた自分のことばかり忘れられずに押しつぶされる、ような気がするな、と思う。本当に押しつぶされるなんていうことは、あるわけないんだけど。

2013年10月23日水曜日

マジカルミントナイト

またしても妹がやってきたので、黒い魔女みたいなストールをまいて、外に食事に出かけた。道を歩いていると、彼女は「あっ」と声をあげ、友人を呼び止めた。別の営業所で働く、会社の同期のようである。しばらく談笑した後に「姉です」と紹介され、私も頭を下げた。

食事をしながら、私って街で人に会わないんだよね、と言うと妹は「下向いて歩いてるからでしょ」と、からっと笑った。その明るい顔を見て、まったくそのとおりだと思った。そして別れ際、妹に心配ばかりかける、めんどうすぎる姉の姿を露呈してしまった。大人になればなるほど、姉妹のいちばん上がいちばん屑になるという私の考えはやはり正しい。何かに取り憑かれたように、サーティワンでアイスを6個買って帰った。ハロウィーンだか何だか知らないけど、浮かれた名前のフレーバーがたくさんあって、キャラメルリボン、という名前の味に心ときめかせた子どものころを思い出した。

2013年10月22日火曜日

微睡の弊害

夢を見て起きて、気持ち悪かったけれど、これを夜まで覚えていたらそのときは書こう、と思った。覚えていたので、書く。

お風呂に入っていたら、玄関から半透明な異界のものが侵入してきた。異界のものは私のいる浴室に外から鍵をかけた。何とか鍵をあけた私は、恐ろしさにふるえながら部屋を覗いた。そこに異界のものは既におらず、侵入者である見知らぬ男が私の下着の上下を身につけて、目を開けたまま布団に寝ていた。ああ、あれ捨てないと、と絶望した。部屋から男を排除しなければ、と思い、でもものすごく怖くて、誰か人を呼んで助けてもらったのを覚えているけれど、誰が何人くらい来てくれたのか、それは本当に味方だったのかは覚えていない。

2013年10月21日月曜日

細い傷

口内炎がふたつできた。あわないリップクリームのせいじゃないだろうか。口内炎が痛いので、ますますたべたくないけれど、おなかは少しすく。背中をさわると、みみずばれみたいな、かさぶたみたいな傷があって、合わせ鏡で見てもこんなの誰かに付けられたわけもないし、何だっけ、と思っている。

今は世の中が処女好きか変態かに二極化しているけど、それはそのほうがセックスを書くのが簡単なだけ、ってMN嬢がばっさり斬っていたことを考えている。たしかに、普通がいちばんへんに見られる時代なのかもしれない。20代くらいの男性作家でセックスをうまく描写できる人がいればおもしろいけど、私の知る限りいないし世の中にもあんまり求められていないのだろう。それは時代の要請だからしかたないが、少しつまらない。だからみんないつまでも村上春樹のセックスについて文句言ったりするしかないのかもしれない。女は他人の肌を通して自分を知ることが男より多い、と以前ここで書いたことがあるけれど、私は、最中に私を気にしてくれたり知ろうとしてくれるより、ただ自分が欲情している状態に対して忠実に動く人が好き。そういう人が独りよがりにならないのを、うまい、とか、いとしい、と思う。こういうことを書くのも、もしかしたらへんなのかもしれないけど自分ではどうとも思わないので友達とは話が合わない。

病気なんだから家から出ないほうがいい、と言われて、絶望した。もう黙って船に乗るしかない、と思った。病院に行けとも言われたって、連れていってくれるわけじゃないなら何だって一緒だ。

ここ二週間くらい日記に勢いがないし、歯切れもわるくて、なやんでいる。

2013年10月20日日曜日

坂の上の花嫁

本を読みながら喫茶店で眠くなってしまって、あ、自分の家で眠れないっていうことか、とやっと気がついた。これを逃したらもうだめかもしれない、と思って、少し眠ることに決めた。次に目を開けたときは、すっかり夜になっていて雨が降り出していた。私、他にはどこでだったら眠れたっけ、もう全然だめだな、ということを考えているうちに帰るのが面倒になりかけたけれど、遅くなってもいいことはひとつもない、という一点だけを考え、集中して帰宅した。帰りにチョコレートケーキを買ったけれど、三分の一たべたところで気持ちわるくなってしまって冷蔵庫に入れた。おいしかったから明日たべる。ほうれん草は、今日も茹でられないまま終わった。家で食事もあまりしなくなってしまって、少し体重が減っている。身体をさわると、今までさわれなかった骨に当たる。

昼間に日ノ出町の急な坂スタジオで体験した『つれなくも秋の風』という演劇作品は本当にすばらしくて、そのすばらしさというのは、自分の目に映る景色を自分で再構成できる助けになるものが、きちんと自分の内面から湧いてくる、というものだった。演じることと信じることは似ている。 いささか古めかしい結婚観ではあったけれど、祝祭というのは、繰り返しの伝統の側面を持つから。でも、夜中に作品のことを思い出して泣いてるなんて、どういうことだろう。そして、この作品についてだったら、新しい書き方ができるかもしれないと思って、考えるのを止められなくなっている。
 
