2023年9月12日火曜日

通過と霊化のフェミニズム --劇団ダンサーズ『都庁前』劇評--

落 雅季子

岡田智代が、かつて私に語ってくれたことがある。今でこそ還暦を超えたダンサーとして精力的に活動をしている彼女だが、結婚して子供を持った当初は「10 年間は、自分のまわりからダンスの存在をシャットダウンして、子育てに専念する」と決めていたと。そうしなければならないという枷を自らにかけ、芸術から離れた時期があったのだと。子供を産み、母になったという理由で。

だから彼女が「この作品について、書いてほしい」と私に言ったとき、私は彼女が話を終える前にうなずいた。書かなければならない、と思ったからだった。「この作品を、女の人が観てどう感じたかを、言葉にしてほしいの」。私はふたたびうなずいた。上演に登場した俳優 4 人のうち 3 人が女性だったこと、本作『都庁前』がフェミニズムを題材とした戯曲であること、その戯曲を執筆したのが岡田利規という男性であること、それら様々なファクターが絡み合ってクリエイションの中で、俳優おのおのが抱えたもどかしさを私は瞬時に想像した。二度目の私の返事に、岡田智代はやっとほっとした顔を見せた。


劇団ダンサーズは、2018 年 10 月に生まれた「ダンス作戦会議」から派生した、ダンサーによる演劇プロジェクトである。今回上演された『都庁前』を含む岡田利規の『NŌ THEATER』は 2017 年にドイツのミュンヘン・カンマーシュピーレで初演された。同作は 2018 年に京都でドイツ人俳優による輸入公演が行われたが、劇作家岡田の書いた「日本語の原文」で『都庁前』が上演されるのは今回が初めてのことだ。『都庁前』は、夢幻能のかたちを取って書かれた戯曲で、40 分ほどの短い作品になる。

まず地謡、アイを兼ねる岡田智代がグレーのセーターに黒のパンツという装いで、椅子を持って現れた。彼女はマスクを付けており、上演中は外すのかと思ったがどうやらそのままのようだ。続いて、青年(ワキ)を演じるたくみちゃんが壁沿いを這うように変形クラブステップで登場する。オレンジとグリーンのジャケットにジーンズというラフな服装だが、やはりマスクをつけている。(その後登場するふたりの女も同様だったことも付記しておく。)

青年は、自分は広島の出身で東京見物に来たと話す。羽田空港からモノレールに乗って都庁前に来たということは、浜松町・大門駅から都営大江戸線に乗ったのであろう。東京でもっとも地下深くを走る大江戸線。路線図を見るとわかるのだが、大江戸線は不完全な環状線で、ひらがなの「の」のような形をしている。その「の」の字の交差地点にある都庁前駅は、終着駅のようでもあるが実際は練馬方面・両国方面への分岐点となっており、非常に使い勝手が悪く乗換も難しい、東京の吹き溜まりのような場所である。

青年が、ソフィア・コッポラ監督の映画『ロスト・イン・トランスレーション』(2003)の舞台になった西新宿のパークハイアット東京を見てみたいと語りながら地下鉄の出口を探しているところに、女1(シテ)を演じる神村恵が黒い服をまとって現れ、下手にうずくまった。照明も薄暗くなり、女1を蛍光灯で下から照らすように変化する。女1は喋っているあいだ青年に一瞥もくれないが、青年の方は、急に自分に話しかけてきた女1をきちんと見ているのが印象深かった。きちんと、とは言っても堅さや真剣さがあるわけではなく、色素の抜かれた好奇心とでも言うべき、ピュアネスによるものである。

神村は足先でわずかに床を摺ったり、壁に触れたり、しゃがんだりという小さな動きを繰り返しており、そこはかとなくその土地に張り付いている地縛霊のような粘着性を感じさせる。女1は広島出身の女性都議会議員の話を唐突に始め、その議員を知らないという青年に「物を知らないですね」などと冷たく言い放つ。神村の話し方はやや冷淡過ぎるが、これはマンスプレイニングの構造を青年女逆にしたものではないか。だとすると皮肉に見せかけた権力構造(社会的強者が弱者にこれ見よがしに説明する)の反復強化になりかねず、女性がかつて男性に苦しめられてきたやり方で、男性である青年を苦しめることになってしまう。そんな不安を抱きかけたとき、客席でひとりの男性客が声を出して笑うのが聞こえた。

青年が「どうして僕今こんなに非難されてる状況にいつのまにか置かれてるんですかね」と言ったときのことである。

演者やほかの観客がどうかは知らないが、私はこうした笑い声を聞き逃さない。女性から男性へパンチのある台詞や状況が繰り出され、男性が女性からある種の攻撃に遭うシーンのとき、あるいは、自分が思いもよらない、つまり自分の知る「女」、そうであってほしい「女」の範疇を超えた言動をしてきたとき、客席で男性客が声を出して笑うことは珍しくない。今まで数えきれないほどそうした場面に出くわしてきたし、それは女性劇作家・演出家の作品で見受けられる傾向がある。何がおかしいのかわからないし、黙って観て受け止めていればいいのにといつも思うが、女性から痛烈に非難されたり、過激な台詞を浴びせられたりして、ショックを受ける状況に精神が慣れていない脊椎反射なのだろう。不均衡だ。悲しい。男性の笑い声を聞くといつも思う。

話を本筋に戻す。女1は、都庁に行くなら議事堂の前の広場に立っている女の姿を見なければならないと告げ、姿を消した。両手をゆっくり広げたり、閉じたり、下げたり、まるで空気を包んでその場の温度を操るかのような動きで。

すばやく駅員に扮した岡田は青年に、今の女はフェミニズムの幽霊だと説明する。ここで語られるのは、2014 年に都議会で起きたセクハラ野次問題だ。ある女性議員が東京都の妊娠・出産への支援体制について質問をおこなっていたさなか、男性の声で「自分が早く結婚したらいいんじゃないか?」「お前は子供産めないのか?」という野次が飛び、その後、自民党が批判にさらされて対応に追われたという一連の出来事のことである。その後「フェミニズムの幽霊」が都庁前駅ホームに出るようになったと駅員は語るが、その呼称を広めたのは駅でべろべろに酔っていた品のないおっさんだという説明には何ともやるせない気持ちにさせられた。下品なおっさんが「フェミニズム」なんていう言葉を知っているとも思えないし、それならおっさんの吐いたゲロに滑ってホームに転落死して幽霊になった女性の方が、メタファーとしてはえげつないが、まだ説得力はあるんじゃないか……と私が考えてしまうほどには、徹頭徹尾リアリティが排除された戯曲であった。男性の中にあるミソジニー(女性嫌悪)を、観客に見せるための構成である可能性も否定できないが、たった 40 分の中でこうした小さな違和感を蓄積させる様は、女性が社会で日々直面する小さな理不尽の蓄積によく似ていて、わざとなら岡田利規の技巧に感嘆するとともに嫌悪感をも抱く。そう、わざとなら。

▼さて、素直な青年は議事堂の前の広場に向かった。木村玲奈演じる女2(ツレ)が、入場する。ベージュのインナーにグレーカーディガンを羽織り、ボトムスはデニムのロングスカートという、女1とはまた異なった雰囲気だ。木村の長い髪はそのまま垂らされている。女2は、野次を受けた女性議員のくやしさを胸に、日々その広場に立ち続けているらしい。青年はここで客席に移動し、観客と同じ方向から女2を眺め始める。舞台中央の女に明かりが当たり、影が出来る。女2は、議会での野次騒動の顛末を饒舌に語り始める。

たいして長い場面ではない。それなのに私は、女2が台詞を発し続けることに苦しさが募った。あまりに直截的な台詞と詳細な説明。お願いもう黙って、大丈夫だから、そんなにつらいことを話さなくていいから、とわずかな時間で何度も思った。

野次を飛ばした男は、対象の議員個人を見ていたのではなく、彼女を通して「女」の総体を罵っていた。女性という性別に属していたこと、ただそれだけで女性議員は個人性をはぎ取られ、主体性をなくした存在に貶められた。極度の暴言や暴力によって深い傷を負ったとき、人は沈黙するか笑ってやり過ごしてしまうパターンが多く、それが暴力の発覚を遅らせる構造にもつながっている。主体として語る能力と気力を奪われてしまうこと。それは性的不均衡に基づくものに限らず、暴言・暴行の被害者にとっての大きな苦しみなのである。

それでいてなぜ女2は、語れるのだろう? 尊厳と主体性を奪われ、毎日毎日どこかで、これからもそれらを奪われていくであろう「女」は、何を拠り所にしてこの戯曲を発話すればよいのだろう? それこそが、劇団ダンサーズの出演者たちが、今回いちばん苦しんだ点ではないか? 

