2018年11月7日水曜日

11/3/2018 シビウ演劇祭報告会にて

初めまして。

お手元に写真をプリントした物をお配りしておりますのでそれにそって、今日これまで発表されてきた方の話とは違う方面から、ルーマニアについて、シビウについて、文化についてどう考えるかお話しようと思います。

まずは今年の演劇祭滞在にお声かけくださった、北川大輔さん、谷口真由美さん、ありがとうございます。

あっ、実は今日着ているこれ、ルーマニアで買った服なんです。海外では、そこのもの買ってみる、着てみる、みたいなのことを私は結構大事にしてまして。この白いワンピース、一目惚れして買ったんですけど、日本だと着どころがないから(笑)。あとは、シビウの街でこのストールかぶって歩いてたら謎の家族に絡まれてごはん3000円くらい奢らされましたけどね。ストールは50レイでした、安いでしょ。赤、黒、白って揃えました。



▼自己紹介
実は私は大学時代、演劇を専門に学んでいたわけではありません。法学部を出てから、ITエンジニアとなって死ぬほど働いたのち、演劇批評やインタビュー記事を書く仕事にたずさわりつつ、フリーランスの演劇批評をしています。

法学部にいたと今言ったのですが、ゼミは国際関係論でして、卒論を、当時拡大途中だったEUをテーマにして書きました。実は私、高校生の頃から東欧革命が大好きで……。

今から説明しますが、東欧革命というのは、1989年に起きた東欧諸国の一連の民主化の革命の話です。なので、ルーマニアはずっと行ってみたかったのですが、何しろ治安が悪い。シビウはそんなことないんですけどね。だからほぼ15年〜20年越しに念願かなって、初めてのルーマニアに行ってきたというわけなのです。

これは現地の人から教わったのですが、私の名前のochiというのはルーマニア語で「オキ」と読み、「目」という意味だそうです。とってもいいですよね。それを聞いた時、この目を使ってきちんとルーマニアの風景を目に焼き付けないといけないなっていう思いを新たにしたのを覚えています。


▼ルーマニアの歴史
共産主義時代のルーマニアについて、国際政治専攻だった私から少し解説します。

シビウ演劇祭が25周年ということは、始まったのが1993年になりますね。ルーマニア革命が1989年なので、シビウ演劇祭は革命からわずか4年後に始まっているわけです。それがどれほど大変なことだったかは、想像を絶するものがあります。そして25年……四半世紀、ひとつの演劇祭が続いてきたということは、人ひとりが大人になって余りある時間が演劇祭とともに刻まれてきたということになります。

1989年がどんな年だったかというと、まず6月4日に天安門事件がありました。未だに中国では6月4日の天安門の警備はとても厳しいです。話が逸れて申し訳ないけど、当時の仕事で付き合いのあった40代の中国人部長は、中学で習ったのはロシア語だったって言ってましたね。中学生が英語習うのと同じ感覚で。今(の中国人の中学生)は英語やってるらしいですけどね。

だからまず私は、シビウの街中を歩きながら、ボランティアをしている子供たち、遊んでいる子供たち、パフォーマンスに出演している子供たちの姿を見て、「この子たちは革命を知らないのだ」「独裁者であったニコライ・チャウシェスクを知らないのだ」と思ったんです。だから、ボランティアが、人のために働くということが、文化芸術が、欧州三大演劇祭として人々の中に浸透するまでに、どれほどの人々の尽力があったかは想像してもしつくせない。10日あまり滞在しましたが、それは毎日考えていましたね。

ニコライ・チャウシェスクという独裁者は1964年に大統領に就任し、89年に失脚するまで、24年間、独裁体制を敷いていました。だから、今年シビウ演劇祭が25周年を迎えたということは、初めてその長さを超えて、シビウ演劇祭が独裁に勝利したと、そういうことだと言えるんです。

チャウシェスクはね、息子が(体操選手の)ナディア・コマネチを無理やり愛人にしてたとかそういう話もあります。それでコマネチはアメリカに亡命したんですけど。とにかくそういう話には事欠かないです。

ルーマニア革命のもう一つ重要なことは、一連の東欧革命の中で唯一、人々の血が流された、死者が出た革命だったこと。89年の夏ごろ、ポーランドでの革命を皮切りに、東欧では次々と共産政権が倒れました。