今は、あの子が送ってくれた遠い場所の写真を見ながら、行ったことがなくても郷愁を感じることってそういえばあるな、と思っている。

2013年10月19日土曜日

氷菓子

先週だか先々週だか、気がふれたようにアイスを買い込んだのを思い出して、冷凍庫を開けた。苺味の氷菓子はもう手で持つのも冷たすぎたので、しばらく台所に置いておいたら忘れてしまって(正確には、しばらくして思い出したけど取りに行くのが面倒で)ぐにゃぐにゃに溶けてしまった。いったい、もともと何をたべたかったのかも分からなくなって、とりあえずざくざく流し込んで飲んだ。冷凍庫をアイスで占拠するくらいなら、ほうれん草を茹でて小さくわけて保存する作業をしたいのに、そういうことが今どうしてもできない。

子どものころ、大泣きで泣いていたときと、身体の構造はちっとも変わっていない。涙が息をするのに邪魔になる。何で悲しくて泣いてるのか全然わからないのに、そのうち泣きやめないことが悲しくなってきて身体全体を絞るようにしてうずくまっていたなあ、ということを思い出す。そんなときは勇気を出して、目を合わせてほしいとか、前髪をほんの少し切ってほしいとかいうことに似たお願いをしたって、息も絶え絶えに泣いているよりはましなのかもしれない。そういうお願いを心の奥からひそかに呼び出せるということが、子どもと大人の違いだと言うなら。

2013年10月18日金曜日

夜の大手町(あるいは着ぐるみの夢について)

久しぶりに会えた親友(ロンドンに5年間転勤中なので)の頭の部分は着ぐるみだった。その日はパーティか何かで、昔の同級生が例によってたくさん出て来たけれど、謎の闖入者が場をかき乱して騒乱状態になってしまってさんざんだった。そのあとエレベータで一緒になった紳士も頭の部分はなぜか犬の着ぐるみで、しかし私が降りる階のボタンを押し間違えたことは、快く許してくれた。犬の紳士は、私と妹を海沿いの水族館まで車で送ってくれて「お金は1400円でいいよ」と言った、という夢であった。

そういえば会社のひとたちにどうしても渡さないといけないものがあって、夜になってからやっとのことで東京の真ん中のほうまで行って、丸ビルで後輩のTN嬢と待ち合わせたのだった。優秀な後輩Kが私を心配してくれて、さして仲良くもないTN嬢のところに様子を聞きに来てくれたと知って、あまりに申し訳なくて顔をおおった。私はクールで他人に関心がなくて淡々と仕事をするK君が大好きで、ほとんど彼にしか話しかけられなくなっていたくらいだったので、そんな彼に心配させてしまうのが居たたまれない。でも、仕方ない、と思うより仕方ない、というマトリョーシカのような毎日だ。みんな本当は優しいということくらい、わかっている。TN嬢に、手間をかけるお詫びとお礼をしてから、反対の電車に乗った。

大げさに言えば、太陽の出ているうちは外に出たくない。今日はどうしても、行かなければならない場所があるのだが、がんばれるだろうか。数日だけでも、東京から離れた町を訪ねていけるようなことができたらきっといいだろうな、と、ベッドの中で考えているのだが。

愚かなおとめたち

「『三月の5日間』ごっこをしたい」と言っている女の子をTwitter上で見かけた。学校でやろう、というようなことを後から追記していたので、ごっこというのはつまり、だらっとした身体とか喋り方とか、そっちのことを言っていたのかな、と思って少し安心した。私は、朝方のラブホテルの明るい廊下で「今からー、三月の5日間ってゆーのをやるんですけどー」とぼそぼそ呟いて遊んだことは、ある。5日間も籠れたらおもしろいな、とは思ったけど、あのときは渋谷じゃなくて関西にいたし、渋谷だったこともあるけどおなかがすいて一緒に行ったのはカレー屋じゃなくてうどん屋だった。手を振って別れたあとに、同じ場所に戻ってみたりも、しなかった。でも、私があの芝居で一番好きだったのは、窓のない部屋で朝も昼も夜もなくなって時間がへんな歪み方をする、あの感覚を引き延ばして取り出したところ、だった気がする。

村上春樹の小説は好きだけれど、あんなに世の中の男性は一日に何度も何度も女を抱けるものなのかな、と思う。まあ、いるのは知ってるけど、どうだったかな。今のところ、いつだって自分を起点に考えるしかないので悩む。「愛のあるセックスを白日のもとにさらすことは可能か」というのは、あなたがあなたの恋慕う人とおこなう行為は必ず隔離され秘められたものであり、フィクション作品の中などで扱われるそれとは異なるという仮説にもとづいて私が考えた、インパクトだけが取り柄の一文である。つくりごとでない愛が宿った本物を、自分たちのベッドの外に引きずり出すことはできない。一般的にセックスが愛を確かめるために行われることがあるというのは知っていても、さらにそれ自体を確かめるには自分の肉体を使うしかなくて、それ以外に、検証する方法はたぶんない。どんな場合でも、真に愛しあって行為に及ぶふたりを目撃することは(なかなか)できない。たとえば恋人同士の俳優による演技などであっても、(一般的に)ふたりでおこなう行為はふたりだけでおこなわれなければ、ふたりでおこなうときの状態は失われるだろう。まあ、私だって別に仰向けで天井を見つめながらそんなことばかり考えているわけではないのだが。いや、考えているかもしれないな。