どこを見渡しても、自分の話を聞いて理解してくれる人がいると思えない世界で、自分が受けた屈辱について話して何になる? (私を含む)女たちは、今この台詞を客席に向かって言えるほどに、他者を、男性を信頼できている? 女として生きてきた中で、幾度も幾度も打ち砕かれてきた他者への信頼を、こんななめらかに言葉にできるほど、回復できている?  

でもわかっている。これは演劇だから、台詞で俳優が何を発話していても、本当にそれが発話されているかどうかは確かなことではない。女2はずっと黙ったまま広場に立っていると、女1は言った。だから女2が滔滔と台詞で説明をするのは観客のためであって、彼女は「本当は」ずっと黙っている。これは心の声にすぎない。そう戯曲を読むこともできる。 

しかし戯曲に台詞が書いてある以上、発話される声は聞こえるし、俳優は台詞を言い続ける。そのことに木村玲奈は、身体で対抗した。床に横たわったのである。体重を地面に預け、ダンサーのアイデンティティとも言える、動こうとする体の能動性を、無にした。地謡の台詞が挟まれつつ、横になったまま台詞を続ける木村。そして彼女は体の軸を回転させ、人間のさらなる受動的体勢である、うつ伏せになった。語りはやめない。そうして女たちの無念が頂点に達したとき、女2はたったひとりの女ではなくなった。女性たちがこれまで社会で味わわされてきた屈辱の総体である幽霊、女1が再びあらわれ、女2はすっと立ち上がった。女1が女2の手をにぎる。そして青年はふたりの女に吸い寄せられるように、客席から舞台に戻っていった。 

女1が憑依した女2は、ゆっくり、緩慢といっていいほどの遅さでこぶしを持ち上げた。「突き上げた」という動詞はふさわしくなかった。ただ、目線よりも高い位置にこぶしを「持ち上げた」のだった。これは沈黙という抗議をつづけるに至った、女2の傷ついた内面を、神村と木村が本能的かつ緻密に表出させた動作だった。それを青年は、見つめていた。 


▼ 後日、オンラインでのポストトークにて木村に質問をする機会があった。「一連の女2の台詞を発話するのは、つらくなかったですか」と私が尋ねたところ、彼女から興味深い返答を得た。 

「なんかでも不思議でした。自分自身でもあったし役の女でもあるしこれをここで言うことってどういうことなんだろうみたいなこととか……お客さんに向けてもちろん台詞は言っているんですけど、(私は)俳優じゃないので言葉がお客さんに伝えられないんじゃないか、内容が入っていかないんじゃないかって心配で、あのシーンは情景というか、議員の人たちの話を淡々と伝える大事なシーンかなと思っていたので、自分や女2の感情よりも、本に書いてあることをお客さんに理解してもらえるだろうか? ということに意識がいっていたんですね。だから、言っていてしんどかったというのは正直なかったですけど……でも一回だけ稽古中に、すごい涙がぶわーって出てきたことがあって、自分でも結構それはすごいびっくりな状況で、ダンスしてても突然泣き出すなんてことは、ないので。(技術的に)出来なくて泣くっていうことはあったけど、自分の言葉じゃない言葉を言っているのによくわからない涙が出てくるのは、もしかしたら(女たちの)そのつらさみたいなのが溜まって放出されたのかなっていう感覚は、あったかな」 

https://www.youtube.com/watch?v=58LgX8MfoSs&feature=youtu.be 

(※1:33:00から抜き出し) 

先ほど私は、暴力に遭った人間が主体性を奪われる話をした。数えきれない暴言や暴力にさらされてきた女たちの歴史を感じながらも、ダンサー・俳優として、舞台上での主体性を手放さない方法に体でたどり着いたのが、あの地面に伏し台詞を言い続ける場面だったのだと私は思う。 


▼ フェミニズムの戦いは(ほかの多くの権利をめぐる戦いと同様に)終わりがなく、一歩ずつ進んではまた退いて、途方もない時間がかかる。私はもう、自分が生きているうちに女性の権利が今以上に向上することは無理だとすら考えることがある。そういう意味では、私は自分がフェミニズムの幽霊になることに、すでに覚悟を持っている。なぜ戦いは進まないか。その理由のひとつが、女性が女性であるということでこうむる不利益には、時期および内容の流動性があるということである。 

若い時分には、異性から性的に搾取されることを処世術として使って生き抜くしかない場合もある。結婚すれば嫁ぎ先の慣習に従うことや、妻としてのふるまいが求められ、時には「女のくせに」と婚家の人間から貶められることもある。保育園の待機児童問題で悩んでいるワーキングマザーも、子どもが小学生になれば保育園を必要としなくなる。自分が性差に基づく偏見に晒されてきたことに気づくこと、更にそれを言語化できるようになるまでには(前述した、暴力への抵抗としての沈黙も含めて)時間がかかるし、言葉にしないまま一生を終える女性もいるだろう。 

私たちは、生きている限り女であることから降りることはできない。しかし私たちがこうむる不利益はあまりに多様だ。不利益は次から次へやってきて、ひとりの女性の一生を、フェミニズムの目覚めは流動的に通過する。経験が相互に蓄積せず、ひとりひとりの苦しみは捨て置かれたままになる。そうした時間的空白、非連続の上に立つ未完の城がフェミニズムだ。 

本作で、その通過に重ねられるのは、霊化である。女の幽霊が都庁前に現れることについて地謡は言う。 

 

それがなんのためなのか、男たちよ、考えてみたらいい。 


 

「男たちよ」? 私は台詞に強烈な違和を覚えた。続いて、絶望に似た悲しみに襲われた。違う。男たちに考えてほしいのではない。私たち女が失った主体性と傷つけられた尊厳を回復する方法を、女といっしょに考えてほしい。 


 

私たちを弔うためにはこの都市の、この国の、 


メカニズムが、変わらなければいけない。 


そうでなければ私たちの魂が鎮まることはない。 


人口が減り、経済がやせ細り、 


あなたたちは滅びていく。 


(中略) 


それはもう、<女性の問題>ではない。 


私たちの魂を、あなたたちは鎮められるのか?  


それはあなたたちの問題だ。 


私たちの魂を、あなたたちは鎮められるのか? 