ルーマニア革命は、シビウよりもうちょっと大きい、ティミショアラという街で起きた、今思えば小さな市民暴動が起きたのがキッカケとなって起こりました。その鎮圧のためにチャウシェスクが軍を出し、ティミショアラの人々を弾圧しろと命令した。そこからドミノ倒しです。ティミショアラの市民鎮圧に反発した、ワシーリ・ミリャという国防大臣が銃で死んだのが、数日後に発見されました。その真相は闇の中なんですがそれがチャウシェスクの粛清だったんじゃないか、許せない、という鬱憤の溜まっていた軍部の独走による、一種の集団ヒステリーで国が倒れました。

半日であっという間に大統領夫妻は捉えられ、即日、銃殺されました。2018年現在では、そんなことなかなか、考えられないですよね……。

ちなみにシビウ演劇祭で上演されたシルヴィウ・プルカレーテの作品『スカーレット・プリンセス』にあった、権助が引き回しのうえ銃殺される場面は、チャウシェスク大統領夫妻の暗喩で間違いないです。なぜかというと、それだけ共産主義の時代に弾圧されてきた演劇人が、銃殺というモチーフに無意識であることは有り得ない。

……というようなことが、様々な知識とあわせて観ると、鑑賞可能になるわけです。

ちなみにルーマニアの貨幣はレイ(レウ)、バニです。ルーマニアは、2007年にEU加盟してますけど、財政状況がまずいんでユーロは許されてません。来年導入予定らしいけど、EU幹部と言えるドイツやフランスは、ルーマニアのユーロ導入どころではないかもしれません。


▼キリヤックの言葉
正式に招聘していただいたということで、シビウ演劇祭の創始者であり、現在のディクレターでもあるコンスタンティン・キリヤックに面会する機会があったのですが、その中で私はキリヤックに訊ねました。「革命の余波が残る25年前のルーマニアで演劇祭を始めた当時と、今ではどう違うか」と。

回答の中で非常に印象深かったのは「フェスティバルを始めた当時、夜20時になると街に人通りなんかなかった」と。相互的に監視しあう中で、街中の人がフェスティバルを楽しみ、国内外から人々が集まるなんて、そんなことは有り得なかった。だから、今の華やかな演劇祭の街としてのシビウになるまでには途方もない人々の熱意と努力があったのだと思うのです。


そして、この橋。この橋の上で嘘をつくと橋がくずれるという、「嘘つきの橋」と呼ばれるいうシビウの観光名所です。あ、でもこの橋の上で市長が重要な発表とかするらしいですよ。「本当のことだ!」っていうパフォーマンスの意味で(笑)。

でもね、注目してほしいのは、この背景の屋根にある目みたいな窓。今は可愛い観光名所となっていますが、当時は隣人を相互監視するために使われていたとキリヤックは言いました。共産圏の相互監視はエグいです。隣人の誰も信用できない。すぐ密告されて連れて行かれる。

それでですね、先ほどから何度も話に出ているフェスティバルクラブ(※ナショナルシアターの裏庭でビールなどの屋台が出ており、深夜までボランティアやアーティストが交流できる場所)という場所で、40代の男性に「革命のこと覚えてる?」って聞いたんです。ただ彼は「あんまり覚えてないな。子供だったからなあ。10歳くらいかな。拳銃ごっこがめっちゃ流行った!」って言ってまして、子供ってすごいな、タフだなと思いましたけど(苦笑)。彼はきっと幸福な方だったと思うんです。暮らしていたのがシビウだったというのもあるでしょう。ブカレストだったらそうはいかなかったはず。でも、その彼でさえ「両親からは、家の中での話は外でするなって言われてた」と言ってましたね。

ブカレストに行っていない上に、危険すぎて確認不能のため、見てはいないんですがブカレストでは、今でもマンホールの下で、「チャウシェスクの子供たち」と呼ばれている青年たちがギャング化して暮らしてるらしいです。共産主義時代には国策として出産が奨励されていたんですけれど、結果的に革命後に親に捨てられた子供たちが麻薬漬け、暴力漬けでブカレストの地下に暮らしているんです。

だからルーマニアは今も非常に治安および経済状況の不安定なところであり、良い面の賞讃だけをするのは間違っています。記憶にある人も多いと思いますが、2012年にはブカレストにて、女子大生が強姦殺人で殺される事件がありました。大変心を痛めました。実は彼女は私の母校の後輩であり……だから、今回、私には彼女が見られなかったルーマニアの景色を見るという意味の旅でもありましたね。(※現在は、ブカレスト空港ではきちんとナンバーを確認したタクシーしか入れないなど、対応が取られているようです)


▼日本との違い
皆さん実感されているとおり、文化には力があります。文化芸術の浸透はとても時間がかかるものです。

最初に谷口さんがお話してくださった、オスマン・トルコからの侵略を防いでいた、武力で超えられなかった石の壁を文化が超えるという「民衆の壁」の話はまさにそれを象徴するものです。

