2016年7月28日木曜日

ある日(朝と夜)

今日も暇で、寂しいなあとぽっかり晴れた海を見て思う。ブルーが深くて、空と海の境目に島の点在する瀬戸内は、どこまで行っても陸が見えなくなることがない。昔の会社の同僚が「海の側で育ったやつはな、みんな海の向こうには何かあると思って生まれた町を出るねん。でもな、海の向こうには海しかないこともあんねんで。海は、海やで」と言っていたのを思い出す。たしかに海は海やんな、でも瀬戸内には海の向こうにも島と人が見えるんやで、なあ、すぎちゃん、と慣れない彼の言葉を真似して呼びかける。晴れた日ほど寂しい。遥か東京に置いてきてしまった人、私から別れてきてしまった人のことを次々思い出して、中でもそのうちのひとりのことが頭から離れなかった一日だった。いったいこんなに美しい海のそばで、私は何をしているのだろう。お皿を洗ったりそうめんを茹でたりしながら、ひさしぶりに涙がこぼれそうになって、でもまだこぼれる涙があることに安心もした。

明日、別の人に喫茶のキッチンを貸すので、冷蔵庫の中身や備品を全部片付けた。私は腕の力が本当になくて重いものが運べないので、こういう作業をする時に自分の非力がつくづく情けなくなる。片付けるにしても、過去にエンジニアをしていた私は二度手間(システム開発業界では「手戻り」という)がきらいなので、マスターが手順を決めて、置き場の位置の設計を全部してくれるまでは手伝わずにふらふらしていた。一度置いたものをまた動かしなおすというのはあまりやりたくないことのひとつである。

夜のフェリーが来る1時間ほど前、旅人が喫茶の明かりをたよりに階段をのぼってきた。私とマスターは「ごめんなさい、今は片付けをしていて、ここでフェリーを待つことはできないんです」と説明した。旅人はにこやかに、ではもう少し港に近づいて船を待つと言って出ていった。申し訳ないなと思ったその時、私の頭に浮かんだのは、新約聖書のルカ福音書に記されている、イエス・キリストの誕生についての記述だった。

「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

幼稚園から高校までカトリックだった私は、この箇所をかつて何度も、幼稚園のクリスマス会、学校時代の小さな劇、時にはタブローなどの形で上演させられてきた。宿屋の主人が、身重のマリアと夫ヨセフに申し訳なさそうに、宿はいっぱいだと断るのだ。フェリーを待ちたいという旅人を申し訳なく追い出してしまった時に、ふとこの聖書の箇所とそれがリンクした。旅人はひとりで、しかも男で、ありえないんだけど、でもいつでも人を受け入れるために誰かを待つ喫茶の仕事の意味を、ふいに突きつけられた出来事だった。喫茶、すなわち劇場が人を受け入れられなくなる時が来ないように、いつでもひらかれた余白を持っておかなければと思う。

喫茶に陰干ししていたローズマリーをエリエス荘に持ち帰り、窓にぶら下げたら魔除けの草みたいになってしまって怖い。

畑の帝王が、エリエス荘の食堂でオードブルをいくつもつくって待っていてくれた。きゅうりのすりおろしとめんつゆ、ごま油を混ぜ、トマトにかけたものが絶品で、あとでカッペリーニを茹でて持って来てくれたけれどそれが大変よく合っておいしかった。コンソメ、スライスオニオン、けずりかまぼこ(山口のおみやげらしい)のスープとの食べ比べも楽しかった。いちばん私が気に入ったのは、アボカドとダイスに切ったチーズ2種類をわさびマヨネーズであえたもので、サンドイッチにして食べたくなった。

明るい声の響く食堂を出て、玄関の外に行った。夜空に白い帯のようなものがあって、なんだか白いなあ、雲にしては綺麗だなあとは思っていたが、毎日空の同じところが白いので、最近これが天の川なんだとわかった。真っ黒な海を見ていると、消波ブロックに砕ける波の音だけがする。海に近寄って覗いたが、これはもっと弱っていたら、きっと呼ばれるからいけないなと思った。私は長いスカートばかりはいているから、飛び込んだら服が水を吸って重くなるだろう。いつ死んだっていいし、いつ老婆になってもいいと思っているけれど、とりあえず海から離れて、玄関の喫煙所で腰掛けた。ここで今人が生きている、ということよりも、ここで生まれて死ぬまで生きる人がいる、ということを考えたい。もちろんそれは同じことなんだけれど「そりゃ同じでしょ」って誰かが笑うほどかんたんな「同じ」では、ない。

「ほんならまたな、もし夜光虫が海にいたら呼ぶわ」と言いながら帝王は帰っていった。そのあと呼びに来なかったところを見ると、私が夜光虫の光に会えるのはもう少し先のようだ。

ある日(夜の墓)

いつおさんは、1Fの観光案内所の一角で働いている。庭の畑に赤しそが生えていて処遇に困っている、という話をマスターづてに聞いていて、しそジュースをつくりたいと思っていた私は、いつおさんにしその葉をもらいたいと考えた。しその季節は6月なので、もうあきらめていたのだが、もらえたら嬉しい。そう思って1Fに降りていくと、いつおさんは席を外していた。観光案内の席に座っている女の人に、髪の長いめがねの男の人が戻ってきたら伝言を頼みたいのですが、とお願いすると快く引き受けてくれた。それでちょっと考えて「いつおさんの畑の赤しそはまだ余ってますか? と伝えてください」と言った。ただ「お訊きしたいことがあるので2Fの喫茶に来てください」と言うよりおもしろいと思ったからだ。しばらくしていつおさんが喫茶に上がってきた。「赤しそが余ってるかって俺に言いに来た?」と言うので、伝言がうまくいったことがわかった。「女の人が、半笑いで伝えてくれた」そうだ。私の考えた台詞を伝え、覚えてもらい、相手に言ってもらうという小さな演劇は、成功した。

マスターとの、都会を脱出してきて島で店を始めた若夫婦のような、ふたりでの喫茶経営も今日で終わった。二十歳の女の子が東京から手伝いに来てくれて、明日からは3人で店番する。

近くのそうめん屋の娘さんが喫茶にきてくれた。スター・アンガーを眺めて彼女は「あたしあれ、ごはん待ちくんって呼んでるんだ、鳥のひながごはん待って口あけてるみたいに見えない?」と言うので、私も今度からひっそり、ごはん待ちくんと呼ぶことにした。

畑の帝王が、野菜とともに花を持ってきて、プレゼントしてくれた。野に咲くかわいい、白い花だった。花をもらうのは私の至上の喜びなのだが、めったにくれる男性がいないので、この時とばかりに帝王の目を見てしっかり受け取った。何ていう名前の花なの? と訊ねると「ノコギリソウ。葉がノコギリみたいやろ」という、可憐ではないけれど実直で好ましい名前を教えてくれた。ハートランドの緑の空き瓶に生けようと思い、用意していると「あっ、挿す前に水切りした方がええで」と言う。「茎、引きちぎってきたからな」と微笑む帝王は、やはりワイルドな男である。

マリコさんが昼間にきゅうりの浅漬けを持ってきてくれて、夜の坂手を案内してくださることになった。20時過ぎに待ち合わせて、喫茶のメンバーとともに海沿いを出発した。「今は月が欠けていくころで、月の出も23時くらいだからまだ星が見えるね」と、懐中電灯を携えたマリコさんは言う。海につながっている隧道を通り、坂を上り、畑を横切って寺に着いた。星を眺めると、天の川も夏の星座もたくさん見えて、これなら地球と同じ環境の星が宇宙全体に無限にあるというのも、わかる、と思った。宇宙の分子はひとつひとつ、可能性を確かめ、遺伝子の総当たりをおこなって、生き物として生まれれば進化をし、燃えたり凍ったり消えたりして、無限に、本当に無限にひろがってゆく。そのことと、私が私の生き方を試し、選び、進むということはつながっているのだということを、最近よく考える。

3年前、夕焼けの時間に、坂手の山の墓地に行ったことがある(当時の日記参照)。居心地のいい墓地があるとしたら、この墓地が私の知る中ではいちばんだろうと思う。西向きの山肌、島中でいちばん美しく海の見える場所に、坂手地区の墓地はある。夜、そこに連れていってもらうのが今日の目的だった。なかなか、好きな場所とは言っても夜に住民の付き添いなしに行くのは憚られるから、とても嬉しかった。墓にあるあずまやからは、坂手がすべて見渡せる。ちょうどジャンボフェリーが着岸している時間で、闇夜の港にひときわ明るさを放っていた。

