「『三月の5日間』ごっこをしたい」と言っている女の子をTwitter上で見かけた。学校でやろう、というようなことを後から追記していたので、ごっこというのはつまり、だらっとした身体とか喋り方とか、そっちのことを言っていたのかな、と思って少し安心した。私は、朝方のラブホテルの明るい廊下で「今からー、三月の5日間ってゆーのをやるんですけどー」とぼそぼそ呟いて遊んだことは、ある。5日間も籠れたらおもしろいな、とは思ったけど、あのときは渋谷じゃなくて関西にいたし、渋谷だったこともあるけどおなかがすいて一緒に行ったのはカレー屋じゃなくてうどん屋だった。手を振って別れたあとに、同じ場所に戻ってみたりも、しなかった。でも、私があの芝居で一番好きだったのは、窓のない部屋で朝も昼も夜もなくなって時間がへんな歪み方をする、あの感覚を引き延ばして取り出したところ、だった気がする。
村上春樹の小説は好きだけれど、あんなに世の中の男性は一日に何度も何度も女を抱けるものなのかな、と思う。まあ、いるのは知ってるけど、どうだったかな。今のところ、いつだって自分を起点に考えるしかないので悩む。「愛のあるセックスを白日のもとにさらすことは可能か」というのは、あなたがあなたの恋慕う人とおこなう行為は必ず隔離され秘められたものであり、フィクション作品の中などで扱われるそれとは異なるという仮説にもとづいて私が考えた、インパクトだけが取り柄の一文である。つくりごとでない愛が宿った本物を、自分たちのベッドの外に引きずり出すことはできない。一般的にセックスが愛を確かめるために行われることがあるというのは知っていても、さらにそれ自体を確かめるには自分の肉体を使うしかなくて、それ以外に、検証する方法はたぶんない。どんな場合でも、真に愛しあって行為に及ぶふたりを目撃することは(なかなか)できない。たとえば恋人同士の俳優による演技などであっても、(一般的に)ふたりでおこなう行為はふたりだけでおこなわれなければ、ふたりでおこなうときの状態は失われるだろう。まあ、私だって別に仰向けで天井を見つめながらそんなことばかり考えているわけではないのだが。いや、考えているかもしれないな。
今日会った女の子は、黒目が大きくてきらきらしていて、なんて可愛いのだろう、と思うような子だった。 私は今はあんまりお化粧もできなくて、髪も無造作に梳かしつけたまま、くたびれた男の人みたいな見た目だったけれど、彼女は私と恋の話がしたいと言ってくれた。恋の話、と言ったところで、誰かが言ったように、結局は具体的な対象に向けての言葉になるに違いないのだ。恋にまつわる言葉は、そうでしかありえない。
遠い港町に旅している人からメールをもらった。彼女は昨日が誕生日だったらしく、それは私の本物の妹と同じ誕生日であったので、ついに彼女が私の妹になったのかな、と思って、これからはそういうことにしよう、と思った。
ねむれなさがいよいよ病的である。明日こそ、と思っている。それがだめなら明後日。明々後日。何もかも、奉納して埋葬するといい。
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