2015年9月8日火曜日

ある日(危なさについて)

座禅は終わったけれど、ラジオ体操は8月31日までやるのだった。気がかりだったけれど、さすがに起きられなかった。6時ごろ目をさました時には雨の音がしていて、まあ、雨の吹き込まないところで体操はやるかもしれないけど、ちょっと行かれないな、と思って最後の最後で怠けてしまった。8時過ぎ、やっと起きだして雨の中自転車をこぎ、最後の地蔵湯。
Fが先に戻り、私は商店街でみやげものを見てからアートセンターに戻った。すると中から、フォトスタジオの三姉妹の声がする! あわててアートセンター入口に自転車を乗り捨て(その後、館長がしまってくださる)、駆けこむ。三姉妹が、夏休み最後の今日、水族館に行くことは昨夜聞いていたが、その前に私たちを見送るために立ち寄ってくれたのだった。三姉妹の母からは手ぬぐいを、次女と三女からはお手紙をもらった。忘れられてもいいなんて言ったって、涙が出るほど嬉しい。みんなで記念写真を撮って、今度こそ本当にお別れした。
『演劇クエスト』は「誰にでも人生があって、それがおもしろい」ということを表現したいのではない。ひとの人生から物語を見出して、無理にはぎ合わせたりもしない。誰もが劇的な人生を生きなくてもいいのだし、リアルな人生と、練られたフィクションの価値を比べようなんて思わない。私たちは人々とただ出会うために町を歩いていたのではなく、出会った人たちの目に映る「日常」というフレームを、揺るがすための言葉を探していたのだ。
「城崎の女性たちはアートを必要としている。町おこしや過疎対策のためではない、日々の自分の暮らしをみずみずしく変容させるものを、心から求めている。」と、私はこの城崎日記の中でかつて書いた。その気持ちは変わらないし、忙しさに心が渇いて寂しげな女性たちはどの町にもいる。しかし忘れることなかれ。芸術とは、いつでもあなたの生活をすくって転覆させる可能性をもつ、危険なものなのだ。ただ楽しい時間をもたらすのではなく、身を滅ぼす場所にあなたを招き入れることだってある。杉田久女が夫との不和をかえりみず俳句に打ち込み、最期は狂って死んだこと、金子みすゞが創作を禁じられ、子と引き離された果てに服毒自殺したこと、瀬戸内晴美が子を捨てて同志と決めた男のもとに逃げ、文学にその身を捧げたことなどは、本当にあなたに関係のないことだろうか? ひとりの時間を持って芸術に耽溺することの真の怖さ、そうしなくては生きられない人間の業の深さを、覗きこむ勇気があなたにあるか?
芸術は、現実逃避のためのしろものではない。かぎりなく、現実と地続きにあるものだ。その恐ろしさ、そして何にも代えがたい安心感。私たちはそういう本を書くために城崎に来て、とどまり、そして去ったのである。

2015年9月7日月曜日

ある日(バス、たこ焼き)

とにかく早起きして、駅前のバス停を目指す。ガイドのおばさんからきっぷ、バスのパンフレットなどをもらって、夏の土日しか運行していない、周遊バスに乗る。まず到着したのは水族館だが、朝が早すぎたので海を見ながら開園を20分ほど待つ。先日のHO氏のレクチャーによれば、高度経済成長を遂げているうちは、人は動物園をこのむが、ひとたび経済が落ち着いて、停滞を始めると今度は水族館にあつまるようになると言う。体重300kgのトドがプールにダイブするショー、アシカやイルカがジャンプしたり水上を華麗に舞うショーなどを見る。今度、横浜で作品をつくる時には八景島シーパラダイスも入れようと誓う。

周遊バスで、昼前に竹野の海のそばまで辿りつく。心残りだった場所をあらかた探索してまわり、町中にある記念館のご主人に母屋を案内していただいたりする。漁村の静けさは、農村の静けさとは種類が異なる。漁村がにぎやかなのは、沖から船が帰ってきたり、競りにくる業者が出入りするためで、つまり移動が生じるがゆえのにぎやかさである。だから漁村が静かな時は、海も波ひとつ立たず、しんとしている。農村だと、風がいつも稲を揺らしたりするので、人がいなくても何となく目に音を感じる。