今日会った女の子は、黒目が大きくてきらきらしていて、なんて可愛いのだろう、と思うような子だった。 私は今はあんまりお化粧もできなくて、髪も無造作に梳かしつけたまま、くたびれた男の人みたいな見た目だったけれど、彼女は私と恋の話がしたいと言ってくれた。恋の話、と言ったところで、誰かが言ったように、結局は具体的な対象に向けての言葉になるに違いないのだ。恋にまつわる言葉は、そうでしかありえない。

遠い港町に旅している人からメールをもらった。彼女は昨日が誕生日だったらしく、それは私の本物の妹と同じ誕生日であったので、ついに彼女が私の妹になったのかな、と思って、これからはそういうことにしよう、と思った。

ねむれなさがいよいよ病的である。明日こそ、と思っている。それがだめなら明後日。明々後日。何もかも、奉納して埋葬するといい。

2013年10月17日木曜日

材料と演出

昨年のフェスティバル・トーキョーでF/Tアワードを受賞された、シアタースタジオ・インドネシアの演出家、ナンダン・アラデア氏が亡くなったという報せを聞いた。42歳というのは、病気で亡くなるには早すぎる年齢だ。

遠いインドネシアの、年齢も性別も異なる彼の死に私が何か共振するとしたら、それは演劇という因数であることは間違いないのだが、では、何らかの共通項がなければ、私は人の死に感じ入ることはできないのだろうか。そういう、対象との幅とリアリティの話は、つい最近も人としたばかりで、自分との幅を測れるものにだけリアリティを感じていられればいい、というのは貧困なことだと思ったのだった。そのことを考えるために、F/Tでは、シアタースタジオ・インドネシアの他には、レバノンのラビア・ムルエの作品を観ようと思う。アラデア氏が今後の世界に不在であることについて考えるのは、それからにする。

声に元気がないね、とHA嬢に言われた。三日ぶりに他人と話すために声を出したせいだと思われる。私が今一番悩んでいることも、端から見ると笑えてしまうというのは救いだ。何でそんなことで悩んでるの、という問いには、何でこのことで皆悩まずに生きていられるの、と返したが、それもだいぶ滑稽だというのはわかっている。

本棚の間を歩いていて本に呼ばれるように、演劇を観る、と彼は言った。私は、それがとてもすてきだと思って、精一杯うなずいて彼の考えに賛意を示した。あと、これはひどい話だが、童貞芝居という言葉から派生して童貞劇評という言葉を生み出した。それに関連するようなしないような話で、私はやっぱり淫靡なものに惹かれるから、そのための境界を不明瞭にするべく、心を砕き、工夫を凝らしたい。妄想させたいのであればそれが可能なだけの材料が必要で、しかしその量は最低限であるほうが望ましい。

2013年10月16日水曜日

ラネーフスカヤの煙管

母の知られざるエピソードとして、父と結婚することが決まったときに「どんな女の方が乗ったか分からないから、車は買い替えて下さいな」と言ったというのを最近聞いた。当の本人は例によって覚えていないふりをしていたが、私から見ればさもありなんというか、そういう無邪気な箱入り娘に、山から下りて来た粗野な男が夢中になったのもよくわかる。

煙草を吸う人たちと遊んだあとは、髪に残った煙をお湯で流し、シャンプーを多く手に取ってなじませる。ある人が、煙草を吸う人を評して「火の管理をしたがっている者たち」と言っていたのがとてもあざやかだったので、それ以来、灰皿に灰を落とす人を見るたび「この人は今、小さな火を手中におさめている王様(あるいは女王様)なのだ」と思うようになった。

起きたらものもらいが出来ていて、痛かった。腫れてはいないから大丈夫、と思ったが、腫れていたところで問題もない。しばらく身体と頭を休めることに専念しなければならない。これから薬を飲んでねむるから、暴風雨の音も聞こえないまま、朝が来て目ざめることになるだろう。

ねむりに落ちる前には、欲望のことを考えたりする。自分は今、体力がない、と思っているけれど、本当にないのは欲望なのかもしれない。ねむりたくもないし、おなかも少ししかすかない。まあ、好きな人とは寝たいけれど、買いたいものは特にない。余談だが、官能とは互いに想像しあうことなので、他者の欲望に冷たい人は、男も女も大概つまらない。

2013年10月15日火曜日

忘れてもいい

喫茶店で偶然人に会った。会うかもしれないと思ってはいたけれど、会うとは思っていなかった。私は街中で知り合いに偶然会うことがほとんどない人生を送っているので、びっくりしたことは確かで、正確に言うなら、びっくりしたよりも、私の生まれた星にかけられた呪縛が破られたうれしさのほうが大きい。向かいの席に座らせてもらって本を読んでいた。つい、ときどき本を後ろから読むという話をしてしまって、怪訝な顔をされた。

