2013年12月23日月曜日

寒椿

人と話すべき思い出があまりない。久しぶりに再会して、高校時代とか大学時代にあったことを延々と思い出しあいながら笑うことが、私はあまり得意でない。思っているだけで言わないが、ここで書いてしまえば何でも一緒だ。覚えていないわけではない。むしろ克明に思い出して、描写もできるくらいである。世の人が思い出を反芻する時間の豊かさを感受できない、貧しい人間なのかもしれない。私は自分のことをずいぶん未練がましい人間だと思ってきたので、そう思っている自分に気づいたときは驚いた。でも私は、あの頃の私がどうたら、ということよりも、何もかも今しかない、ということのほうをずっと強く念じているのだ。あの頃の話より、今の話、未来の話をしてくれる人が好きで、何かを共に懐かしんでくれる人は(そんなには)いらない。

一番いいときで自分の時間が止まってしまうことへの恐れが強いのだと思う。若いころの自分が似合っていた服のまま年を取ってしまうこと。それはつまり、自分を測ることができていないという意味だ。「対象と自分の距離を測り、それとの誤差をできるだけ少なく出来る」のが「うまい」ことだと思っている。絵がうまい人は見たものとデッサンする手の動きの誤差が少ないし、音楽家はイメージした音に近くなるように楽譜を再現する。

まあ確かに、誰かと寝てみる、というのはいろんな面で大切だと私も思うので、一刻も早くやってみたらいいのだが、単純に多くの人と触れ合ってもまったく意味が無くて、それよりも、ひとりの相手とは何度も関係を深めたほうがいい、などという我ながら当たり前の結論しか言えなくなってくる程度には、魔女らしくなってしまった。それこそ数年以上の付き合いになる相手もいるだろうし、恋人でなくても複数回の逢瀬を重ねる間柄になる人にも出会うだろうし、そういう相手は一人じゃないこともあるだろうし、と言ったら、どこが引っかかったのか知らないが、えっ、という顔をされたので無視した。相手を通して今まで知らなかった自分を見る、ということはよくあるが、見えたその自分を信頼するためにはやはり時間をかける必要があると思うし、そういうときは、自分にとってだけでなく相手にとっても大切な何かがかなりの確率で起きている。そういう相手に出会った経験を持つ人を、私は信用する。(「そういう経験を持たない人を、私は信用しない。」 という書き方とどっちがいいかな、と迷った)

量販店で、二秒で選んでキッチンマットを買った。二秒というのはあんまりかな、と思って、他の棚も見て吟味してみたけれど、結局最初に選んだものが私には圧倒的にいい、ということになった。そのあと、文具コーナーで冬の花や雪の柄の便箋を見た。でも、こういうときに私がまっさきに手紙を書きたいと思う人は、この秋にもう亡くなっていた。そのことを考えて、忘れていたわけじゃないけどやっぱり居たたまれないほど寂しくて、綺麗だと思った便箋と封筒をぜんぶ、片っ端から買った。

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