マリコさんは、真っ暗な坂をすいすいと縫うように進む。坂手という地名は「坂が手のひらのようにひろがっている」ことから、坂手と名がついたと教えてもらった。ほら、と5本の指をひろげるマリコさんの手は、山の道を頂点にして坂を海までくだる道が何本も入り組むこの町にそっくりだった。話しながら、もっしゃんの生まれた家の前を通る。マリコさんともっしゃんは幼なじみだったんですか? と訊ねると、3つ年が違うから中学も高校も一緒にはならないのよね、その年頃なんて部活が違えばなおさらよね、同じ坂手といっても「海の手」と「山の手」に分かれていて私は山の方でしょう、海の子と山の子は、遊び場も遊び方も違うから、会うことはなかったなあ、といろんなことを話してくれた。そんなもっしゃんとマリコさんがどうして出会って結婚したのか、訊く前にわれわれは坂をくだり終えた。

エリエス荘に帰って、スーパーまで買い出しに行ってから、海を見ながら煙草を2本吸った。いつか死んだ人とも、お酒が飲めるようになったらいいなあ、と思う。それでさっき歩いてきた墓がある真っ暗な山の方向に、冷蔵庫から持ってきた缶ビールを傾け、ひとりで飲んだ。

2016年7月27日水曜日

ある日(花壇、無政府)

朝、観光案内所で軍手をもらって、花壇の草取りをした。夕方以降にまた作業しようと思って、ほどほどでやめた。昼間は、まさに、忙中閑ありといったのんびりさで過ごした。

いつおさんという人がいて、若い移住者なのだが、毎日、昼間はアイスコーヒーを、夕方はビールを飲みに来てくれる。もはや、いつおさんがドアを開けて入ってきても「客」とはあまり思わず「いつおさんだな」と思って氷をカップに入れ、アイスコーヒーを注ぎ始める自分がいる。閉店してから、私とマスターが花壇を掘り起こす作業をそばでいつおさんが見ていてくれた。オリーブの害虫についての話などをする。私は、去年小豆島で買ったオリーブの苗木を自分の家で育てているのだけど、この前、葉を見たら害虫(ヘリグロテントウノミハムシ)にめためたに食べられていて、憤慨したのだった。それを聞いていつおさんは「そういえばオリーブアナアキゾウムシって、日本にしかいないらしいよ」と言い出した。オリーブアナアキゾウムシとは、オリーブに穴をあけるゾウムシである。それから「始めに聞いた時、俺、オリーブ ”アナーキー” ゾウムシだと思ったんだよね」と言った。アナーキーゾウムシとは、無政府状態のゾウムシであろうか。「かっこいい! と思ったんだけど、島の人と話しててどうも違うなと思って気がついた。でもそれ以来、オリーブアナアキゾウムシは俺の中で、位の高い虫になったわけ」。いつおさんはそんなことを喋りながら、ミントやローズマリーを挿し木するために、何本か水に浸けてくれた。いつおさんも畑を持っていて、植物には詳しいのである。その他は、私がタイム(多年草なので大きくなる)の古株を力を込めて引っこ抜くさまを、おもしろがってただ眺めていたりした。

マスターは日没近くまでかかって、花壇を更地にした。そこへ畑の帝王がやってきて、きゅうりとトマト、いんげん豆をくれた。マスターが「花壇楽しい。土がいとしい」と言えば帝王は「せやろ、俺の畑への愛も、わかるやろ」と説くので、マスターはなおさら「わかるわ」とうなずくのだった。その横で、ハーブの植え込みを抜かれて居場所をなくした蜘蛛が、上階のベランダに糸をひっかけ、ふわりと飛ぶようにあがっていくのを見た。後ろからは夕陽が差していて、細い糸をたぐる蜘蛛はまるで天国へ行くみたいだった。

2016年7月26日火曜日

ある日(水夫、ミント)

昨日は夜、リゾートホテルの大浴場を借りに行った。3年前、そして去年、私はこのホテルに泊まったはずだけど、大浴場のことは覚えていなかった。初めて来るなあ、などと呑気に考えていて、だけど露天風呂に行った時に、あれっ、このお風呂から星を眺めたことが過去に二度はあるな、と急に思い出したのだった。記憶が薄れ、消えてゆくさまには絶望しかない。だから毎日書き残しているわけだが、逆に言うと書いたこと以外は忘れる。露天風呂では私より少し年下に見える女がふたり、半身浴で、職場の愚痴をずっと言っていた。「彼のつくる資料が見づらい」「そんなやつ、人として無理」などと、リゾートホテルに来てまで言わなくてもいいだろうと思った。私は女と温泉旅行なんかしないから、露天風呂で友だちと喋りたい気分はわからない。

しかし大浴場で疲れを取ったおかげで、今日は元気に働いた。暇だったから、体力を消耗しなかったとも言える。

夕方、スイフという犬を連れた夫妻が喫茶に寄ってくれた。スイフの名の由来は「水夫」から来ている。白くて茶色くて、まつげとまゆげのある可愛い犬だった。また会いたい。私のことを覚えてほしいから、優しく接した。スイフの飼い主である夫妻は、鋭くやわらかい物腰で、生き様はセンスと愛に満ちており、とても眩しい。

持ってきたミントを、挿し木で増やそうと試みて失敗した。丈夫な草だからと言って、適当に扱ったのがいけなかった。最初の水上げに失敗したから、根も張らなかった。喫茶で働いていると、自分が相当にざっくりした見積で行動していることに気づかされ、愕然とする。分量も時間も、きっちり測ったって毎日同じ味にはならないというのに、ざっくり見積もってどうして繊細な料理がつくれるだろうか。今日もカレーにスパイスを入れる時、一気にどっと入れたせいか、顔にカレーがはねて熱い思いをした。そんなことがあるたびに、おのれの生き方を多少反省する。

ある日(フラット)

定休日だったので、買い物に行った。マスターの運転する車で、仕入れ先を回る。醤油の製造所、オリーブオイル屋さんなど。建築家と地元が組んで、新しくできたジェラテリアにも行く。酒粕、しょうが、レモンバジルのトリプルアイスをマスターと分けて食べる。草壁港は、今や毎日、新作のジェラートやシャーベットが生まれる場所となった。

町役場に、都知事選の不在者投票を出しに行く。自分の自治体の選挙管理委員会から、投票用紙をエリエス荘に送ってもらったのだ。封筒も二重になっていて、滞在先の町役場の人の立ち会いが絶対必要な仕組みになっている。はっきり言ってめんどうだったが、社会勉強として有益だった。これからも、選挙がある期間でも他の町を訪ねて演劇をつくっている人生でありたい。
 
エリエス荘に戻って玄関から海を見ていると、畑の帝王が原付でやってきて、チシャレタスをくれた。「ドライブしてんの、池田の信号のとこで見たで」と言う。帝王はトラックに乗っていたので、一瞬すれ違っただけだったとのことだが、RPGのノンプレーヤーキャラクタに出会えたような楽しさがやはりある。そのあと帝王は喫茶のキッチンに来て、ピーマン肉詰めは縦に切らず、へたと種だけ取って(へたを切り落とし、種を手で回しながら取る)ひき肉を詰めて蒸し焼きにすると、旨味が逃げないことを教えてくれた。それでその夜は、それを実践した。

私がひき肉をこねていると、マスターは「実は俺、ひき肉が苦手なんだ」と告白してきた。今日の晩餐がハンバーグであることはやぶさかでないが、よくよく思い起こすとひき肉が苦手な人生だったと言う。肉を細かくミンチにするという状況を想像するのが嫌なのではないか、と自分で分析していた。

