2016年11月21日月曜日

この秋のこと

ドイツの写真を持って、小豆島に行った。「まきちゃんが、最終的に幸せになること目指してんのやったら、誰と何してもどこ行ってもええんちゃう」って苦笑いしてくれる友だちがいた。それでも寂しかった。でも秋の海は冷たかろうと思って耐えた。

※以下は覚え書き。
瀬戸内少女、さらちゃんの話。
みほたんとシュークリームを食べた話
これから先18年のこと。
最終的に京都に住みたいという話。
ラクリッツというグミの味を愛する人について。
人権発表会の演劇について。
オーラがあるということについて。

2016年11月4日金曜日

デュッセルドルフ滞在記(日記)

▼10/21
AM11:00の飛行機。機内食2回。和風(うな玉丼)、洋風(ハンバーグ)のどちらがいいか、おすすめは和風である、と言われて、洋風を選んだ。後悔のない選択だった。
両隣が巨漢で、圧迫感がひどかったので、むりやり眠るために飲み薬を飲んだ。そうしたら、2回目の機内食で何を食べたかまったく思い出せない。
空港にはマリーが迎えに来てくれて、滞在先となるシュトレーゼマンシュトラッセのアパートメントまで連れて行ってもらう。Fと再会。夕食は近所の台湾料理で、麺とルーローハン、餃子。眠る前、キッチンで近況を話し合いながら、なかなかすれ違いの時間が長かったので埋め合わせが難しいなと感じた。


▼10/22
朝に、スーパーマーケットで買っておいたパンをひとつ食べる。昼は、加賀屋という和食屋さんで、生姜焼き定食。唐辛子が入っていた。Fは迷って、唐揚げおろしポン酢定食。分けて食べる。
夕方17:00ごろ出発して、トラムに乗ってインゴ・トーベン『MAZING CITIES』を体験しにいく。会場で出されたチーズグラタン、パン、サラダなどを食べる。
夕食後、帰ろうとした時に、道の反対側で煙草を吸っていたらトラム乗り場でFとはぐれる。正確には、Fを乗せたトラムのドアが閉まってしまった。仕方なく次を待って帰る。


▼10/23
午前中歩く。朝スーパーのクロワッサン。あんまり美味しくない。そのほかはあまり記憶がない。小説を書き上げる。
あきこさんから誘いあり。夜に待ち合せて、スペインバルへ。オリーブのメンチカツのようなものがとても美味しい。しかし、夜やや調子が悪くなり、少々吐く。この日もFは戻らなかった。友人のところを点々としているらしかった。


▼10/24
午前中、サブウェイで初外食。教会まで歩いていって、持ってきたロザリオをつかってしばらく祈り、カールシュタット(デパート)で毛布を買い、「なにわ」でラーメンをたべて、スタインウェイのショールームを覗き、パン屋さんでプレッツェルを買って、スーパーに寄って一時帰宅。Fが帰宅する。午後14:00頃から眠り、18:00に一度起き、1:00に起き、また眠る。


▼10/25
結局AM3:00過ぎから眠れず、トースターがないからフライパンでパンを温めることに挑戦したのち、朝からHbf.へ歩いてゆき、本屋やサンドイッチ屋を見る。馬の本を買う。ライン川まで歩いてラインタワーを見て、帰りはトラムに乗る。10:30には家に戻る。
14:00からFFT全体ミーティング。ベジタリアンのための、野菜のソテーを食べる。ローズマリーで香りづけ。ヨーグルトとカッテージチーズのソースが美味しい。16:00過ぎからあきこさんたちとお茶を飲んで、夜に向けて解散。Fはカフェで仕事をしていくというので、私はデパートへ。自転車のかたちのピザカッターを買う。
さんざん歩いて加賀屋を探し、思っていたイメージと違ったので、近くの台湾料理屋へまた行く。今度は小さい角煮どんぶりと、餃子。夜はスタムティシュという集い。私はビールが飲めないので紅茶を飲む。シュヴァルツか、ヴァイスか、訊かれてシュヴァルツと答える。
モデルを自宅のロフトで撮影している日本人の写真家と知り合う。私が「ライン川はひろいのが印象的だけれど、あれだけ大きな貨物船が通るということは、とても深いということですよね」と言った瞬間、彼の興味が私に向いたのがわかった。


▼10/26
FFT開幕。朝は買っておいたパンを食べる。ひとりで、加賀屋で唐揚げポン酢定食を食べてから17:00にFとアパートで集合。FFT Jutaまで歩いて行く。19:30からNNP開幕。松根充和『踊れ!入国したければ』を観る。
終演後は、岡田さんたちと一緒にアルトビール屋へ。Rustikaサラダを食べる。Fが私のセーターにロールキャベツの汁を盛大に飛ばす。空間現代のメンバー23時過ぎに到着したが、これ以上遅くなると帰宅が危険になるため、私は一足さきに帰る。


▼10/27
朝、スーパーで玉ねぎを買い、45分炒めてオニオンスープをつくってからハムとパンで朝食。10:00過ぎにベンラートへ。マーケットを探して迷う。GIVE BOXにチョコレートを入れたのち、ベンラート城へ。庭という名の広大な森を何度もぐるぐる周り、ライン川沿いへ抜けて、上流へずっと歩いたのち、トラムでウルデンバッハー通りまで戻る。GIVE BOXの中身はすっかり空になっていた。かんたんなバーガー屋でマルゲリータピザガーリックを食べて人心地つく。SバーンでHbf.まで帰宅。駅前でラウゲンクロワッサンを買い、ハムを挟んでお弁当にして、FFT Jutaへ向かう。松根充和日本語Ver.とカセキユウコの即興パフォーマンスを観る。


▼10/28
小豆島の画家、美紀ちゃんに会う。中央駅の本屋で待ち合わせて再会した時、思わず抱き合った。近くには手頃なカフェが無いので、私のアパートでお茶を飲むことにする。彼女の勉強の進捗、どんな暮らしをしているか、いつか動物と暮らしたい(そしてときどき、上手な馬の絵を描いて同僚をびっくりさせたい!)というような話をしてから、彼女を駅まで送っていった。アパートに帰ってパンを食べ、さらににんにくとハムのスパゲティをつくった。上手に茹でられず、たいへん不味かった。IHコンロは難しい。今日は公演を観ない日なので、FFT Jutaでお留守番。ルバーブのソーダを飲んだが、あまり口にあわなかった。チェルフィッチュのアフタートークは有意義だった。今日も体調が優れず、打ち上げは行かず。


▼10/29
カイザースヴェアトへ行く。今日は快晴。さんざん道に迷う。しかし、すばらしい風景に出会えて、この国に来られた巡り合わせと幸せを噛み締める。来年用の手帳(ドイツ語表記)を、自分のために買う。クロワッサンを買っていったので、ハムを挟んでベンチで食べる。噴水横のベンチでは、アイスを食べている子どもと父親などが何組かいた。「手はちゃんと拭いたのかい?」「だいじょうぶよ!」というようなやり取りが可愛らしい。
14:30に一度アパートに帰り、すぐにFFT Jutaへ出発。それからは食事せず。安定剤を2錠のんでしまったせいで、自分のパフォーマンスががた落ちする。うまく話せず申し訳なかった。空間現代のライブ後、打ち上げに行こうかと思ったが時間が遅すぎてあきらめて帰宅。就寝。


▼10/30
朝、水曜日に出会った写真家と待合せ。少し曇っていて撮影びよりというわけにはいかなかったが、昼過ぎまで過ごす。演劇クエストの本番は終わったが、冒険の書は携帯しているため、延長戦。帰りにヴォリンガー広場のトルコ料理屋でパンゼンズッペを頼んでみる。おいしかったが、お金の払い方がわからず終始どぎまぎしながら食べた。結局、帰りしなにおじさんに5ユーロ押し付けて帰ってきた。おじさんは、私が4ユーロのサラダを追加注文したと思ったと思うが、逃げるように店を出た。
一度アパートに帰り、身体を休ませる。少し身体が冷えていたので眠る。18:00を過ぎたところで家を出る。ハインリッヒ・ハイネ・アレーの店はほとんど閉まっていた。ライン川沿いの観覧車や、出店(カクテルバー)などの前を散歩して、じゅうぶん散策して帰る。


▼10/31
思い残していたオーバーカッセルに向かうため、朝また1日乗車券を買ってテオドア=ホイス=ブリュッケへ。駅で買ったケーゼプレッツェルを齧りながら乗る。ドイツの交通機関の「ここまではちゃんとしてほしいけど、ここから先は別にみんなにおまかせだよ〜」という空気感を少し体得してきた。
今日は快晴。ライン川を徒歩で渡り、日本人の多く住むエリアの遊歩道へ。戻って来てまた中央駅でプレッツェル(今度は長いの)を買い、家で残り物のハムをはさんで食べる。出がけに、アンドレアスさんが「また会いましょう」と言って、コマをくれた。嬉しかった。17:00前にFと家を出て、空港へ向かう。その後、いろいろトラブルもあったけれどおおむね問題なく出国し、帰国し、今に至る。

2016年9月8日木曜日

後日談

▼5日
堤防の上を端っこまで歩いてゆき、立ってアイスキャンディーを食べていたら、後ろから「姉さん、落ちたらいけませんよ」と海上保安庁の人が声をかけてくれた。「誰が立ってるのかと思いましたよ」と笑われた。アイスをくださったお父さんが犬を連れてくるところにまた行き会って、秋に私もデュッセルドルフへ行くという話をする。13時に喫茶集合で後片付けと思いきや、みんなは近くのカフェレストランへ昼食に行った。私は相伴はせずに、喫茶でひとり、椅子を並べて横になったりしていた。

15:45の船で、麗しのニーナと息子が帰った。息子はニーナに抱かれて、船の2階から顔を覗かせている。大きく口を動かしているので、耳を澄ますと、彼はジャンボフェリーの歌をうたっているのだった。みんなに手を振ってもらって、最初は元気に応えていたのに、寂しくなってしまったのか、ニーナの胸に顔をうずめてしまったのが最後までかわいかった。

夜、制作なかちゃんとモモちゃん、琢生さんと4人でしみじみ缶ビールをあけた。エリエス荘には大学の夏期集中講義のためにたくさん学生が来ていて、ざわざわと空気を揺るがしていた。

▼6日
喫茶の常連さおりさんがお出かけに連れていってくださる。酒造にゆき、草壁港でジェラートを食べながら、昔のエリエス荘に来ていたグアムの留学生たちの写真を見せていただく。高校生のさおりさんは、はつらつとして今と変わらぬ明るい印象だ。彼女の笑顔はきっと、この港町を明るく華やかにしていただろう。それから、中山の棚田と、農村歌舞伎の舞台のある場所まで行った。モモちゃんに棚田を見せてあげられてよかった。ちょうどそこへスクールバスが来て、さおりさんのお子さんが降りてきた。お子さんは私とモモちゃんの名前を覚えていてくれた。

さおりさんは、昨年、娘さんの学校のプリントで演劇の上演を知り、観に行ってファンになったという。二日目の夜、チケットが取れなくても小豆島高校までゆき、食堂で待っていた時の話を聞いた。食堂には父親と息子らしきふたりがいて、静かに遊んでいた。さおりさんはその様子をただ見ていたが、終演後に劇場だった体育館から出てきた「ちーちゃん」が、駆け寄ってきてその子どもを抱き上げたのだという。「その時にね、ああ、お母さんやったんや! ってわかったの。何にも言わずに、抱き上げたのを見た時にそれがわかった」とさおりさんはまっすぐな目をして、言った。

いつおさんの誕生日パーティをひらくので、写真家Pがはりきって餃子をつくり、みんなで皮をこねて肉を乗せ、次々と包んだ。私は冷蔵庫の野菜の組み合わせをいろいろ考えて、残り物でおかずをつくった。餃子がとてもおいしくて、その日炊いたお米はほとんど翌日に持ち越した。パーティが終わってから、ニーナの息子がやり残した花火を持って、琢生さんとモモちゃんと3人で外に出た。風が強くてなかなか火がつかないうえ、たった2、3日置いただけで花火はすっかり湿気ってしまっていた。なんとか火花を燃やし尽くし、最後は3人並んで、線香花火を海に散らして夏を終えた。

▼7日
昨夜、大学生たちの喧噪でお風呂時を逃したので、朝6時にエリエス荘を出て、ホテルの温泉まで往復40分ほど、モモちゃんとふたりで歩いた。7:30の船に乗るモモちゃんを見送って、私も荷造りを始めた。私は15:45の船に乗ることにしていた。

