2013年12月17日火曜日

冬には名前を

子どものころから、自分の姓が好きでないのだが、人が自分の名前を覚えていてくれるだけでとてもうれしくなる気持ちのほうが大きいので助かっている。もともとは、名前も好きでなかった。中学一年生の時、憧れだった副部長のお姉さま(高校三年生)から文化祭前夜に頂いたお手紙に「初めて見たときに、なんて綺麗な字かしら!と思ったの。」とあったのを読んでから、好きになったのである。しかし中高時代には「名前+ちゃん」で呼ばれることはあれど、呼び捨てにされることはなかった。女の子同士、親しげに呼び合うさまを眺めてじりじりしていたのはこの頃だ。初めて呼び捨てにされたのは、大学生の時、サークルの先輩にだった。そのとき、長年のくびきから解かれるような思いがしたことまで覚えているが、こんなことをいちいち覚えていて、今ここですらすら書ける自分もいやだ。いい名前だよ、と人に言われないと自分を承認できないような心根も自意識過剰でいやすぎる。

チェルフィッチュの『地面と床』を観て、恐れ多くも、こんなに自分の人生に寄り添ってもらえる、と思えるカンパニーがあるなんて本当に幸福だ、と思った。寄り添うというよりは、仰ぎ見る、ということに近いし、彼らの作品はけっして優しい言葉をかけてくれることはないけれど、そのことがいつも私を安心させる。『フリータイム』『わたしたちは無傷な別人であるのか?』など、観るたびに、そのときの自分の人生の状態にリンクしているように思ってきたが、それは決して作品を矮小化して解釈しているのではない。チェルフィッチュに関してだけは、劇評もおすすめも書いたことがない。書けると思ったことがない、というのが正確だけれど、今秋の『現在地』『地面と床』に関して、方法とか演劇論とか音楽論とか、いわゆる"小難しい"批評の視点ではなくても、自分の言葉で書くべきなんじゃないかと思っているのは私にとって大きな変化だ。チェルフィッチュの作品が、自分に「寄り添ってくれている」と感じるのは、私だけではないのかもしれない。でも、若手のころ死ぬほど残業して働きまくっていた自分とか、子どもが持てるのか迷っている自分とか、もし子どもを持ったら盲目的に守り抜くであろう自分の姿を考えながら見えることは、作品の外枠を形成する問題意識を理解するうえで大切なことなのだ。不思議である。理解できないと思う相手なのに、その存在を意識するときはいつも、とても近くにいる気がする。

弟が医者になることになったとき「合格してよかった」という思いの次くらいに「これでいつ戦争が始まっても、軍医になれるから、この子が前線で死ぬ可能性は減った」と思って安堵した。冗談ではない。弟が小さなときから私はいつも、この子が戦争で死ぬことがないように、と祈ってきたし、たとえば選挙権を得てからは、愛する男の人たちが戦争で苦しむことにならないことを、かならず考慮に入れてその権利を行使してきたのだ。

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