5時半に起きて、早朝に墓参りをする人々を海の側から眺めていた。みんなが、山にある墓にのぼっていくのが見える。はじめは音楽を聞きながら見ていたけれど、お線香の匂いがするのでイヤホンを外すと、人々の話し声が海まで聞こえてくるのがわかった。日が高くなってから、けさお墓参り行ったんですか、といろんな人に聞いてみると「出かけるから昨日済ませた」とか「行ったよ、でも昔よりも人減ったわ」とか「親は行ってたけど僕は寝てた」とか、さまざまでおもしろかった。
盆踊りに行った。坂手の人が200人ほども、集まっていると教えてくれたのは谷さんだった。来月デュッセルドルフに行くという画家や、かつて下北沢で演劇をしていたという女性と話をした。今はねえ、こんなふうに若い人がいろんな表現をする方法があるからねえ、それはいいことだと思うわ。だけど、彼女の目はどこか遠くを見ていて、寂しげだった。いいことだと思いますか? ええ、ええ、いいことだとは、思うわ。
これだけの人々が、故郷たる坂手を愛しているのかと思うと目が回る。もちろん愛憎無関心、人それぞれあるのはわかる、わかるけど、少なくとも坂手という拠り所がここにはある。私はいつでも、故郷への愛着と客観の両方を獲得した人が好きだなと思う。Uターンして出身地で新たな仕事をしている友だちが「昔は地元に帰省しても、ああ帰ってきちゃったなあって思ってたけど、今は帰ってくるべきところに帰ってきたと思うわ」と、いつだか話していたのを思い出す。大切にすべき人を大切にできる人はそれだけで素晴らしく、そこに虚しさを感じていようが何だろうが、ともかくそれができるなら、それは価値のあることだ。私が何のことを言っているのか、わからない人はわからなくてよろしい。自分のことだ、と感じ入る人は全員、感じ入ればよろしい。ああ、いいなあ、と思う。いいなあ、というのは、私にはできない、できなかった、これからもできないかもしれないという不安で、 見よう見まねで坂手の盆踊りを踊りながらどんどんその気持ちが大きくなってきて、ああそうか私には故郷がないんだなと思った。子どものころ、盆踊りで太鼓を叩いたことも合いの手を入れたこともないし、そもそもお祭りに一緒に行くような友だちはいなかった。いたのかもしれないけれど忘れたならいなかったのと同じことだ。同じことじゃないことはわかっているけれどともかく、いない。故郷がないということは帰るところもないし、待っている人もいない。いいや、そんなことはないでしょう。わかるわかる、わかってるよ。大丈夫なんだよ。ただ誰と話していても、体の半分がいつも失われてるだけなんだ。 君はすぐ話をそらすね、と、けっきょく思い出す言葉は昔他人に言われたことばかりである。違う違う、そらしてるんじゃなくて、いろんなことをいっぺんに考えているの。そう答えたけど、自分の頭で考えたことなんかすぐ忘れる。別に嘘じゃないけれど、だってあんまりいろんなことがたくさん起きるから、心も体も背負うには重すぎて、だから上手に踊れない。
盆踊りはぜんぶで三回あって、三回目の踊りを踊るとくじがついたうちわがもらえる。だから三回目までしっかり踊りや、とおっちゃんに言われたのでそうした。それで、キッチンペーパーとゴミ袋が当たった。嬉しかった。おっちゃんが箱ティッシュの当たりうちわもくれた。嬉しい、嬉しい、これで涙も寂しくない。私の涙は私が知っていればいいし、理由も私だけがわかればいい。誰かが恋しくて泣くのではない。そんなことで泣いたりしないから大丈夫。キッチンペーパー、こんなにたくさんあるし、みんな優しいし、島で泣く理由なんかひとつもない。もう毎朝エントランスのソファで寝たりもしない。私、俳優じゃないんですよ、物書きなんです。説明しながら、昼間に喫茶で、劇作家が私だけにかたってくれた物語を思い出していた。新たな扉にぶつかった時、主人公は、それまで大切に持っていたペン先を外して錠前にねじ込んだ。扉の先に何があったかは、私と劇作家だけの秘密だ。
広場をあとにしてエリエス荘まで帰るのに、谷さんと一緒になった。谷さんと話しながら、彼が歩きスマホしながらポケモンにえさをやり、モンスターボールを投げて捕まえるのを横からじっと覗いていた。ポケモンはモンスターボールから逃げ出して「あっ、失敗や」と谷さんが言った。私は、半世紀先の盆に、自分の魂はどこに帰るんだろうなとじっと思っていた。谷さんがまたボールを投げる。今度はうまくいった。
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