竹野海水浴場から香住への道で、平家の落人が流れついた場所で、今も人が住む小さな集落を見る。平氏が滅びたのは1185年。始めのうちは、落ち延びて隠れ住んでいたのだからここから出られなかったのも、わかる。でももう830年も経っているのに、と思う。なぜ人は根を張った場所から動かなくなるのだろう。この周遊バスの走る道路が開通したのは、ここ数十年とのことだった。でも。いろんな疑問が頭をめぐる。人が、居場所から移動するのはかんたんではないのだ。そのことに疑問を抱く、私のような人間があつまって暮らすために、都市というものはできたのかもしれない。

バスで鉄橋のある町まで行き、電車に乗り換えて城崎まで帰った。帰った、という言葉がこの町に対して自然と胸にきざしたのは、いつだっただろう。こんなにもすぐ、人は居場所に根を張ろうとしてしまう。温泉のあとになじみの酒屋にゆき、ビールを買って飲む。Fと滞在制作を振りかえって話す。日記には書けないほど悩んだことも困ったこともあったし、未だにわだかまりもあるところにはある、と、いつわらざる気持ちをこぼしかけたところで、車に乗ったグルーニカさんの夫が通りかかった。そう、この町にはこうして、すれちがって声をかけてくれる友人がたくさん出来たのだった。もう会えないかと思っていた山頂のお寺のお坊さんも、車で通りかかり、窓をあけて話しかけてくださった。今はこのことだけで、手を携えて作品をつくる気持ちをじゅうぶん持つことができる。あとは移動しながら、走りながら、考えるのだ。アートセンターまでの帰り道に古美術屋に寄り、少女Aに再び会い、お父さんにこの町にまつわる資料のコピーをいただいた。Fをこの店に連れてくることができてよかった。

Fと私の送別会を、町の方がしてくださることになった。フォトスタジオの三姉妹が、母と台車を押して現れた。三女と一緒に台車に乗せられていたのは、たこやき器と、その材料であった。私は、たこやきをつくったことがない。それどころかお祭りで買ったものしか食べたことがないので、これが「家庭用たこやき器」か! と、しみじみ見入った。三姉妹の母はてきぱきと粉と水、紅しょうがなどを混ぜて下地をつくり、中に入れるたこやソーセージを手際よく小皿に並べていった。教えてもらいながら、はじめて私もたこやきを焼いた。鉄板に、丸のかたちのくぼみがいくつも並んだたこやき器に、盛大に溢れさせながら生地を流しこむ。ふつふつと固まってきたら、竹串でひょいひょいと生地を等分し、端を折りこむように丸めてひっくり返していく。この動作は、私の体の中に蓄積のないものであり、きわめてぎこちないものになってしまった。

関西の女たちは、たこやきをくるくる焼きながら、面と向かって言い合うには少し苦しい愚痴や、話しづらいことを打ち明けあうのだと言う。三姉妹の母と、少女たちの遊ぶ声を聞きながら、子を持つことについて話をした。私はやはり、子を産みたい気持ちを抑えがたく持っている。そのことが、城崎に来てよくわかった。三姉妹の母は、たこやきをひっくり返す手を止めず、しかし静かに話し始めた。「自分のおなかから産まれた子でも、当たり前に他人で」「こないだ産んだと思ったのに、ホントにあっという間に大きくなっちゃって」「高校卒業したら、この町からもきっと出ていく時が来るでしょう」「いちばん上の子がもう9歳で……。そうなるとね、半分過ぎちゃったんだよね、18歳まで」それを聞いて私ははっとして、エントランスホールで笑い声をあげている長女の姿を、見やった。母と子の間を結び、やがてすうっと消えてゆく糸が、見えたような気がした。

子どもたちは、Fの大きな体にまとわりつくようにして、遊んでもらっていた。エントランスホールでいつも以上に楽しそうにはしゃぐ子どもたちの声が、食堂にまで響いていた。必要以上に子どもを興奮させたり図に乗らせることを好まない男であるが、たぶんFも、今宵かぎりは、と思って遊ばせていたのだと思う。隙を見てFのiPhoneを動画モードにして、次女に「彼に向けてなにか言って」と頼んでみると、 しばらくはにかんで「ええー」と笑っていたが、最後にひとことだけ「きのさき、きてね」とメッセージを残してくれた。(Fはあとでそれを見つけて「泣ける」と言っていた)

