13:30より、フォーラムを聞きに行く。街中の、入口の分かりにくい、しかし内装はスタイリッシュな会場。この日のテーマは "Role of the Built Environment Shaping Visitor Experience" というもので、パネリストはディレクターや建築家など様々な職種の人物たち。デンマークのルイス・ベッカー氏、アメリカのエリック・バンジ氏、ルーマニアのアレクサンドル・ガヴォツデア氏、日本からは隈健吾氏が参加。特に印象深かった言葉をいくつか。
ルイス・ベッカー氏による「アイコニックな建築は人々のアイデンティティになる」。
エリック・バンジ氏による「劇場をつくる際、あるいはどこかを劇場と見なす場合に考えるべきことはふたつだ。そこにやってくる人々のこと。そして、コンテクストのこと」。
アレクサンドル・ガヴォツデア氏による「共産主義時代のルーマニアの劇場の建物は古かったが、人々が集まる場所としてはよかった。この20年でかなり改修が進み、(シビウ演劇祭のディレクターである)キリアックが2000年頃から演劇祭を拡大していった。人々が、演劇というものを、(※筆者補足:おそらく何かのプロパガンダとしてではなく)アートとして楽しむようになったのもその頃からだ」。
16:00近くになってから、劇場にゆくTK女史を見送って、KM嬢とファストフード店で遅いランチ。チキンライス、チョルバ・ド・プイ(鶏肉のスープ)を食べる。量が多い。そして美味しい。
17:00ごろ、ホテルのスパでひと泳ぎ。温水プール以上、温泉未満の水温。プール並みの深さがあり、スイッチを押すとジェットバスが動き出したり、滝から水が流れ出てきたり、なかなかのスケールだった。ただし、スイッチを押したものの止め方が分からず、そのまま横のオフィスの人に状況を託してスパを出た。
18:00からラドゥ・スタンカ国立劇場にて Teatrul Metropolis というルーマニアのカンパニーによる "Hamlet, The Prince of Denmark" を観劇。舞台はシンプルなソファ、古いテレビ、そして上手に生演奏のピアノや管楽器、コーラス。上演時間が休憩ありの2時間50分と知らされていたので、原作どおりに進めるのかな? と思って観始めたが、先代デンマーク王の亡霊が現れるのではなく、彼の葬式のシーンから始まったのでやや意表をつかれた。若々しく威厳のある父で、ハムレットが父をいかに慕っていたかが表される。葬儀後、先代王は舞台上に再び現れ、ハムレットに自らの死の真相をほのめかす。存在感が強い。これはエピローグへの伏線。
以下、『ハムレット』のあらすじ、登場人物は読者が知っているという前提で書き進める。
ハムレットは、父と自分の写真をロングTシャツに安全ピンで留めている服装。かなりラフである。それに対し、クローディアスやホレイショーや、ローゼンクランツ、ギルデンスターンは、王室関係者らしい服装とまではいかなくてもかっちりしたスーツ、ベルベットのようなコートを着ている。レアティーズに至っては革ジャンで、不良っぽく気が強そう。しかし不思議とちぐはぐには見えず、ハムレットがやさぐれた引きこもりだから、だらしない格好をしているように素直に受け入れることができた。マザーコンプレックスかつ、強いファザーコンプレックスを抱いており、母がすぐに再婚したことが嫌でたまらず、そのあまりコミュ障になってしまった若者がたまたま王子だった、というように受け取れる。あるいは、王室のように裕福な「家庭」だからこそ、安心して甘ったれることができたというか。
ちなみに舞台上に英語字幕が出るが、オペレーションのミスがひどく、スピードが早すぎてまったく読めない部分が多々あった。『ハムレット』でなかったら完全にストーリーを見失っていた。「弱き者、汝の名は女」を始め、有名な台詞の数々はそのまま使用。