喫茶の隣のスタジオでは、デュッセルドルフに留学するみきちゃんの最後の絵画教室が開かれて、おもに島に住むおばあさん方がたくさん集まっていた。えみこさんが喫茶にひょいと顔を出し「餞別に」昔の着物でつくった巾着をくれた。「いつか形見にね」なんて笑って手を振って、えみこさんは絵画教室に戻っていった。お昼に、昨夜の餃子の残りを焼いて食べ、ぜんぶ片付けた。宅急便の営業所まで送ってもらう途中、かすかに歌う青年の声を助手席で聴いていた。船が来る間際にさおりさんが現れて、かよさん、あやさんたちと一緒に見送ってくれた。別れ際、この世でいちばん優しい抱擁で耳が触れ合った。新幹線で眠ってしまい、気がついたら東京駅で起こされ、かつて勤めた38階建てのオフィスビルを見上げて、ここも私のふるさとだと思って身体に愛が満ちるのがわかった。東京駅から帰るはめになったせいで胸に傷の残る町を電車で通り過ぎ、苦しさがせり上がってきても、今夜は大丈夫だった。演劇が終わっても未知の日常は続いていて、私たちの人生がもし演劇ではないとすれば、それは自分ではラストシーンを決めることができないということだ。終わっても終わっても、また始まる。終わっても終わっても、びっくりするような出来事が起きて笑いあう。私たちは、ラストシーンを選べない。

海を眺めて吸う煙草は、吸い終わるのがもったいなくて、いつもぎりぎりまで燃やしていた。いつだか劇作家が言っていたように、太陽系に生きているかぎり私たちはひとつの太陽の下で眠って目覚めて生きていて、私は今日もまた、島の日々を思い出しながら狭いキッチンでライターの火をつける。短くなっていく煙草の先、まぶたを閉じて坂手の海を見ながら、火の温度が指先に近づいてくるのを感じている。

ある日(葬送)

喫茶の営業は今日で終わりで、アイスクリームが余っては困るので、少しでも多く食べてほしいとマスターが言う。それで、クリームソーダやコーヒーフロートを頼んでくれた人には数日前からひそかにアイスを多めに盛りつけていた。私も、喫茶が暇な時間を見計らってクリームソーダを買い、外へ散歩に出た。海沿いの堤防にまたのぼって、歩きながらクリームソーダを飲んでいたら、ポケモンをつかまえながらこちらに歩いてくる谷さんを見かけた。谷さーん、と声をかけて、しばらく海を見ながらおしゃべりした。「このへんミニリュウおんねん」と言って、谷さんは自慢げにポケモン図鑑を見せてくれた。もちろんまじめに今年の夏を振返ったりもした。そうしたら目の前の事業所から、以前喫茶に来てくださったお父さんが出ていらして、3人で少し話した。お父さんは「うちのばあちゃんがままごとのファンなので」と言いながら事業所の奥へゆき「これ持っていってください」とアイスキャンディーを10本ほどもくださった。空になったグラスと、アイスキャンディーのいっぱい入った袋を持って喫茶に帰り、マスターに、アイスが増えた! と報告すると、花壇の最後の手入れをしていたマスターは「何だって?!」とめずらしく大きな声を出した。バジルはこの日、全部刈り取られ、喫茶の隣のスタジオスペースに吊るされ、乾かされた。

何日か前から継ぎ足し継ぎ足しつくっていたカレーが余る見込みで、夜はみんなでカレーパーティをしようと言って何人か友だちを誘っていた。いつおさん、向井夫妻、みきちゃんなど。「ナンをつくってみたら」と向井くんが言うので、余っていた薄力粉とヨーグルトなどをつかってナンの生地をこね、丸めてとりあえず冷蔵庫に寝かせておいた。

特に誰が島から去るというわけではないが、2度目の散歩に出たら15:45のフェリーが着岸するところで、エリエス荘のエントランスを目指して歩いた。またしても堤防の上に乗り、船をよく見る。このところ私はばかになっていて、やたら高いところにのぼりたくなっているのだ。日曜日の午後便だから、テラスには普段より人が多かった。誰も知り合いはいないけれど、船がふわりと岸を離れる時に大きく手を振ってみた。今日の私は濃い赤のロングスカートをはいていてそれが風をはらんで翻るので、フェリーの上からでもだいぶ目に付いたはずだった。ちょっと歌ったりもして、日々への送別の気持ちをあらわした。

そんなふうに店をさぼっていた私が喫茶に戻ると、店内には、ままごとをずっと支えてくださった坂手の住人の方が順々に訪れてくれていて、ほとんど満席だった。夕暮れが近づくと自然にみんな外へ出て、みきちゃんは煙草を吸っていて、谷さんと赤ちゃんを抱っこしたまっちゃんは、並んでベンチに座ってエリエス荘を見ていた。嬉しかったのは、えみこさんが来てくださったことだった。「最後の日だからね」と、はにかみながらえみこさんはホットコーヒーを注文してくれた。えみこさんは、私に手話を教えてくださったご婦人で、盆踊りの夜に偶然お会いしてから、私にとってたいせつな交流を続けてきた方だった。えみこさんはみきちゃんの絵画教室に通っているのだけれど、最近なかなか会えていないみたいで、たまたま店内にいたみきちゃんを見つけてしばらく二人でおしゃべりしていた。みきちゃんは芸術祭に出す絵の大仕事をひとつ終えたばかりで、えみこさんは「忙しいんじゃないかと思って、邪魔したくなかったから」と何度も言いながら、みきちゃんとコーヒーが飲めて本当に嬉しそうだった。

18時になり「終演しました」という一言を発して、すぐにマスターは喫茶を片付けはじめた。さすが、ここはやはり劇場なのであった。私は、てきぱき片付けるみんなを横目に見ながらカレーパーティの準備をしていた。そのまま、若い島の友だちや、もっしゃんやきみちゃんを交えて打ち上げが始まった。

ねかせたナンのことを忘れていたら向井くんが「あ、ナンはあるの?」と言ってくれたので、思い出してこねて、フライパンで焼いた。人類が初めて焼いたパンみたいな、ひらべったくて簡単なかたちをしていたけれど、味は小麦粉と塩の味がして、ちゃんとおいしく焼けていた。薄力粉がまだ余っていたので、クレープの生地をつくって焼き、生クリームとブルーベリーソースで飾ってデザートにした。

キッチンを軽く片付けて席に戻ると、いつおさん、みきちゃん、向井くん、こにたん(向井夫人)の4人が、死んだらどんなふうにしてほしいか、墓とか弔い方、死に方の話をだらだらしているところだった。問われて考えたが、私の頭の中には土葬、火葬、風葬、水葬くらいしかなくて、人ってあんまり死んだあとのバリエーションがないなと思った。今まで見たことのある骨壺の話、火葬場のスイッチの話、この死に方はいやかなあ、という想定、今死んだらお墓はどこにするか、という話をしながら、べつに今死ななくってもいいんだよ! なんて笑いあった。私が、伴侶を散骨したあとも骨を少し持っておくと思う、と言ったら「その時の未亡人感がすごそう」と向井くんが言った。「黒いレースのついた帽子かぶって崖に立ってよ」と言うので了承した。「散骨って死体遺棄にならないのかな」と相変わらずいつおさんはブラックジョークを言うので、粉々にしないとだめらしいわよ、と私はまじめに答えた。25とか30とか40歳の大人が食事をしながら死について和気あいあいと話しあっているところに、21歳のモモちゃんがお皿に残っていたクレープを取りに来て、もぐもぐ食べながら横で話を訊いていて、そういえば今、私たちは生きてるんだなあと思った。

パーティは22時で終わり、エリエス荘に戻ってからも少し話した。私はみきちゃんとふたりで、真っ暗な食堂で深夜までしゃべっていた。子どもを産むことはとりあえずすっ飛ばして、孫を持っておばあさんになってからの話をした。この土地に生きる皆さんは、この土地で死ぬんですね。あの坂の上のお墓に入る時に、ここで観た演劇の記憶や、出会った異郷の人々の記憶が、ほんの少しだけお骨に染みこんでいたら嬉しいです。気持ちわるいこと言ってごめんなさい。でもあなたもあなたも、いつか死んであのうつくしいお墓に入るんでしょう。その時私の身体はどこにあるかわからないけれど、ふたりで手をつないだ一瞬の記憶は、あなたと私の骨にほんの少し、残るのかもしれないと思います。

2016年9月6日火曜日

ある日(空を飛ぶ)

俳優のSI嬢が島にいたころ、エリエス荘の喫煙所でふたりで話をたまにした。ぼーっと海を眺めながら煙草を2本くらい立て続けに吸い、身体のことを話していると、よく、安らぎとか生き方とかの話になった。犬島と直島を訪ねた私は、その島のサイズにやっぱり驚いて、たとえば自分がそこに暮らすのはむずかしいと思った、という素直な感想を述べた。歩いてまわれる島では自分の身体が縮んでしまう気がしたから、と答えたらそれをSI嬢はおもしろがってくれた。小豆島は、車で移動しなければいけないところがたくさんあるでしょう、車は、自分で運転するでしょう、だから車は拡張された身体の一部みたいなものでしょう、小豆島を車で走るということは、普段私が自分の足で歩くよりも拡張された身体で移動するということなので、自分がすこし自由に、大きくなったみたいな気がするの。

スーパーマーケットに買い物に行って、普段ならためらうんだけど2台の車の間にバックで入れて停めてみた。車を日頃から運転する人にとっては何ということもない操作である。でも私はあんまり駐車がうまくないから、何度か切り返しをする。やらないと上達しないからいつもエリエス荘の駐車場で練習していて、それでもなかなか上手にならなくて悲しかったけれど、今日、スーパーマーケットで停めた時は一度でばっちり入って、車体もまっすぐで、これは何かが身体に浸透した証拠だ、と思った。もしこの車が人間だったら、握手して快哉をさけびたいほどにきっちり駐車できたのだった。

スーパーマーケットで、昨日、麗しのニーナたちと偶然会ったりしたものだから、誰かに会うんじゃないかと思ってあたりを見回した。これも島に暮らす身体のふるまいだな、と思った。

真夜中、エリエス荘の食堂にいたら、フェリーが港に着く音がした。いつものことなので、ちょっといつもより遅れたね、などと言い合いながらエンジンの音に耳をすましていた。スマートフォンを見ていたら、京都の若い演出家が坂手に一瞬寄港していたようで、気づいたのは船が出る音がしてからすぐあとのことだった。エントランスを出て、遠ざかっていくフェリーを見送る。ライトをつけて手を振ってくれたらよかったのに、というメッセージが来たので、遅ればせながらあかりをともしてみたけれど、彼にはきっと見えなかっただろう。暗がりの中、しばらくずっと港にすわっていた。寄せては返す波のように、フェリーは港に立ち寄り、すぐに綱をといてまた旅立っていく。

画家のみきちゃんは、小豆島にたくさん壁画を描いている。ニーナの息子が「あのえもみきちゃんがかいたの? あれもみきちゃんなの?」とニーナに訊ねるので、いつもニーナは「そうだよ」と教えているらしい。そこで息子には新たな疑問が生まれる。「でも、てがとどかないんじゃない……?」。息子はまだ、脚立の上の世界を知らない。4歳というのは、自分の身体の大きさが、自分の身体の大きさ以上のものにならない年なのだ。同じように、どうやって高いところに絵を描くのか島の子どもに訊かれた時、みきちゃんは「空を飛んで描いてるんだよ」と言ったという。少年は目を丸くして「じゃあ今飛んで」と言ったけれど、みきちゃんは「今はだめ」と断り、さらに「君のお母さんも本当は飛べるんだよ、大人はみんな飛べるの」と教えた。「だってサンタも飛ぶじゃん」と言ったら少年は納得したという。かっこいい大人になるということは空を飛べるようになることだが、それを見せびらかしたりしないのも、また大人なのである。

2016年9月4日日曜日

ある日(ブルーベリー)

大きな虫が飛んできて、羽音が怖いので手ぬぐいをエプロンから取り出して振りまわし、追い払おうと努力していたら、マスターが喫茶から出てきて「何踊ってんの」と言った。「パフォーミングアーツだね」と笑っている。マスターは最近疲れていて笑い方が冷たいんだけれど、そこそこ長い付き合いだし、1か月以上も一緒に暮らしていてそのことは分かっているので、寂しいけれど傷つかない。