パーティが終わり、われわれ大人たちが連れ立って鴻の湯に向かう頃、三姉妹の長女と次女は一足さきに、竜巻のごとく、家に帰ってしまった。三姉妹の母と、まだ小さい三女を家まで送りながら、明日はもう午前中に発つので会えないかもしれませんね、とあいさつを交わした。フォトスタジオに着くと、玄関先に次女がほんの少し姿を見せて手を振ってくれたが、長女は奥にもう引っ込んでしまっていた。

子どもたちよ、私たちのことを、忘れてもよいのだ。やがて心も体も成長し、はるか彼方へ飛びさるきみたちのことは、母や父やアートセンタースタッフや町の人、私やFが覚えている。それが大人の役目である。9歳や7歳の夏に出会った風変わりな大人のことなんて、覚えていなくていい。2015年の8月、盆踊りの夜に初めて会ってから今日まで、私はとても楽しかった。毎日日記をつけていた。今、城崎の地で育ちつつある芸術の芽は、いつかきみの胸の中にも種を飛ばすかもしれないし、それがきみの人生を左右する大きな花になりうるかもしれない。そんな日が来て困ったらいつでも頼りにしてねって伝えたいけど、たとえそんな日が来ないまま会えなくなっても、私はあなたのことを覚えておくと約束するよ。

2015年9月2日水曜日

ある日(出石、食卓)

館長の車で、出石にある永楽館という芝居小屋を見に行く。関西最古の芝居小屋とのこと。小屋の中のあまりのすばらしさに、城崎に来てからいちばんというほど顔がにやけてしまい、ついには頬が痛くなるほど、夢中になって見て回った。ひとりの芝居好きの人間が歴史を変えてきた例をまたも目撃できた嬉しさでいっぱいになる。しびれるほどの劇場の魔法。

コウノトリをまだ見ていない、というFの一言で、コウノトリの郷公園にも連れていっていただく。羽をちょっと切られて飼われているコウノトリ(羽が伸びたら飛んでいけるとのこと)に餌をやる時刻、空からゆうゆうと、野生のコウノトリが舞い降りてきた。聞きしにまさる、グライダーのような姿だった。白く、赤く、黒く、大きく、美しい。公園の入口にあった記念碑には、何かの折にここを訪れた皇族の方の和歌が刻まれていた。いろんなことを平等に讃えたり願ったりする、品行方正な歌だった。

城崎の町に戻り、お魚屋さんの奥さんにコーヒーショップで会ってから、Fと文学館に行った。私は二度目だが、Fは温泉ばかり入っていたので未だに文学館を訪れたことがなかった。さまざまな展示がある中で、城崎を訪れた文人たちの俳句や和歌、小説の抜粋などを見る。
しほらしよ山わけ衣春雨に 雫も花も匂ふたもとは  吉田兼好
浜坂の遠き砂丘の中にして 侘しき我を見出でつるかな  有島武郎
日没を円山川に見てもなほ 夜明けめきたり城の崎くれば  与謝野晶子
先ほどの皇族の人の歌に比べると、私欲や美意識が優先されているのが良い。

文学館を出て、お蕎麦屋さんの奥さんのところへ行く。こちらも取材。娘さんふたりも同席。3歳の少女の話は、脈絡も結論もないのがたいへんおもしろい。方言のにじむ語尾が愛らしい。

雨足がだんだん強まる。夕食はアンナさん&グルーニカさん姉妹にお呼ばれ。グルーニカさんの旦那さまであるD氏、1歳の娘さんも一緒に食卓をかこむ。旅人を食卓に招き、明るくもてなしてこの町の物語を語ってくれる姉妹の温かさは、今思い出しても身に余るしあわせである。

2015年9月1日火曜日

ある日(座禅、レクチャー)

夏休み座禅の会、最後の朝である。三日前から始めて今日が最後だし、座禅は寺でおこなうし、これを本当の三日坊主と言う。座禅ではいつも何をしているかというと、まずみんなで般若心経の読経。そこから5〜10分ほど座禅をして心を落ち着けて、ご住職の子ども向けのお話。そしてしりとりや、リレーでお話をつくる遊び、九九の暗唱などをして朝8時に終わり。
 