あえて言うなら、クローディアスがくつろぐ時など、たまに舞台上のテレビが付けられて白黒映像が流れるのだけれど、ある種の現代化にしては不成功だったように思われる。
演技のスタイルは、いわゆる真っ正面からの熱演。ガートルードとクローディアスの性愛描写も肉感的である。ハムレットの悩み方が、マザコンとファザコンのミックスの上に成り立っており、内向的だが、その在り方に説得力を持たせるだけの自分勝手なキレっぷり。甘えて母に当たり散らす、狂った息子に見えた。
そんなかっこ悪めのハムレットとなぜ(表向きは隠されているけれど)相思相愛……? と感じてしまうほど、オフィーリアは魅力的。鼻っ柱が強い訳ではない、お嬢様ゆえの気の強さがにじみ出ており、第一印象がまず好感。そこから、10代の少女(ですよね、確か?)らしい、あの年代特有の熱っぽさと真正面からハムレットにぶつかっていく様子。「尼寺へ行け!」と言われて、打ち拉がれるのではなく戸惑って怒って、最終的に泣いて去っていく。まさに、リアルな恋人同士の喧嘩。「え……どうして? 何で急にこんなこと言われなきゃならないの?」という、雰囲気。
ここでのハムレットはかなり暴力的にオフィーリアを虐める。首をつかんで床に押しつけ、髪を引っぱり、罵倒する。実はそれがエロティックに私には見えて、なぜならその力の奮い方に押し殺された歪んだ愛情を感じてしまったからだ。乱暴なセックスに興じるカップルのよう。日本でここまでの暴力的な描写は見かけない。やはり、演出家が俳優に、無意識に配慮してしまうのだろうか? それとも、愛と暴力が恐ろしくも紙一重であるという感覚を表出させる演出があまり好まれないのか?
そのあと、ハムレットがクローディアスの悪事を暴くために劇中劇を上演するのだが、そこにはオフィーリアも来た。ピンクのドレスの盛装で、気丈にハムレットを無視。そのつんとした感じが私の気に入る。あとで気づいたことだが、ここでオフィーリアがただ怒っているだけであり、落ち込んでいない、むしろ恋人同士の派手な喧嘩に収まっているということは、のちに彼女が狂ってしまうのは父、ポローニアスがハムレットに殺されてしまったからで、肉親の絆というのがこの演出において重要視されていることがわかる。
最高だったのは、ポローニアスの殺し方が剣ではなく角材での撲殺だったこと。「ねずみかな?」という例の台詞のあとにハムレットが大きな角材を手に裾にさがり、下手からものすごい殴打の音。そして頭から血を流し、よろよろと現れたポローニアス。衣装で血糊で床が汚れるのをさりげなく防ぎ、ガートルードが死体を引っ張って上手にはけるのもスムーズで美しかった。
さて、ご存知のとおり、ポローニアスから怒濤の死の連鎖が始まるわけである。
気がふれてしまったあとのオフィーリアの素晴らしさを、伝えきれる気がしない。落書きだらけの乳母車をひっぱってきた彼女は、白いレースの洋服、輝くティアラを頭につけ、まるでお姫さまごっこをする幼児に退行してしまったようだった。そんな幼児じみた彼女は人形遊びをしながら、人形同士を笑いながら性交させたりする。つまりここから大切な処女を捧げたハムレットが父を殺したというショックが窺い知れるわけで、レアティーズがいくら宥めても彼女の狂気は止まらない。ちなみにこの期間、ハムレットはクローディアスの陰謀でローゼンクランツ、ギルデンスターンとともにイングランドに行っており、不在。かなりオフィーリアの狂気の過程に時間が割かれる。一度はけて、舞台上が薄暗くなり、天井から小さな滝ほどの量の水が振ってくる音がする。そこにやってくるオフィーリア。振りそそぐ水で遊び、笑い声をあげながら歌い、水たまりにばたんと倒れ込んで、溺死。俳優がひとり出てきて、オフィーリアを抱き上げて裾に下がる。