午前中のうちに、スーパーマーケットに行った。 野菜売り場の向こうで、聞き慣れた声がしたのでひょいと覗くと、麗しのニーナとその息子、制作N嬢の3人だった。「あらやだ奥さん」などと言い合って、別れる。島を歩けば知り合いに当たる、という言葉の意味を肌で感じかけている。ブルーベリーをもらったのでお菓子をつくろうと思い、無塩マーガリン(バターは高いから)とベーキングパウダー、クリームチーズを買った。喫茶の暇を見て、レアチーズケーキとパウンドケーキを焼いた。ケーキは、型がなかったので牛乳パックを切ってホチキスで留め、代用した。エリエス荘のオーブンレンジにケーキを入れ、甘い匂いがしてくるまでニーナとその息子としばらく遊んで、ふたりがお散歩に行くのを見送ってから、焼き上がりを待って喫茶に戻った。

夜はたこやきパーティに、つくったお菓子を持って喫茶のみんなで訊ねた。スイフの飼い主M夫妻や、島に嫁いだアーティストとその家族など、多くの若い人があつまった。優しくてあかるいT夫人の恬淡さ、鷹揚さに、かつてニーナがどれほど救われたかに思いを馳せ、夫人の手料理の数々をいただいた。缶ビールも時間をかけて1本飲んだ。T夫人が犬を3年介護して看取った話や、甘えん坊のスイフの話、M夫妻にもうすぐ生まれる赤ちゃんの話などをした。島で結婚して子どもを産むことについて、私も想像せざるをえなかったけれど、想像の限界というものは何にでもあって、だいたいの時間は黙ってじっと考えていた。大勢が「一堂に会する」感じは、身体同士の距離感がとても近くて、「盆に兄弟がみんな帰ってきとるみたいやな」とT氏が言うのを新鮮に理解した。小さい子どもが何人もいて、昔、両親とその友だちがあつまって、幼稚園も学校も違う私たち子どもがみんなでぎこちなく遊んでいたのもこんな感じだったな、と思い出していた。昔を思い出すだけでなく、未来のことを考えられるようになったのは、やっと最近のことなので。

帰り道、星空を見上げながら、君はとても防御力の低い人間だから、一緒に戦う人ではなく、戦う君を守ってくれる人とチームを組まないと持続可能に機能しない、と人に言われたことを思い出していた。守ってくれる人から同時に傷をつけられる時はどうしたらいいか訊ねたら、それは茨の道すぎる、という返事が来たので、どうしたものかそろそろ考え始めないといけない。

2016年9月3日土曜日

ある日(朝日、夕日)

書くのが進まなくて、また堤防にのぼって散歩した。私は子どもの頃から、話したいことを事前に練習してから話すくせがあって、今でもひとりになると、今ここにいない相手に向かってぼそぼそ喋って、イントネーションを工夫したり、言われてもいない相手の答えに怒ったり、会話を分岐させて想定を何種類も用意したりしてしまう。それで、最近のひとりごとは全部、関西のアクセントなのだった。音程とリズムと流れに自分をなじませて喋ると、島の方言(なのか、関西弁ごちゃ混ぜなのか?)に身を委ねることになる。でも、なじむのも相手の濃度によるというのもわかってきた。移りやすい相手とそうでない相手がいて、差はよくわからないけど、話す時の勢いとかこちらの気の持ちようなんだろう。浸食されてもいいかな、と思う時は私もいろんな言葉づかいを試す。

喫茶を手伝ってくれていた大学生の朝日が、東京に帰っていった。今日のバスがいちばん安いから、という理由だった。気持ちが優しくて面倒見と効率がよく、しかし野蛮な危うさも残したふしぎな子だった。ひとりで山登りをしながら犬の真似をしたり、みんなと砂浜に遊びに行って犬の真似をしたりしていたらしかった。もしかしたら朝日は犬そのものだったのかもしれなかった。フェリーが出港する時に、4歳になったニーナの息子が「あさひー」と彼に呼びかけた。朝日は「なーにー!」といつもの調子で叫び返した。「あそんでくれて、ありがとー!」とニーナの息子が言うと、はるか遠く、ジャンボフェリーの乗り口で朝日は、撃たれた人のような顔をした。「またあそんでねー!」という息子のたたみかける一言で、朝日は名前のとおり、東からのぼってきらめくような笑顔を見せ、島を去った。

夕方、いつおさんと久しぶりに喋った。モモちゃんが「いつおさんはこれからもずっと島に住むんですか」と訊ねたら、いつおさんは「そうね」とうなずきながら「どこに行くにもまず一度船に乗る距離感がちょうどいいかな」と言った。正確には、それを訊いたのがモモちゃんか誰だったかは忘れたが(だから日記は、本来その日のうちに書いておくべきなのだ)いつおさんのその答えが印象深かったから、よく覚えている。

海運業の青年がひさびさに姿を見せ、日曜日で喫茶の営業を終えるわれわれをねぎらってくれた。観光客はフェリーの出航直前に店に来るが、島の住人はみな、仕事の終わった夕方とか、船の時刻表と無関係にやってくる。他に客がいなかったので、マスターもふくめて全員でお茶をしながら、少し喋った。夕焼け小焼けのチャイムが聞こえたので、あっ、閉店しようかな、と思って時計を見るとまだ17:30だった。あれ? 今日鐘なるの早くない? と私が言うと「だって今日から9月やもん」と青年は言った。いやいや聞いてないし、と私がかぶりを振ると彼は「暗くなったらはよ帰らんと親御さん心配するやんか」と当たり前のように言った。育った環境の違いとは、何をふしぎに思うかの違いなのだった。

ある日(堤防)

朝、劇作家とミュージカル女優、その幼な子、俳優がフェリーで帰っていくのを見送ってから、喫茶に行ってひとりでカレーをつくった。朝の体操は日曜日で終わっているのだけれど、毎日誰かが朝のフェリーで帰るので、見送りついでに喫茶に出勤している。8時前、店の扉をあけて空気を入替え、お湯をほんの少しだけ湧かして紅茶を入れ、窓を閉めてから、外に出て煙草を吸う。少し歌もうたう。それが今の自由だなと思う。

朝4時まで起きていたことは別に関係なくて、喫茶が暇だったからちょっとエリエス荘に戻ろうと思ったのだった。それで、まあちょっと眠ってもいいかなと思い、薬を飲んだら当たり前だけど起きられなくなり、もう秋だから部屋もそんなに蒸し暑くないし、昼過ぎまで休んでしまった。休んだわりに罪悪感が残って意味がないのだけれど、記憶がないから罪悪感もあまりない。でも、今思い出してこうして書くのはやはり申し訳ない。この気持ちは、昔、会社を午前半休して、そのまま、忙しくもないし私が行かなくてもいいだろう、とずるずる全休したりした時の気持ちに似ている。

自分の行動を思い出すと、たしか喫茶にふたたび出勤する前、風が涼しくてあんまり寂しいから、堤防の上にのぼって海のふちをしばらく歩いたのだった。道路を挟んだ店のガラスに私の姿が映っていて、なんとなく写真に撮った。それで、こんなに海のそばを歩いていても、もう「落ちてしまいたい」とか「引きずりこまれる気がする」とか思わないことに気がついた。そうして私は、無事に喫茶に復帰した。ちょっとした魔法が、必要な時に必要なだけかかるように、最近の私はなっているのだ。

私が眠っていた頃、喫茶で働く若い子たちは、麗しのニーナの息子とその父と、瀬戸の浜に行ったらしかった。あとで、8月最後の日、晩夏の海の写真を見せてもらった。そういえば私は、月を見に車を飛ばしたことはあるけれど、昼間の瀬戸の浜には行ったことがない。

2016年9月2日金曜日

ある日(ままごとさん、ピザ)

「ままごとさんとあそぼうよ」というのは、2013年の瀬戸内国際芸術祭・秋会期にはじめておこなわれた催しである。自転車で坂手の町をまわり、紙芝居をしていた麗しのニーナに、とある婦人が声をかけたことからおこなわれるようになったもので、経緯はこの記事の劇作家インタビューに少し書いてある。先日からみんなが練習していたのは、今年のこの公演の出し物であった。今年は坂手の元幼稚園で、10時から、一人暮らしのお年寄りの方のあつまる会で、上演されるのだった。昨日、四国での公演を終えたばかりの月ちゃんも合流し、歌と演劇を披露した。歌にあわせて手話をおこなっている方がいらしたので見ると、それは盆踊りの晩にお目にかかった、東京に昔お住まいだったご婦人であった。彼女は、今度喫茶に、手話のプリントを持ってきてくださるとおっしゃった。孫に連れられて喫茶にカレーを食べにきてくれたおばあちゃんのことも思い出し、この近くに住んでいらっしゃるはずだけれど今日のこの催しのこと知ってるかな? ごらんになったらきっと喜んだだろうに、と思っていたら休憩の時にお見かけしたので声をおかけした。おばあちゃんは、喫茶で会ったみんなの名前を覚えてくださって「元気?」と気づかってくださった。「ままごとさん」たちは、坂手のあとに隣の港町にもゆき、一日2回の公演を終えた。

昨年の小豆島高校での演劇製作の様子をまとめたドキュメンタリー映像の上映会が、喫茶でおこなわれた。ポテトサラダ、豚バラとにんじんのごま油いため、たこと野菜のバジル炒めをつくって、夜の営業を迎えた。お客さんは皆、小豆島に住む人々だった。ここからまた、新しい協力者、地域にたいする文化の「翻訳者」をさがして、つくっていかなければいけない、と思った。

麗しのニーナは、またの名前をちーちゃんと言う。ちーちゃんには4歳の息子がいて、3年前、彼は1歳だった。ちーちゃんが息子をおぶって、小さな港町を自転車で回って紙芝居を見せていた夏のことはよく知っている。息子は大きくなり、私に抱っこされるのも厭わず、一緒に夕焼けや海や船を見る仲になった。思い返せば、3年前のちーちゃんの姿は、必死で切実でうつくしかったけれど、孤独だった。上映会終了後、ちーちゃんが今まで支えてくれた町の人々に感謝の言葉を述べながら、涙をこぼして大笑いするのを、カウンターの中、いちばん後ろから私は見ていた。その時だけじゃなくて、私はちーちゃんが息子を育て、演劇をし、人々にひろい視野と感動を与える様子を、これまでも見てきた。その経験と気持ちを大切にして、これからも、演劇のクオリティや影響力、新しさについて考えつづけていくことになるだろう。ちーちゃんはもう孤独ではなかった。

夜は、画家のみきちゃんと、京都から来た花火ちゃんと温泉に行く約束をしていたから、上映会の打ち上げを中座した。22時過ぎにみきちゃんが迎えに来てくれた。ホテルの露天風呂に長湯して、星と海を見ながら、生と死の話をした。暗い風呂で、死の気配を随所に漂わせつつ、おもに未来の話をしたのはふしぎなことだった。帰りにみきちゃんが、ピザめっちゃ焼いたから寄っていかない? と言ってくれて、ぜひ行きたいと思ったから行った。それはとても特別な夜になって、その証拠に、私が自分の部屋に帰ったのは朝4時だった。

2016年8月31日水曜日

ある日(嵐の後)

雷と大雨の音で目が覚めた。朝の4:00だった。3時間半後の、朝いちばんのフェリーでスイッチリーダーは帰京した。毎朝、ゆりちゃんが中心になって朝の港で歌を演奏しているのだけれど、今日は雨の中傘をさしながら、スイッチリーダーのためにみんな切実に演奏した。
もう一度眠ることにしたらなかなか目が覚めなくなってしまい、気がついた時には休日の喫茶でパソコンをひらいていた。その時はしっかり歩いていたのだけど、どうやってエリエス荘を出たのかは記憶がない。喫茶は休みで、でも常連客が何人かおしゃべりしに寄ってくれたのは覚えている。コンタクトレンズを入れていないので、顔を近づけないと誰が誰だかわからなかった。14:00ごろマスターが現れてからも意識がはっきりせず、椅子をつなげて横になり、ぐったり眠った。風が強くて火がなかなかつけられないので、煙草で目を覚ますこともできない。風は荒れ狂いつづけ、夕陽の燃えるような時間になるまで、結局頭はぼうっとしていた。 