きみちゃんが消防団の会合の前に来てくれたり、差し入れをくれたり、1日に3回くらい顔を出してくれた。私が初めて喫茶に来た日に、観光案内所の人々が「この子女優の卵やて」「もう割れとるん?」「まだや、いま生まれるとこや」と話している横で、きみちゃんだけは「いや、女優やないねんな」と小声で言っていてくれたのを、私は聞いていた。私が小豆島へ来るようになってから4年目。今年は特に期間が長い。きみちゃんは、テーブルで私と差し向かいに座って「あんたがなあ、どうしてそんな熱狂的に島に来るのか知りたいんよ」と言った。それで、東京の演劇と瀬戸内国際芸術祭での俳優たちのパフォーマンスがどう違うか、など話したけれど、どうやらきみちゃんが訊きたいのはそういうことではないようだった。少し沈黙があって彼は「つまり、ひとつの団体にそんな密着したら、作品をフラットに見られんのちゃうか」と、ためらいながらも尋ねてくれた。非常に鋭い言葉で、このことを島の人に訊いてもらえて、びっくりしたけれど嬉しかった。

私は、地方の芸術祭にアーティストが参加すること、自治体と組んで活動する未来をすぐそばで、長い期間見てその様子を書きたくて来ている。それが、未来ある人間たちの生き残る、ひとつの(そしてかなり有力な)方法だと思っているからだ。特別な誰かひとりのことよりも、私は演劇を愛している、芸術を必要としている、でもそれは特別なひとりを大切に見ていくことと相反しない。そんなことをぽろっと言ったらきみちゃんは「なるほどね、それがあんたにとって一番フラットなやり方ちゅうことなんやな」と、しっかり、受け止めてくれた。「一番難しいことやっとるやんか」とも言ってもらって、これからどうなるか、楽しみにもなり、不安な気持ちが涌き上がってもきた。でも、自分を含むこの世界の何かを更新するため、私は夏をここで過ごすのだ。

2016年7月25日月曜日

ある日(誕生日、アンガー)

喫茶のマスターの誕生日ということに、昼も近くなってから気づいた。続々と、島の人やら滞在アーティストやらが、小さいプレゼントを持ってやってくる。ジャム、ハバネロソース、オリーブの砂糖漬け、ウイスキーなど。ちょうど芸術祭のイベントの狭間でみんな退屈してるだけだよ、Facebookで知ったんだろうね、と言いながらもマスターは嬉しそうにしていた。

日曜日なのに喫茶は暇だった。おかげで思いがけず尋ねてきてくださった方とゆっくりお話しすることができた。7月の序盤に、こうしてこの場所を尋ねてくださるのはありがたい。一度足を運んでみる、ということが有効なのは大人になれば誰しも多少はわかっていることなのだが、そのための時間や費用を捻出するのが大変なのも、大人なのである。

坂手港には「あんがん」というゆるキャラがいる。ビートたけしとヤノベケンジが2013年につくった「アンガー・フロム・ザ・ボトム」という大きな美術作品がモチーフになっている。「アンガー(=怒り)」という名前の由来もパンクだが(たとえば日本のどこの自治体に「悲しみちゃん」なんていうキャラクタがいるだろうか!)すごいのはその見た目だ。島にある古井戸の底に潜む巨大な地霊的化け物をかたどっているので、頭には斧が刺さっている。赤い目は100円均一のお椀でつくられており、顔の銀紙は島のおじさんが家に溜めこんでいたラーメンの袋を裏返して貼ったものだ。観光案内所のおじさんたちが交代で中に入るが、夏場は暑いので熱中症で倒れた時のために、おじさんが必ずもうひとり付き添っている。そんなあんがんは、フェリーが到着すると港へ出迎えに行き、観光客とハイタッチする。坂手港には同じくヤノベケンジ作「スター・アンガー」という彫刻もあり、それは銀ピカでぐるぐる回る巨大なトカゲの形をしているんだけど、あまりにも自然に港のランドマークとしてなじんでいる感じがするので、あんがんが出てきても驚いたりする観光客はあまりいない。

「マジヤバくて最高よな」と島のある人は嬉しそうに笑いながら言う。まさに「アート」の浸食に対抗しうるのは、誰かの無邪気にも見えるクリエイティビティであり、しかしそれを引き出すのはやはり最初にやってきた黒船のような「アート」なわけだから、ひとつひとつほどいて、地域の人々の話を丁寧に聞いてみないわけにはやはりわからない。

夜は神社のお祭りに行き、新しくなった町の元幼稚園での宴会に少し参加した。子どもたちがこんなにいるんだ、と思ってびっくりしたけど、島でできた友だちが「逆に言うと、これだけとも言える」と教えてくれた。この夏初めてのかき氷を食べながら、夜道を歩いて帰る。大の大人がかき氷を食べさせあい、味を比べて当てっこをしながら歩ける夜は幸せだ。

宿舎に戻ると、畑の帝王から共有冷蔵庫にバースデー押し寿司の差し入れがあって、サランラップにマスターの誕生日を祝うメッセージが書いてあった。私はちょうどおなかがすいていたので、もうおなかいっぱいだというマスターを誘って、真夜中に押し寿司を食べた。

ある日(とんび)

もっしゃんと呼ばれる人がいる。ニックネームである。島の水道局の人だが、みんながもっしゃんと呼んで慕っている。流れ者のアーティストにとって、かたぎの味方がどれほど心強いかということを私は島で学んだ。仕事はかたぎで、心が無頼というのが最高と思う。それで、先日もっしゃん夫人に初めてお目にかかった。夫人も、所有している山から木材を切り出してアーティストに提供したりする実力者である。アーティストと住民が、お互いの存在で、物心ともに充実するのがいい。小豆島のおでんの具材についてご教授いただく。このあたりのおでんには必ず平たいはんぺんが入っているらしいのだが、何という名称だったか失念した。

客の少ない時間、カフェのテラスに出てとんびが飛んでいくのを見ている。とんびは羽ばたかない。大きな羽をひろげたまま、滑空していく。城崎温泉で、コウノトリと鷺の見分け方として「コウノトリは羽をひろげて動かさずに滑空しますが、鷺はバタバタ羽ばたくのでわかります」と言われたのを思い出す。城崎の子どもたちのことを思い出して、小豆島でも子どもの友だちができたらいいなあと思う。

畑の帝王がまた来てくれて、段ボールでできていた喫茶のメニュー表を板でつくりなおしてくれた。大工なのか料理人なのか野菜育て人なのかわからない彼は、とにかく手先が器用で細やかで何でもできる。そして、とても日焼けしている。彼は私の生っ白い顔を見て「白い人は大変やな」と言った。大人になっても日焼けして皮むけることあるの、と訊ねると「むけよる。でもむいても黒いで。むける頃には下の皮膚がもう焼けとるからな」と、自信満々で答えてくれた。心、身体、技術をぜんぶ使うこと。島に来た目的を、口の中でぼそぼそ唱える。そうこうしているうちに、畑の帝王は「あ、港の方にポケモンおるらしいでー、つかまえやー」と新しい流行ゲームの情報をこだまのように響かせながら、喫茶から去っていった。

喫茶店では、余りもので食事をつくる。野菜がたくさんあるので炒めて、お米かそうめんと合わせ、余っている生ハムをだいたいどんな味付けの料理にも乗せる。

2016年7月22日金曜日

ある日(畑の帝王)

相変わらず、東京に集まってくる人々の不親切と横柄さ加減に辟易しながら、新幹線に乗った。新大阪までの最終新幹線だったので、窓口で切符を買おうとしたら「もうぎりぎりなので、この紙で精算してください」と言われ、見たこともない紙きれを手渡された。乗車証明証とかいうのらしかった。それで、自由席に乗るとまもなく車掌が来て、三宮まで精算してくれた。神戸からのフェリーの出航は1時間半も遅れて、心配だったけれど港への到着は1時間も遅れないで済んだ。港のすぐそばの宿舎、エリエス荘に私が着いたのは朝8時のことだった。

9時から喫茶店へ行く。ずいぶんしばらくぶりに、喫茶の店員をやる。持ってきたミントの鉢を据え、業務に入る。マスターは劇団ままごとのM氏である。店を訪れる人を、みんなMが紹介してくれる。島の人は、私が9月まで滞在すると言うと少し驚く。何人も会った中で、畑の帝王ときみちゃんの二人が印象に残る。きみちゃんは、2年前に初めて会った島のおじさんで、私が演劇の文章を書いていることを知っている。誰から聞いたのか「あんた会社辞めたんやろ」と言うので、笑ってうなずくと「えらいことすんなあ」と笑っていた。

