2015年9月7日月曜日

ある日(バス、たこ焼き)

とにかく早起きして、駅前のバス停を目指す。ガイドのおばさんからきっぷ、バスのパンフレットなどをもらって、夏の土日しか運行していない、周遊バスに乗る。まず到着したのは水族館だが、朝が早すぎたので海を見ながら開園を20分ほど待つ。先日のHO氏のレクチャーによれば、高度経済成長を遂げているうちは、人は動物園をこのむが、ひとたび経済が落ち着いて、停滞を始めると今度は水族館にあつまるようになると言う。体重300kgのトドがプールにダイブするショー、アシカやイルカがジャンプしたり水上を華麗に舞うショーなどを見る。今度、横浜で作品をつくる時には八景島シーパラダイスも入れようと誓う。

周遊バスで、昼前に竹野の海のそばまで辿りつく。心残りだった場所をあらかた探索してまわり、町中にある記念館のご主人に母屋を案内していただいたりする。漁村の静けさは、農村の静けさとは種類が異なる。漁村がにぎやかなのは、沖から船が帰ってきたり、競りにくる業者が出入りするためで、つまり移動が生じるがゆえのにぎやかさである。だから漁村が静かな時は、海も波ひとつ立たず、しんとしている。農村だと、風がいつも稲を揺らしたりするので、人がいなくても何となく目に音を感じる。

竹野海水浴場から香住への道で、平家の落人が流れついた場所で、今も人が住む小さな集落を見る。平氏が滅びたのは1185年。始めのうちは、落ち延びて隠れ住んでいたのだからここから出られなかったのも、わかる。でももう830年も経っているのに、と思う。なぜ人は根を張った場所から動かなくなるのだろう。この周遊バスの走る道路が開通したのは、ここ数十年とのことだった。でも。いろんな疑問が頭をめぐる。人が、居場所から移動するのはかんたんではないのだ。そのことに疑問を抱く、私のような人間があつまって暮らすために、都市というものはできたのかもしれない。

バスで鉄橋のある町まで行き、電車に乗り換えて城崎まで帰った。帰った、という言葉がこの町に対して自然と胸にきざしたのは、いつだっただろう。こんなにもすぐ、人は居場所に根を張ろうとしてしまう。温泉のあとになじみの酒屋にゆき、ビールを買って飲む。Fと滞在制作を振りかえって話す。日記には書けないほど悩んだことも困ったこともあったし、未だにわだかまりもあるところにはある、と、いつわらざる気持ちをこぼしかけたところで、車に乗ったグルーニカさんの夫が通りかかった。そう、この町にはこうして、すれちがって声をかけてくれる友人がたくさん出来たのだった。もう会えないかと思っていた山頂のお寺のお坊さんも、車で通りかかり、窓をあけて話しかけてくださった。今はこのことだけで、手を携えて作品をつくる気持ちをじゅうぶん持つことができる。あとは移動しながら、走りながら、考えるのだ。アートセンターまでの帰り道に古美術屋に寄り、少女Aに再び会い、お父さんにこの町にまつわる資料のコピーをいただいた。Fをこの店に連れてくることができてよかった。

Fと私の送別会を、町の方がしてくださることになった。フォトスタジオの三姉妹が、母と台車を押して現れた。三女と一緒に台車に乗せられていたのは、たこやき器と、その材料であった。私は、たこやきをつくったことがない。それどころかお祭りで買ったものしか食べたことがないので、これが「家庭用たこやき器」か! と、しみじみ見入った。三姉妹の母はてきぱきと粉と水、紅しょうがなどを混ぜて下地をつくり、中に入れるたこやソーセージを手際よく小皿に並べていった。教えてもらいながら、はじめて私もたこやきを焼いた。鉄板に、丸のかたちのくぼみがいくつも並んだたこやき器に、盛大に溢れさせながら生地を流しこむ。ふつふつと固まってきたら、竹串でひょいひょいと生地を等分し、端を折りこむように丸めてひっくり返していく。この動作は、私の体の中に蓄積のないものであり、きわめてぎこちないものになってしまった。

関西の女たちは、たこやきをくるくる焼きながら、面と向かって言い合うには少し苦しい愚痴や、話しづらいことを打ち明けあうのだと言う。三姉妹の母と、少女たちの遊ぶ声を聞きながら、子を持つことについて話をした。私はやはり、子を産みたい気持ちを抑えがたく持っている。そのことが、城崎に来てよくわかった。三姉妹の母は、たこやきをひっくり返す手を止めず、しかし静かに話し始めた。「自分のおなかから産まれた子でも、当たり前に他人で」「こないだ産んだと思ったのに、ホントにあっという間に大きくなっちゃって」「高校卒業したら、この町からもきっと出ていく時が来るでしょう」「いちばん上の子がもう9歳で……。そうなるとね、半分過ぎちゃったんだよね、18歳まで」それを聞いて私ははっとして、エントランスホールで笑い声をあげている長女の姿を、見やった。母と子の間を結び、やがてすうっと消えてゆく糸が、見えたような気がした。

子どもたちは、Fの大きな体にまとわりつくようにして、遊んでもらっていた。エントランスホールでいつも以上に楽しそうにはしゃぐ子どもたちの声が、食堂にまで響いていた。必要以上に子どもを興奮させたり図に乗らせることを好まない男であるが、たぶんFも、今宵かぎりは、と思って遊ばせていたのだと思う。隙を見てFのiPhoneを動画モードにして、次女に「彼に向けてなにか言って」と頼んでみると、 しばらくはにかんで「ええー」と笑っていたが、最後にひとことだけ「きのさき、きてね」とメッセージを残してくれた。(Fはあとでそれを見つけて「泣ける」と言っていた)

パーティが終わり、われわれ大人たちが連れ立って鴻の湯に向かう頃、三姉妹の長女と次女は一足さきに、竜巻のごとく、家に帰ってしまった。三姉妹の母と、まだ小さい三女を家まで送りながら、明日はもう午前中に発つので会えないかもしれませんね、とあいさつを交わした。フォトスタジオに着くと、玄関先に次女がほんの少し姿を見せて手を振ってくれたが、長女は奥にもう引っ込んでしまっていた。

子どもたちよ、私たちのことを、忘れてもよいのだ。やがて心も体も成長し、はるか彼方へ飛びさるきみたちのことは、母や父やアートセンタースタッフや町の人、私やFが覚えている。それが大人の役目である。9歳や7歳の夏に出会った風変わりな大人のことなんて、覚えていなくていい。2015年の8月、盆踊りの夜に初めて会ってから今日まで、私はとても楽しかった。毎日日記をつけていた。今、城崎の地で育ちつつある芸術の芽は、いつかきみの胸の中にも種を飛ばすかもしれないし、それがきみの人生を左右する大きな花になりうるかもしれない。そんな日が来て困ったらいつでも頼りにしてねって伝えたいけど、たとえそんな日が来ないまま会えなくなっても、私はあなたのことを覚えておくと約束するよ。

0 件のコメント:

コメントを投稿