調子が悪くて出かけるのに難儀したけれど、どうしても郵便を出さなければいけなかったので、行こう、と決めてから四時間くらいかかって、新宿まで行った。大伯父のかわりに書いた原稿を、しめきりに間に合うように送らなければいけなかったのだ。コピーを取るのを忘れたので、一度封を開け、コンビニに寄ってから郵便局に行き直した。たとえ定められたお別れのときが明日来ても後悔しないように行動しよう、とときどき考えるけれど、それは自分のことしか考えていないってことなのだろうか。いや、でもいつだって「今」「このとき」だけを生きていていいはずがない。

そういえば部長に電話で「まだ人生長いんだから。定年までは35年あるだろ」と言われて、茫然とした。これまでの人生より長く生きる、という可能性に、思いを馳せたのは久しぶりだった。あまり先取りして憂うのも人生に失礼だと知ってはいるけれど、でも、自分には(当然ながら)これまで生きてきた道のりが重く見えるのが普通だ。そこから脱却、したい。

「忘れてもいい」と人に言うときは、私が覚えていてあげるから、という気持ちが奥にある。時間軸を引き延ばすとそれは、先にしんでも大丈夫だよ、という意味で、あなたがいなくなっても私が覚えているよ、というのは、いくつかある愛のバリエーションなのだと思う。ただし、かなり深い方の。

「透明感がある」という言葉は、素直そうな女の子に使うのがよい。かたや 「つやっぽい」というのは、ひとくせありそうな女に使うのが望ましい。素直と正直は何が違うのか、わかっていてもわかりたくない。そんなことを考えていたら、わかっているのにわからないふりをするのが一番つらいからね、とMN嬢に釘を刺されたことを思い出した。

2013年10月13日日曜日

消耗

私が返信しなかったから、父の妹が、母に「メールの返信がないのだけど」と電話をかけたらしい。これではたまらない。北の方に隠遁したい。こんなときに行きたいと思うのはやっぱり北国で、南のほうではないのだった。 一生、能動的に「九州に逃れたい」とは思わないと思う。

二週間ほど、全然人に会わない生活をしていたので、自分に、一日に人に会える許容量があるのを忘れていた。こめかみがずきずき痛む。書きたいことはあるけれど、とりあえず一度退場しないと難しそうだ。

桔梗の花の、大きな髪飾りを買ったので、今度つけて出かけたい。

2013年10月11日金曜日

判断の連続

一日、何も食べずに痛み止めを飲み続けた。水がなくたって、お茶だってコーラでだって飲む。全然平気だ。痛み止めは習慣になっているし、何しろ飲まないと痛みが止まらないのだから薬がいや、とも言ってる場合じゃない、我慢したって何にもならないという諦念がこういう行為につながっている。
 
来た道を逆にたどる、という意味をこめて、川沿いを歩いた。夕暮れの川は極端にブルージィだ。今までで一番ブルースな空気を感じたのは鶴見川だったように記憶しているが、隅田川の細い支流のことは本当に好きだし、やっぱり大岡川もすごくそそる。そうなると玉川上水は、見た目はそれらと似ていなくもないけれど、緑の深さが牧歌的な豊穣さを醸しているのでちょっと違うな、などと考えた。夕暮れの灰青の空を見ながら、アコースティックギターが弾けたらよかった。もしくは、ギタリストを従えたさすらいの歌手になれたらよかった、と思った。
 
言葉を扱って表に出すのは判断の連続、と教えられたことを思い出している。技巧的な意味でもそうだが、あらかじめ責任を持つ(何かが起きたあとに発生するのではなく)ということの方の意味を最近は強く感じている。

前者の「判断」という意味では、それこそ取捨選択の連続で、どうしても書きたくないとか書けない話はあって、たとえば試着室を出たあとに身体を眺め回されて服装に言及されたことが死ぬほど嫌だったとか(でも洋服屋では当然の行為だ)、洗面所の扉の隙間から髪を乾かす人を盗み見していたこととか(角度によっては鏡に私が映り込むはずだということも知っている)、何だか朝から脚が痛いなと思ったときのその理由とか(たいてい慣れない場所で寝たりしたせい)、忘れるには苦し過ぎたり甘過ぎたりおもしろ過ぎたりすることがいくつもある。記憶のよすがとして、表には出ないかもしれないけれど、でも、書かれなかったすべての出来事があってこその、私の考え、というものがいつか表に出ればいい。いや、本当は全部残してあるけどね。日々が過ぎゆくままに、捨てられるわけない。いやしいと言われたってかまわない。

人前で無駄に泣かないのは、たとえば抱きしめられて今にもこぼれそうだけど今は、とか思いながら涙をこらえているほうが愛が深いと信じているからかもしれなくて、それは言うまでもなく愛だけでなく業もつくづく深いからそうなるのである。今なら泣けるわ、とかいう気持ちが起こるときはあるけれど、そういうのはたいていひとりで道端を歩いているときか、キッチンでお湯をわかしているときで、ここぞというときには絶妙にすり抜けてしまうのでどうにもならない。