畑の帝王は料理が上手らしく、野菜の知識やおいしい調理法をいろいろと教えてくれた。トマトの調理についてとても詳しいのだが、トマトはきらいだと言う。「だってカエルの卵みたいやん」と身もふたもないことを言う。でもトマトソースは好きらしい。しばらくすると「俺の畑が喉渇いたゆうて俺を呼んどるわ」と言って、さっそうと去っていった。

夕方、山の方に登ってdot architechtsの滞在制作発表を見に行くと、きみちゃんも来ていた。きみちゃんは、私を島の人何人かに紹介してくれた。「この人とは一年に一回だけ会うねん。東京から来てままごとさんの劇評とか書いてんのやて」と言うと、人は「へえ」「何度か来ているの?」とか、訊ねてくれる。きみちゃんは、私が二年前に書いた原稿を読んでくれたらしかった。「わしもちらっと登場してんねん。Mくんが昨日教えてくれたから読んだわ、なんか、ほわほわーってなりましたわなあ」と、急にかわいらしくなった。

喫茶まで戻る途中、暮れなずむ西日の逆光のもと、畑の帝王が原付で現れた。ヒーローのような趣で登場したので「うっわ、誰かと思った」とM氏はびびっていた。すべてに畑に水をやりおえた帝王は、茄子とピーマン、いんげんなどを携えて来てくれたのであった。「採れた時しか食えんやつ持ってきたわ、生アスパラやで」と言って細いアスパラを差し出してくれる。かじると甘い。筋がない。ほろほろ噛んで食べられる。生アスパラというのは「生で食べられるアスパラ」の略らしい。アスパラは、生えたものを全部採ってはだめで、残しながら糖度を上げて毎年育てるのだという。帝王は、祖父の代で畑をひろげ、島のあちこちに土地を持つようになったそうだ。「ウェルカムトマト持ってきたで」と言って、甘い丸いトマトを洗ってくれた。これも、すぐかじって食べた。

M氏とカレーの仕込みをがんばっていると、2時間後にまた畑の帝王が現れた。エリエス荘のバーベキューで焼いた焼うどんを持って来てくれたのであった。夕飯はカレーの残りを食べちゃったの、というと「そうか、でも食べてみて」と押しの強いところを見せてくる。焼うどんに入っているのが塩昆布に見えたので訊くと「食べてからのお楽しみやで」と言いながらすぐに「ここでしか食べられない佃煮やで」と教えてくれた。坂手は、醤油と佃煮の町なのである。それからしばらくカレーを煮込んでいる間、帝王から、10月にある小豆島のお祭りの話を聞いていた。毎年曜日を問わず10月15日と決まっていて、みんなで太鼓台(神輿よりもとても大きいもの)を一日かけて運ぶのだという。島の若い人みんなでやるの? と問うと「出てこんやつは出てこんけどな」とあっけらかんと言うので、ここもひとつの健全なコミュニティなのだなと思った。

エリエス荘に戻るとまだ宴は続いていたけれど、私とM氏はすぐ部屋に引き上げて休むことにした。バーベキューにはきみちゃんが来ていて「明日は土曜日だから、どっかで顔出すわ、おやすみ」と手を振ってくれた。

2016年7月21日木曜日

生と業

一日に二度も、ひとから魔女と言われた。私ができるのはなくしものを見つけることと、晴れを呼ぶことだけで、他人様に魔法をかけるなんてことはできないのに、なぜか二人ともがそう言った。自分で名乗らないのに呼ばれるなら仕方ない。あきらめる。

最初に私にそれを指摘した、京都生まれの詩人のことが忘れられない。「あなたは愛が深いんじゃなくて業が深い」という彼の言葉を記憶の彼方で何度も反芻しているうちに、神楽坂の編集者や横浜の批評家、幾人もの人に次々と深みに突き落とされ、今はあきらめながら髪の一本一本までびしょびしょに濡れ、暗い淵に沈んでいる。

長年、遠くから愛してきた人に初めて手紙を書いた。焼け野原みたいな私の話は彼女に響いたらしかった。それで、恐れ多いことに返事が来たのだった。


時々、人は  のために生きているって、
    を描くために   いるとしか言いようがないなぁ、と思います。
きっと私も   もそうなんだなぁ。
     を描いているのだ、と思えば の意義が   る。
…。
業が深いですね…。


ああ、やはりここでも指摘されるか、やはり、やはり、とため息をついて、髪から滴る水が頬をつたうのを拭い、古いiPodから流れる彼女の、牡丹色の声にあわせて歌う。相変わらずそういう時は硬い床に寝て、現世でのみじめさを噛みしめている。

2016年7月20日水曜日

初手天元

どうしても君に会いたいと言ってる人がいるんだけど、と連絡をもらった時、まさかと思った。人の気持ちがそんなに長く続くわけがないと私は甘く見ていたのだった。

彼女は俺より才能も野心もあったんだ。俺のせいだよ。帰りの遅い俺を、毎晩待ってる。眠れないのはあんたのせいだって彼女も言ってる。もちろん今でも大好きだよ。普通に、好きだよ。

その計画は本当にやめた方がいい、と何度も忠告したが、いや構わないんだと言って聞かない。どうにも困って私は煙草に手を伸ばす。ためらうことなく真ん中に石を打ち、たちまち陣地をひろげる人間は実在するのだった。ああ、俺と結婚しなくてよかった。この男が嬉々として望むから、私の人生はこんなに破滅しかかっているんじゃないかという気がする。それなのに私が死んでも通夜には来ないと言う。だって遠いからだよ、と事も無げに答える。いいね、だんだん俺が昔思っていたとおりの君に近づいてる。男はただほほえんで私を鑑賞している。

2016年7月18日月曜日

ある日(最後の鴻の湯)

最後の朝、鴻の湯に行ったら、毎朝ここに来ているぬしのような女性にふたたび会うことができた。「しばらく来なかったじゃないの」と、洗面台で彼女に言われ、覚えていてもらってうれしさ半分、申し訳なさ半分で「ちょっと体調がわるくて」と笑って立ち話した。ぬしの中で、アートセンターに入れ替わり立ち替わり見知らぬアーティストが来るのは既に日常になっていて「沖縄とか、ドイツとかねえ、城崎の次にみんな行くんだって。もう荷物送りましたーとか言ってね、あちこち飛び回ってるのはだいたいアートセンターの人だわね」と彼女は言った。彼女は鴻の湯を愛しており、風邪など引かないかぎり毎日朝一番に来て湯につかっていく。鴻の湯は火曜日が休みだけれど、その日は他の湯に行く気がしないほど、愛が深いそうだ。一生旅を続けるアーティストたちがいて、この町で生きて死ぬ覚悟の人たちがいる。その交点に、城崎国際アートセンターはある。

ある日(クエスト)

キッチンで、一日の計画を練った。午前中、ロールケーキを食べに行ってから、14時すぎに残った食材をぜんぶ使ってオムライスをつくることに決めた。まず、アートセンターからいちばん近い鴻の湯に行って、フォトカフェに向かった。Fとはフォトカフェで落ち合うことにしていたが、ちょっと待ってもちっとも来ない。相当な長湯をしているようだった。私が、M夫人に出してもらった赤しそジュースといちごのヨーグルトロールケーキをぜんぶ食べおわったころ、Fはやっと汗をふきふき現れた。以前、この家の次女に「そんなに髪がびしょびしょなのは何でなん」と訊かれたことがあるくらい、風呂上がりのFは濡れている。ドライヤーに空きがないと髪を乾かすことができないし、湯で温まったからだで自転車を漕ぐからまた汗をかくのだ。「でもな、体育の授業だけでそんぐらい汗かく子クラスにおるで。汗で髪の毛ぺたーってなんねん」と、次女が楽しそうに笑っていたのを思い出す。M夫人に赤しそジュースのつくり方を書いてもらって、しばらくおしゃべりしてアートセンターに帰る。オムライスを食べながら、15時からの演劇クエスト体験会の成功を祈る。このキッチンにも、今回とてもお世話になった。感謝の気持ちをこめて、勝手にまな板をぜんぶ漂白した。