そして、写真に戻りますが、これは街中にあふれていたお花です。メインストリートのカフェ、それからナショナルシアターの演目の初日に配られたバラの花です。一輪ずつ観客に配られました。一番下のは、初日だったり楽日だったりに、お花を渡す係の人がいて、舞台上にお花が置かれるんですよね。その自然さ、上演を寿いでいる様子に、私は文化の根付き方の違いを感じました。お花が美しいということは素晴らしいことなんです。花を贈るというのは、あなたがいてくれて嬉しい、すばらしい作品をありがとうっていう意味でしょう? お花が私たちを迎えてくれている。それは、ひいては、街が私たちを迎えてくれるということにつながるわけです。




まあ、ここまで「違い」ってさんざん言ってきましたけれども「違い」を感じるためには、比較対象が必要なわけです。

フェスティバルクラブみたいな場所、普通の日本のフェスティバルにはないです。例外はありますけど。基本的にはない! 22時になったら劇場は閉まる。だから、楽しむ、感動するだけじゃなくて、どうして日本にはそういう場が少ないのかっていう問いを持ち続けてほしいなと思います。
 
そして、この演劇祭専用アプリケーション。これは元エンジニアとして非常にエキサイトしました。チケットの予約、地図、日程まで検索可能で、これを開発してバグ無しで稼働させるのはなかなか、相当頭いい人が関わってる。ユーザインタフェースも素晴らしい。控えめに言って最高でしたね! このレベルのものは、日本では見たことない気がします。


最後に、出会いについて話そうと思います。「素劇 楢山節考」を観に行く途中で、アレクサンドラという女性と一緒になりました。上演後、彼女を見つけたので、声をかけてまた一緒に帰ることにしたんですね。アレクサンドラに、「字幕で『山の神様』っていう言葉が出てきたでしょ。 "God" と書かれていたけれど、あなたたちの神様とは意味が違うの、わかった?」と訊いたら、それは理解できた、と言っていた。「ただ、周りのみんなは拍手していたけれど、so hard story だったから私はとっても手を叩く気にはなれなかった……素晴らしかったけれど!」と言っていて、感受性豊かでとても聡明な女性だと思いました。

『楢山節考』を読んだ方はご存知かもしれませんが、小説の中には、命が惜しくて楢山に行きたくないと泣きわめく老人の描写があるんです。『素劇 楢山節考』では「蟹」の登場する歌が歌われるのみでしたが、実はこの「蟹」、とても恐ろしい意味で、そうして死にたくないと泣く老人の手足の骨を砕き、それでも這って帰ってこようとする姿を揶揄して「蟹」と言っているエグい意味なんですよ。

そのことをアレクサンドラに説明したら「(字幕の)crabがそんな恐ろしい意味だったなんて……」と震えていましたけどね。そういう意味では日本のカンパニーが作品を輸出する時の在り方を考える余地はもう少しあるかなと思いました。

その時、アレクサンドラは黒地に白い小花模様のフレアワンピースを着ていて、素敵ね、と言って褒めたら「でも、この白い花が今はおりんに降り積もった雪に見えるわ。だから今日のことは忘れないわ」と彼女は言っていました。 忘れられない出会いです。


▼楽しいだけではない
最後にひとつ言いたいのは、芸術と政治は密接に関連しているということです。厳しいこと言いますけど、批評をやる上で、無知は罪なんです。政治的な演劇もある、演劇的な政治もある、かつては演劇がプロパガンダに利用されたこともあります。そこは非常に注意深くいてほしい。

楽しいだけではないんです。1989年のルーマニア革命の時の難民受け入れ、確か日本は二人とか、三人とかだった気がします。ふざけてますよね。それって、今の外国人労働者とか移民の問題についてもまったく進歩してないんですよ。

ボランティアは大いに素晴らしい。だがしかし、ボランティアということの意義を問い直し、搾取されていないか、あるいは芸術が誰かを搾取するものになっていないか、自問自答し続けてください。それは東京オリンピックに対してどんなふうにカネが動くか、考える材料にもなるでしょう。

知識同士のコンテクストの繋がりをトレーニングすることで芸術っていうのは鑑賞可能となります。きちんと背景を知ること。知性のシナプスをつなぐこと。アンテナを張りまくること。

今日の会でもいろんな人の思いを知ることができて、本当によかったです。本当に感謝しています。日本のある種の貧しさの中で、皆さんが文化に対してどう動くか、何ができるか、苦しくても考え続けることを芸術の世界では幸せと呼ぶんです。

そしてそれは、もはやシビウ演劇祭に関わった皆さんにも他人事では、ないんです。