2013年10月10日木曜日

明滅Ⅱ

台風が来ていたらしいけど、家にこもってカーテンを閉めていたので気づかなかった。後で人に教えられて、えっ、と言ったら、何で知らないの、という顔をされた。おかげで夜は空が綺麗で、この一年の間で一番よく見える、と思いながら星を見た。オリオン座と、一番明るいのはきっとシリウス、と思った。それよりは北に、カシオペア座(たぶん)も見つけた。子どものころに、星座図鑑を読み耽っていた思い出はあるが、見つけ方や星の距離や明るさよりも、星座の神話のページばかり見ていた記憶がある。乙女座デメテル(豊穣の女神)の娘、ペルセフォネが地獄の柘榴を4粒食べたので一年のうち4か月地獄の王のもとにゆかねばならず、母が悲しんで洞穴にこもるので、そのとき人間界は冬です、というような。

星の明滅を見ていると、川上弘美の『星の光は昔の光』と言うタイトルの短編を思い出す。どれくらい昔の光が届いているのかは、星座図鑑をまじめに読んでいなかったのでわからない。

好きな川沿いと、そうでもない川沿いがあって、好きな川沿いはそれぞれどこか似ているな、と思った。河岸に木が植わっているとか、その葉のしげり方くらいなのだが。

今日は誰とも電話もしなかったし、コンビニの人を除くと、一人の他人としか会話しなかった(冒頭に登場した台風の襲来を教えてくれた人)。このまま他人と会わなくなって、冗長な会話をするのが少なくなっていく生活になったらどうしよう、とちらっと思ったが、まあそれでもいいかな、と思って終わった。そのぶん考え事をする時間は長くて、週末、母校の文化祭に行きたいと思いついた。そんな時間があるかはわからないが、どうにかして、行きたい。そう思い始めたら、ますます行きたい。

2013年10月8日火曜日

秋の妹

妹が家まで訪ねてきた。珍しいことである。私の家には人が来ない。いつも私が人の家まで行く。自分の家は物(紙と布)が多いし、狭い空間に人とどう距離を保っていいかわからないし、自分のベッドで人と寝るのが好きじゃない。寝心地はいいけど。妹は「トトロのお父さんの机みたいな部屋だね」と謎の感想を残してから、駅前のパン屋で買ったドーナツをひとつくれた。かわりに文庫本を一冊あげた。彼女はいきなり後書きから読んで「おもしろそう」と言って帰った。

「そんな根本的なこと考えてたら、病気になるよ」と言われたことを執念深く思い出している。そのときその人はメビウスと名前を変えたところのマイルドセブン(もう変わっていたっけ?)をもみ消して、カフェは4Fの喫煙フロアしか空いていなくて、私はもう窒息しそうだった。何でこんな席に座らされているんだろう、と相手を恨んだ。そのあと、いくつか大事なものの話をしたけれど「それを貫くことと引き換えにするもののことをきちんと考えていればいいよ」と確か言われて、考えているわ、引き換えにすることに、私は何のためらいもないわ、と思っていたのだった。

自分のことなら嘘もつける、という歌詞がとても好きで、何でかというと、事あるごとに「ああ、本当にそう」と思うからだ。自分のことは自分でわからないから何を言っても嘘か本当かわからないし、自分との境界がとても薄いように思われて今にも融解しそうな事柄について何か隠し立てすることに、罪悪感を覚えたことがない。

2013年10月6日日曜日

星座占い12位の日

たぶん星座占いでは確実に12位だった日なんじゃないかと思うくらい廻り合せが悪く、あらゆることがうまくはまらなかった。朝から出掛けて、その用事が少し長引いた。疲れも感じたので午後に公演を観るのはやめたが、とりあえず出かけた。ごはんを食べているとき、身体が閉じてる、と心配された。心が閉じてる、と言われるよりショックを受けて、思わず目をつぶったけれど耳が塞げなかったので意味がなかった。同時に二人の人と話すのがしばらくうまくできなくて参った。

そんなわけで、グラス半分で、自分にとって最悪な酔い方をした。ここ最近呼吸の仕方がうまくなくなるときがあって、何となくその兆候のようなものを感じて、一緒に電車に乗る人に迷惑をかけたらいけないと思い、帰りは少し遠くまで歩くことにした。この世に味方がひとりもいない、とさっき口にしたせいか、やはり兆候が現実になって歩くのも難儀していたところ、不意にやさしいメールをある人からもらって、車の行き交う大通り沿いで号泣した。Perfumeを爆音で聞いていても自分の声がイヤホン越しにわかるほどで、涙も止まらないしこれはまずい、というか明らかにおかしい、やばい人だ、と思いながらも、まあ、たまにこういう人が道にいてもいいだろう、と心のなかで言い訳しながら歩いた。こんな泣き方して歩いていたら失恋した人と思われるのではないか、と思ったが、そんな自分の発想も大概貧しい。

