座禅は終わったけれど、ラジオ体操は8月31日までやるのだった。気がかりだったけれど、さすがに起きられなかった。6時ごろ目をさました時には雨の音がしていて、まあ、雨の吹き込まないところで体操はやるかもしれないけど、ちょっと行かれないな、と思って最後の最後で怠けてしまった。8時過ぎ、やっと起きだして雨の中自転車をこぎ、最後の地蔵湯。
Fが先に戻り、私は商店街でみやげものを見てからアートセンターに戻った。すると中から、フォトスタジオの三姉妹の声がする! あわててアートセンター入口に自転車を乗り捨て(その後、館長がしまってくださる)、駆けこむ。三姉妹が、夏休み最後の今日、水族館に行くことは昨夜聞いていたが、その前に私たちを見送るために立ち寄ってくれたのだった。三姉妹の母からは手ぬぐいを、次女と三女からはお手紙をもらった。忘れられてもいいなんて言ったって、涙が出るほど嬉しい。みんなで記念写真を撮って、今度こそ本当にお別れした。
『演劇クエスト』は「誰にでも人生があって、それがおもしろい」ということを表現したいのではない。ひとの人生から物語を見出して、無理にはぎ合わせたりもしない。誰もが劇的な人生を生きなくてもいいのだし、リアルな人生と、練られたフィクションの価値を比べようなんて思わない。私たちは人々とただ出会うために町を歩いていたのではなく、出会った人たちの目に映る「日常」というフレームを、揺るがすための言葉を探していたのだ。
「城崎の女性たちはアートを必要としている。町おこしや過疎対策のためではない、日々の自分の暮らしをみずみずしく変容させるものを、心から求めている。」と、私はこの城崎日記の中でかつて書いた。その気持ちは変わらないし、忙しさに心が渇いて寂しげな女性たちはどの町にもいる。しかし忘れることなかれ。芸術とは、いつでもあなたの生活をすくって転覆させる可能性をもつ、危険なものなのだ。ただ楽しい時間をもたらすのではなく、身を滅ぼす場所にあなたを招き入れることだってある。杉田久女が夫との不和をかえりみず俳句に打ち込み、最期は狂って死んだこと、金子みすゞが創作を禁じられ、子と引き離された果てに服毒自殺したこと、瀬戸内晴美が子を捨てて同志と決めた男のもとに逃げ、文学にその身を捧げたことなどは、本当にあなたに関係のないことだろうか? ひとりの時間を持って芸術に耽溺することの真の怖さ、そうしなくては生きられない人間の業の深さを、覗きこむ勇気があなたにあるか?
芸術は、現実逃避のためのしろものではない。かぎりなく、現実と地続きにあるものだ。その恐ろしさ、そして何にも代えがたい安心感。私たちはそういう本を書くために城崎に来て、とどまり、そして去ったのである。
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