 

地謡の台詞の中、女1と2は地謡のいる舞台の隅へ集まる。青年は舞台中央に立ち尽くし、ぼけっと聞いているようでいて、目線を女たちから逸らしていない。それが救いだった。女1と女2が舞台から去っても青年は動かない。そして静かに、先ほど女2がそうしたように、右手を上に伸ばした。自分の意志ではなく、何者かに上から吊られるような重力の操り方で、青年はそれをおこなった。 

ラストシーン、青年は都庁へ向かうべく、駅員にあらためて出口を聞いて退場していった。手を頭上に「持ち上げ」たまま、彼はトコトコと袖に消えていった。 


▼ 明るくなった劇場で私はまず、自分たちを鎮めてほしいとは考えない、と思った。「滅びていくことにおいてジェンダー間に格差はない」という台詞もあったが、女は(男がそうでないのと同様に)、この国が滅びないためのメカニズムの歯車でもない。 

それに、幽霊という言葉が、どうしても引っかかった。能だから、幽霊が登場する形式なのはわかる。でも今を生きる私たち女の意志は、干からびた死体や焼かれた骨に宿る未練ではない。積み重なった無念の歴史は確かにあるが、数えきれない殴打によって世界への信頼を失い続ける日々は、これからも女を待っている。その無念さを、霊化した形で登場させてほしくはなかった。今も女たちの心からは鮮血が噴き出し、流れつづけている事実を、もっと直視してはくれないのか? 集合体の霊として、個人の男性を攻め立てたいなんてこれっぽっちも思っていない。ただ屈辱を味わい、「幽霊」というよりは「非人間」とされ、生きたまま折り重なって倒れている女たちを、幽霊ではない形で、人間としてよみがえらせるような演劇を誰か見せてはくれまいか? 

とはいえ、戯曲には「女2は生きた人物として描かれているし、女1は自分は『死んだ特定の女ひとりの幽霊ではない』と言っていて、整合性もバランスも取れている」という回答がしっかり示されている。その事実には隙がなく、大変明晰に理解できる。 

でもこの感覚的な違和感、拒否感、反発を私は無視できない。正論であることによって反論を防御する、能的なる構造と戯曲の言葉選びに、私は苦闘してこの劇評を書き上げた。恐らくはクリエイションのさなか、俳優たちも同じ心持ちだったのではないかと思う。 


都庁前で遭遇した女たちの無念を無意識にインプットされたかのような青年の右手。頼りなく、しかし高く、青年の手が女2と同じ位置に掲げられたエンディングは、希望だった。今を生きるどの世代の人間も、虐げられ非人間化された女性がふたたび人間として生きられるような、言葉や身体表現を見つけなければならない。女の無念を「鎮める」のではなく、これから先、男性と女性が共に生きて理解しあい、違和感を少しずつ解消しあって生きる未来を望みたい。切に、望みたい。 


◎プロフィール 

落 雅季子 

1983年東京生まれ。批評家。LittleSophy主宰。2009年から演劇・ダンス批評を始め、2017年からは文体と拮抗する身体の獲得のため、クラシックバレエの学びを積極的に行なっている。 

Twitter:@maki_co 

<引用> 

岡田利規『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』白水社(2020)より 


 

2022年9月28日水曜日

流行り病

 週末から何か、起きにくくて眠りすぎる感じがあった。


▼8月15日(月)

普段ならしないような寝坊。多摩永山病院へぎりぎり向かう。12:30出社。バレエレッスンにも行けた。この時点では特段の体調不良を感じてはいない。


▼8月16日(火)

起き抜けに、エアコンで乾燥したときのような喉の痛み。少し不思議に思いながら出社。問題なく業務をおこなう。海外出張に向けて一応受けようと思い、PCR郵送の手続きを9:30に出す。何となく予感がしていたのかもしれない。上司は15:30ごろ帰宅。喉がチリチリ傷む、と母には14:30にはLINEで一報。咽頭痛は良くならないまま退社時間。帰りの地下鉄でやけに眠い気がして、普段なら寝ないのに座ったまま寝てしまう。喉の違和感消えず。

嫌な予感が消えないのでクイーンズ伊勢丹でアイスクリーム、ゼリーを買い込む。帰宅してホワイトシチューを作り、一人前食べきるが最後の方、飲み込むのが少し難しい心持ちがしたので熱を測ると37.7ほどあり、これはと思いつつ母に電話。その後37.8~38度くらいに上がる。咳も出ていて、喉が、これは絶対エアコンのせいでは無いなというぐらいには痛い。

取り急ぎ上司に連絡。明朝また電話することにする。風呂を済ませ21時頃眠るが、数時間と続けて寝付けない。ネットスーパーアプリで買い物をする。

深夜1時、寒いので脚立を持ち出し、冬用の毛布を出してくるまる。目が覚めるたび喉が痛い。カロナールを飲み、熱は3時過ぎ現在、37度に落ち着いている。


▼8月17日(水)

発症二日目

4:51 体温37.6度 咽頭痛のため声が潰れる。関節痛あり。そこから体温上昇と痛み、体調の異変により眠れなくなる。

5:10 バレエの先生に一報を入れる。しばらくクラスはお休みし、引き続き注視して連絡することになる。

5:16 寝付けないので、いつも早起きの上司にWhatsAppし、6:15に電話。その時点で熱は37.8ほど。上司は枯れた私の声に驚いていて、出張はキャンセルとする。朦朧としていたので、上司がすべてアメリカへのメールを書いてくれて助かった。アメリカはまだ前日午後なのでレスポンスも早く、ホテルのキャンセレーション・コンファームがすぐに来た。

カロナールのおかげで、37.2まで下がる。日本の旅行代理店や、大使館関連でいくつかメールを書く。10:00からのオンラインミーティングはとても傍聴もできない状態なのでキャンセル。ここから解熱剤をいったん止める。

家族、3-4日以内に会った友人には状況を連絡し、気をつけてほしいと頼む。

13:00前に自治体に電話相談。東京都陽性者登録センターの案内を受ける。

38.9まで上昇した熱は下がらず。パルスオキシメーター97。発熱、咽頭痛、痰、悪寒、頭痛。14:30にいつものネットスーパーのおじさんが来てくれるがインターホン越しに、今は話せないから置いてくれと頼んだ。おじさんが帰ってから、届けられたばかりの雪見だいふくのごく小さいのを3つ食べた。

暇なので体温を測ってしまう。38.8から、39.4まで上がったのが17日のピーク。


▼8月18日(木)発症三日

激烈な喉の痛みは昨日よりあるが、起き抜けの体温は37.3まで下がる。

調子の良いうちに風呂に湯を張り、洗髪と入浴。閉めたままのカーテンの向こうから雨の音が途切れず聞こえるので洗濯はしない。

その後36.9まで落ち着くなどし、会社とのメールやり取りも進める。食欲が特になく固形物ではなくゼリー、果物を食べる。アイスクリームは重そうなので今日は控える。

火曜朝に出していた唾液検体では時期が早すぎたこともあって陰性だった。にわかには信じがたく、また何か証明書がないといろいろ困る、と思い、病院紹介ダイヤルにかけて近所のクリニックを20:15に予約。

16:00 平熱近くまで下がったのがまた38度前後を行き来するようになる。熱っぽく怠い。

17:15 38.2、その後38.3まで上がって病院の時間まで何とか少し眠ろうと思うが、1時間半ほどで目が覚める。都の案内者には「公共交通機関はなるべく避けて」と言われていたので、私的交通機関であるところの自転車で行こうと決める。何とか運転もできるだろう。