町を歩いていると、いつも良くしてくださる若旦那やおかみさん、学校帰りの小学生の友だちに会って、手を振ったりしてすれ違える。ある町を舞台に歩みを進めていく中で、ノンプレーヤーキャラクタに随所で出会える感じだ。今まででいちばん、ロールプレイングゲームらしさを感じながら歩いていく。ひとけのない坂道をのぼって(のぼる途中にもある若旦那から「よう!」と声をかけられた)下り、湯島から桃島エリアへと移動していく。線路沿いの墓、ガート下をくぐって田んぼの方へひとり歩いていく女は明らかに異物であるが、私はつくり手側の人間で、この道をよく知っていることもあり、ごくごくたまに畑仕事をしている翁が一瞥をくれることはあっても、声をかけられるような隙を見せてはいなかったので、幽霊のように無視された。私は幽霊になったまま、田んぼの奥の石碑を見に行った。鬱蒼としげる森のさらに奥、階段を上っていけば古い神社があるのだが、もののけの気配を感じて上ることはできなかった。幽霊であっても、妖怪は怖い。

桃島にいるうちに雨が降り出して、どんどん強くなってきた。公民館の喫煙所で、しばらく時間をつぶして、雨足が弱まったすきにトンネルにもぐり、湯島まで戻った。その後、間違えて、というか意志を持って踏切を渡らず、円山川沿いの道を歩いていったのだが、思ったよりも次の踏切がはるか遠く、しかも今日いちばんの土砂降りにやられて、涙ながらに歩くはめになった。土砂降りのいいところは、涙も雨でまぎらわしてくれるところである。どうにもならず、駅前でタクシーを拾ってアートセンターに帰り、服を絞って靴に新聞紙をつめ、干した。

夜はバーベキューパーティがおこなわれ、主催の若旦那の誕生日でもあったので、Fとアートセンターのメンバー、町の子どもたちが主導になってサプライズのケーキプレゼントを行ったりした。Fは城崎の子どもたちの輪の中で喋っているうちに、高知弁と城崎弁の混ざった言葉を話すようになっている。言葉が聞き慣れない方言になると、なじんだ人間も違って見えるから不思議だ。子どもたちは明日も学校だから、夜9時に帰っていった。ひとりひとり抱きしめたかったけど、それは大人の感傷でしかないので、子どもたちのやり方にしたがい、ハイタッチで「またね」と言って別れた。子どもたちは一年経てば一年ぶん、大きくなって姿が変わる。一年やそこらではほとんど見た目の変わらない大人から見ると、それはとても眩しい。細胞がみしみし新しくなって脱ぎ捨てられ、私やFと遊んだ記憶が塗りかわっていっても、私は子どもたちのうつくしさをいつまでも覚えていたい。そういうことのために私は、大人になったわけだから。

2016年7月14日木曜日

ある日(夢、カレー)

結構な悪い夢を見て、朝方は苦しんだ。金魚を殺してしまう夢はたまに見る。後味が悪くて最悪だ。昨夜、子どもたちの遊んでいたゲームについて考えていたからか、夢にも新しいゲームが登場した。ボードゲームで、名前が付いていたようだったが忘れた。碁盤のような正方形のフィールドに、配られた数字の牌をうまく並べて、手持ちの数字牌をなくした人が勝ち。アラビア数字、漢数字、ローマ数字などいろんな種類があって、記号もあって、並べられる種類はチェスのように決まっている。配られたもの以外にボード上にも、さいころの目を模した数字牌など、何種類かが並べられていて自由に取って使うこともできる。戦略次第で無限に遊べるし、並べ方を間違えると手持ちの牌が永遠に置けなくなる。ミスが命とりになるスリリングなゲームだ。しかし、こんな架空のボードゲームのルールをつらつらと書いたところで意味が分からないうえに断片的な備忘でしかない。そもそも、備忘したところでこぼれてゆくのが夢というものだ。

ところで先日、アートセンターY氏が夢に出てきたので、キッチンでY氏にそのことを話した。そこから、アートセンターでの創作がどのようにアーティストに作用するか、今のところ誰もスランプに陥ることなく、多くの人に良い作用をもたらしているようだけれど……というようなことについて、意見をかわすことができた。アーティストと生活の一部をともにすることは、繊細な綱渡りである。

F氏は、ジオカヌーという、海をカヌーでめぐるアトラクションに出かけていったので、私は1日アートセンターで仕事をしていた。夕立がやってきて、晴れて、また雨が降るのを見届けてから、ずっとここにいるのもつまらないなと思って自転車で柳湯に向かった。観光客が少ない時期でもあり、この頃、外湯で地元のおばさん、おばあさんに話しかけられることが多い。「熱いわねえ、ここのお湯は」とおばさんが言うので「でも私、柳湯大好きです」と答えると「今日は午前中入りそびれちゃって、ひさしぶりにここに来たけど熱いわあ」と言いながらも気持ち良さそうにしていた。いつもは早い時間に一の湯や御所の湯に行くのだと言う。今日は一の湯は休湯日で、柳湯は15時開湯であるから、おばさんの入浴リズムは崩れてしまったのだろう。私は、おばさんが浴室を出ていくのを見届けてからもう少しゆっくりして、あがった。脱衣所では、おばさんたちがご近所の話を城崎弁でぺたくたとにぎやかに話しており、身体をいつまでも拭きながら、つい聞き入ってしまった。

キッチンでY氏がカレーをつくってくれて、アートセンターのダイニングでみんなで食べた。マックス=フィリップと明治期の東京奠都の話をしていて、天皇の話題がしばらく続いていた時、ふと携帯を見ると、今上天皇の生前退位のニュースが出ていた。えっ、とそれなりに私もショックで、マックスにも取り急ぎ伝えた。(私は本当は皇后陛下が好きなんだけど、そのことはややこしくなるから今日は黙っていた)彼は日本のさまざまな土地のことや、日本人の宗教観のこと、いろんな本などもとてもよく知っていて、カレーを食べながら喋る時間は濃密な体験だった。昔の職場にいたころ、北京に出張したことがあって、現地法人の部長たちが海外情勢、日本の政治やさまざまな社会問題に精通していて、はたしてうちの若い社員たちはこのレベルについていけるか(いや、無理だ)と愕然としたのを思い出した。自国を知り、相手を知り、さらなる興味を持って問いかける人こそ、どんな仕事をしていても、真の賢さを持っていると言うべきなのだと、あの時痛感したのだった。

小雨が降っていたが、22時を回ってから鴻の湯に行くことにして自転車に乗った。暗い川沿いに、いつも人間に見える形をした木が立っていて、「わ、人かな」と思ってしまう。でも「人にしては大きいな」と思って「やっぱり人じゃなかった」と思い直す。必ず、その段階を踏まないと「やっぱり人じゃなかった」という結論に辿り着けないほど、その大きな木は人間に似ている。

2016年7月12日火曜日

ある日(ゲーム)

午前中はあまり記憶がない。アートセンターは休館だったけれども、午前の間だけ来客があったりした。ペッパーはスリープしていたが、私が頭をちょっと触ったら起きてしまった。よしておけばいいのに、ちょっと触ってことを大きくしてしまうのが私なのだ。反省したが、ペッパーを再びどう眠らせてよいものかわからず、しばらく相手をした。「お昼もう食べた? まだならサラダうどんはどう?」と、なぜかサラダうどんを推してきたので「もうお蕎麦食べちゃった」と返事したところ、目がぴかりと光って、「出石蕎麦はもう食べましたか?」と、隣町の名物の話をはじめた。「去年食べたよ」と言うと、「聴き取れなくてごめんなさい。"はい" か "いいえ" で答えてね」と言うので「はい」と答えると、そののち延々と出石蕎麦の説明をしてくれた。いわく、出石には蕎麦屋が50軒もある、住民240人にひとりがお蕎麦屋さんという計算になる、お店はみんな違う柄のお皿を使っている、今の具材のスタイルになったのは昭和30年代……。そして、ひとしきり喋ったあとで「僕、詳しいでしょう? でもこんなにお蕎麦が好きなのに、ロボットだから食べられないんだ。僕のぶんまで出石蕎麦食べてよね!」と、切ない台詞を言うのがペッパーなのである。