人前で泣かないのは私のよいところである。ただし、知らない他人は人前には含めない。

MN嬢にメールしたら、彼女は西麻布を放浪しているところだった。しかもPerfumeを聴いている、という。シンクロだね、一緒に泣きながら歩こう、と返信がきて、編みながら自分でも書くやさしいアンドロギュノスの友人に、改めて感謝した。東京に帰ろう、と思って電車に乗ったけれど、簡単には気持ちも身体も収まらず、妙な乗客であったことは間違いない。まあ、でも、たまにはこういう人が電車にいてもいい。

手紙と煙草

大叔父のかわりに、原稿用紙に文字を起こした。(前回の日記参照
それを老人ホームまで持って行き、確認してもらっていくつか表記の修正を頼まれた。最後に、私が代筆した旨を書き加えてほしい、と言ったあとに日付も入れてね、と言われた。今は何年?と聞かれたので、平成25年、と答えた。

僕は、平成は使わない主義なの。
「え?あ、なるほど」(彼はひそかに天皇制の正当性にも疑問を持っているのだ)
万国共通の西暦をね。
「はい」

私が原稿を封筒にしまうのを見てから彼は、最近寝ながら考えてるんだけどね、と話し始めた。

アドルノが、どうしてここまで突っ込んで物を考えられたのか、意地悪な見方をすれば、アウシュビッツに入れられそうな自分と世の中の情勢と、ヒトラーがあったからだと思うんだね。ヒトラーは、日本をうらやましがってたという。「天皇が言えば皆従うから」と言ったそうなんだね。まあ、そう考えてみると日本は、大化の改新からずっとアウシュビッツみたいなものだよ。7世紀の日本の戸籍制度、あれは奴隷台帳だ。だいたい「君が代」は二拍子で、田植えのかけ声のリズムと同じでねえ…お米は世界的に見てもっともおいしい穀物だと思うけど、おいしいものには労働力が入ってるんだね。あれ、君、カルピスが冷蔵庫にあるから飲んで下さいよ。サイダーもあるから、適当に割って下さい。日本みたいなねえ、自分が偉くて他人が下等だという考えのもとには、友達という考えはほとんどない。孔子の、朋あり、遠方より来る。えー…また楽しからずや、みたいな考えが、実は日本には根付いてない。

そのとき、看護師が薬を持って入って来た。大叔父は途端に不機嫌になってみせる。吐き捨てるようにしゃべりながら、うながされて薬を飲まされる。

「どうですか、今日は」
年中痛いよ。
「前の薬はどうでした」
ありゃ失敗だ。
「お昼あんまり食べられませんでした?」
食いたくなかった。
「うーん」
…でも昨日は食ったんだよ。
「昨日はスパゲッティでしたね」

看護師が出て行ってまた二人になると、ゆっくり話を再開した。私が持ってきたスイートポテトを食べたがったので、開けて渡すと、横になったままかじり始めた。

ヒトラーが総統になってすぐに、アドルノは察知して逃げたでしょう。ああいう、迫害される頭のいい連中は、逃げるから尚更知恵が回るんだろうなあ。平和なやつは、頭働かさないもんね。

話しながら、関連する本を本棚から本を取ってほしいと頼まれるので、その都度重い古書を取って手渡した。ああ、自分の本棚もいじれなくなっちゃった、と大伯父は弱音をこぼした。そして、僕がいなくなったらみんな君のものだよ、と言った。私が先月渡した分厚い本も一応全部読んだらしかった。まあ寝ながら読んだからいい加減のそしりはまぬかれない、と言って笑っていた。帰り際に、祖母の長兄(もちろん大伯父の長兄でもある) が戦地から送った手紙が、昭和24年の「群像」に掲載されたときの原稿のコピーをもらった。何年か前に、母に見せてもらったことがあるのだが、どうしても見つからなくなってしまい、持っているかどうか尋ねていたのだ。(大切な文章なので、またの機会に引用したいと思う)

本当はね、手紙は二通あったんだ。最後の5月にね「ナチスがついに崩壊した。生きているうちにこんな日が来るとは思っていなかった。自分のやっていたことは間違っていなかったんだ」っていう、手紙が来たんだけどね。まあ兄は、そこから帰ってこなかったけれども。母はねえ、そのときから煙草を始めて結局肺癌で死んだんだな。結局自分が今同じ病気っていうのも、変だなあ。

そういう大伯父の目は赤くなっていて、彼が泣いているのを見たのは、初めてだと気づいた。私の手をいつもより長くにぎって、手が温かいですね、と言うとうれしそうにして、離れると寂しそうに手を振った。

2013年10月5日土曜日

ネットの海のティンカーベル

夜、妹が会おうと言ってくれたので、新宿の喫茶店で待ち合わせをした。接待で遅くなったと言って彼女は、ばりばりの営業の空気を少しまとったまま現れた。しばらく思いつくまま話をしていて、この冬ニューヨークに行くという妹に、ポール・オースター知ってる?と聞いたら彼女は、O.ヘンリーしか知らない、と答えて、中学生のころの英語の教科書に載っていた『賢者の贈り物』について思い出話を始めた。彼女は、懐中時計を売って櫛を買った夫より、髪を売って時計の鎖を買った妻のほうが得だ、と考えていたらしい。なぜなら、時計はお金がないと取り戻せないけど、髪はまた伸びるから。