なんとか時間をやり過ごし、予約時間にクリニック到着。外で診察するから中には入らないでくれと言われていたので、まず到着を知らせる電話。先客の付き添いがベンチを占領していたのでクリニック横の道端ににへたり込んでしまった。しばらくすると医師がガレージに招き入れてくれ、医療用抗原検査。これは自分で鼻腔を拭いとるもので「しっかり取らないと陰性出ちゃうから、しっかり取って」と言われる。見た感じ、声の感じ、様子の全てで私が陽性なのはわかるのだろう。そのかいあって、即座に陽性が出る。あっさり出てほっとした。解熱剤、喉の痛み軽減、痰切り、咳止め薬などももらって帰る。帰宅後すぐに厚生労働省からのSMSが来た。

 陽性が確定したので、バレエの先生にもお詫びとお休みの連絡メールを書いて眠る。

 

▼8月19日(金)発症四日目

喉の激痛で1時すぎから断続的に目が覚める。まんじりともしないまま明け方5:00過ぎから仕事のメールをいくつか書く。夜通し回していた洗濯槽のクリーニングがやっと終わる。声はかなり出にくい。

一眠りして8:53。体温は38.4。洗濯機を回してみる。二度目の宅急便が母から届く。飲料多めで何ものどを通らない身としてはありがたい。母が何度も電話をしてくるので、声がほとんど出ないから閉口した。

厚生労働省からのSMSに従ってシステム登録をする。眠るとストーリーの入り乱れたおかしな夢を見ながら眠る。

昨夜内科で処方された薬のおかげで喉の痛み、たんの絡みは少しましになるが、痛いことに変わりは無い。発熱は午後に至るまでずっと38度を下回らず。14:08時点で38.2。以降そのようなラインがずっと続く。

悪寒が強くなったので湯たんぽをつくる。不思議と良く眠れる。

ゼリーは飲みこめるがプリンとアイスクリームは吐く。甘さと濃度の問題なのだろう。喉の奥のひどい炎症のせいで、何を飲んでも苦みを感じる。体温37.7を確認して就寝。テレビ、YouTubeのたぐいは見る気が起きない。ラジオなど音声メディアは聞くことができる。


▼8月20日(土)発症五日目

ついにいっさいの声が出なくなる。昨日までわずかにここに残ってくれていた私の声も、どこかへ避難してしまったようだ。すかすかささやき、テグスのような細さの糸で空気を震わせるのが精一杯である。熱は下がり、36.6となる。今日の夜上司は米国へ出張へ出る。そう思うと同行はとても無理であった。13:48 ちょっと顔が熱くなってきたので測ると37.3。36度代との違いは大きい。14時過ぎにまた37.4でそこから貼り付き。午後になると上がる傾向なのだろうか。熱はあるが、レッグウォーマーにひざ掛け、長袖のパジャマを着て、籐椅子でかぎ針編みをはじめるくらいの落ち着きは取り戻した。固形物は受け付けず、むしろゼリーの中の果物も食べられず、水とナトリウム飲料を混ぜてひたすらストローで吸っている。ちょうど医療保険担当者から連絡が来たので、自宅療養でも出るという入院日額給付について尋ねる。37.5から張り付きで今日も日が暮れる。深夜1:21に目が覚め、習慣で体温を測るも37.1のまま。今ひとつ調子出ず。


▼8月21日(日)

発症六日目にしてようやく少し底を打った感。喉の痛み、微熱の気配はあるものの、声以外はだいぶ元に戻ったような気がする。声はスカスカで大変小さい。起きたときの体温は36.6から37度前後。編み物などをしたい気が起きる。10:00前後で、37.3ある。横になる。ここから午後までうとうとするが、毎週見ているお昼のテレビ番組がないのでまた寝る。長袖のパジャマで汗をかく。適当な時間にゼリー飲料、ナトリウム飲料、水を取る。小さいハーゲンダッツも食べた。マルチパックという、コンビニで売っているよりもっと小さいハーゲンダッツである。かわいいので心の慰めになる。編み物をやってみたが毛糸が絡まってあきらめ、残りの毛糸もろとも、まるごと捨ててしまった。36.7を確認して就寝。


▼8月22日(月)

7:30起床、体温36.8。起き抜けにかなり咳込む。コーヒーを飲んでみるがマグカップ一杯飲むのに午前中いっぱいかかる。声と食欲がとにかく戻らない。17:00の時点でやはりまだ37度。平熱と行ったり来たりといったところである。夕方以降は37.3まで上がることもある。かぎ針編みを再開する。夕食に粉末タイプのスープと、薄い食パン(10枚切りの1枚)を食べる。友人がプライベートな音声データで励ましてくれて、非常に心強い気持ちになれた。


▼8月23日(火)

夢見が悪い。まだ見知らぬ人に期待したい願望が自分にもあるのかと考えながら起床。体温は36.6。平熱に戻ってきて、声も少しずつ出るようになる。しかし療養期間、日ごと体力が低下してゆくのを感じる。風呂を沸かす。体を流す気力体力は幸い毎日あったが、三日ぶりの洗髪と入浴だろうかと思う。相変わらず疲れやすくて食欲がない。無調整豆乳のオートミール粥、コーヒーを食べるが胸焼けする。ベッドパッド、シーツを洗濯して干すまでは元気だった。12:30ごろ、体力が尽きて横になる。しかしまたもや食べたヨーグルトで胃がもたれ、気持ち悪い。寝付けるわけでもないので、起きて少しかぎ針編みをしたりするが気持ちが続かない。18:00前に卵粥を食べて、活動限界。体温37度。咳き込むたび身体の熱を感じるのがつらい。

やはり夕方は37.2度まで上がる。結局37度台が4日間続いているとも言える。母が玄関越しに白米を届けてくれた。


▼8月24日(水)

平熱で目覚め、午前中をやり過ごして昼前に微熱を出しながら一日乗り切る流れが定着。体力は戻らない。ビブラートの効いたような状態ではあるが、不安定な発声が戻りつつある。ストレッチ、アラベスク、パッセバランスなどをやってみる。腸腰筋の疲労が取れて、もしかしたら身体の柔軟性は左右対称になっているかもしれない。22日前後の、バレエの先生とのメールやり取りを見返しながら現実味のなさに、ぽかんとしている。「31日から復帰したい」と自分は一応言っていたが、復帰して何がしたいのか、いやもちろんバレエである、しかしそのことが理解にうまく繋がらなくて呆然としてしまう。誰が、どこに、何のために復帰するというのだろう。


▼8月25日(木)

アイスクリームは喉が焼ける。午後は14〜15時にはだいたい37.2度出てしまう。夕方から続けて眠って連絡がつかなくなり、母を心配させる。起きた合間に電話を折り返したが、そのときには夜9時を過ぎていた。ストレッチは諦めて寝続けることにする。だってこのときは、自分がもうバレエを踊りたいと思う日なんか来ないだろう、何が良いと思って舞台芸術を知ろうとしていたのかまったく思い出せない、と思っていたから。演劇はともかくとして、私は本当にバレエをやっていたのか? あの自分と今の自分がずいぶん隔絶されてしまって全然思い出せない、と本気で混乱していることを、やっと考えはじめて、絶望して、眠るしかなかった。バレエの先生の顔も何だかおぼろげな記憶になってしまった。


▼8月26日(金)

目覚め36.6。アメリカの上司から陰性の連絡がきて、ほっとする。仕事ではないがそれ以上に重要(と言える)メールのやり取りに疲れきって10:30には37度を超えてしまう。どうせ効かないけれどカロナールを飲んで、パソコンは切る。



<療養期間10日間を終えての簡単な所感>

典型的な症状はいくつかあれど、重さは本当に人それぞれ、ひとりひとりのものである。この傷の個人性と、人生観に影響を及ぼす感じは、災害や戦争の体験と少し似ているのではないか。帰還した人間が何も話せない状態とたぶん今、少し似ている。誰も同じ目に遭ってほしくない思いは強くある。でも、話してもわかってもらえないならあの時のつらさは人に話したくない。


