結構な悪い夢を見て、朝方は苦しんだ。金魚を殺してしまう夢はたまに見る。後味が悪くて最悪だ。昨夜、子どもたちの遊んでいたゲームについて考えていたからか、夢にも新しいゲームが登場した。ボードゲームで、名前が付いていたようだったが忘れた。碁盤のような正方形のフィールドに、配られた数字の牌をうまく並べて、手持ちの数字牌をなくした人が勝ち。アラビア数字、漢数字、ローマ数字などいろんな種類があって、記号もあって、並べられる種類はチェスのように決まっている。配られたもの以外にボード上にも、さいころの目を模した数字牌など、何種類かが並べられていて自由に取って使うこともできる。戦略次第で無限に遊べるし、並べ方を間違えると手持ちの牌が永遠に置けなくなる。ミスが命とりになるスリリングなゲームだ。しかし、こんな架空のボードゲームのルールをつらつらと書いたところで意味が分からないうえに断片的な備忘でしかない。そもそも、備忘したところでこぼれてゆくのが夢というものだ。
ところで先日、アートセンターY氏が夢に出てきたので、キッチンでY氏にそのことを話した。そこから、アートセンターでの創作がどのようにアーティストに作用するか、今のところ誰もスランプに陥ることなく、多くの人に良い作用をもたらしているようだけれど……というようなことについて、意見をかわすことができた。アーティストと生活の一部をともにすることは、繊細な綱渡りである。
F氏は、ジオカヌーという、海をカヌーでめぐるアトラクションに出かけていったので、私は1日アートセンターで仕事をしていた。夕立がやってきて、晴れて、また雨が降るのを見届けてから、ずっとここにいるのもつまらないなと思って自転車で柳湯に向かった。観光客が少ない時期でもあり、この頃、外湯で地元のおばさん、おばあさんに話しかけられることが多い。「熱いわねえ、ここのお湯は」とおばさんが言うので「でも私、柳湯大好きです」と答えると「今日は午前中入りそびれちゃって、ひさしぶりにここに来たけど熱いわあ」と言いながらも気持ち良さそうにしていた。いつもは早い時間に一の湯や御所の湯に行くのだと言う。今日は一の湯は休湯日で、柳湯は15時開湯であるから、おばさんの入浴リズムは崩れてしまったのだろう。私は、おばさんが浴室を出ていくのを見届けてからもう少しゆっくりして、あがった。脱衣所では、おばさんたちがご近所の話を城崎弁でぺたくたとにぎやかに話しており、身体をいつまでも拭きながら、つい聞き入ってしまった。
キッチンでY氏がカレーをつくってくれて、アートセンターのダイニングでみんなで食べた。マックス=フィリップと明治期の東京奠都の話をしていて、天皇の話題がしばらく続いていた時、ふと携帯を見ると、今上天皇の生前退位のニュースが出ていた。えっ、とそれなりに私もショックで、マックスにも取り急ぎ伝えた。(私は本当は皇后陛下が好きなんだけど、そのことはややこしくなるから今日は黙っていた)彼は日本のさまざまな土地のことや、日本人の宗教観のこと、いろんな本などもとてもよく知っていて、カレーを食べながら喋る時間は濃密な体験だった。昔の職場にいたころ、北京に出張したことがあって、現地法人の部長たちが海外情勢、日本の政治やさまざまな社会問題に精通していて、はたしてうちの若い社員たちはこのレベルについていけるか(いや、無理だ)と愕然としたのを思い出した。自国を知り、相手を知り、さらなる興味を持って問いかける人こそ、どんな仕事をしていても、真の賢さを持っていると言うべきなのだと、あの時痛感したのだった。
小雨が降っていたが、22時を回ってから鴻の湯に行くことにして自転車に乗った。暗い川沿いに、いつも人間に見える形をした木が立っていて、「わ、人かな」と思ってしまう。でも「人にしては大きいな」と思って「やっぱり人じゃなかった」と思い直す。必ず、その段階を踏まないと「やっぱり人じゃなかった」という結論に辿り着けないほど、その大きな木は人間に似ている。
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