それを聞いたとき、はじめは面白かった。デラとジムという主人公の名前まで覚えているほど細かく読んでいるくせに、読みながらそんなことを考える中学生がいるんだ、と思ってびっくりした。でも、笑っていたらだんだん感情のチャンネルが重なってきてしまって、しまいには喫茶店で人目もはばからずにぼろぼろ泣いてしまった。妹は、えっ何で泣くの!泣きやんで!と言ってくれたけど、まきちゃんはあんまり損得勘定が理解できない子だからねえ、と慰めてもくれた。そういえば妹は、損得勘定が子どものころから得意であった。

あとは、いちいちペプシコーラを開けるときに大きな音を立てる男が嫌だと思っている話や、常軌を逸した音量で携帯電話を鳴らす男が嫌だ、というような話を聞いてもらった。妹は、うんうん、とうなずいて、長女だからねえ、周りの環境にすごく振り回されるんだよねえ、と言った。彼女のほうがよほどいろいろ見えているのが心底悲しく思われて、またしくしく泣いた。

野田秀樹演出で『障子の国のティンカーベル』が再演される。過去に私が観たのは、2002年の鶴田真由が主演のバージョンだ。今はなき、両国のベニサンスタジオに行ったのだった。それに連れていってくれたのは、当時の私のパトロン的な謎の紳士で、彼は今思い返しても誠に謎の紳士であった。キース・ジャレットを聴きに上野まで連れていってくれたのも彼だし、私の出演する公演があれば大輪の薔薇の花束を届けてくれたりもした。彼とは音信不通になってしまって久しいが、季節の変わり目には思い出す。

2013年10月4日金曜日

苛々する大人

とにかく人と話したくない日が続いているが、連絡がきてランチに呼ばれた。夜に食事をするよりましだと思ったのだ。でも、プロフィール写真にお子さんのものが設定されたSNSで連絡が来たので、うとましい、と思って友達登録はしなかった。こういうのを言ったり書いたりしているときは別に何とも思っていなくて、淡々と、事実とリズムが面白ければそれでいいと思っているのだが、表立った日記でそんなこと書くのはどうか、などと思う人に対しては、嘘かもしれないんだからいちいち目くじら立てないでくださいまし、と言いたい。だって、正確には友達登録したのちに思い直して削除したのである。

本当に話を聞くのがへたな男というのはいて、私の言うことに「そうだね」と言ってくれるのはいいのだが、その言い方が問題なのだ。同意してなぐさめる「そうだね」ではなく、そんなこと自分は知っているし君が言うようなことは珍しくないよ、という精神的上位思想が透ける「そうだね」だと、私は性格が悪いうえに余計なところのプライドが高いのですぐ腹を立てる。直したい。ちなみにこれも嘘だ。直したいとは思っていない。このままでいいわ! だいたい、好きでもない男だから腹が立つのであって、自分の精神状態が万全でないにもかかわらず、つまんない自分の話をしてしまう私が一番悪い。

なかなか人の目が見られなくて困る。それでも目を見て話ができる間柄の人はいて、つまりそういう人のことを私はどんなときでも信頼して好きでいるのだな、というのが自分でわかったのはよかった。そういう人はあまり数は多くないが、人間以外では、あと犬がいる。

2013年10月3日木曜日

午後の虹

夕方、虹を見た。雨もあがってだいぶ時間が経っていたのに、上空の湿り気は残っていたのだろう。思えば、虹を目にするのはいつも夕方4時ごろだ。夏の豪雨はそれくらいの時間にやってきていたし、今日のも。私は、夕暮れの東の空の寂しさには耐えられないと常々思っていて、それは寒々しい薄青がだんだん夜になっていくさまが何ともみすぼらしく見えるからで、でも太陽が西側にある以上、夕方の虹は必ず東の空に出るのだと気がついた。今日はずいぶん長く、あざやかな色が残っていて、空を指差していた子どもたちがいなくなってからも私は立ち尽くして空を見ていた。消えるまで眺めているのも未練がましいし、虹も最期を看取られるのはいやだろうと思い、背中を向けて歩き出した。それでも一度振り返ってしまったのが私の弱さだ。

今朝の夢と言ったらひどくて、起きるべき時間を寝過ごして夜になってしまって泣きそうになるとか、バレーボールをして疲弊するとかいうものだった。昔の恋人が久しぶりに夢に出て、たぶん付き合っていた当時の設定ではなくて、今の年齢で再会したとか、そういう感じだったと思うが、彼の部屋の枕元にプレゼント用に梱包されたアクセサリーがあったのを覚えている。特に何の感情もなく、へえ誰にあげるのかな、と思って見ていたら、何見てんだよ、と怒られたのでそこで萎縮して夢は終わった。今も、同じ空の下に彼が生きているのが何となく信じがたい。椿の花が落ちるように死んだ関係だったな、と思う。