 

▼8月29日(土)

バレエが好き、と夕べ急に思った気持ちが、朝起きてからも残っていたことが嬉しくて泣いた。夕方、地下鉄に乗って職場に行ってみる。少し作業をして20時前後に帰宅。


 ▼8月28日(日)

感染して以降、はじめてバリエーションの振りをさらってみた。そうできる体力が戻ってきたからとも言えるし、さらってみたいと初めて、そうこの12日間で初めて思えたからである。

 

▼8月29日(月)

以降出社。弱りきって疲れやすくなりすぎた自分の体を何とかオフィスまで運ぶ。運んだら終わりたいぐらい、それだけで疲れてしまう。余計なことを考えさせてくるものがあまり視野にいないのは良い。

 

▼8月31日(水)

出社三日目。まだ朝一36.8度ほどある。微熱は一週間以上続いたが、徐々に退いていくのだろうか。今日からバレエクラスに戻る緊張のために昼間からずっと手が冷たかった。息切れが不安だったが、プティ・ジャンプを少し休んだだけであとはついていくことができた。ピルエットは回って降りるときに着地がかなりずれた。


そこから後に1週間ほどかけて体と心のリカバリをし、再び踊るモチベーションを取り戻すことになる。そうして誕生日を迎えたころの私は、憑き物が落ちたように、視界がクリアだった。


▼9月28日(水)

久しぶりに日記。朝夕に微熱が出る症状は残っていて、長く喋るとのども痛むので何かの炎症反応が続いていることを感じている。微熱の収まる時期はまだ予想がつかない。


2022年1月31日月曜日

2014年7月10日

 この時間の電車には、帰り道の高校生がたくさんいて、絶え間なくしゃべっている。時々、部活の先輩を見つけては挨拶したりしている子もいる。「子」もいる、などと今書いたが、高校生たちを「子」と感じるようになったのはいつからだろう。

私の母校では、うるさくするとすぐバスの乗客から学校に電話があるので(とてつもなく目立つ制服なのだ)しょっちゅうバスの中での沈黙キャンペーンみたいのがあった。正直、うっとうしいとしか思わなかった。私はバスの中では静かにしているつもりだったし、大勢で帰る(=そういう友だちがたくさんいるタイプの)子どもでもなかった。でも今はわかる。子どもとは、そこにいるだけである種のむせかえるような音波を発している。それは弱った大人にはてきめんに響く。
高校生のころはあんなに喋ることがあったはずなのに、今は家でもどこでもほとんど黙っていて、話すことがあんまりない。今は日ノ出町のカフェでひとりぼやっとしていて、隣の席の小学生が親に「あたし幼稚園のころとは違うんだから!」と力説するのを聴いている。少女よ、君の何倍年を取ろうとも、私はあのころとは違うって、思い続けて人は生きていくみたいだよ。

2021年9月12日日曜日

情景とストーリー(2021.08.29)

青木さんはなぜ今、車の免許を取ろうとしているのだろうと思う。機会を逸し続けて今決意したのか、何らか必要に迫られているのか。ともかく青木さんは学科教習のあと(おそらく食事の時間を挟んで)第一回目のリハーサルとなるスタジオにやってきた。マーチに向けた資料、音源を放り込むGoogleドライブもでき、私はそれらをのぞき込みながら創作の準備段階のスープのようなものの匂いをかいでいる。

青木さんと宮永氏は先日おこなわれていたフジロックフェスティバルの配信について盛り上がっていた。「三日三晩YouTubeを付けっぱなしにしていた」と熱く語る青木さんの言葉を、後日友だちのフジロック愛好家に話したところ「や、フジロッカーみんなそんなもんやったよ」と返ってきたのでやはりそういう熱量が音楽人にはあるのだと思う。私自身はオリンピックも世界バレエフェスティバルも、なぜ能天気に楽しめる人がいるのかわからなくなっていて、というか楽しんでいいのか、どう振る舞っていいのかまったくわからずに、この時期は硬直していた。前述のフジロック愛好家は「わかる。配慮しきった人が軒並み今崩れてんねや。年末年始もゴールデンウイークもオリンピックのときも、ずっとずっと黙っとったアーティストが、フジロック開催で崩れたのをわたしは見た」と言っていて、その会話を交わしたはこのリハの日よりあとのことだったから、つまり8月29日時点では私はまだもやもやを抱えていて、でも青木さんと宮永氏がフェスティバルを楽しんだ様子を知ることができて、ひとりだけの霧が少し晴れた。東京パラリンピック開会式も同月24日におこなわれていて、ウォーリー木下さんとか蓮沼執太さんとか、見知った顔が並んでいたので少しリラックスしてそれについて宮永氏と話すこともできた。

さて練習である。今泉仁誠さんのつくった合唱曲「オリーブ」を歌うことになっているので、パートに分かれて音程を取ってみる。女子高だったころの音楽の授業しか経験のない私には、混声合唱が初めてだ。パウンチホイールは高校の合唱部が母体になっているバンドなので合唱には強い。「オリーブ」の伴奏ピアノは和音とアルペジオの組合せが浜に寄せる波を思わせる。

私は、坂手に住むある夫婦のことを歌にしたいと申し出て快諾してもらったのでそれを練ることにして、そのあとは街の紹介ラップづくりのためにホワイトボードに案を出しあう若人たちを見ていた。今夏のみなとまつりを訪れたこゆっきー主導で、島の新鮮な印象が次々語られるのがまぶしかった。

まだ上演の全貌は固まらず、ストックの曲やレパートリーをさらったりもする。神戸港と坂手港を結ぶフェリーの中で流れる「二人を結ぶジャンボフェリー」を初めて聞いたときはなかなか衝撃を受けたものだったと思い返す。海で隔てられた遠距離恋愛を描いた歌謡曲だが、瀬戸内海の穏やかな雰囲気と相まって知らないうちに忘れがたいものとなってしまう名曲である。しばらくは歌が流れ始めるとすぐに下船準備をしたものだったが、慣れてからは、早く列に並んでもしょうがないし、港に船を舫うまでには時間があるからワンコーラスほどは聞き流すようになった。私は夜行便で早朝に坂手に着くスケジュールが多いから、この歌を聞くと否が応でも目を覚まさねばという気になる。

ちょうど10年前、『わが星』を成功させて『朝がある』を生み出す手前だった、ままごと主宰の柴幸男にインタビューしたことがある。同人誌向けのインタビューで今は私の手元にしかない冊子だがそこで彼はこう語っている。「やっぱり死ぬこと、生まれることのどっちかだったら感動する。両方体験したことある人いないんで。だからちょっとでも動くと、感傷に引き寄せられちゃうんですね。いて、いなくなると人は"いなくなった"ことに感動できるんですよ。」その言葉は折に触れて思い出している。訪れる。また離れる。別れがもたらす時間の有限性に感動する。でも島には、そこで生まれて生きて死ぬ人がいる。その何にも起こらない様子を、私は書き留めたい。一瞬のきらめきを、肌寒さを、通り雨を閉じ込めて、時間が流れなくても感動したい、のかもしれない。

始動(2021.8.15)

9日にグループラインが早くも整備されてしばらく経っていたが、今日、まとめ係を担当することになったほんなつから全員向けにやりたいことを募るメッセージが来た。26歳を昨日迎えた、とメッセージの余白に書いてあってそれで私も自分の26歳のころのことを思い出してみた。しかし12年前の自分はシステムエンジニアの業務に追われすぎて、いったん体内ミトコンドリアが崩壊するがごとく演劇創作から遠くなり、ようやっとフィクションの文章や人に読ませる観劇記録を細々書く覚悟を決めたというかその業から一生逃れられぬことに悠長に絶望していた頃だったので、めぐまれた早熟の才というものは見ていてとてもすがすがしい心地がする。