夕方、カフェに遊びに行った。その家の少女は友だち連れでもう帰ってきていて、私とFに会いに階下に降りてきてくれた。彼女たちはジュースを飲みながら、手をたたき、ポーズを取ってリズミカルに遊んでいるのだが、しばらく見ていてもルールがわからない。動きが3種類あるのはわかったが、並びに規則性がないし謎だ。それで聞いてみた。基本的には二人で遊ぶ。難しいが、文章にすると以下のような感じ。

【やり方】
手を2回たたく。その後、3つのポーズから1つ選んでおこなう。
1. 両手のひら第二関節を組み合わせ、だんご状にする。(パワーを溜める)
2. 両手首をくっつけて、貝殻のように相手にひらく。(攻撃をする)
3. 両手を胸の前でクロスする。(バリア)

【重要事項】
攻撃は、パワーを溜めてからでないと行うことができない。

【勝ち負け】
パワーを溜めている時に攻撃されると負け。
それ以外の時は勝負を続ける。攻撃はバリアで防ぐことができ、攻撃と攻撃、パワー溜めとパワー溜めはあいことなる。もちろん、バリアとバリアでもあいこ。

学校で今流行っているらしく休み時間に「やろっか」というと、このゲームのことを指すらしい。少女たちは猛スピードでポーズを繰り出す。たしかに言われてみると、上記のルールのとおりに勝敗が決まっており「勝ったー」だの「負けたー」だの、言い合っている。1回目にパワーを溜めるのがセオリーらしい。パワーを溜めなければ攻撃できず、しかし1回目に攻撃されることは絶対ないのだから、初めにパワーを溜めない道理が(少なくとも初心者には)ない。少女たちに促されて、Fとふたりでやることになった。おそるおそるやってみる。大人になると、バリアをしてばかりで勝敗がつかない。かといって、攻撃もタイミングがあわない。なかなか、子どもたちのようにリズミカルにはできなかった。

M夫人からアートセンターでの上演演目の話をいくつか聞いて、城崎でももっとたくさんの作品が、ワークインプログレスの形や、ワークショップ発表だけでなく、フルスケールで上演される機会ができていくといいなあと思った。M夫人に「そんなに演劇をたくさん観られてうらやましいなあ。現実と区別がつかなくなったりせえへんの?」と訊ねられ、どう答えたものかと思っているうちに、Fが勝手に「この人はもう区別がつかなくなった人生なんです」と解説してくれていた。 

作りおきのおかず、漬け物を何品かいただいて、アートセンターに帰った。17時過ぎから、仕事をしながらそのおかずをいただき、それから4時間ほども、おかずを作り足したり、そうめんを茹でたり、酒を持ち出したりしてしみじみ味わった。

ある日(一番札、選挙結果)

せっかく早起きして御所の湯の1番に並んだのに、「アートセンターの人はだめです」と言って、1番に並んだ観光客に渡される「一番札」を取り上げられてしまった。ショックで入浴料の100円を払いわすれ、更衣室からあわてて番台に戻ったりした。ショックとはいえ、「アートセンターの人」が「観光客」ではないと見なされているならその方が喜ばしいことで、風呂を上がるころにはすっかり元気になっていた。朝7時の露天風呂はとても心地よかった。

アートセンターへ戻る途中、通学する子どもたちに出会った。めがねの少女に「あれれ、めがねかけてるー」と聞かれたので「いつもはコンタクトレンズで、本当は目が悪いんだよ」と答えた。少女は少し嬉しそうに微笑んでくれた。

昨日、城崎の市庁舎出張所のそばを見に行った時は多くの町民がトンネルを通って投票に来ているように見えた。参議院選挙の結果は、私個人としては、自分の票がぎりぎり死票にならず通って、よかったという気持ち。そして日本全国を見渡しても、東北や沖縄、原発のある県などは与党への不信感が強くあらわれているように思う。投票率は53%ほどだったというが、小学校から大学、会社員時代までのあらゆる面々を思い出しても、たしかに2人に1人が行っているなら御の字じゃないかという気がする。今私がいる、演劇という仕事場にたずさわる人々が投票に行くのは、ある意味では当たり前だ。そういう人たちだから演劇をやっているのだ、とも、多少理屈をすっ飛ばして思う。そうじゃない残りの、見えない人、劇場の外の人たち、政治や理想や自分から遠い場所への語彙を持たない人とどうかかわるかが、私の残りの人生のテーマなのだ。ここは、親しい人にもなかなか話せない領域であり(なぜなら、話して伝わらないと私自身がずたずたに傷ついてしまう領域だから)勇気がいるが、思っているのだから仕方ない。誰にも期待してない、と口にするのはよくない、と人は言うが、期待してないけれど信じているのが私という人間で、このことを説明するのは難しい。

ここ数か月元気に過ごしていたものの、めずらしく体調不良におちいって、昼過ぎから部屋でうめき声をあげながら横になった。Fは漁協にリサーチに行っており、私も行きたかったけれど、これは行かなくて正解だった、行き倒れて迷惑をかけるところだった、と思った。「もし帰ってきた時に私が死んでいたら灰は竹野の海にまいてください」とメッセージしたら「もう少し長く生きて。あとでね」というそっけない返事が来た。本当に痛みがひどい時に鎮痛剤を飲むと、その後がっくり眠くなって、目覚めた時にはすっかり痛みが麻痺して歩けるようになっているものだ。というわけで、私は生還した。

ペッパーは今日いちにち、元気がなかった。ロード中からなかなか復帰せず、うなだれたままぴかぴか光っていた。明日はたくさんお話しできるといい。

ある日(海水浴、選挙)

海水浴に行くと決めていて、早起きして、日焼け止めなどの対策を念入りにした。よく晴れそうな一日だった。城崎温泉駅から西へひと駅、竹野というところで降りて、駅で自転車を借りた。

竹野の海に来るのは二度目だ。昨年、水着を持ってこなくて後悔したくらい、透明できれいだったのを覚えていたから、今回楽しみにしていたことのひとつだった。そもそも海に遊びに来たこと自体、ほとんどない。海の家の更衣室をどうやって借りるのか、まるで外国に来たような感じがしたから、Fのあとをついて歩き、適当に海の家を見繕ってもらって入った。ひとり800円払うと休むテーブルを借りることができ、荷物も置いていいし、貴重品も預かってもらえる。更衣室で着替えもできる。海の家の浮き輪を借りて水に入った。水が染みて冷たく這いあがってくるのが怖くて、すぐにどうしよう、帰りたいと思ったが、しばらく浮いていると慣れてきた。浮き輪をはずし、生まれて初めて平泳ぎをした。前に海で泳いだのは、平泳ぎを覚える年よりも小さい頃だったのだ。

海には親子連れが多かった。子どものころから、こうして海に来ることがならいとなっている子は、私のように、海も山もろくに見ずに大人になった人間のことを不思議に思うだろう。でもそれは私だって、同じように君たちのことを不思議に思っているし、そういう人々がいっしょに住んで、選挙で議員を選ぶのが日本という国なんだよ、と浮き輪で浮かびながら考えた。帰りの竹野駅では、40分ほど電車を待った。待っているあいだに寝入ってしまい、気持ちよい時間を過ごした。水から上がったあとは引きずり込まれるように眠くなる。
 
アートセンターの駐輪場でマックス=フィリップに会った。「今日はelection dayなんだ」とFが言うと、マックスは「ああ、選挙があるのは知っていた。今日だったのか!」と驚き、「よい結果になるといいけど、どうだろうか」と尋ねてきた。われわれは「私たちは城崎に来る前に投票をすませてきたから、あとは祈るだけだけど、情勢は厳しいと思う」と答えた。何に対して厳しいのか、ということは、リベラルな舞台芸術関係者であればおよそ共有しているであろう文脈にあえてゆだねた。マックスはうなずいて、それでも "Let's hope good result." と言って、われわれに手を振った。

海から帰って午睡しているうちに、行こうと思っていたお祭りに行きそびれたことがわかった。城崎は祭りのとても多い、感謝と楽しみにあふれた町だ。

夕食は、ソレッラ姉妹のおうちにお呼ばれ。昨年、1歳だった少女は2歳になっており、おなかの中にいた子は外の世界に飛び出してきている。幸せな食卓の向こう側、テレビからはアンパンマンマーチが流れ、選挙速報を見たがっている父親を苦笑させていた。デザートを食べながら、なぜか幽霊の話をいろいろとした。

