またしても朝ごはんのタイムリミットぎりぎりに目が覚める。9:50にダイニングに何食わぬ顔でゆき、スクランブルエッグ、ハム、パンなどを頂く。KM嬢と本日の計画を練る。実はホテルにはスパがあって、見に行ったのだけど深い温水プールのような、温泉のような、サウナもある場所で、しかし行くには水着が必要なのらしかった。それで、ZARAが近くにあるから見に行ってみる? みたいな相談をしていたというわけだ。結局ダイニングには10:30頃まで居座ってしまった。
昼には、KM嬢とルーマニア料理店へ赴いた。サルマーレ(ロールキャベツ)が品切れだったので、トゥキトゥラ(ビーフシチューのようなもの)と、クロケット(チーズのフライ)、追加でミティテイ(ラムと豚のつくねのようなもの)を頼む。トゥキトゥラにはマッシュポテトならぬマッシュコーン(正式名称はママリーガ)、ミティテイにはパンがついてきて、副菜にも大満足。私は、海外に行く時はまったく和食が恋しくならないタイプで、その土地でしか食べられないものにしか興味がない。
毎日タイムテーブルとにらめっこで、移動時間、上演時間を見越してその日のタイムスケジュールを調整する。昨日のプレカレーテの作品は、徒歩で30分かかるくらいの場所にあったが、今日観るのは近所の教会で、16:00からのゴスペルコンサート。London Community Gospel Choirという団体。子どもも何人か親に連れられて来ており、素晴らしいタイミングでノリノリになったひとりの少年が歌のワンフレーズを響かせたところで、会場は大いに湧いた。微笑ましく、神の恵みに満ちた時間だった。
一度ホテルに戻り、メールマガジンを配信。チェルフィッチュ岡田利規さんの連載が最終回を迎える。
劇団1980『素劇 楢山節考』を観るため、KM嬢と待合せてまたしても徒歩30分歩く劇場(プレカレーテの作品を観に行った場所とは別)へ向かう。地図を見ながら歩いていたところ、ひとりの女性に話しかけられた。
彼女の名前はアレクサンドラと言った。ブカレストに住んでおり、昨年に続いて今年もバカンスを取ってシビウに来たとのことだ。「あさってまでしか居られなくて、そこからはノルウェイに行くの」と嬉しそうに話してくれた。なお、ブカレストからオスロまでは飛行機に2時間半とのこと!
3人でGoogleマップを見ながら劇場へ歩く。野良犬が吠えている。「日本では、犬は『わんわん』って吠えるんだけど、ルーマニアでは?」と訊くと「『ハムハム』っていうのよ」と教えてくれた。可愛い。
知っての通り、深沢七郎による『楢山節考』は姨捨山伝説がもとになっている。原作に忠実に、歌も交えつつ上演された。聞くところによるとヨーロッパ各地でこの作品を上演しているらしい。老婆のおりん役の静謐さが印象に残る。しかし、何点か(いや、もっとか?)気になる点があり、それを以下に書いてみる。
まず『楢山節考』の時代背景がいっさい説明されていない。舞台は「長野」と劇中で明言されていたが、観客たちが「ナガノ」という一地方の名前から、どの程度、寒さや貧しさを想像できたかは分からない。同じように、このような姥捨が実際にあったことなのか(東北の間引き、娘の身売りなどとは別にして)説明がないので、これが現代も続いている風習というふうに思われる可能性がないわけではなかった。日本語上演、英語字幕なので、字幕をかなり追って見ていたが、さすが海外公演を重ねているだけあって洗練されたもので、そこは良かった。
ただ、時代背景の説明と同時に、さっきアレクサンドラと偶然話した「動物の鳴き声」が登場する際の問題を強く感じた。劇中で俳優が、春の場面では鶯の「ホーホケキョ」、夏が過ぎ行くのを表すために「ミーンミーン」から「ツウツクホーシ」、そして「カナカナカナ」という、蝉の種類を鳴き分けていたのである。
これは、私には、わかる。日本で夏を30数回過ごしてきた私には、蝉が初夏、盛夏、晩夏で変わっていくのが、わかる。でも、犬が「ハムハム」と鳴くルーマニアでこれは……? と、考えざるを得なかった。字幕にも、何も表示されなかったので。
おりんが楢山へ行く際、息子におぶわれて「早く行け」という意味で無言のまま、右手を甲の側へ二度振る仕草(つまり「おいでおいで」の逆仕草)をおこなったのは大変美しかった。また、おりんの最期に降り積もる雪は白い布で表されており、まるでヴェールをかぶった聖母マリアのようであったと言ってもいいほどだった。
上演後、アレクサンドラを見つけたので、声をかけてまた一緒に帰ることにした。「『山の神様』っていう言葉が出てきたでしょ。字幕では "God" と書かれていたけれど、あなたたちの神様とは意味が違うの、わかった?」と訊いたら、それは理解できた、と言っていた。「ただ、周りのみんなは拍手していたけれど、so hard story だったから私はとっても手を叩く気にはなれなかった……素晴らしかったけれど!」と言っていて、感受性豊かでとても聡明な女性だとあらためて思った。
『楢山節考』を読んだ方はご存知かもしれないが、小説の中には、命が惜しくて楢山に行きたくないと泣きわめく老人(当時はみっともないとされた)の描写がある。『素劇 楢山節考』では「蟹」の登場する歌が歌われるのみだったが、この「蟹」というのは実は恐ろしい意味で、そうして死にたくないと泣く老人の手足の骨を砕き、それでも這って帰ってこようとする姿を揶揄して「蟹」と言っているのだ。そのことをアレクサンドラに説明したら「crabがそんな恐ろしい意味だったなんて……」と震えていた。これは上演を観ているだけではわからないことなので、「蟹」という言葉に秘められた恐ろしさはもしかしたら上演に組み込んでも良いのかもしれない。
「ところで、さっきから思っていたんだけれど、あなたのワンピース素敵ね!」と、私はアレクサンドラに言った。黒字に白い小花模様のフレアワンピースで、会った時から可愛いと思っていたのだ。「ありがとう、これは今日おろしたてなの!」とにっこり微笑み「でも、この白い花が今はおりんに降り積もった雪に見えるわ。だから今日のことは忘れないわ」と彼女は言った。
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