青木さんは、2014年に小豆島・坂手で上演されたおさんぽ演劇『やねにねこ』の余韻を今も胸に熱く持っていて、その主題歌を作りたいと言っていた。初期衝動をそのかたちのまま持ち続けるのは青木さんの素晴らしい美徳である。たいていは時の風に吹かれてさらさらなくなったり、自我が邪魔をして姿を変えたりしてしまうものだから。

それで18日の夜、zoomで顔合わせをすることになった。「夕飯を食べてから20時スタート」という青木さんの言葉で、青木さんは食事をとても大事にしているんだなあと思う。この言い回しはあとあとも使われ、前述の仮説を補強していくことになる。そういえば4月に下北沢のスタジオでメンバーとライブのリハをしたときも、青木さんはよくラーメン屋に寄ってから来ていた。私は、食と命に頓着がないので平気で「ゼリーだけ」というカブトムシみたいな食事とか、「フライドポテトだけ」という家畜豚みたいな食事をしてしまう。生きることを大切にしたいと青木さんにはよく思わされる。

打合せにはこゆっきー(パウンチホイール)を除くメンバーが参加し、9月末に島に滞在する予定を確認したり、宿泊場所の手配などを検討したりした。既存の曲と、あらたに作りたい曲のアイデアを自由に出して、とにかく幅を広げる。宮永氏から「島で生まれ育った人と一曲作りたい」という言葉が出て、それは島の外から来て一過性の音楽を奏でて楽しい時間をつくるだけのことではないから、とても良いだろうと思った。

演劇は楽しい。音楽も楽しい。あまりにその作用が強く、あとに訪れる悲しみを忘れてしまうほどに楽しい。日常に光を当て、つかのま輝くのが嬉しくて、光の消えたあとのことまでなかなか形に残せない。私たちは旅人だ。自分たちが去ったあとにもそこで暮らす人たちに、敬意を持っていることをずっと忘れないでいてもらえる、そんな曲をつくりたい。とにかくそれだけを強く思った。あなたたちの暮らしのにぎやかしではない、どうせ自分たちのことを忘れると思われたくない、それを示した上で忘れたり忘れなかったり、変わったり変わらなかったりしたい、そういう恩返しを、したい。

その後グループラインで調整が進み、8月29日に下北沢のスタジオで一度試しにリハーサルしてみることになった。いずれも手練れの音楽家たちだ。集まれば音が生まれるだろう。

あなたもマーチに(2021.8.9)

ほんなつと映画に行った。彼女の誕生日が近かったのでアイシングクッキーをいくつかデパートの地下で買って、待ち合せの場所で待っていた。映画は中国の古い伝承をモチーフにしたもので、主演声優も主題歌もとてもよかったし、私もほんなつも満足してパンフレットを買って映画館を出た。

そのあと近くのモスバーガーで、軽い食事をした。店には映画の主題歌をうたっていたグループメンバーの等身大パネルがあって、夏のスパイシーバーガーを華麗に宣伝していた。ほほえむことなく、唇の端を引き結んだ表情で夏を熱く彩ることのできる男に私はあこがれる。

ハンバーガーを食べ終えたところで、実は小豆島に行く計画があって、とほんなつが話を切り出した。小豆島で、街にまつわる演劇と音楽のライブをする予定だという。マーチというタイトルで、彼女の所属するバンドであるところのパウンチホイールがこれまで下北沢でおこなってきたシリーズになる。2015年から断続的におこなわれていて、2017年11月24日以来、4年ぶりに創作することになったらしい。昨年から続く世界的な混乱情勢の影響で資金あれこれの都合がつき、初めて下北沢を飛び出してマーチをするのだが、わたしは小豆島に行ったことがないのです、と言うほんなつの話を聞き終わらないうちに同行やら共作やらすべてを含めて承諾していた。詳しくはいずれ書くが、ほんなつにも島にも恩がある。

パウンチホイールメンバーの青木拓磨さんと小豆島の縁は深い。2014年の「港の劇場」での音楽活動をわたしは観ていたし、その母体となった劇団ままごとの活動にその後青木さんが携わる場、たとえば横浜の象の鼻テラスにもよく居合わせた。歌う人、奏でる人のことは、演じる人のことを眺めるよりもっと遠くから、畏敬の念をもって見つめてきた。そんな彼らと私の言葉が、重なる日が来ようとは。5年前の夏に過ごした時間で得た劇団ままごとへの深い感謝はもはや私の血肉となり、それがかつて自分から切り離された恩義だったことさえもう区別がつかないほどになっている。今なら、青木さんがままごとを通して感じ取った演劇と音楽の交差する可能性を、私もすこしは理解でき、力になれるような気がする。そう思ったし、自分も島には行きたいし、ほんなつに見せたい景色はたくさんあるし、それですぐに承知したのだった。

ほんなつからはその夜「クッキーおいしかったです!」と連絡が来た。もらったクッキーをすぐに食す、彼女のそうした素直さが好ましい。もうすぐひとつ大人になる彼女の一年に、幸多からんことを。

2020年12月11日金曜日

▼カテゴリについて

日常の記録のほかに、旅をした時は特別に記録をつけています。以下、カテゴリ別に説明を記載。

2018シビウ国際演劇祭日記
初めて単独で批評家として招聘していただいた、ルーマニアのフェスティバル滞在記。だいぶ文体が変わっているのが自分でも分かります。

2016デュッセルドルフ滞在記
FFT Düsseldorf NIPPON PERFORMACE NIGHTに招聘され、ドラマトゥルクとして会期終わりにドイツを訪ねた時の記録。この2か月前から藤原ちからはひとりでリサーチを繰り返し、本を製作していたので、私のこの日記は、彼が仕事を終えたあとのもので、彼の苦労や孤独を汲み取ることがうまくできていなくて申し訳ないです。フェスティバルの様子やデュッセルドルフの街のこと、毎日のたべものなどの備忘録と思ってお読み下さい。

小豆島滞在記
瀬戸内国際芸術祭2016年夏会期に、劇団ままごとに帯同して「喫茶ままごと」の店員をしていた時の記録。劇団員の話はときどき出てきますが、坂手港の人々との交流が中心となっています。文中の固有名詞はあえて統一していないので、最初に出てきたあの人が、次はそれとわからない形で再登場していたりもします。


城崎再訪記
2016年7月に、ふたたび城崎国際アートセンターに滞在した時の記録。『演劇クエスト』改訂を目的に滞在しました。昨年出会った人々との関係がより成熟し、「ただいま」「おかえり」と言えるようになってからの日常です。


城崎日記
2015年8月に、『演劇クエスト』制作のために城崎国際アートセンターに滞在した時の記録。はじめて訪れた但馬で、だんだん人々との交流が深まっていく様子を書いています。

批評家ワークショップレポート
2015年春に世田谷パブリックシアターでおこなった批評ワークショップの記録です。7日間、すべて違う文体で記録するというミッションを自分に課していました。

2012年北京日記
2012年6月に、まだ会社員だったころ、北京に出張した時にノートにつけていた日記メモを転記したもの。食べたものの話や、現地法人の中国人社員さんとの会話などの記録。天安門事件が起きた記念の日に北京に居合わせたことは、忘れがたいことです。


2012北京再訪日記
同年9月に北京にふたたび出張した時の記録。この年は、反日デモが大変に盛り上がって、危険ではないかと言われつつも、ひとりで現地に送り込まれたのでした。

2020年4月25日土曜日

April 24.2020

振り返りで使うものは以下の通り.

