ついに美大生から「もしかして、朝エントランスのソファで寝てませんか」と訊ねられた。「毛布かぶってるから顔わかんなくて、男の人かと思って最初びっくりしたんですけど、よく見たら」と言われたので、驚かせてごめんね、と謝った。美大生は、たまに朝の散歩に出るのだが、その時、ソファにいる私を見かけるらしかった。別に寝てはいないのだ。朝いちばんのフェリーがやってきたら、どうせアナウンスやらエンジン音やら、うるさくて眠ってはいられない。ただ死体みたいに横たわって、窓からひろく見える海を眺めて、あ、今人生でいちばん海のそばに寝ているかも、などとくだらないことを考えている。そういえば昔、ふとんを外に引っぱりだして月を見ながら眠ったことが一度だけあるなあ、とか。
昨日の、ダックスフントを連れた青年がカレーを食べに来てくれた。事務所がすぐそこなので、と彼は言った。12時ちょうどのお昼時は、喫茶はいつもぜんぜん混まない。「みんな、お昼には何か食べるはずなんですけどね」と青年が苦笑するので私は、島の皆さんはお弁当持っていらっしゃるのかしら? と返した。
青年は海運業なので、船に詳しかった。仕事の話や、フェリー船体の耐用年数、坂手港のフェリーが他の港と何が違うか、今後も航路を確保するための戦略などを次々わかりやすく教えてくれた。青年は小豆島育ちで、物心ついた時には、エリエス荘(青年はかつての名称、サイクリングセンターと呼ぶ)は廃墟に近かったという。ジャンボフェリーが就航したのは5年前で、それで坂手がいかに変わったか、しみじみと教えてくれた。のんびり育った彼も、高校時代には坂手の町に何も感じ入ることがなくなり、早く出て行くことばかり考えていたそうだ。子どもを育てるにはいい。でも、競争することを知らないままになるだろう、小学校も中学校も、高校も、どんどん統廃合されていくから、と彼は言う。彼は、島の暮らしにまつわる実感を言葉にするのが、とても上手だった。
もっしゃんがカレーを食べにきて、「あ」と海運業の青年をみとめ、あいさつを交わした。 顔見知りらしかった。生まれも育ちも坂手であれば当然であろう。結局、青年の昼休みいっぱい、客は彼ともっしゃんだけで、ゆっくり話せて楽しかった。マスターは彼が帰ったあと「何年も来てるけど彼には会ったことがなかったな」とつぶやいた。「長くいないと出会えない人、いるんだな」とも。
午後、男の人がひとりやってきて、りんごジュースを注文した。彼が財布を出しながら「弟から『ここの喫茶がおもしろいから行くといい』って言われたんですけど」と言ったので、私は顔をあげた。昼時の海運業の青年の、兄だった。似ていない、と思ったけれど、それは職種と住む場所の違いだろうか。 兄は久しぶりに、生まれ故郷の坂手に戻ってきているらしかった。彼はマスターとも喋って、話がだいぶ弾んだ様子で、しばらく店内の様子を見てから、じゃあ夕方にまた同級生と来ます、と言って帰っていった。その同級生は、マスターもよく知っている女性で、 小豆島で仕事をしている、醤油ソムリエ・編集者なのだと言う。
午後はしばらく忙しく、フェリーの出航の時間にあわせて店は混んだ。カレーも無事売り切れた。
数時間後、兄が醤油ソムリエ・編集者とともに店を再訪した。折よく、もっしゃんたちが、あさっての喫茶でのトークイベントのために機材を持ってきてくれたところだった。醤油ソムリエ・編集者はもっしゃんとも仕事を通じて知り合いで、喫茶には束の間、わっとおしゃべりの花が咲いた。
「もっしゃん、この子誰かわかる?」と彼女がいたずらっぽく、隣に座る彼を指すと、もっしゃんはしばらくぽかんと彼を見つめ「ああ」と、彼の名を口にした。「今どこにおるん」と懐かしそうに言う。「わし、あんたんとこの弟と昼間カレー食べよった」と言うと、兄はほそぼそと自分の近況を説明しはじめた。私は、今まで演劇や映画でしか知らなかった「故郷にひさびさに帰り、地元の人から声をかけられて少し居心地悪そうにしながらも照れと懐かしさの入り交じる複雑な表情で受け答えしている人」を、初めて見た。口に手を当て、ここに喫茶という名の劇場がつくられた意義を、あらためて思い起こしたりした。この喫茶で「上演」されるのは、劇団やマスターが意図したことだけではなくて、あくまで偶発的な出会い、副産物としてのドラマでも、あるのだった。
彼が店を出る時に、またお会いしましょう、と言うと、兄は、明日の朝港を出て今住んでいる場所へ帰るのだと言った。でもまあ、日本のどこでまたお目にかかるかわかりませんから、と言うと、確かにそれもそうですね、お互いこんな仕事ですしね、と言って握手してくれた。
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