盆明けの木曜日、急に暇になった。お昼に、このあたりに住むおばあさまを連れて訊ねてきてくれた孫がいた。おばあさまは、劇作家のファンなのだった。おばあさまに、カレーを、少しすくなめによそってさしあげる。ていねいに、おすわりになっている席まで運ぶ。カレーをたくさん召し上がってくださり、ああ、うれしい、とおっしゃって、劇作家とマスターの載っている雑誌を1冊買ってくださった。こんな素敵なもんが島に来とんのに見んなんて、あほやわ、と隣にいる孫にやら他の町の人にやら、おちゃめに言うのが可愛い。皆さん、あの幼稚園のところにいらしてねえ、帰ったら明かりが消えて、さびしゅうてかなしゅうてなあ。そうして話していくうちに、2年前に私が見た、小豆島でとある俳優がつくったお散歩演劇に登場した「かき餅」をつくってくれたのは、そのおばあさまだということがわかった。あの子、みさちゃんね、と嬉しそうに名前を覚えていてくださった。狭い町だから、人と人がつながるなんて珍しくない、ということが頭ではわかるくらいには、私はこの町になじんできた。でも、私の友だちでもある俳優に親切にしてくれたおばあさまの孫は、何も知らずに喫茶に遊びに来てくれたわけである。喫茶をひらかなければ、2年越しにつながることもなかった縁だったかもしれない。長く演劇のことを考えながら生きていると、こういうご褒美のような嬉しさに出会える。もっと長く生きてみたいと、おばあさまの身の上の話を聞いて思った。おばあさまが、あなたのお名前ここに書いて、と嬉しそうにおっしゃったので、雑誌の最後のページにふりがなを付けて大きく書いた。
午後のパフォーマンスの時間では、ゆりちゃんにダンスを踊ってもらった。私の名前の由来についてと、好きなおしょうゆの食べ方を話すことで、彼女が想像した私の暮らしを踊ってくれるという。私は、自分の苗字がぜんぜん好きではなくて、今でも嫌いなんだけれど苗字だから仕方なく名乗っている。だから、本当は人に私のことを、名前で呼んでほしい。それなのに、話は苗字のもとである父親のことにおよび、結局紐解いてみると、私の好きなおしょうゆの食べ方は父親の食べ方のくせと同じだった。ゆりちゃんが「あなたのお名前はどんな色ですか?」と訊いてくれたので、名前の字を順番に「ちょうどそのワンピースの色と、次の字はそのラインのオレンジがかった黄色、最後の字はそうだな、この表紙のこの色」と言って、テーブルの上に置かれていた雑誌を指差して教えた。そうしてゆりちゃんがつくったダンスは、あんまり人と目を合わせずに、口に手を当てたりしながら、どこか遠くを見て、最後は壁にゆっくり隠れて見えなくなってしまう振付けだった。それで、何だか私は泣いてしまったのだった。自分のことを、自分で思っているより他人は分かっているものなのだけれど、そのことが改めて嬉しくて、驚いた。分かってもらえて嬉しいと感じるぶんだけ、普段どれほど人に期待していないか、鈍感であるか、まざまざと見せつけられたようだった。もちろん信じているし、自分の思い込みほど当てにならないものはないと知っているけれど、ダンスを見て、よくよく思い知らされた。
制作スタッフのN嬢が、夕暮れ時に喫茶にやってきて、サザンオールスターズの『真夏の果実』を流し始めた。ラジオ番組のままごとを来週からしたいのだと言ってリハーサルをしている。海を知らない頃は、サザンオールスターズの良さがわからなかった。でも、海を見て聴くと、いかにサザンオールスターズが人に海を思い起こさせるかわかる。もはや、自分の中のイメージのせつなさが、海によるものなのかサザンオールスターズによるものなのか判別できなくなるほどだ。男は、短い恋の相手に「また逢えると言って欲しい」ものなのだろうか。私は、どんな夜も涙見せずに「もう逢えない」と言ってあげたい。
夜は満月だった。月の光で海は、鏡をこまかく砕いてばらまいたみたいにきらきら光っていた。Moon, Shine, Moonshiner と言葉遊びを口ずさむ。moonは月、shineは輝き。そしてmoonshinerは、アメリカの禁酒法時代の、密造酒を作る人という意味の言葉だそうだ。罪の味のする酒は、月をとびきり輝かせるということだろうか。私もできることなら、いつか酒が禁じられる世の中が来ても、太陽を受けて光る月を、もっと輝かせる人間になりたい。
0 件のコメント:
コメントを投稿