フォトスタジオの次女が小さなリュックをしょってこちらに近づいてきて「お風呂の用意もってきた」とこっそり言う。いつも座禅を終えて朝風呂に向かうFと私をうらやましく思っていたらしく、「明日はいっしょに行く」と昨日言っていたのだった。というわけで、長女と次女を連れて鴻の湯。女の子をふたり、ほんの一瞬、神さまから預かっているような不思議な心持ち。

アートセンターで一休みしてから、ランチに出かける。をり鶴で、上海鮮丼という贅沢をこころみる。錦糸卵、糸のように細切りの大葉が乗った甘海老など、見目よい素晴らしいお食事をいただいた。Fが昼寝に帰ったので、私はひとりで駅向こうのコンビニまで振込の用にゆき、スーパーで買い物したのち、さっと一の湯に寄る。アートセンターに戻り、冷蔵庫に肉などの生ものをしまってから、近所の古美術屋へ。

古美術屋は、座禅会で知り合った少女Aの家である。少女Aは数日前、店で扱っているアクセサリーの中からおすすめの品物について話してくれた。「ぜひ来てください」と控えめに締めくくられた彼女の話がずっと気になっていて、訪れたいと思っていたのだ。店先に彼女の祖母がいらして、私が名乗るとすぐ少女Aを呼んできてくれた。店には、茶道具や掛け軸のほかに、トルコの伝統的な編み方でつくられた飾り紐のアクセサリーがたくさん並べてある。その中から、少女Aのお気に入りのものを教えてもらっていると、彼女の父、すなわち店主が現れた。なんと店主は横浜で仕事をしていたことがおありで、私たちの作品づくりの活動にも、とても興味を持ってくださった。話しながらトルコのアクセサリーをいろいろ選ばせてもらい、花のかたちのピアスをひとつ買った。少女Aはとてもおとなしく、静かな子だけれど、私がその場でピアスをつけて「どう?」と見せると、嬉しそうににこにこしてくれた。でも彼女自身は、こわいからピアスはしたくない、とのこと。

夜は、アートセンターでFによる現代演劇のレクチャー。2時間足らずでは話しきれないことも多くあるが、ある切り口を定め、覚悟をもって語られたレクチャーと思った。フォトスタジオの三姉妹たちも、両親と一緒に来ていた。9歳の長女は、ああ見えてFが人前で話すのをかなり楽しみにしており、昼間からずっと「ちゃんと話せるのかなあ、大丈夫かなあ」と言っていたらしかった。レクチャーが始まる前についとFのもとに寄ってきて「むずかしい顔してむずかしいこと言わないでよね」と言っているのが聞こえた。その横で次女は無邪気に「おうち帰ったら、ぽんぽこ見るの」と笑っていた。今宵は夏休み最後の金曜日。子どもたちのお楽しみであるジブリ映画の放映が、夜9時からあるのだった。

レクチャーを終えての長女の感想は「むずかしくない顔してむずかしいこと言ってた……」というものだった。冷戦構造の終わりだの、ロストジェネレーションだの、彼女にはまだわからないことも多いだろう。しかし重要なのは、自分といつも遊んでくれるFが、大人向けに語ったレクチャーを、1時間以上も、とりあえずは聴いたという事実のほうだ。

子どもたちがテレビを見に帰ったあと、レクチャーを聴きに来てくれた町の方々と、アートセンター食堂で飲む。なじんだ顔ぶれが多くいて、私もめずらしく、力を込めて演劇について話したりしてしまった。ひとりの僧が、このようなことを言った。
「アートセンターが町にできる時、私は全面的に賛成した。しかし、アーティストなら誰でも歓迎という意味ではない。たとえば壁に人糞を塗ったものを『これはアートだ』と言う人が来るのは困る」
人糞は極端な例であるものの、地域と芸術の不安な関係をぐっと突いた言葉であると、感じた。美しいものだけが芸術ではない。だけど、奇抜で汚くて混沌としたものだけが芸術でもない。たえまない対話と、理解をうながす翻訳的な交流がなければ、芸術は人の心に根を張れない。先日のレクチャーの中で、HO氏が残した言葉がある。
「現代芸術は、わからなくても、いいんです」
それは、どうせ考えてもわからないからわからなくていいという意味ではない。わかろうとし続ける、作り手と鑑賞者の、相互の思いがあるという前提において、芸術とはわからなくてもいいものでいられるのだ。