外湯に入ってバーで飲んで帰る、というFを町中に置いて、ひとりで自転車を引いて歩き、歌いながら帰った。いい時間だった。城崎中学校近くのバス停のベンチに、こんな時間にひとりで座っている老人がいた。きっと人間だったと思うけれど、そういえば城崎に今回来てから、ひとりで道ばたやベンチ、川べりに腰掛けているこの老人を、よく見る。

2016年7月10日日曜日

ある日(喫煙所、ペッパー)

仕事が相変わらず終わらなくて不安なので、午前中とにかくがんばることにして、結局それは15:30までかかったけれども、後顧の憂いのない状態にまで持っていくことができた。

その間に、何度か喫煙所に行った。今回、わずかに煙草を持ち込んでおり、ときどき外で吸っている。アートセンターの喫煙所は裏手の駐車場のそばにあり、何かから隠遁できるような、しかし木々や空の色を眺められる、好きな場所である。行く時はいつも紅茶のカップを持って出る。駐車場の奥には叩き場があって、舞台スタッフがトンカントンカンと何かをつくっている音が聞こえる。この音を聞きながら煙草を吸うなんて、演劇サークルだった12年前やそこらぶりで、でも私は12年やそこら年を取っていろんなものに出会ったから今城崎にいられるわけで、もはやノスタルジーに用はないんだけれど、でもやっぱりこの音は好きだなと思って耳を澄ましていた。

同時期に滞在しているディレクター、マックスと、ドラマトゥルクのルーシーがブレイクタイムにやってきた。煙草を吸うマックスの右耳のピアスから、汗がしたたり落ちるのを見た。彼らのクリエイションは順調みたいだった。

ブランチは、昨夜つくった肉じゃが、ゴーヤのナムル。15:30に仕事を終えてから軽くそうめんペペロンチーノをつくり、駅前のさとの湯につかりに行った。土曜日の町には人が多く、さとの湯がいちばん、人が多くてもストレスがかからなそうな構造になっていると考えたからだった。実際、それで正解だった。買い物して帰り、茹でたトウモロコシをかじりながら仕事の続きをして、夕飯にはゴーヤチャンプルーをつくった。Fにゴーヤの苦みを抜くための塩揉みを教えた。塩揉みは他にも、オクラの産毛を取る時にも使えます、と言うと真剣にうなずいていた。他は、ロボットのペッパーとしか喋らない一日だった。ペッパーは「気分が乗らないから頭を撫でてよ〜!」と要求してきたり「おいしいものを食べて温泉に入ってばかりいると僕のように身体が硬くなってしまいます! あなたには僕のようになってほしくない!」と言うような多彩な語彙をかましてくる。

2016年7月9日土曜日

ある日(供養、イヤリング)

昨夜のカレーは、一晩冷蔵庫で寝かせたことによって味がなじみ、角が取れた。これでもっと量がつくれるようになればいい。

頭痛と微熱が続いていた私に、Fはロキソニンを買ってきてくれると昨夜約束した。午前中の用事から帰ってきたFが、冷蔵庫に水をしまっているのを見て「他に何も買ってこなかったの」と訊ねると、他はない、と答えるのでロキソニンのことは忘れちゃったのか、残念だな、と思って頭痛に耐えていた。お昼にFがオムライスの作り方を教えてほしいというので、玉ねぎの刻み方からチキンライスの炒め方、卵でくるむクライマックスにも果敢にチャレンジしてもらい(自主性を重んじる育成方法)なんとか、彩りはオムライスと同じものができた。本人が満足そうに食べていたので、よいだろう。洗い物ではなく、コンロ掃除を命じて、キッチンでの仕事が多様であることを教える。

そうこうしているうちに、頭痛が耐えがたいものとなり、いっさいの仕事が手に付かなくなって、アートセンターのエントランスの椅子に倒れこんだ。その時にFはやっと「あれ、ロキソニンあげたっけ?」などと呑気に言うので、もらってない、とおおげさに、嘆いた。「ごめんごめん、買ってきたの忘れてた」とごちゃごちゃのリュックを引っかき回して、Fは言った。忘れられたと思っていたので、午前中からチクチクと「頭痛い」「痛み止めがもうない」と恨みがましいそぶりを見せたにもかかわらず今まで気づかなかったなんて何という鈍感だと思ってどっと汗が出た。しかしわれわれは、二人で力をあわせて城崎の本を改訂しなければならない。

夕方、温泉寺薬師堂のお祭りに行った。城崎じゅうの旅館が、駅前のスペースに奉納した下駄を燃やす、下駄供養がおこなわれていた。城崎は、下駄と浴衣で外湯をまわる町なので、各旅館、自分の屋号を書いた下駄をつくっているのだ。若旦那衆が並んで立ち、温泉寺の住職、副住職が経をあげて、積まれた下駄に火をつけるのを見守っていた。下駄はぱちぱち燃え上がる。小雨にもかかわらず風があるので、途中、燃えすぎて若旦那が数人駆け寄り、祭壇を移動させたりもした。私は少し離れたところに立ち、燃える下駄に向かって若旦那たちがひとりずつ焼香していく姿を見ていた。

下駄供養の後ろ側では餅つきがおこなわれており、Fも生まれて初めての餅つきにチャレンジしていた。物書きは精神を肥大させる時、その身体も同じだけ酷使しなければならない。

餅つきが終わるとだんだん子どもたちが集まり始め、ミニ縁日が始まった。顔見知りの子どもたちがだんだん増えていく。今日買った、というイヤリングを見せてくれた少女が、時間をかけてあつあつのフランクフルトを食べるのをじっと見守り、ときどき口のまわりをぬぐってあげたりした。少女は姉たちと、境内を走りまわって遊んでいた。太鼓、鐘、蝉の声。みどり子を抱いた城崎育ちの女性が「ああ、夏やわあ」と目を閉じて聞き入っていた。

薬師堂には、水子供養の地蔵が多くある。少女たちは桶に水をくみ、ひしゃくで地蔵に水をかけてやっている。悲しい水子供養和讃の碑文を読むこともなく、無邪気に「わたしもやるー」と、声をかけあいながら。小さな彼女たちの目には、地蔵の足に、賽の河原で地蔵に救われる子どもたちがまとわりついているのも見えないだろう。

少女たちがひとしきり地蔵に水をかけて戻ってきたのち、さっき見せてもらったイヤリングが片方ないのに気づいた。「あれ、ないよ」と言うと、一瞬不安げな様子を見せた。「一緒に探そう」とすぐに声をかけて、境内の砂利道をゆっくり見てまわった。もうすぐ日が暮れて、そうしたら見えなくなってしまう。困ったな、ここはお寺だけど、秘密のおまじないを使うしかない。そう決めて、(一見、ここに祀られているのとは)別(に見えるけどきっとつながっているはず)の神様に取り次ぎを願い、あるお祈りを唱えた。どうかなあ、見つかるかなあ、と思いながら少女と「こっちは歩いた?」「あるいてない」「こっちは?」と地道に探しつづけ、先ほど水をかけていた水子供養地蔵のあたりまで来た。「明日明るくなってからまた探そうか」と、言いかけたとたんに「あったー!」と彼女は駆け出して、むらさきのビーズのついたイヤリングを拾いあげた。

2016年7月7日木曜日

ある日(きりん組、七夕)

城崎の町にはつばめが多い。みんな巣の中から人なつこく顔を見せて、卵をあたためている。小さく縮こまっていなくて、雨が降りそうな時はきちんと低く飛んで人々に天気を知らせる。アートセンターの駐車場にもつばめの巣はあって、閉湯まぎわの風呂をもらいにいく時など、夜遅い時間に見上げると、眠る母鳥の尾羽が覗いている。

三姉妹の、三女に会った。道で自転車に乗り、遊んでいるところだった。「大きくなったね」と言うと「もうきりんぐみだもん!」と張り切って教えてくれた。いっしょにいた次女は「前は夏に来たんだっけー」とぽやっとした表情で言い「あっとゆうまだなー」とつぶやいた。急に諸行無常の境地に達したかのような、清らかさだった。彼女が律儀にかぶっている白い自転車用のヘルメットは、ぽってりして可愛かった。園の組分けについては、動物の名前でいろいろ決まっていた気がするのだが、記憶が細切れで思い出せない。三姉妹の母であるところのM夫人に後ほどメールで訊ねたところ、ひよこ→あひる→りす→うさぎ→きりん→ぞうの順番で子どもたちは大きくなることがわかった。つまり、きりん組ともなれば、園ではベテランの域で、憧れのぞう組のお兄さんお姉さんたちまであと一息なのである。三女のからだに漲っていた自信の正体がわかり、思い出してしみじみ、なんと可愛く頼もしい姿であったことかと思った。