大潮の時期と、嵐のせいで、雨がやんで夜になっても、エリエス荘が水没するかと思われるほどの高波が岸を打っていた。港の防潮堤が閉じられているのを、初めて見た。

近所にもう3年も暮らしている若い画家が、友だちと連れ立ってきてくれたので、エントランスのソファでおしゃべりした。バックでは、ままごとのメンバーたちが明日のリサイタルの練習をしている。画家は巻き煙草を巻いてくれて、何本もくれた。煙草を吸う人がいないから、うれしい、と言ってふたりで何本も吸いながら話した。2013年に最初に坂手に来た時のこと、そのころそっけなかったおっちゃんたちも、翌年2014年になると観光やクリエイティビティに目覚め、掘建て小屋を建ててドライブスルーかき氷屋を始めたとか、かき氷の売り上げがあれば毎日あるだけ飲み代に使ってしまった、とかいう話をいろいろ聞いた。ずいぶん話してから、それでは明日一緒に温泉に行きましょう、という約束をして画家とは別れた。エリエス荘のエントランスには、深夜2時近くまで、トイピアノの音が響き、俳優たちが歌と芝居のリハーサルを繰り返していた。

ある日(嵐の前)

つくりたてのカレーは味が若い、という話をしてから、毎日メンバーで味見をしては「この味は、まだ文学座の研修生になりたて」などと言い合っている。昼前に、味がいまいち決まっていない時は「ネクストシアターに入団したけれど、芽が出ていない感じだ」と言われ、チーズやジャムを入れて味の角がとれれば「年上の俳優に籠絡されて、芸が深まった」などと言われる。最終的に、夜のカレーは鍋にこげついたりして苦みが出るので、柄本明とか呼ばれたりすることもある。今朝仕込んだ40人分のカレーは、微調整無しで、一度で決まった。有望な若き俳優の名前をみんなで次々あげながら、スパイシーさと深みのバランスをかんがみ、染谷将太に決めた。彼の成長を、カレーの熟成具合になぞらえて、その日は一日楽しんだ。

喫茶でのパフォーマンス販売の最終日、客人は大入りで、飲みものや食べものを買うのと同じように、劇作家や俳優たちのパフォーマンスを購入しては、目の前で立ち上がる未知の情景に、目を見開いたり歓声をあげたり、していた。その中に、何度かすでにここの喫茶で見かけている女性が、今日も来てくれているのに気がついた。

彼女は池田から来ていて、昨年の小豆島高校での公演があまりにすばらしくて、惚れ込んでしまったのだという。公演の初日を見て、もうチケットはなかったけれどどうしても側でもう一度感じたくて高校に行き、食堂で待たせてもらったと言っていた。そこから、ままごとへの思いを持ち続け、今年も喫茶に通ってくれていたというわけである。島育ちの彼女は、エリエス荘が昔、グアムからの留学生との交流の場だったということを教えてくれた。小豆島とグアムで、交換留学が行われていて、英語の好きな子たちは、自転車でエリエス荘に行って、そこに滞在している同年代のグアムの子たちとおしゃべりを楽しんだのだという。もう20年も30年も前だけどね、とはにかんで微笑む彼女は、かわいらしい少女の顔に戻っていた。

昨日も今日も、東京から私の友人が島を訪ねてきてくれて、とても嬉しい。大学の先輩がだんなさんと、昔ワークショップでいっしょに批評を書いた高校生がお母さんと、来てくれたりしている。

喫茶の片付けをしてから、演劇公演の打ち上げの飲み会に少し出た。エリエス荘の食堂は、この夏いちばんのにぎわいだった。大潮の影響によるルート変更(さすが海沿いの町だ)があったらしく、瞬時の判断の積み重ねで演劇公演が回っていく様子を、目の当たりにした。たいへんにお世話になったもっしゃんとマリコさんのために、俳優たちが00:00開演の落語演劇を上演するのを、みんなで見せてもらった。瞬発力と技術の粋を極めた深夜公演だった。

喫煙所にひとりで立っていると、マリコさんが外に出てきた。落語すばらしかったですね、と声をかける。あの船、何時間も前からずっと沖に停泊しているんです、巡視船ですかね、何でしょうね、と訊いてみた。あれは客船やないかなあ、台風が近づいてくるとね、動けなくなるからこのあたりの静かな海でじっと嵐が去るのを待つのよ。内海湾にね、10隻くらい停まってるのは、すごく綺麗よ。そうしてマリコさんとしばらく暗い海を見ていた。風が強く、潮が高くなりはじめていた。雨はまだ降り出してはいなかった。

2016年8月29日月曜日

ある日(サロン)

朝になれば歌が響く。船は、こちら側に向かって出発する時刻だ。暗い海を進み、朝を連れてくる。

というパラグラフが知らない間に下書きに残っていて、意味がわかるようなわからないような感じだが、そのまま使うことにする。眠りかけているのに何か書き残そうとする根性がいけない。「船は、こちら側に向かって出発する時刻」というのは三ノ宮からフェリーが出る25:00のことを差していると思われ、この間夜行フェリーに乗った時に、朝、坂手港が見えてきたのがよほど嬉しかったのだろう。夜にもたれて生きる暮らしが長く、聴く音楽も、読む本も、書く文章も(多少月や星の輝くことはあれ)、ほとんど真っ暗な中に生きていた。 あの風景はたしかに、私の中の何かのシフトを、夜から朝に切り替えたのだった。

昨日から、ふたたび俳優山内氏が島にやってきている。「一週間ぶりに会ってまた顔つき変わってるもんねえ」とさらっと言ってくれる。え、どう変わりましたか。「生活者かなあ」。山内氏の言葉はいつも端的である。「山に暮らせばみんな朝4時に起きるようになるからね、海のそばで暮らしたら早起きになれるっていうのは俺は知ってるよ」と私を励ましてくれたあとで「そろそろ長いもの書くんじゃないの」と言い残して彼はぷらっと去っていった。その言葉の意味を、今日もずっと考えている。長いもの。

夜の演劇公演は満員で、そのあとで喫茶に来てくれるお客さんも多かった。カレーは完売したが、ビールは先週ほど多くは売れなかった。

今年のエリエス荘には、演劇人が多く訪れる。2013年はおそらく、デザイナーや建築家や写真家など、もっともっといろんなジャンルのアーティストがいたのだろう。でも今、こうして、演出家や俳優、ドラマトゥルク、舞台照明家、舞台美術家などが次々来ては、多くの感情と少しの言葉をかわし、また別れていくさまはとても希有なものに思える。たとえば今だって、エントランスホールでは柴幸男、大石将弘、光瀬指絵、山本雅幸が落語の読み合わせをしている。島のどこかでリーディングを披露するらしい。私はそれを、玄関を出たところの、喫煙所でかすかに聞いている。

出港する船は、ゆっくり岸を蹴って浮かび上がるように、一定の速度で私から離れてゆく。深呼吸しても、目を閉じてひらいても、まだ視界から消えない。それを見ながら、ああ、船での別れならあきらめがつくなと思った。じゅうぶんに惜しみ、思い出し、いつくしむ時間が、船の去り際には残されている。

2016年8月28日日曜日

ある日(フラッグ)

私のいとこの子は電車が大好きだけど、もしかして島の子どもは、電車じゃなくて船を好きになったりするのかな? という可能性に、港にジャンボフェリーが着いた瞬間、思い至った。でも、宇宙船や飛行機に憧れる子どももいるわけだし、普段見られない電車に恋いこがれる子がいても、いいなと思う。

夕方、三ノ宮からやってきたフェリーが入港してから、また出ていくまでをずっと見ていた。喫茶からは、客が徒歩で降りてくるところはあまり見えないから、いつもタラップから吐き出されて流れる車と、順番を待って吸い込まれてゆく車を眺める。束の間、地面に橋を架けてまたそれを丁寧にしまって、船は行ってしまう。タラップがしまわれるところがよく見えなかったので、ベランダの椅子の上に立った。誰かに、不審な女と思われるかもしれなかったけれど、船をよく見たい気持ちの方が強かった。それで、船尾には、船籍の旗が翻っていることに気がついた。日の丸。愛国主義にしろ、啓蒙活動にしろ、情熱のオリンピックにしろ、とかく煽動的な運動にもちいられる旗しかこのごろ見ていなかったから、純粋に「この船は日本の船」というしるしとしての意味、それ以上でもそれ以下でもない国旗を見て、ひとつまた気持ちが楽になった。

昔、防衛大学校にゼミの一環で行った時、同い年の学生たちが信号旗で交信しあうのを見た。旗ひとつひとつにアルファベットが割り振られており、それを読むことでどこの船か、航海の目的は何なのかがわかる。海の上では、船籍がわかった方がもちろん便利だ。危ないし、衝突は避けなければならない。命がけである。それが当たり前だ。何度も言うけれど、それ以上でもそれ以下でもない。考えているうちに、よぶんな苛立ちや嫌悪が削ぎおとされていく。煙草をくわえて、火をつける。フェリーが出港すると、風向きはいつも変わる。

暗くなってから、ぽつぽつ雨が降ってきた。明日の夜の公演に直撃するのは、避けられた。バーベキューが昨日でよかった。そのかわり、喫茶の売り上げは芳しくなかった。

2016年8月26日金曜日

小休止Ⅳ

いつもよりさらに早起きして、直島へ行った。土庄からの高速船では、波しぶきの飛ぶような席に座ってずっと海を見ていた。

直島では、宮浦港に到着した。まだ朝が早くて、開場していない美術展示も多かった。ガラス越しに覗いていると、腰を曲げてカートを押し、ゆっくり歩いている老婆に「まだ開いとらんでしょ」と話しかけてもらった。これから彼女は、月に1度の診療所に向かうのだという。展示場の建物の持ち主についてや、脚の丈夫な若い人がうらやましい、という話を少し聞いてから別れた。入り組んだ道に立ちいりすぎて港に戻れなくなり、坂道を降りてきた女性に訊ねた。教えてもらった角を曲がると、さっきの老婆の背中が遠くに見えた。

直島のもうひとつの港、本村の近くで、民家を美術家たちが改装した作品群を観て、山の上のミュージアムへ向かった。ミュージアムの、コンクリートに囲まれた一室で、パフォーマンスをひとつ観た。この作品を手がけたのは演劇作家のO氏で、この時期、船に乗って島にやってくる人々に向けて、語りかける内容だった。観ながら、力を抜いて、入れて、それを続けたから最後はくらくら眩暈がした。この作品をただちに、直島(あるいは瀬戸内の他の島)に住んでいる人に向けたものではない(=に見えない)から、といって批判をするのは適切ではないと思う。いつだって経験は対になっており、旅人と出会ったその土地の住人は、「裏返された」かたちで旅を経験できるのだろうから。本作については、機会をあらためて詳しく書くことにする。

ミュージアムから海へとくだる道を降りるとそこには人があふれていて、シャトルバスには乗れそうもなかったから、ふもとまで歩くことにした。後ろから西日に射たれて、 海は真っ青で寂しくて、できることなら私は誰かといっしょにこの道を歩きたかった。足下に落ちる長い影は、残暑に灼かれてくろぐろとしていた。それを見て、私はもう変わってしまったと思った。あなたは私のこと置き去りにしたつもりかもしれないけれど、本当は私があなたを追い越しているんだ、いつも。私は今こんなに自由で、ひとりで離島にいて、違う星の地平からみんなを見ているような顔をしている。だけど、あなただけが不自由とか私だけが不幸せとか、そういう話をしたいのではない。それに気づいたからと言って、何がどうなるわけでもない。

帰りは岡山県の宇野港へ一度わたり、そこから豊島の家浦港、唐櫃港を経由して、また土庄港へ戻った。小豆島に戻ると安心する。里心がついてしまったのだ。バスに50分乗ってエリエス荘に戻ると、エントランスを出たひろい場所でみんながバーベキューをしていた。さすらいの演出家が来ていて、彼のことは私も知っていたので、あいさつをかわした。頭上にはビニール紐を使って、ランタンがきわめて機能的に吊られていて感嘆した。さすらいの演出家が、ものの数分で設計し、取り付けてくれたのだという。彼はその夜、みんなのためにギターを弾いて歌もうたってくれた。『セーラー服と機関銃』を最後にうたって、歌詞を見ながら彼が「これは男の夢物語ですね、いつの日にか僕のことを思い出すだろう、なんてね」と言うので、思い出す女もいますよ、と言ったら「女の人側からそんなことを言うのは道徳的にだめです」と注意された。私は、道徳からはまあまあ外れた人間だから、それでも構わなかった。忘れられてもいい、私が覚えているから、とこれまでは思い捨ててきたのだ。だけど今日からは、相手も私を忘れていないかもしれないし、むしろ出会ってよかったと思ってくれているかもしれない、と想像してみることにする。なぜなら今日直島で、いつだって経験は対になっている、と演劇作家のO氏に背中を押してもらったからだ。

