寝付けなくもあり、早朝に目が覚めることもある。そういうときは少し起きて身体を洗ったり、簡単な掃除をしてからまたねむってみる。家からは、出ない。
毎夜本棚を整理する。曾祖母や祖母、大伯父の俳句や短歌の草稿がたくさん出てくる。文学については血脈に伝播してにじむまで時間がかかるので、親子の作家というのはいても、それは書く習慣が遺伝しただけで、作家性を素直に認めたり、受け継いだりしていくのは、隔世であることが多い気がする。
知り合いが、小学六年生に言葉についてのワークショップをしたという話を聞いて、思い出したことがある。私が小学生のころ、あれはたぶん、当時の担任が知り合いか何かで呼んできたんだと思うけど(変わり者で有名な教師だったし)たしかどこかの記者か編集者が授業をしにきたのだった。新聞の読み方とか、文章の書き方について、国語の先生とは全然違うへんなことをいっぱいしゃべっていた。当時の私は、家族以外の大人と言えば習字教室の師匠くらいしか話したことがなかったのでよく覚えている。子どもにとっては、学校と家庭が世界の全てで、それ以外の全体は、何となくまとめて生活の背景みたいなものだ。その記者は、授業が終わったあとも教室に残っていて、何人かの児童から話しかけられていた。私は大人が珍しかったし、やや自意識過剰で構ってほしかったので、その輪に寄ってゆき、ボウリングのこつを教えてほしい、と言ってみたのだった。授業の中で彼が、ボウリングが趣味です、と言ったせいだったように記憶しているが、あとから捏造した記憶かもしれないし、今考えても何の脈絡もなくてよくわからない。それくらいの年の頃に、友だちとボウリングに行った覚えがあるので、その直前で何か心配があったのかもしれない。ともかく彼は数秒考えて「ぶれないことかな」と言ってくれた。その人の声はベルベットみたいな手触りで、うつくしい茶色だった。
ぶれない、って何を、と思ったが聞けなかった。礼を言って、担任とその記者が一緒に教室を出て行くのを見送った。ぶれないこと?身体の芯を、なのか、ボールを持った手を、なのかは分からないがその言葉はその後しばらく不思議な吸引力で私を支配した。でも私は不器用で、身体の使い方もうまくなかったので、へたに固定すると、全体が凝りかたまってうまく動けなくなった。大人の言葉は、時に言った本人が思った以上に、忠実に子どもを従わせる。しかしまあ、おかげさまかは知らないが、今に至るまでぶれずに育ててこられたものも多くある。私はあのとき子どもで、「横顔がとても素敵」なんて男の人に対して思ったりはしなかったし、たとえば彼が、大人になった私がそう思うくらいの人であったならばロマンティックな話だが、彼の顔はとっくに忘れてしまった。
しかし、どうもほんの少し、生まれ間違った気がしてならない。いつも戻れないほど遠くまで来てしまうくせに、慕情の強さは人一倍だ。酒のしずくは甘いし、涙は苦い。毎日毎日、嘘をひとつ混ぜて日記をつけなくては生きてゆけない。
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