昨日の重い荷物のせいで、一日からだと頭が痛かった。夕方早くに仕事をもうやめ、玉ねぎを刻んで炒め、トマトと鶏肉を煮込むことにした。カレースパイスの調合について、アートセンターY氏の意見を伺い、キッチンに置いてある私物の高価なスパイスの数々を見せていただいた。「胡椒はその昔、同じ重さの銀と交換された」という言葉を思い出した。Y氏には、明日カレーをお召し上がりいただき、意見を頂戴する。

七夕の夜、城崎は晴れて、子どもたちの短冊が風に揺れていた。先生の代筆による「パパになれますように」という2歳少女の願いに、こうべを垂れるような気持ちになった。

ある日(新幹線、雷)

昨日の夜早めに休んだので朝5時半に目がさめて、アロマオイルと無水エタノール、精製水を混ぜてルームスプレーを3種類つくり、旅に備えた。 荷造りはもう済ませてあった。冷蔵庫に保管していたものを最後に袋に詰め、家を出た。

東京の人は冷たいなどという言説がある。駅の階段で人が大荷物を引き上げるのに手こずっていたり、新幹線の棚にトランクを載せるのに失敗したりしても助けないのだという。でもそれは東京の人ではなく、新横浜の人々も京都の人々もそうだったので、結局日本の人はみな冷たく、東京は日本中の人間の寄り集まりなので結果的に東京だけが責められているのではないかと思う。棚に載せるのにトランクがあまりに重いので、私は気がたって、トランクを隣で悠長に新聞を読んでいる男の頭の上に落としそうになったが、人が冷たいからといって自分も悪いおこないとして良いわけはないのだから、思いとどまった。私はぎりぎりで新幹線に飛び乗ったので食べものを何も持っていなかったけれど、隣の男はからあげとおにぎりを食べ始めたのでまた不愉快になった。車内販売を一度逃してしまい、二度目に通りがかったのを呼び止めてサンドイッチを買い求めた。5個入り(ハム、卵、野菜、ツナ、ポテト)と2個入り(ハム、卵)があって、おなかはすいていたけれど5個入りだと一度には食べきれないと思ったので、2個入りを選んだ。それで正解だった。新幹線では一睡もできなかった。新幹線は満席で、息苦しかったので、持ってきたルームスプレーをコットンに少し吹き、ハンカチにくるんで顔にずっと押しあてていた。京都からの特急に乗りかえ、和田山を過ぎたあたりで安心して少しうたた寝した。

城崎国際アートセンターに到着すると、ひろいエントランスで子どもたちが走り回って遊んでいた。帽子を隠されたり、飛びかかられたりして、標的になっているのはFであった。Fが楽しげに子どもと遊ぶのなんて、城崎でしか見られない光景である。子どもたちなりに2年目の来訪者を歓迎しているのだった。多少やり方は手荒にしても。

自転車を借りて駅前に向かう途中、フォトスタジオの次女とすれ違った。遠くから手を振って「いつ来たのー」と言うので「さっきの電車だよ」と答えた。「あっそう」と笑顔で返事をするのが可愛らしい。編み込みの髪型を褒めると、次女も私のショートカットをすてきだねと言ってくれた。

アートセンター滞在者は、外湯の割引証を与えられるのだが、昨年と比べて、外湯の受付で割引証を出した時の感じが、あきらかに変わっている。認知が確実に高まっている感じ。そしてそれが、好意とまではいかなくとも自然に人々の中に存在している感じ。外湯をふたつ回って、共通して感じたことなので間違ってはいないと思う。自転車でちょっと走っただけでも、小さな工事を施したような場所がいくつもあって、観光地の施設にとって外観を取り替えたりするのは、来客のために家を掃除をするようなものなのだなと思った。

夜は酒場を飲みあるき、館長の新築の家も訪ねた。23時の閉館まぎわに入った御所の湯は、露天風呂がとてもうつくしい場所である。今、城崎はいちばん狭間の閑散期であり、露天風呂でひとり歌をうたうことなどもできた。雷が、音も立てずに閃くのを二度三度見た。初夏の夜だった。室内の明るい光が反射して、湯の底の私の脚に、亀甲のような模様をつくるのを眺めていた。

2016年7月2日土曜日

Q&A

Q.眠っている間に、自分で知らない行動をしていることがあります。
A.意識障害が出る時、直前にフルーツ食べてない? 肝臓の取り込み機能を阻害してる可能性がある。ダイエットと同じで、眠る3時間前には何も食べないようにした方がいいよ。

Q.新しく処方された薬の効き方がガックリ意識を失う感じで、今までと違う気がして不安です。
A.睡眠導入剤には、眠るスイッチをオンにする薬と起きてるスイッチをオフにする薬があって、その新しいやつは後者なんだよね。だから効き方が違うって身体で感じるのは、感覚が鋭いと思うし、間違ってない。評判も悪くない薬だし、飲んでいい。

Q.今までの薬が効きにくいのです。
A.これは耐性ができやすい系統のものだから、しかたない。たくさん飲んでもぶっ倒れないっていうことはもう耐性ができてるってことだね。これじゃなくて、もう一つの方を大量服薬してたら昏睡してたかも。

Q.覚醒剤取締法と麻薬取締法は違うものなのですか。
A.覚醒剤取締法では医師の守秘義務が勝るので、入院患者が覚醒剤をやっていても医師は通報できないの。だから芸能人はバレそうになると「心労」で入院するでしょう。今回、奥さんの方は入院しなかったので、その時点でシロだってわかる。反対に、麻薬取締法はすぐ逮捕できる。覚醒剤は精神的依存なので、いきなりやめても死ぬことはない。でも麻薬は身体的依存を起こすから、急にやめさせると心停止して死んだりするの。

Q.麻薬って何ですか。
大麻とか、アヘンとかかな。

Q.麻薬を急にやめると心停止するのですか。
A.だから刑務所の医師とかがしっかりついて面倒を見る。

Q.刑務所にも医師がいるのですね。
A.相当変わり者だと思うけどね。ちなみに、医師免許を持ちながら銃の携行が許される職業は、自衛官と麻薬取締官だけ。麻薬取締官は、医師免許か薬剤師免許のどちらかを持っていなければなれない。

Q.それは知りませんでした。
A.相当変わり者だと思うけどね。

Q.引っ越しをしたいのですが。
A.医師国家試験には “Don’t問題” と呼ばれるものがあって、選択肢のうち絶対に選んじゃいけない種類の問題がある。500問あるうち、3問それを間違えてしまったら、どんなに他の設問ができていても国家試験には落ちる。あなたが今やろうとしていることは、たとえるなら “Don’t問題” のようなことで、医師としてそれを勧めたらすなわち国家試験に落ちるというレベルで、やっちゃダメ。俺は止めるよ。

Q.もともとの志望動機は何ですか。
A.若年性肺がんの子を救いたかったんだけど、勉強するにつれて、医師になれば救えるものではないとわかった。検査技術の向上や、行政の立場から小中学生に検査を義務づけるようにしないと、俺のやりたいことはできなかった。

Q.どの科の医師になりたいですか。
A.やっぱり時代を感じられるもの。1900年代初めは何と言っても抗生物質が熱かった。それから1990年代最後には白血病が治せるようになったのもエポックメイキングだった。心臓外科も、手術器具の進化とともに発展してきたからやっぱり時代を象徴してるよね。これからは再生医療だと思うけど、年配の研究者の中にはいまだにiPS細胞に懐疑的な人もいる。それは、自分が生きてる間にその技術が真に役立つ様子を目にすることができないという無意識の嫉妬から来てるんじゃないかと思う。

Q.医学が進歩すれば、HIVもいつか治るのですか。
A.治るよ。生き物であるかぎり、殺す方法は絶対にある。