ある日(閉店後)

開店準備の時間になっても、マスターは来なかった。連日の喫茶営業で、疲れているのだろう。特に困ることもないし、彼の心がいつも安らかであってほしいから、電話もせずほうっておいたら1時間後くらいに現れた。

今朝は、家族にまつわるたいへん怖い夢を見て早朝から息があがったのだった。手触りの生々しい、ぞっとするシチュエーションで、何か悪い印ではないかと気を揉んでいたところ、実家の小型犬が昨夜から血便、嘔吐を繰り返しているという知らせがあった。これから急いで動物病院へ行くという。遠い島でひとり、不安な気持ちで続報を待っていた。夏場に多い大腸炎だった、今はもう回復に向かっている、という連絡が弟から来て、喫茶で胸を撫でおろした。でも、きっと小型犬は、身代わりになって家族に何か起こるのを守ったに違いなかった。弟の夢には、去年死んだ大型犬が登場していたらしい。ちょうど小型犬がぶるぶる震えて嘔吐していた時間だったようで、小型犬を守ったのは、死んだ大型犬だったんだな、と思った。

閉店して看板をしまってから、道を見下ろしていると、T夫人と画家が、トイプードルを散歩させているのが見えた。旅人がふたり、T夫人に話しかけている。きっと、このあたりに食事のできる場所はないか訊ねているのだろう。喫茶が閉店する時間には、このあたりは何もなくなってしまうから、彼らは困るだろうなと思って見ていた。次の瞬間、2階のベランダに私の姿をみとめたT夫人が「まだ開いてますかー」と叫んだので、少し考えてから、本当は閉店していたけど「いいですよー」と叫び返し、手で大きなマルの形をつくって答えた。そして旅人たちを迎え入れて、カレーを食べてもらった。T夫人と画家も、トイプードルを連れて少し遊びに来てくれたので楽しかった。

そうこうしていると、同じく行き場所のない若者5人組が階段をのぼってやってきた。次のフェリーの時間は20時を過ぎる。断ろうかと思ったけれど、この際だから入れてあげた。ごめんね、カレーがもう3人分しかないのよ、と私が言うと、若者たちはじゃんけんをしてカレーを食べる人を決めていた。争奪に敗れたふたりには、そうめんを大盛りにしてあげた。

夜はまた曇っていて、星はあまり見えなかった。でもその方が、星の綺麗だった夜のことを忘れなくていい。

ある日(日常、船)

今季3度目の夜行フェリーで、坂手に到着した。昨夜は夜半に山陽本線に乗り、三ノ宮まで戻った。こんなに疲労困憊したのは4年ぶり、と思うほど疲れ、車内の座席ではぐったり横になっていた。無事にフェリーに乗り込み、体を横たえるまではがんばった。この頃は、船がエンジンをかける音がわかるようになってきている。急な変化に思えるけれど、経験が緩やかに堆積して、水面に顔を出したのだろう。船は静かに、暗い海を進む。

喫茶に帰って、また働き始めた。喫茶は一日のんびりしていた。マスターが急に壁をばん、とたたいたので顔を上げると、「しんじゃった、虫」と、少し悲しげに言うのが聞こえた。パフォーマンスの販売は、劇団にかかわる全員が空間をうまく共有し、閉じることなく、高い地点に到達している。そういえば坂手のきみちゃんは、先週末から体調を崩しているらしく、最近顔を見せない。

夜、劇団のメンバーたちがエントランスで歌の稽古をしていた。朝日が、ギターを持ってその輪に加わっていた。メンバーたちの声を聞きながら、エリエス荘の外に出て、ひとりで歌うことにした。ボラードに腰かけて、小さな声で2曲か3曲ほども歌った頃、暗い小島の向こうをフェリーが横切っていくのを見た。あの航路はジャンボフェリーではなく、高松の方角に向かっていく別の船だ。そういうことも、私はもうわかる。右手に見えている陸地は志度の岬だということも。船でしか行けない場所があると、身体の奥底で実感している。今では、バスと高速船とフェリーを乗り継いだ移動の計画だって訳もなく練ることができる。 海の上を滑るように移動する船を見て美しいといちいち感じるほどには、まだまだ非日常の風景だけれど。

今朝、フェリーの展望台から見た、だんだんと近づいてくる坂手の風景は、忘れないでおこうと思う。私が港を懐かしみ、帰ってきた、と思う時、港もまた私を懐かしく迎えてくれていると信じてみる。

小休止Ⅲ

朝の坂手をひとまわりしてから、7:30のフェリーに乗った。ゆうべにぎやかだった坂手の道は、ぽっかり明るく静かだった。散歩をしている人もいなかった。夜には時々、おしゃべりをしに出歩いているおばあちゃんなども見かける。カートを押し押しうつむいて歩く、うつろな人にも会うのだけれど。

明石大橋を越えて、もうすぐ神戸に着くという頃になって、やっぱり展望台から海を見ておこうと思った。展望台には先客がいた。カップルが一組、それから女優のSI嬢だった。私は昼間のジャンボフェリーでは、モナカアイス(自動販売機で売っている)を買って食べるのをならいとしているので、この時もアイスを手に持って階段をのぼっていった。SI嬢は私の持っているアイスを見て、いいですね、と笑ってくれた。空は快晴で、さっきまで聞いていた歌などうたいながら、そのまま海を見ていた。白く水面に残る航路の跡の向こうに、島があるのだなと思った。後ろの方で、カメラのシャッターを切る音が聞こえた。

降りる時に、京都の大女優MJ嬢と行き会った。そのまま3人で京都まで連れ立って行くこととする。MJ嬢がカフェオレを飲みたい、と言うのでセブンイレブンに寄る。私はバターロールと麦茶を買った。京都までの電車は遅れていて、電車を待っている間、初めてゆっくり3人で会話をかわした。島では演劇の準備があったし、夜になれば酒が入るし、なかなか余裕がなかったのだ。京都に着く頃、MJ嬢はカフェオレ気持ちわるい、もういらない、と美しい京都のアクセントで言った。故郷に戻ると、血液が入れ替わるように、体内の言葉も巡るのだろう。MJ嬢は、出町柳にある豆大福の名店「ふたば」が、今日は伊勢丹に出店しているから行こうかな、と迷っていた。でもこんな暑い日に大福食べたくないな、と袖なく結論づけた。いつでも「ふたば」の豆大福に手の届く距離にいる人の、余裕を感じた。MJ嬢はそのあと丁寧に、おすすめの銭湯と、そこに行くための市営バスの番号を教えてくれて、実家へ戻っていった。私は、SI嬢とふたりでラーメンを食べて別れ、銀行や郵便局で用事をすませた。

下鴨の劇場で、Fが、政治と芸術の話をするための集まりを企画しているので、夜はそれに参加した。打ち上げにも行ったけれど、私は途中で島に帰らなければいけなかったからジンジャーエールだけ飲むことにした。疲れていたし、今の私の言うことは別の銀河の言語みたいに響きそうでうまく話せないと思ったので、店ではずっと黙って、考えに耽っていた。隣に座ってくれた子も、そのことを了解してくれたようだった。だから来ていた人とは喋らなかったけど、顔を見て、微笑んで、うなずいてきた。違う星に住む人にも、そうやって気持ちを伝えることはできるだろうから。

2016年8月24日水曜日

ある日(海、目)

日曜日の朝、横浜から来てくれた客人たちが港に勢ぞろいしているのを見て、麗しのニーナが「あれれー、ここは横浜かな?」と抱いている息子に語りかけた。息子はうれしそうにして、ニーナの胸に抱きついていた。海はすべての人をつなぐ、と教えてくれたのは16歳の時の、友だちのボーイフレンドだった。鎌倉育ちのその友だちとボーイフレンドは、週末ごとに海でボディボードをしていると言っていた。友だちとは、イギリスで出会った。彼女はボーイフレンドとけんかしたまま日本を出てきて、イギリスのサマースクールに参加していたのだった。ある日、「ちょっと見てよ、何これ」と言いながら、ボーイフレンドから来た手紙を見せてくれた。そこには、彼女を気遣う言葉がほんの少しと「いつも一緒だよ。だって、海はすべての人をつなぐんだからさ」と書いてあった。16歳だった私は、それまでぜんぜん海で遊んだことがなかったし、海のある日常に生きたことがなかった。だから、まあすべての人をつなぐっていっても、そんなものかな、イメージはわかるけど、くらいに思った。私がこのことをわかるためには、ふたたび16歳になるのと同じだけの年月を経る必要があったけれど、今ならわかる。海をわたる船、見晴らす先の島々、架けられた大きな橋の先でみんな結ばれている。友だちとボーイフレンドは、結局彼女が日本に帰ってから仲直りして、1年後に別れた。

早朝から喫茶にゆき、今日のぶんのカレーを40人分つくった。これだけの量になると、レシピを倍に倍に増やしていっただけでは味が整わない。最終的に味を見て、舌の上で分解し、調味料とスパイスを混ぜ合わせて足した。

お昼から15時まで休みをもらったので、Fを連れて土庄港付近の展示作品を観に行った。道中、車内で口論になって、うるさいから道ばたに捨てていこうかと思ったけれど、慈悲の心を持って最後まで乗せていった。駐車場が見つからないことにあせってしまって、そのことに気分が塞いだ。日陰のない、迷路のような道を進み、民家にほどこされた展示を観た。子どもたちが喜んで、声をあげながら楽しんでいるのが印象的だった。視覚の操作、注意の引き方の完璧なデザインだった。帰り道、Fが日本酒の醸造所に寄りたいというので細道に入った。駐車場をまた間違えてしまい、落ち込んだ。Fは午後のフェリーで島を去っていった。

エリエス荘の入口でスイッチリーダーに会って、島でのたがいの健闘を讃えあった。「いい表情ですね、憑き物が落ちたような顔してる」とスイッチリーダーが私に言ってくれた。たまたま母にそのことをメールすると「それはよかったわね。海はいいわ」と返事が来た。私が物心ついてから、母と海に行ったことはない。彼女が思い浮かべている海は、いつの、どこの海なんだろう、と少し考えた。

フェリーが入港するのを見る時いつも、こんなに大きな船がどうして小さな乗降口のタラップに照準をあわせて停泊できるんだろうと不思議に思う。乗組員たちが、綱をかけて船を引き寄せ、着岸させているのを見て、やっぱり最後は人の力なんだな、と思う。フェリーは2隻あって、絶え間なく神戸と坂手、高松を往復しているので、働きすぎが心配になる。そんなことも、毎日毎日フェリーを見送る生活をしなければ気づかなかったことである。今も、夜中に何度も目が覚める。でも、胸をはって生きていたい。いつかもっと元気になった私を、坂手の人に見てほしいなと考える。

夕陽が少し濃くなって、これは秋なんじゃないかな、と思った。朝夕の風が涼しくなっている。今日は海がきらきらしてたやろ。太陽でな、海がきらきらしたら、もう秋やで。夜の喫茶にビールを飲みに来てくれた谷さんが、にっこり笑って言った。

ある日(初日)

新しいこころみとして、音楽を聴きながら眠ってみた。眠ることはできて、それはよかった。昨夜からの頭痛が続いていて、早起きがうまくいかなかった。Fが来て、やはりペースが乱されているのかもしれなかった。Fがいると心がひとりにならず、休まらない。それがいい時もあるし、うまく言えないのだけれど、今私は本当に静かに暮らしたいから、彼がそこにいるだけで放つ熱量に当てられるのかもしれなかった。朝ご飯をつくり、食べてから、喫茶を抜け出して少し休んだ。普通の幸せは遠いな、と思った。

きみが指を切る時はわかるよ、と言われた。気持ちがうわずっている、と言われて、それは違う、と思った。気持ちが落ち込んでいるから包丁を早く動かすのだ。それで指を切る。浮揚をあせっても仕方ないんだけど、出口がなくて包丁の切っ先にそれがあらわれてしまう。

エリエス荘の前の喫煙所に立っていて、風が止まったのを感じた。なるほど、ジャンボフェリーが港に入ると、海からの風が遮られる。それで、ライターがすんなり付くようになるのだ。

