母が「幸せは青い鳥」というポエティックな趣旨のメールをよこしてきた。趣旨はともかく、メールの結びが「伝えたいことは伝える主義だから。今日事故に遭って伝えられなくなるかもしれないしね!」となっていて、そういう刹那的なメンタリティが遺伝だということに愕然とした。そういえば私は子どものころ母から「ちゃんと”行ってきます”を言いなさい。帰ってくる前に死んだらどうするの」とよく言われていた。遺伝と言うよりは、教育の賜物かもしれない。
文房具屋さんが好きで好きで、文房具屋さんの店員になりたい、と今書きながら思った。もしくは紅茶屋さん。それはともかく、こんなときは文房具屋さんに行くしかない、と思って近所まで歩いていった。そこはすばらしい文房具屋さんで、お姉さんが個人で仕入れていると思われる品物たちを心行くまでながめ、馬の絵のスタンプと、紙細工のクリスマスカードを1枚買った。お姉さんは、私の着ていたドレステリアの白いパーカと同じものを持っているらしく「それ、あたたかいですよね」と言ってくれた。
そこから気の迷いで電車に乗り、大きな量販店に行ってみたけれど、文房具が大量にあるにも拘らずそれらがまったく魅力的でなかったので、行って損した。私の疲れのバロメータは「えびが虫に見えてたべられなくなるかどうか」という他人には分かりづらいもので、今はもちろんたべられない時期なのだが、クリスマスコーナーに飾られていた松ぼっくりが、これまた巨大な虫(たぶん三葉虫的な)に見えて、もうここには少しもいられない、と思った。回転寿司屋の前を通って、えびのレプリカを見て嘔吐しそうになったので、駅前でコーヒーを飲んでから最寄り駅まで帰った。
そもそも今日は、何かをたべることについて、感覚と実際の身体が切断されてしまったようだった。たべたらおいしかろう、ということはわかるが、自分がそれを口に入れるイメージまでたどり着かず、霞がかっている感じ。作業をしようと思って駅前のファミレスに寄ってメニューを見ながら、でも何もたべたくなくて、つけあわせのコーンの黄色いつぶつぶ、これはたべものなのだろうか?たべるのが恐ろしく面倒そうだけども?、ということばかり考えて、10分ほど過ごした。それだけ悩んだにも拘らず、食事が運ばれてきたとたんにお味噌汁をすべてぶちまけてしまい、隣の席の人にまで迷惑をかけた。女がひとりでお味噌汁をぶちまけて、ボタンで店員さんを呼んだにも拘らずあまりのことに戸惑って自分で状況を説明できない場面には、かなしいものがあった。私の太ももにかかった熱いお味噌汁が服に染みていき「大丈夫ですか」と聞かれたけれど「大丈夫です」と反射的に答えた。
さっきえびの話をしたけれど、ついでに言うと、そういう気分のときは、かぼちゃ、さつまいも、じゃがいもなど、ほくほくした野菜も全く咀嚼できなくてたべられない。もともと好きじゃないのだが、それが鮮烈に顕在化してしまうのは何かの発作みたいなもので、生理が来たら治るようなものであればいいと思うけど、どっちにしても生理は周期的に来るのだから絶望は止まない。夕方お姉さんが褒めてくれた白いパーカにもお味噌汁が飛んでしまったので、今は、帰ったらすぐ洗濯しないと、と考えている。なんて書いたそばから、今度はドリンクバーのカウンタで腰骨を強打して、お味噌汁でのやけどはまぬかれたとしても痣くらいはできているかもしれず、とにかく今日は距離感を身体ではかれない日だった、ということだ。
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