・手帳による予定(手書き)
・LINEの履歴
・Instagram等のメッセージ履歴
・落合陽一のnote(https://note.com/ochyai/m/m41f58d360230
・登録しているYouTubeチャンネルのいくつか


***
2月の春節の頃から気配を感じていた.バレエクラスで一緒になる人に銀座の宝石商がいて,中国からの旅行者が来ずに需要が上がらない,銀座でも全然,中国の人を見かけないと言うので少し身に迫って感じられた.

2月19日(水)に配信されたnoteで,落合陽一が初めてコロナウイルスによる世界の変化を語り始めた.この頃は単発で終わるのか,シリーズ化するか,先行きの見えない感じ.

2/22(土)ごろには,3月半ばと,4月頭のアメリカからのチーム来日予定が延期・中止検討となり,翌週,ホテルと通訳者に調整を入れるメールをしている.

少ししてから,3/2(月)に予定していた製粉会社との会食が,先方からの提案を受けて中止になった.率直に言えば,その時は「そんなに神経質になることなのか」と思っていた.時を同じくして,4/29(水)から予定されていた製粉業界のチーム訪米ミッションが取りやめになることになり,航空券のキャンセルの手配をした.

2/29(土)になるとだいぶ落合noteの切迫感は増してきていて,美術界を中心にイベントの中止なども相次ぎ始めていた.

3/1(日)には野田秀樹が上演中止の相次ぐ演劇界の不安定さを「演劇の死」として訴えた新聞記事が拡散され,その扇情的な物言いが炎上した.平田オリザがのちに火消しのために大量の液体(たる言葉)をTwitterに注いだら実はそれはガソリンだった……というような出来事もあり,私は,本当に本気で,もうどう思われてもいいから年齢で区切る,50歳以上の人間の言葉に踊らされたりましてや信用しない,絶対に,と誓いを立てた.それくらい私は荒れるSNSに心を痛めていた.ということは今書き起こしていて気づいた.どおりで3月頭から少しずつ会社に行けなくなる日が増えていたわけだ.

しかしこの頃にはまだバレエのレッスンが出来ていた.消毒液をまくおばさまを,少し神経質に感じるくらい.でもこの頃から少しずつ,明確になんらかの影響が表れるようになってきた.自身が観劇を予定していたもので初めに中止になったものは,3/7(土)に予定していた,ままごと『タワー』だった.


***
3/1(日),友人である母子から夕食の誘いを受ける.自宅から3分歩いて最寄駅,7分電車に乗って,5分歩けば着く距離だ.子は休校が突如決まり,4日(水)から自宅にいることになったという.復習ドリルやひとり遊びの時間割などを書いていて,私もまだ気兼ねなく遊びにゆくことができ,児童館や学童はどうなるのかしら,とまだ検討もつかないような疑問を口にした.児童館は閉まるらしい,と噂に聞いた.

3/5(木)には妹から,蘇づくりがブームになっているらしいよ,と面白半分のLINEが来ている.その頃私は,胃炎を繰り返すようになり,時たま会社を休むようになっていた.徐々にマスクなどが品切れを起こし,ボスが,毎朝の階下のドラッグストア開店時の状況などを教えてくれるようになった.

パリ・オペラ座の来日公演がその週末に『ジゼル』,翌週に『オネーギン』と予定されていて,私はチケットを取っていなかったけれどバレエクラスでもたびたび開催を危ぶむ声が上がっていた.既に日本のロックバンドなどは軒並みライブの中止を発表,あるいは強行によってバッシングを受けたりするなど物議を醸していた.無事にオペラ座は終演まで漕ぎ着けたが,今となっては本当にギリギリ,もはやアウトだったと感じている.踏切が閉まりかけているのを走って渡り始め,最後は閉まったバーを手でこじ開けて彼岸へ無理矢理帰ったような有様だった.後になって悪い知らせ(誰かの感染など)として返ってこなくて良かったと思う.

3/9(月)に上司をハワイでの予算会議に送り出した.直前まで台湾,中国,韓国のディレクターたちとも話していたが,東京オフィスのディレクターたる上司だけは現地に向かうことになった.他のアジア諸国は全員キャンセルしたように思う.アメリカ側のメンバーは「別に気にしないから自分たちでどうするか決めたら?(だってアジアの疫病でしょ?)(あとイタリア)」というような雰囲気を出していたのを私は覚えている.同じ日に私は個人的に,イタリアに住む梨乃にメッセージをしており「近くの町が封鎖されたりしてるよ!もうすぐ日本政府はイタリアからの渡航制限もするのかなあ」という返信を受け取っている.

3/12(木)には今年大学生になるという子を連れて六本木にゆき,食事と食後のコーヒーと,乃木坂までの散歩をした.入学式中止や授業開始が遅れる話題はここで出た記憶がない.

3/14(日)には自宅に客人が来た.雪の日だった.このあたりから着実に会社に行けなくなる日が増え,妹に相談などを何度かしている.

3/20(金)にもふたたびイタリア・チェゼーナの梨乃にメッセージをしている.

3/22(日)は花見をした.目黒駅から目黒川沿いを歩いて中目黒駅まで行った.


***
次の週あたりから,体感として日を追うごとに状況が悪化していく一途となる.

3/24(火)には今年大学を卒業する人を祝いに出かけた.高田馬場駅から神田川を歩いて早稲田駅まで行った.

3/25(水)は夕方に心療内科に行った記述が手帳にあるから,おそらく会社は休んだ.

3/26(木),31日に予定されていた岸田國士戯曲賞の授賞式の中止が白水社から発表される.急なことであった.直前まで模索が続いていたのではないだろうか.

3/27(金)に配信されたマガジンでは,落合陽一が初めて「アフターコロナ」から「ウィズコロナ」と用語を使い替えている.この日のバレエクラスの後,先生が誘ってくれて4人で中華料理屋に行った.明日も来週も踊りたい,そんなふうに願っていた.緑ヶ丘の中華料理屋は週末だから人がいっぱいいて,そんな風景を,少しずつ不謹慎だなって,いや不快だなって,そっちに近い方の気持ちで見るようになっていた.自分たちはおなかがすいたから来たのであって,週末の憂さ晴らしにここに来たんじゃない,と思った.

妹に上司と話し合いに行ってもらい,私の精神疾患の話などをしてくれた報告を聞いたのが3/29(日)だった.本格的にテレワークに切り替えを命じられた矢先のことだった.そして3月の終わり,ひとりのコメディアンがコロナウイルスによる肺炎で死んだ.

4/1(水)は職場に復帰した.しかし帰宅途中,東横線でバレエの先生から,4/13までの全クラスを休講にするむねメールが入り,マスクをしたまま初めて,コロナの影響で何かが中止になったことで,泣いた.その夜はEnglish National Balletのタマラ・ロホによるオンラインレッスンを頑張った.