公演の初日にあわせておこなった喫茶の夜間営業はとても混雑した。氷や野菜がなくなって、途中で買い出しに行くことになり、ひとりで車を出した。道を歩いている観客、俳優がいたので、車のライトをそっと消して、峠を越えた。

2016年8月23日火曜日

ある日(太陽系)

Fが島に来て、三ノ宮にスーツケースをまるごと忘れてきたというので、午前、喫茶の暇な時間に土庄のファッションセンターまで連れていった。スーツケースを置き忘れるというのは私には理解ができなかったけれど、三ノ宮の港に電話して、保管の手配をした。ファッションセンターでは、運転手数料としてワンピースを一着買ってもらった。よほど申し訳なく思っていたのか、そのあとオリーブオイルのお店に寄ったら、グリーンレモンオリーブオイルもプレゼントしてくれた。

夕方、坂手に住んでいる画家をFに紹介するため、喫茶に来てもらった。Fは9月から2か月デュッセルドルフに滞在して作品をつくることになっていて、画家も同じ時期に同じ町へ留学が決まっている。ふたりはコーヒーフロートとビールを挟んで、会話がだいぶ弾んだようで良かった。喫茶はそのまま夜間営業に流れ、ゆったりした時間を過ごした。

その夜は、ままごとが行うきもだめしのリハーサルの日で、町の人が大勢来ていた。にわかに沸き立つ観光案内所の様子を見て、きーやんが「驚かす側を驚かしに行こかな」と言い始めた。「紐持って、蛇だぞ、つってな」と笑っている。そばで煙草を吸っていた画家は、最近龍の絵を描いているためか、蛇の話に興味を示した。蛇は湿気を嫌うそうだ。きーやんは言った。「道で蛇を見たらな、3日後に雨降るで」。へえ、つばめみたい、と画家は喜んだ。

夜遅く、喫茶を閉めてから、エリエス荘の食堂で劇作家たちと少しお酒を飲み、話した。劇作家の同期である照明家(聡明で料理上手である)が持ってきた海苔の缶は3つあって、それぞれに「塩」「味」「焼」と書いてあった。塩海苔、味海苔、焼海苔、という意味で、見ただけでそれはもちろんわかる。意味はわかるけど、くくり方の単位に違和感があるな、と考えていたところ、劇作家も同じように感じていたらしかった。だって塩って味の部分集合ですもんね、と私が言うと「パトカー・自動車・鉄、って並べて書いてあるのと同じぐらい、バラバラで違和感がある」と劇作家が答えたので、さすがのたとえだな、うまいな、と感動した。

夜、人間が光で起きて活動を始める仕組みについて、話題にのぼった。日の出日の入りや、月の出月の入りの他に、予想のできる天候事情ってあるか? と考えて、 ない、という結論になった。だからもし大雨や大風が的確に予想できたり、コントロールできたら、それを使った演劇も生まれるかもしれない。そして、もし太陽がふたつあったら、と目を輝かせて語る劇作家を見て、この人の宇宙への探究心は無限なのだなあ、としみじみ思った。

2016年8月21日日曜日

ある日(輝き)

盆明けの木曜日、急に暇になった。お昼に、このあたりに住むおばあさまを連れて訊ねてきてくれた孫がいた。おばあさまは、劇作家のファンなのだった。おばあさまに、カレーを、少しすくなめによそってさしあげる。ていねいに、おすわりになっている席まで運ぶ。カレーをたくさん召し上がってくださり、ああ、うれしい、とおっしゃって、劇作家とマスターの載っている雑誌を1冊買ってくださった。こんな素敵なもんが島に来とんのに見んなんて、あほやわ、と隣にいる孫にやら他の町の人にやら、おちゃめに言うのが可愛い。皆さん、あの幼稚園のところにいらしてねえ、帰ったら明かりが消えて、さびしゅうてかなしゅうてなあ。そうして話していくうちに、2年前に私が見た、小豆島でとある俳優がつくったお散歩演劇に登場した「かき餅」をつくってくれたのは、そのおばあさまだということがわかった。あの子、みさちゃんね、と嬉しそうに名前を覚えていてくださった。狭い町だから、人と人がつながるなんて珍しくない、ということが頭ではわかるくらいには、私はこの町になじんできた。でも、私の友だちでもある俳優に親切にしてくれたおばあさまの孫は、何も知らずに喫茶に遊びに来てくれたわけである。喫茶をひらかなければ、2年越しにつながることもなかった縁だったかもしれない。長く演劇のことを考えながら生きていると、こういうご褒美のような嬉しさに出会える。もっと長く生きてみたいと、おばあさまの身の上の話を聞いて思った。おばあさまが、あなたのお名前ここに書いて、と嬉しそうにおっしゃったので、雑誌の最後のページにふりがなを付けて大きく書いた。

午後のパフォーマンスの時間では、ゆりちゃんにダンスを踊ってもらった。私の名前の由来についてと、好きなおしょうゆの食べ方を話すことで、彼女が想像した私の暮らしを踊ってくれるという。私は、自分の苗字がぜんぜん好きではなくて、今でも嫌いなんだけれど苗字だから仕方なく名乗っている。だから、本当は人に私のことを、名前で呼んでほしい。それなのに、話は苗字のもとである父親のことにおよび、結局紐解いてみると、私の好きなおしょうゆの食べ方は父親の食べ方のくせと同じだった。ゆりちゃんが「あなたのお名前はどんな色ですか?」と訊いてくれたので、名前の字を順番に「ちょうどそのワンピースの色と、次の字はそのラインのオレンジがかった黄色、最後の字はそうだな、この表紙のこの色」と言って、テーブルの上に置かれていた雑誌を指差して教えた。そうしてゆりちゃんがつくったダンスは、あんまり人と目を合わせずに、口に手を当てたりしながら、どこか遠くを見て、最後は壁にゆっくり隠れて見えなくなってしまう振付けだった。それで、何だか私は泣いてしまったのだった。自分のことを、自分で思っているより他人は分かっているものなのだけれど、そのことが改めて嬉しくて、驚いた。分かってもらえて嬉しいと感じるぶんだけ、普段どれほど人に期待していないか、鈍感であるか、まざまざと見せつけられたようだった。もちろん信じているし、自分の思い込みほど当てにならないものはないと知っているけれど、ダンスを見て、よくよく思い知らされた。

制作スタッフのN嬢が、夕暮れ時に喫茶にやってきて、サザンオールスターズの『真夏の果実』を流し始めた。ラジオ番組のままごとを来週からしたいのだと言ってリハーサルをしている。海を知らない頃は、サザンオールスターズの良さがわからなかった。でも、海を見て聴くと、いかにサザンオールスターズが人に海を思い起こさせるかわかる。もはや、自分の中のイメージのせつなさが、海によるものなのかサザンオールスターズによるものなのか判別できなくなるほどだ。男は、短い恋の相手に「また逢えると言って欲しい」ものなのだろうか。私は、どんな夜も涙見せずに「もう逢えない」と言ってあげたい。

夜は満月だった。月の光で海は、鏡をこまかく砕いてばらまいたみたいにきらきら光っていた。Moon, Shine, Moonshiner と言葉遊びを口ずさむ。moonは月、shineは輝き。そしてmoonshinerは、アメリカの禁酒法時代の、密造酒を作る人という意味の言葉だそうだ。罪の味のする酒は、月をとびきり輝かせるということだろうか。私もできることなら、いつか酒が禁じられる世の中が来ても、太陽を受けて光る月を、もっと輝かせる人間になりたい。

2016年8月19日金曜日

ある日(劇作家)

夕方、花壇のバジルに水をやっていたら「バジルペーストの1人前って、葉っぱどれくらいあればできるんですか」と劇作家に訊かれた。バジルペーストは、葉とオリーブオイルと塩をミキサーにかけてつくるけれど、そうするとかなり嵩が減ってしまう。正直に「花壇のここからここまで葉っぱをとって、1人前ですかね」と言ったら劇作家は驚いて「そんなに少ししかできないんですか」と言ったので、つい「いや、もうちょっとたくさんできるかもしれません」と訂正してしまった。

夜になってから、劇作家がまた喫茶に来て、仕事をしながら少しおしゃべりしていった。
「カレーは700円で売ってるのか」としみじみ言う。「100杯売っても7万円にしかならないんですね」と相変わらず身もふたもない物言いをするのがおもしろく、好ましい。 今朝、クリームソーダが早々に売り切れてしまって、それはメロンソーダの上に乗せるラクトアイスが品切れになってしまったからだった。盆が終わるまで、島の酒屋にアイスは入荷しない。「島じゅうのアイスをクリームソーダに乗せてしまったわけですか」と劇作家は笑った。確かにそうだった。島の外からアイスを運んでこないと新しくクリームソーダはつくれない。「そう考えると島は不便っすね」と話を聞いていた朝日が言った。「でも日本全体で考えたってアイスクリームの材料を外国から運んでこないといけないわけだから一緒でしょう」と、あいかわらず劇作家は、世界の縮尺を自在に伸び縮みさせる。朝日が続けて脈絡なく「小豆島に映画館ってあるんですか」と訊ねた。答えは否。島の人が映画を見るためには、船に乗らないといけない。店を閉めてから換気扇を掃除してくれた朝日に、何かおいしいものでもつくってあげようと思って、たべものは何が好き? と聞いたら「ラーメンっす」と言われた。朝日はそういう子である。ラーメンは、さすがに私でもつくれない。

明日は満月という日で、胸がざわざわして眠れなかった。車を借りてひとりで買い物に出たので、帰りに浜まで月を見に行った。東の空に真珠色をしてのぼった月は、西の空に珊瑚色となって沈む。

2016年8月17日水曜日

ある日(休み、恋)

見かねたマスターが昼間に休みをくれた。昨日に続き、また包丁で指を切ったからである。今度は親指をやってしまった。あとで見ると結構深く切ってしまっており、治るまでには時間がかかりそうだった。エリエス荘に戻る道すがら、地元の人間をよそおい、大阪から来た夫婦に道を教えた。喫茶の外でも私のままごとは続いている。

エリエス荘の食堂にいたゆりちゃんと話した。私がぼうっとしていると「何か探してるの?」ときゅうに言われたので、昨日買ってきてもらった水のペットボトルを探しにきたことを思い出した。でも、冷蔵庫に水は見つからなかった。「じゃあ、買いすぎちゃったから、これ」と言ってゆりちゃんは、2リットルの水とサンペレグリノをひと瓶くれた。 

午後の喫茶はたいそう混んだらしく、私が休憩から戻るとみんな無言で皿を洗っていて、申し訳ない気になったけれど、他人が働いているからという理由だけで自分も働くのはやめると決めた身なので、すまして普通に仕事に戻った。若い大学四回生も、朝日のようにきらきらした男の子も、よく働くし、まじめでかわいい。

夜は知らないうちに雨が降っていた。「洞雲山から風が吹くと雨になるんよ」と、いつだったか畑の帝王が言っていたのを思い出す。たいした雨量にはならずに、地面を湿らせただけで終わった。

ひところ、海辺の町に駆け落ちすることばかり考えていた。海のある場所でなければ、駆け落ちするような心持ちを支えられない。奥深い山に隠れるのはつらすぎる。風が抜け、流れる時間を信じられる場所でなければ、道ならぬ恋は貫けない。そう思っていた。30歳を過ぎるまで、ろくに海を見たことがなかったくせに、今ではひとりで夜の海にだって行く。 海を見ながら大人になった子はどんな人になるんだろう、と考えて、今、自分の目の前にそういう大人がたくさんいることに気がついて、ああ、こういう大人か、と思う。

島に住む人は、どんなふうに恋をするのだろう。だって、ここで恋をしたら、逃げ場がない。ここに駆け落ちしてきたって人目をしのんで暮らすのは難しいだろう。瀬戸内海は島が多くて、陸が見えなくなることがない。それなのに島々は小さく切り離されていて、何もかも知られてしまう。悟られたくない気持ち、隠しておきたい関係を、どう見ないふりをすればいいのだろう。相手の親や友だち、近所のひとにもうっすら知られながらおこなう性行為は、秘密の好きな私には難しいように思える(それが透けていようがいまいが、人に話していないことは私にはすべて「秘密」である)。港のある暮らしに慣れかけていて、人ごみに紛れて恋をすることを忘れそうになっている。「渋谷のラブホっていうのは人ごみの象徴だけど、田舎でラブホに行くっていうのは人里から離れるっていう意味だからね」と、話してくれた子が昔いたけれど、彼がどうしているのかは今となってはわからない。小豆島にはラブホテルがないし、レンタルビデオ屋も映画館も劇場もない。女とギャンブルが男の二大テーマと仮置きしたとして、パチンコ屋はふたつもあるからいいけれど、女とすれ違うための場所が島にはないように見える。少なくとも、私の今のところの身体感覚においては。