さて、身代わりにローゼンクランツ、ギルデンスターンを殺してきたハムレットがイングランドから戻ってきた。ローゼンクランツ、ギルデンスターンの二人は容姿も服装も似ていて、ボーイズラブのような描かれ方をされていたのも手が込んでいたので死んだのは寂しかった。物語上致し方ないとはいえ。
ハムレット、ホレイショーが出くわしたのはオフィーリアの墓を掘っている墓掘りたち。彼女の死を知らず高揚しているハムレットは墓掘りたちとギターを引いて歌い出したりする。そこへオフィーリアの棺が運ばれてくる。このオフィーリアの遺体の美しさは、ジョン・エヴァレット・ミレーの有名な絵画を超える素晴らしいもので、薄いヴェールをかけられ息ひとつしないまま目を閉じていた。彼女の葬儀の描写が、冒頭の先代デンマーク王の葬儀と同じスタイルで執り行われたのも象徴的だった。それを目撃したハムレットはショックを受け、棺に追いすがって墓に入る。レアティーズが「お前のせいだ!」と言いながら殴りかかり、二人してオフィーリアが埋葬された墓の中で、彼女の遺体を踏み荒らしながら乱闘する様子は、死後のオフィーリアのみじめさをいっそう際立たせていた。
そして二人はフェンシングで決闘することになる。えっ、フェンシングのマスクをかぶるとどっちがハムレットでどっちがレアティーズか分からない! と思ったが、ハムレットのフェンシング服の背には王家の紋章が刺繍されていて、それで見分けた。あと、たまにマスクを外して息をつくので、それでも判別可能だった。かって飛び散る真珠の玉。お互い、毒のついた切っ先で傷を付け合い、死を覚悟したハムレットは毒の残っているグラスを手にし、クローディアスを信じられないほどの力で押さえ込んで抵抗する義父の口にグラスを押しつけ、酒を流し込む。ここも爆発的な暴力、explosive violence.......を感じて身の毛がよだつ思いがした。
死を覚悟したハムレットは「ママー!!」と叫び、ガートルードに寄り添って腕を取り、死んだ母親に抱きしめられながら息を引き取った。最後まで、父と母に執着し、母を奪われた憎しみを具現化した若者として、ハムレットは死んだ。
ここまで原作に忠実に上演されてきたように思われるが、フォーティンブラスの存在はすべてカット。王室が舞台ではあるけれど、隣国との緊張関係や軍事的、政治的な描写をなくし、ひとつの「家族」の物語に演出されていたというわけだ。ホレイショーは、フォーティンブラスではなく、観客に向けて「この悲劇を語り継ぎましょう」と言う。そこへしずしずとやってきたのは、先代デンマーク王。彼が累々と重なる死者たちの遺体の手を引き起こしたところで、終幕。
その後のエピローグシーンが秀逸だった。舞台上に、劇中で死んだ人々が全員現れ、自分たちの写真を大きく引き延ばしたネガフィルムを壁に貼って、横並びになる。赤い照明に照らされたのち、再び暗転。どれほどの死者が溢れた悲劇だったことか。毒殺、撲殺、手紙のすり替えによる殺し、溺死。どれも哀れだ。「家族」がこじれた結果、これだけの人が死んでしまった。それらを非常に情熱的に演じ切った俳優たちも見事だった。私が素晴らしいと思ったのは、特にオフィーリア、ハムレット、クローディアス。
KM嬢は22時からの別の演目のために早々に退出。私は、雨がぽつぽつ降る中、劇場側のフェスティヴァルクラブに寄って、ボランティアやゲストの友人たちと少し話した。ビールを1杯飲んでいたところ、 赤ワインを見知らぬ男性ボランティアからごちそうになる。彼は今年40歳とのことで、生まれてこのかたずっとシビウに住んでいるという。「1989年の革命を覚えている?」と訊ねると「自分はあの時子どもだったけれど、子どもたちの間でしばらくおもちゃの銃撃戦ごっこが流行ったよ」と教えてくれた。流血の記憶がすぐそこにある国。今も流血の可能性と地続きにある、この大陸。
降り出した雨は夜中に激しい雷雨に変わり、まるでこの世が終わるみたいだった。それでも、誰が死んでも、いくつ政権が変わっても、また世界に朝は来るのだ。