22歳のころ、文芸同人で、中年以降の男女について毎回つたない掌編を書く連載をしていた。叔母、ゼミの先生、老犬。いろんな人々を主人公にした。当たり前だが、今なら全然違う人たちのことを書くだろう。そういうことを、やってみたくなり始めている。

夜遅く、大伯父から電話があった。息も絶え絶えに、身体の調子がたいへん悪いんだ、と言いながら、次いつ来てくれる、と言うので、週末に必ず行きます、と言った。字も書けなくなっているのに、こんな夜に携帯電話のボタンを押したのか、と思うだけで居ても立っても居られない。

2013年10月2日水曜日

何度買ってもなくす本

何もかもままならないので、漢方薬局に行った。怪しい風貌の薬剤師だが、信頼はできる。彼は私がぼそぼそ説明するのを聞いて言った。
「中途半端にひとりで煮詰まってるからそうなるんだよ。煮るなら煮る、焼くなら焼く。どうせ煮るなら自分が食えるような味付けにしなくっちゃ」
 それから私を立たせると、首を持ってぐっと振り回し、ばきばき音を立てて整えた。とはいえ、すぐには元気の出ないまま、処方された顆粒の薬、二袋をリュックに入れてとぼとぼ薬局を出た。一日三回、律儀に飲む。

翌日、後輩のK君が来週クロアチアに一人旅する、という話をして盛り上がっているのを隣の席で盗み聞きしていた。K君と話していた先輩たち数人が去ってから、ひとりで行くの、と聞いてみた。そこから、クロアチアの通貨(ユーロではない)やEU加盟の話を少しして、町並みがきっと綺麗だから楽しみだね、と言って話は終わった。仕事のできる後輩に懐いてしまうのをやめたいが、やめることはできない気もする。

古本屋を二件ほどうろついて、酒の肴を選ぶがごとく、文庫本を数冊ずつ拾って帰った。何度か買っているはずなのに、貸したかあげたかなくすかしてどうしてもなくなってしまう本がある。だらしないのか雲隠れなのかわからないが、私にとってそういう本のひとつ、宮沢章夫『牛の道』を買い直して少し元気を出した。

夕方、レトルトカレーのことを考えていたときに読んでいた本で、ちょうどいい箇所に当たったので、引用してみる。


 カレーを食べたい気持になるとき。
 ○カラリと晴れた日。雨の日などはならない。
 ○体力のある日。(そうはいっても、こんにゃくを食べたくなるほどの体力まではない日)
 ○強気の日。
 ○反省していない日。
 ○気分のいい日。
 ○気分のふさぐ日にも。(ふさいでもお腹は空く。これを食べて元気を出しましょうと食べる。ふさいでいる日には、悪酔するからお酒類は飲まない。このての食べものは、カレーのほかにもう一つある。鰻重)
(※中略)
 カレーが食べられなくなったときは、もうおしまいだ、きっと。ここのところ暫く、食物や水をのみ下すさいに、喉がごっくんと鳴って通りがわるく、やたらと咳ばらいばかりする、だるい、眠い、すぐにげえげえと吐きそう、------もうじき死ぬのかなと密かに心細く思っていたのだけれど、昨日の朝ごはんのときから、突然、元通りの私に戻ったのだ。
(武田百合子『日々雑記』)


これによると、今日の私はカレーを食べる日ではなさそうだったので、無花果1パックと、鶏ささみを買っておとなしく帰った。

2013年9月29日日曜日

胡桃の中の世界

その夜は、彼女も私も泣かなかった。そのかわり、日ノ出町の交差点近くのカフェでいっしょに壁にもたれてねむった。私のほうが先に起きたので、追加で温かいウーロン茶を注文したら、カフェのお兄さんに「大丈夫っすか、お疲れみたいで」と言われたけど、疲れてねむかったわけではないので「いいえ、特に」と答えた。起きた彼女と、まだ暗い道を駅まで歩いた。寒い朝だったので、毛布をかぶって寝た。

船から降りてくる人たちを待って、横浜のフィリピンフェスティバルを覗き、いっしょにビールを飲んで鶏肉の焼いたのと、ビーフシチューを食べた。友達のお母さんの得意料理だったアドボを見かけて、食べてみたいと思ったけど、明日家で作ればいいや、と思ってやめた。次の仕事があるからもう行く、と言って立ち上がり、皿とプラスチックカップを捨てにいった人の背中を見送りながら、私はふと
「ねえ、身体の線に合う服より年齢に合う服を着るほうが難しいし、人には必要なことだね」
と向かいに座っていた彼女に言ってみた。
「自分がいちばんよかった時代で止まっちゃだめってよく言うけど、服もそうだね」
と、くだらない話を続けていたら、彼女は前の日の夜と同じ遠い目をしながら、私の最近の予定の詰め方を聞いて、そんなんじゃ将来ママ友ができるか心配だよ、と言った。