ある日(眠り)

マスターが花壇のハーブをかわいがりすぎて、ハーブに話しかけるようになった。 シャーベットに飾るミントの葉は花壇から摘んでいるのだが、マスターはミントに「お前、いい仕事してるよ」と言いながら水をあげている。おかげでミントは喜んで葉を伸ばし、シャーベットをつくるのには困らない。

祝う祝わないは別にして、この人の誕生日を忘れてしまったら自分の人生はちょっと違う段階に入るだろうな、という人がいると思う。そういう人は何人かいて、何人もはいないんだけど、まあいる。つまりこの日はそういう日のひとつで、おそらく3年ぶりに、直接おめでとうという連絡をした。

午前中はオフで、午後から集まって買い出しに行く予定だったけれど、起きられなくて付いていくのをやめた。 むし暑い部屋で、昼に夜を継いで眠り続ける覚悟で、記憶をなくしそうになっていたけれど、花火に誘ってもらったので出かけることにした。大きな祭りの会場で花火を見た。2000発の花火は、ゆっくり大切に打ち上げられた。帰り道、誰かが落としたタオルを拾った。

花火が終わると、誕生日のメールに返信が来ていた。「今年は変化の年」だそうだ。

2016年8月15日月曜日

ある日(海辺の盆踊り)

5時半に起きて、早朝に墓参りをする人々を海の側から眺めていた。みんなが、山にある墓にのぼっていくのが見える。はじめは音楽を聞きながら見ていたけれど、お線香の匂いがするのでイヤホンを外すと、人々の話し声が海まで聞こえてくるのがわかった。日が高くなってから、けさお墓参り行ったんですか、といろんな人に聞いてみると「出かけるから昨日済ませた」とか「行ったよ、でも昔よりも人減ったわ」とか「親は行ってたけど僕は寝てた」とか、さまざまでおもしろかった。

盆踊りに行った。坂手の人が200人ほども、集まっていると教えてくれたのは谷さんだった。来月デュッセルドルフに行くという画家や、かつて下北沢で演劇をしていたという女性と話をした。今はねえ、こんなふうに若い人がいろんな表現をする方法があるからねえ、それはいいことだと思うわ。だけど、彼女の目はどこか遠くを見ていて、寂しげだった。いいことだと思いますか? ええ、ええ、いいことだとは、思うわ。

これだけの人々が、故郷たる坂手を愛しているのかと思うと目が回る。もちろん愛憎無関心、人それぞれあるのはわかる、わかるけど、少なくとも坂手という拠り所がここにはある。私はいつでも、故郷への愛着と客観の両方を獲得した人が好きだなと思う。Uターンして出身地で新たな仕事をしている友だちが「昔は地元に帰省しても、ああ帰ってきちゃったなあって思ってたけど、今は帰ってくるべきところに帰ってきたと思うわ」と、いつだか話していたのを思い出す。大切にすべき人を大切にできる人はそれだけで素晴らしく、そこに虚しさを感じていようが何だろうが、ともかくそれができるなら、それは価値のあることだ。私が何のことを言っているのか、わからない人はわからなくてよろしい。自分のことだ、と感じ入る人は全員、感じ入ればよろしい。ああ、いいなあ、と思う。いいなあ、というのは、私にはできない、できなかった、これからもできないかもしれないという不安で、 見よう見まねで坂手の盆踊りを踊りながらどんどんその気持ちが大きくなってきて、ああそうか私には故郷がないんだなと思った。子どものころ、盆踊りで太鼓を叩いたことも合いの手を入れたこともないし、そもそもお祭りに一緒に行くような友だちはいなかった。いたのかもしれないけれど忘れたならいなかったのと同じことだ。同じことじゃないことはわかっているけれどともかく、いない。故郷がないということは帰るところもないし、待っている人もいない。いいや、そんなことはないでしょう。わかるわかる、わかってるよ。大丈夫なんだよ。ただ誰と話していても、体の半分がいつも失われてるだけなんだ。 君はすぐ話をそらすね、と、けっきょく思い出す言葉は昔他人に言われたことばかりである。違う違う、そらしてるんじゃなくて、いろんなことをいっぺんに考えているの。そう答えたけど、自分の頭で考えたことなんかすぐ忘れる。別に嘘じゃないけれど、だってあんまりいろんなことがたくさん起きるから、心も体も背負うには重すぎて、だから上手に踊れない。

盆踊りはぜんぶで三回あって、三回目の踊りを踊るとくじがついたうちわがもらえる。だから三回目までしっかり踊りや、とおっちゃんに言われたのでそうした。それで、キッチンペーパーとゴミ袋が当たった。嬉しかった。おっちゃんが箱ティッシュの当たりうちわもくれた。嬉しい、嬉しい、これで涙も寂しくない。私の涙は私が知っていればいいし、理由も私だけがわかればいい。誰かが恋しくて泣くのではない。そんなことで泣いたりしないから大丈夫。キッチンペーパー、こんなにたくさんあるし、みんな優しいし、島で泣く理由なんかひとつもない。もう毎朝エントランスのソファで寝たりもしない。私、俳優じゃないんですよ、物書きなんです。説明しながら、昼間に喫茶で、劇作家が私だけにかたってくれた物語を思い出していた。新たな扉にぶつかった時、主人公は、それまで大切に持っていたペン先を外して錠前にねじ込んだ。扉の先に何があったかは、私と劇作家だけの秘密だ。

広場をあとにしてエリエス荘まで帰るのに、谷さんと一緒になった。谷さんと話しながら、彼が歩きスマホしながらポケモンにえさをやり、モンスターボールを投げて捕まえるのを横からじっと覗いていた。ポケモンはモンスターボールから逃げ出して「あっ、失敗や」と谷さんが言った。私は、半世紀先の盆に、自分の魂はどこに帰るんだろうなとじっと思っていた。谷さんがまたボールを投げる。今度はうまくいった。

ある日(盆の前日)

珍しいので、お盆の風習をいろんな人に訊ねている。坂手では、14日の早朝に墓参りにゆくため、前日に掃除をしておくのだと言う。だからこの日の夕方は「墓掃除してくるわ」と言って早めに喫茶を出た島の人もいた。畑の帝王に訊ねると、他にもあれこれ盆の慣習を教えてくれた。彼は、島にやってくる甥や姪に会えるのを楽しみにしているようだった。

「劇場を作ろうとしたら喫茶店になりました」、と喫茶の入口には掲げられている。演劇でなければ目を留めない人がいるのと同様に、喫茶をやっていなければ出会えなかったお客さんもたくさんいて、 たとえば昨日私たちをカレー屋に連れていってくれた青年なんかもそうだ。昨日は、喫茶の片付けをしている私たちをずっと席で待っていてくれたのだけど、その時にちらっと「学生時代の、居酒屋バイト仲間の終わり待ちの感覚を思い出します」と言っていたのが印象に残っている。その時彼はバイト仲間を待つ学生だったのであり、私たちは厨房担当のフリーターかなんかだったのである。さまざまな記憶を喚起させ、撹拌するのが、劇場の役割のひとつである。蓋然性を高め、誘発すること。そんな話をずっと考えていて、夜に酔っぱらって、いつおさんに力説してしまったのをあとで思い出した。まずい。酔ったらくだらないことだけ言うのが信条なのに、自分の話をしてしまったなんてつまらない。

劇団のメンバーが島に来た。喫茶でパフォーマンスを売ると言う。飲んだり食べたりしなければ人間は生存できないけれど、必ずしもなくても生きられる(とされる)パフォーマンスを、飲みものや食べものと同じ列に並べて売るのは大胆な態度だと思う。その姿勢はしなやかで、内側までみずみずしい。また書く機会もあるだろう。

煙草の量が増えてしまっている。海を見て、考え事をしたり歌をうたったりする時間が増えているからだ。これまでも3mgのものをたまに吸っていたけれど、先月、ひさしぶりに再会した友だちの真似をして6mgの銘柄に変え、それが島では手に入りにくいから、今は8mgのメンソールになっている。どこのコミュニティでも、女の人は誰かの奥さんであったり、誰かの娘であったり、そういう感じになるものだ。でも、そういう、ある意味すぐに説明できるような枠組みに属していない女の人が、この島では煙草を吸っている。そういう感じがする。仲間はとても少ないけれど、煙の合図ですぐわかる。今のところは女に生まれてよかったかな、でも、少し男にもなりたかったな、と未だに考える。眠る前には、ペディキュアを赤く塗り直す。昔坂手の港にあった灯台みたいに、行く先を照らしてほしいから。

2016年8月14日日曜日

小休止Ⅱ

犬島まで行くことになった。直前まで悩んだ。行く道はいいのだが、帰りの船がどうしてもないからである。船とバス、あらゆる時刻表を熟読玩味して、結局、岡山駅にゆき、そこに宿を取って翌日また小豆島の土庄港へ帰ることとした。坂手から土庄までは車で30分はかかる道のりなのだけれど、そこさえ何とかすればあとは交通手段が明確に定まっていたからである。犬島では、おみやげに鉛筆を3本買った。翌朝、岡山駅からはるばる土庄港まで帰り、マスターからの買い出し依頼にも何とか応えて、坂手まで戻った。

その日の夕方は、大部港に行った。きみちゃんが軽自動車で連れていってくれたので、行くことができた。そうでなければ行くことができなかった、と言ってもいいほどの山道で、途中は岩石の採掘で山肌がはでに剥き出しになっていた。きみちゃんはそれを見て「ここ、県に無断で採掘しよんねん。現状復帰命令出とるけど、無理やんな」と言った。こんなはでな採掘を無断でしていいのか、いや、だめだから行政処分がくだっているんだろう、と思った。大部港について、造船所跡で演劇を観た。客席では子どもがかき氷をたべ、犬が伏せてまどろんでいた。太陽と同じように、月も水平線に沈むということは知っていたけれど、それを見たのはその日が初めてだった。

海運業の青年がまた来て、マスターとしばらく話をし、みんなで隣の隣の隣くらいの町にあるカレー屋に行こうということになった。運転は青年がしてくれた。その帰り道に、旅行中の若者をひろって車に乗せたり、スーパーマーケットに寄ってもらったり、いろいろあったのだけれど、喫茶まで送り届けてもらったあとで一緒に行った大学の四回生が、iPhoneをなくしたと言い出した。喫茶のどこにもないと言う。もしかして、と彼女が言うので、先ほど交換した青年の名刺の先に電話をかけ、後部座席に落ちていないか訊ねると「ありましたよ」と折り返しがあった。それで四回生とふたりで、自動販売機の近くのガードレールに腰掛け、青年が戻ってきてくれるのを待った。迷惑をかけることを恐れない。そう思いながら、ふたたび現れた車の青年に「本当にありがとう」とお礼を言った。普通ならここで相手は「見つかってよかったですね」などと言うだろう。しかし青年は開口一番、にこやかにこう言った。「あのな、島でiPhoneなくしたってどうってことないんよ、絶対に見つかるもん」。島の面積を、みずからの身体感覚に引き寄せた物言いに、思わず感動したけれど、それを伝えることはできなかった。

2016年8月10日水曜日

小休止Ⅰ

実はこれ書き上げてやめようかと思ってたらしいんですけど、という言葉に「いいえ、こんな作品書いちゃったら続けるしかないですね」と答えたら、彼女は「残酷ですねえ」と言ったのだった。彼女と会うのは二度目だが、私のことをよくわかってくれているんだな、と思って信頼している。

京都の東西南北と、通りの名前の感覚が、まるで自転車に乗れるようになった時のように急に、身についたような気がする。「どうやって帰らはります? もし何ならここから三条までくだっていただいても」と薬剤師に言われた時「くだる」という言葉がぐっと腑に落ちるのを感じた。四条烏丸という交差点は、四条通りと烏丸通りが交差するからその名で呼ばれている。その交差点で待合せをしていて、自分のいる位置をどう告げればいいのか、「北西」と言えばいいのだろうか、と思案していると、待合せ相手から先に「北西にいます」とメッセージが来たので、自分の考えが合っていたことが分かった。だから彼とはすぐ会えた。

