朝になれば歌が響く。船は、こちら側に向かって出発する時刻だ。暗い海を進み、朝を連れてくる。
というパラグラフが知らない間に下書きに残っていて、意味がわかるようなわからないような感じだが、そのまま使うことにする。眠りかけているのに何か書き残そうとする根性がいけない。「船は、こちら側に向かって出発する時刻」というのは三ノ宮からフェリーが出る25:00のことを差していると思われ、この間夜行フェリーに乗った時に、朝、坂手港が見えてきたのがよほど嬉しかったのだろう。夜にもたれて生きる暮らしが長く、聴く音楽も、読む本も、書く文章も(多少月や星の輝くことはあれ)、ほとんど真っ暗な中に生きていた。 あの風景はたしかに、私の中の何かのシフトを、夜から朝に切り替えたのだった。
昨日から、ふたたび俳優山内氏が島にやってきている。「一週間ぶりに会ってまた顔つき変わってるもんねえ」とさらっと言ってくれる。え、どう変わりましたか。「生活者かなあ」。山内氏の言葉はいつも端的である。「山に暮らせばみんな朝4時に起きるようになるからね、海のそばで暮らしたら早起きになれるっていうのは俺は知ってるよ」と私を励ましてくれたあとで「そろそろ長いもの書くんじゃないの」と言い残して彼はぷらっと去っていった。その言葉の意味を、今日もずっと考えている。長いもの。
夜の演劇公演は満員で、そのあとで喫茶に来てくれるお客さんも多かった。カレーは完売したが、ビールは先週ほど多くは売れなかった。
今年のエリエス荘には、演劇人が多く訪れる。2013年はおそらく、デザイナーや建築家や写真家など、もっともっといろんなジャンルのアーティストがいたのだろう。でも今、こうして、演出家や俳優、ドラマトゥルク、舞台照明家、舞台美術家などが次々来ては、多くの感情と少しの言葉をかわし、また別れていくさまはとても希有なものに思える。たとえば今だって、エントランスホールでは柴幸男、大石将弘、光瀬指絵、山本雅幸が落語の読み合わせをしている。島のどこかでリーディングを披露するらしい。私はそれを、玄関を出たところの、喫煙所でかすかに聞いている。
出港する船は、ゆっくり岸を蹴って浮かび上がるように、一定の速度で私から離れてゆく。深呼吸しても、目を閉じてひらいても、まだ視界から消えない。それを見ながら、ああ、船での別れならあきらめがつくなと思った。じゅうぶんに惜しみ、思い出し、いつくしむ時間が、船の去り際には残されている。
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