4/2(木)も職場に行く日にしていて,上司は休みの予定で,しかし私は寝坊をしてしまった.8時半近かっただろうか,とりあえず可燃ゴミを出さなければと焦り,赤いチェックの寝巻きにネイビーのハイヒールを突っかけて,部屋を出たのがいけなかった.その赤い寝巻きは,2013年6月だか8月だかに西荻窪のマンションの階段で同じシチュエーションで足をすべらせた時にも履いていたから,もう本当にハイヒールとの相性が致命的なんだと思う(でも妹のニューヨーク土産だから,捨てるわけにはいかなかった).そのままアパートの外階段を,いちばん上から下まで転がり落ちた.頭の中で一瞬にして西荻窪での失敗がフラッシュバックし,ああやっぱり私って会社に行けなくなる時は朝のゴミ出しで階段から落ちるようにできているのか,いやでもこれいつ止まるの,うわああ,と思っているうちにコンクリートに打ち付けられ私は止まった.駅に向かう女性が3人ほど手を差し伸べてくれて,ゴミを持って行ってくれたりした.私は立ち上がって,本能的に流血がものすごい量になっていることを悟ったが,骨は折れていない,捻挫も大丈夫そうだ,と冷静に考えた.経験から言って,必ずこれは,すごい量の血が出ている.間違いない.一刻も早く室内に戻り,対応しなければ.救急車を呼んでくれるという女性に丁重に礼を言って,ハイヒールの中が温かい血で濡れていくのを感じながら部屋まで戻った.玄関で手を伸ばして,なんでもいい,タオルを取り,床に敷いてから靴を脱いでその上に乗った.タオルを引きずるようにして部屋の中に入る.とにかく血が止まらなかった.でも何度も言うけど,私は過去にも精神状態が劣悪になった時には階段から落ちたり転倒したりして,たくさん血を流してきたから,どうすればいいかは分かっていた.それで救急外来で近くの総合病院の整形外科にゆき,ただちに傷を縫合する運びとなった.深かった右膝の傷は骨まで到達していたらしく,内側を3針,表面を5針.左膝はそれよりは浅く,3針.左半身を大きく打ち付けたようで,左腕の打撲,擦過も酷かった.首も軽く捻挫した.骨折と捻挫がなければ,傷さえ塞がればまたバレエができると,局所麻酔での施術を受けながら思った.包帯でぐるぐる巻きにされて終わり.夕方ごろ,よくよく舌でさわってみると左の前歯がすこし欠けていることに気づいた.

4/3(金)も,整形外科で傷を見せる.痛みによって背中にも擦過傷があることに気づいたが捻挫のため首が回らず自分ではよく見えない.孤独とは,背中の傷の様子を見てくれる人がいないと言うことでもある.そんな中,星野源がInstagramに「うちで踊ろう」の投稿をした.生まれながらにパンデミックを運命づけられた呪われしポップミュージックの誕生だった.

4/4(土),駅までのろのろ歩いていって電車に乗り,歯医者に行って前歯を治してもらう.

4/5(日),クレマチスを2鉢買う.ジゼルとミルタと名付ける.会計をしながら私がミニバラの白とピンクの鉢を物欲しそうに見ていると,花屋の親父は「入学式も何もかんも中止でさあ,売れないよ」と嘆きながら黙ってその2つも袋に入れてくれた.白をシルフィード,ピンクをジェームズと名付けることにする.

そこからは怪我のための自主的な運動制限と,ウイルスによる社会的外出制限の区別が判然とせず,植物の世話や読書などに明け暮れるようになる.会社には週2回ほど赴き,封書の整理などをする.毎朝のマーケットチェックメールなどの送信は自宅からも行える.



***
4/24(金)もいつものように自宅勤務していて,昼間散歩に出た.人通りは少なく,しかしあまりに天気がよくて,ああ外出制限や死者が続出している世界はもしかして夢なのではないだろうか,人類の悪い夢,と考えながら自由が丘駅の方までゆき,ほとんどの店が閉まっている,あるいは短縮営業でしかないのを確認してから,園芸用の土を3キロと,ばらの花を買って帰宅した.それで夕方,とつぜん気持ちが溢れた.陽性で苦しんでいる人間がすぐそばにいて人ごとではない,と思った.怖いと思った.何が? と考えて,自分の死をコントロールできないことが怖いというのが言葉にするといちばん近い.しかしその考えは,じゃあ私は自分の死をコントロールしようとしていたと言うのか? という疑問も同時に連れてきたため,夜になったら友達に電話しようと思う.

私のかわいい弟,いとしい弟.お前をこんな疫病で死なせるために育てたわけではないのだ,医師になれるよう願って社に詣でたわけではないのだ,国家試験を受けてすぐの早い結婚を祝福したわけではないのだ.何もかもお前の未来,長く続く人生を思えばこそなのに,

2020年3月15日日曜日

恋愛問題集(酸いも甘いも大人のたしなみ編)

問1
恋人を信用することと信頼することの違いについて、具体例を用いて説明せよ。

問2
「あなたのことが好き」という文章と同じ意味のものを選べ。
1.こっちに来ないで。
2.あっちに行って。
3.もう嫌い。

問3
いちばん美しい愛の終わりの言葉は次のうちどれか。
1.今まで本当にありがとう
2.これからも友だちでいよう
3.二度と会わないようにしよう

次のうち、人生で避けるべきものはどれか。
1.罪な男
2.危ない橋
3.ずるい女

次のうち、自分自身で選べるものはどれか。
恋の終わり
恋の始まり
結婚相手

あなたの心に響くものは次のうちどちらか
自分を好きでいてくれる人の優しい言葉
恋した相手のそっけない一言

問4
次の英文を日本語に訳せ。
Love is not enough.
1.十分に愛されていない。
2.愛は十分足りている。
3.愛だけでは十分ではない。

2019年9月24日火曜日

祖母の長兄からの手紙

祖母の、戦死なさった兄がお書きになった手紙。(戦後、兵士たちの遺稿集として「群像」に掲載されたもの)

 



***

敬夫へ。

 先日は外泊の折皆の元気な姿に接し兄として嬉びこの上もないものでした。

 今日はお前に私の考へてゐること及びお前に言つておきたい事を、東京行の列車の中で書きます。よくよく熟読玩味して下さい。兄さんも学校に居る時は、自分の力を少くとも他の学生達の如くにでなく、自分の思ふ方向に対して向けてきたと今でも自覚してゐます。先日お前の買つたといふ本を見せて貰ひ、お前の勉強の対象が、私のそれを同じものに向けられてゐることを見て、一面嬉しさを禁じ得ないとともに反面ある意味での怖しさに駆られました。

 まことに現代の学生の宿命とでも言ふべきものを感ぜずには居られません。

 矛盾を社会の機構の中に見出した時、若い血が命がけでそれを解決しようとする。その姿は美しいものです。その姿はたゝへられねばなりません。命がけでやることに何で悪いことがありませう。

(中略)

お前は史学に専念すると言ひましたね。歴史を読む事は良い事です。人間が今迄に経てきた足跡を静かに想ひ、その中から、社会を歴史を世界史を人生を観照し、その中から自己の使命を見出すのです。

(中略)

もう少し現実的であれ。学校の机上の空論から離れた本当の勉強に入る様お願ひします。また少しむづかしい事を書いてしまひましたね。要するに私が軍隊に入り学生生活と比べてみて感じた事を書くのです。軍隊という処は一口では云へないが、とにかく愉快な場所ではありません。しかし、それが如何なる批判をうけると受けぬとに限らず、それはこの社会に現実に存在するのです。だから云ひたい事は、お前が正しいと信じた事も、正しいと想つた様には行かないのです。お前も坂梨と同様に素直な境遇に育つた人間なのです。少くとも私と同様に社会の逆境の中に居らない人です。

 前置きが長くなりましたが、具体的な事を書きます。現在の日本を見ながら、現代の学生の仕事はいさゝか変化したのではないでせうか。学生が学生の本分のみに専心するには余りにも慌しき社会をみます。それでお願ひします。私のゐない家の者の、男の子のお前が中心となり、自分の身辺の者の為に動く様にして下さい。お前には未だ未だ解らないと思ふが親の愛と云ふものを痛感するのは自分が逆境に入つた時始めて解るのです。

 どうか、父母上に、

「また機会ある日に」知子にたくす。