その日は琵琶湖の花火の日で、山陽本線の最終電車は騒がしかった。高槻、大阪あたりでぐっと人が減って、三ノ宮で私が降りるころには車内の人はだいぶまばらになっていた。フェリー乗り場までゆくバスは混んでいて、なんだか乱雑な雰囲気だったので少し疲れた。フェリーは出港が遅れていて、そこから先は時間がもうわからなくなってしまった。でも、薬を飲んでタオルをかぶって寝てしまえば何とかなる。眠りに落ちる手前で耳を澄ますと、船底から聞こえてくる音が変わっていたので、あ、エンジンが今かかったなと思った。これが船のエンジンの音。知る前と知ったあとでは世界が変わる。そういう境目に、その時私はいた。

2016年8月9日火曜日

ある日(夜間営業)

「ままごとさん、いつもお世話さまです」という声で振り向くと、カレーを食べ終えた男性が、食器をさげてくれるところだった。顔を見て、あ、と思った。先日、兄弟で訪れてくれた客のお父さんだとすぐにわかったからだった。「息子がおじゃましたようで」と言ってくれたので、こちらこそ、とお礼を述べて少し話した。昨年、島で初めて演劇を観たおばあちゃんの話をまた伺い、おばあちゃんに会ってみたい気持ちが募っている。

美大生の看板は完成し、喫茶の表や中をみごとに飾っていた。その効果が出て、客がいっきに増え、売れ行きがあきらかに変わった。美大生が描いてくれた絵のおかげでイメージが湧くようになったのか、アイスクリームを乗せた飲み物が多く売れるようになった。クリームソーダは年配者の郷愁と子どもの贅沢心を誘い、コーヒーフロートは大人たちのちょっとした憩いになっている。

つまみを作って、夜間営業の時間を待つ。フライドポテトにバジルを乾燥させてふりかけてみたり、アボカドをディップにしてチキンといっしょにホットサンドにしたりした。夕方、今日のイベントに登壇する演出家と俳優が喫茶に到着して、司会をつとめるマスターと打合せをしている。島の人々がゆるやかに集まり、予定の時間を少し過ぎて会が始まった。おっちゃんから小さな子どもまで来てくれて、お酒やつまみの売れゆきも良好だった。都市とは違う聞き手たちに文脈が伝わらないのでは、と不安になる場面もあったものの、会は、演出家と俳優の戯曲抜粋朗読で、ゆたかに締めくくられた。会が終わってからカウンターにビールを買いにきたきみちゃんが「さっきの朗読聞いてな、わし、死んだ伯父のこととか思い出して、涙出そうになったわ」と言ったのが、何よりの証である。

喫茶を閉めてからは、エリエス荘に移動して酒盛りが続いた。島の人々も、ひさしぶりの宴に嬉しそうだったのが印象的だった。東京ではこれまで出会えなかった演出家とじっくり話すことができた。最初は作品にあれこれ口出しされて困っちゃったんだけど、最近、港町の人たちが「演出家」っていう職業を認識するようになったんですよ、皆があれこれ口出しするのは変わらないんだけど、最後に「まあ決めるのは演出家さんやからね」って言ってくれるようになった、という話がいちばんおもしろかった。それから、名前だけは知っていたある島のおじさんとも直接喋った。コミュニティができるということは、仲間はずれができるということである。そして、ある人々にとって芸術は鑑賞するものや人生の糧にするものではなく、所有することに価値があるものである。だから言われたんよ、現代美術が何や、アーティストなんか歓迎するのに何で税金使うねん、あほらし、ってな。お金落としてくれる観光客のためにこっちが金使わんでどうするって言われるんやけどな、アーティストがおるから観光客がそれを観に来てくれるんやないか、なあ。わしら3年前はこうやって毎日飲んどった。でもな、そういう輪ができたら、乗り遅れる人らが必ずおるねん。アートアートってな、言い過ぎてもあかんねん。そんな話をしながらも、彼らはたとえば、3年前からずっと島を訪ねている俳優ゆりちゃんのタフさやパフォーマンスの引き出しの多さに脱帽し「あの子はすごいな、柴さんはあの子おらんとだめやな」と笑って、最大の賛辞を送るのだった。

2016年8月6日土曜日

ある日(乗り合い)

マスターは朝、坂手の婦人会の集まりに行って、町内で回す回覧板の説明をしに行った。来週、劇団のメンバーが来て、演劇をつくる活動を本格的にはじめるので、回覧板で協力をつのるのだ。劇団員の俳優の手書きの回覧板で、メンバーの似顔絵が随所に入っていて、かわいいうえによく似ている。喫茶のお知らせのところに、恐れ多くも私の似顔絵も描いていただいてあって、ひっそり写真に取って保存した。マスターにあとで聞いたところによると、婦人会はお知らせをする場だけでなく、住民たちのレクリエーションの時間でもあったようだった。レクリエーションの様子を見ると、演劇やパフォーマンスにできることの多様な可能性を、切実に考えざるをえないようだった。

カレーは出色の出来だった。夕方に立て続けに売れることがあり、お昼を過ぎたからといってあきらめてはいけないことは、何となく学んできた。

いつおさんが久しぶりにやってきて、暑がっているので氷をあげた。人の少ない時間帯の喫茶で涼みながら、マスターを交えて話す。ちょうどジャンボフェリーが着く時間で、港には車が並んでいた。車がフェリーに乗り込むための巨大なスロープが港にはあって、いつもはまっすぐ登っていく車が、なぜかバックでそのスロープを走らされているのが見えた。「たくさん乗せる時は後ろ向きに入れるのかな?」といつおさんが言った。「さあ」とマスターはどうでもよさげに答える。ふしぎな光景なので、しばらく見ていた。長い坂道をバックで運転してフェリーに乗り込むなんて、私だったら嫌だ。かわいそうに、とドライバーに同乗しながら見守る。おそるおそる登っていく赤い車を見て「ああ、そこ切らなくていい、右だよ右」とか「そのままそのまま、ハンドル戻して」などとみんなで励ます。赤い車が何とかフェリーに乗れた時は、一同ほっとした。そのあとのシルバーの車は、おのれの運転技術を見せつけるようにすごいスピードで坂道をバックして、乗り込んでいった。

閉店まぎわ、ひとりの女性がやってきた。カレーとビールを買ってくれた。オリーブ公園の近くのユースホステルでバイトしていて、今日の夕方だけ時間があるので坂手に観光に来たという。馬木からお兄さんが車に乗せてくれて、ここまで来ることができたそうだ。話を聞いていると、車に乗せてくれたお兄さんは「ここの2Fの喫茶で話を聞けば何とかなるよ」と言って、彼女をこの建物の目の前で降ろしたらしい。「黒く焼けてめがねをかけた人でした」と彼女は言う。あれこれ坂手の見物先の世話を焼いていたマスターが、その言葉を聞き、携帯電話のカメラロールを出して「……それはもしかしてこの人ではありませんか」と訊ねると、彼女は「あっ、そうです!」と顔を輝かせた。馬木から彼女を乗せ、喫茶に放り込んだのは、マスターの悪友、スイフの主人ことM氏であった。マスターは苦笑して、夕陽のいちばん綺麗に見える物見台への道を彼女に教えた。彼女を送り出し、物見台に着いたと思われるころ、沈む陽は海におだやかな光の綾を投げかけ、茜と薄紫のグラデーションの空は、艶やかな色をだんだんと濃くしていった。二日目の月が糸のように細く光りはじめたのは、それから1時間後のことだった。

2016年8月4日木曜日

ある日(兄弟)

ついに美大生から「もしかして、朝エントランスのソファで寝てませんか」と訊ねられた。「毛布かぶってるから顔わかんなくて、男の人かと思って最初びっくりしたんですけど、よく見たら」と言われたので、驚かせてごめんね、と謝った。美大生は、たまに朝の散歩に出るのだが、その時、ソファにいる私を見かけるらしかった。別に寝てはいないのだ。朝いちばんのフェリーがやってきたら、どうせアナウンスやらエンジン音やら、うるさくて眠ってはいられない。ただ死体みたいに横たわって、窓からひろく見える海を眺めて、あ、今人生でいちばん海のそばに寝ているかも、などとくだらないことを考えている。そういえば昔、ふとんを外に引っぱりだして月を見ながら眠ったことが一度だけあるなあ、とか。

昨日の、ダックスフントを連れた青年がカレーを食べに来てくれた。事務所がすぐそこなので、と彼は言った。12時ちょうどのお昼時は、喫茶はいつもぜんぜん混まない。「みんな、お昼には何か食べるはずなんですけどね」と青年が苦笑するので私は、島の皆さんはお弁当持っていらっしゃるのかしら? と返した。

青年は海運業なので、船に詳しかった。仕事の話や、フェリー船体の耐用年数、坂手港のフェリーが他の港と何が違うか、今後も航路を確保するための戦略などを次々わかりやすく教えてくれた。青年は小豆島育ちで、物心ついた時には、エリエス荘(青年はかつての名称、サイクリングセンターと呼ぶ)は廃墟に近かったという。ジャンボフェリーが就航したのは5年前で、それで坂手がいかに変わったか、しみじみと教えてくれた。のんびり育った彼も、高校時代には坂手の町に何も感じ入ることがなくなり、早く出て行くことばかり考えていたそうだ。子どもを育てるにはいい。でも、競争することを知らないままになるだろう、小学校も中学校も、高校も、どんどん統廃合されていくから、と彼は言う。彼は、島の暮らしにまつわる実感を言葉にするのが、とても上手だった。

もっしゃんがカレーを食べにきて、「あ」と海運業の青年をみとめ、あいさつを交わした。 顔見知りらしかった。生まれも育ちも坂手であれば当然であろう。結局、青年の昼休みいっぱい、客は彼ともっしゃんだけで、ゆっくり話せて楽しかった。マスターは彼が帰ったあと「何年も来てるけど彼には会ったことがなかったな」とつぶやいた。「長くいないと出会えない人、いるんだな」とも。

午後、男の人がひとりやってきて、りんごジュースを注文した。彼が財布を出しながら「弟から『ここの喫茶がおもしろいから行くといい』って言われたんですけど」と言ったので、私は顔をあげた。昼時の海運業の青年の、兄だった。似ていない、と思ったけれど、それは職種と住む場所の違いだろうか。 兄は久しぶりに、生まれ故郷の坂手に戻ってきているらしかった。彼はマスターとも喋って、話がだいぶ弾んだ様子で、しばらく店内の様子を見てから、じゃあ夕方にまた同級生と来ます、と言って帰っていった。その同級生は、マスターもよく知っている女性で、 小豆島で仕事をしている、醤油ソムリエ・編集者なのだと言う。

午後はしばらく忙しく、フェリーの出航の時間にあわせて店は混んだ。カレーも無事売り切れた。

数時間後、兄が醤油ソムリエ・編集者とともに店を再訪した。折よく、もっしゃんたちが、あさっての喫茶でのトークイベントのために機材を持ってきてくれたところだった。醤油ソムリエ・編集者はもっしゃんとも仕事を通じて知り合いで、喫茶には束の間、わっとおしゃべりの花が咲いた。

「もっしゃん、この子誰かわかる?」と彼女がいたずらっぽく、隣に座る彼を指すと、もっしゃんはしばらくぽかんと彼を見つめ「ああ」と、彼の名を口にした。「今どこにおるん」と懐かしそうに言う。「わし、あんたんとこの弟と昼間カレー食べよった」と言うと、兄はほそぼそと自分の近況を説明しはじめた。私は、今まで演劇や映画でしか知らなかった「故郷にひさびさに帰り、地元の人から声をかけられて少し居心地悪そうにしながらも照れと懐かしさの入り交じる複雑な表情で受け答えしている人」を、初めて見た。口に手を当て、ここに喫茶という名の劇場がつくられた意義を、あらためて思い起こしたりした。この喫茶で「上演」されるのは、劇団やマスターが意図したことだけではなくて、あくまで偶発的な出会い、副産物としてのドラマでも、あるのだった。

彼が店を出る時に、またお会いしましょう、と言うと、兄は、明日の朝港を出て今住んでいる場所へ帰るのだと言った。でもまあ、日本のどこでまたお目にかかるかわかりませんから、と言うと、確かにそれもそうですね、お互いこんな仕事ですしね、と言って握手してくれた。