2023年9月12日火曜日

通過と霊化のフェミニズム --劇団ダンサーズ『都庁前』劇評--

落 雅季子

岡田智代が、かつて私に語ってくれたことがある。今でこそ還暦を超えたダンサーとして精力的に活動をしている彼女だが、結婚して子供を持った当初は「10 年間は、自分のまわりからダンスの存在をシャットダウンして、子育てに専念する」と決めていたと。そうしなければならないという枷を自らにかけ、芸術から離れた時期があったのだと。子供を産み、母になったという理由で。

だから彼女が「この作品について、書いてほしい」と私に言ったとき、私は彼女が話を終える前にうなずいた。書かなければならない、と思ったからだった。「この作品を、女の人が観てどう感じたかを、言葉にしてほしいの」。私はふたたびうなずいた。上演に登場した俳優 4 人のうち 3 人が女性だったこと、本作『都庁前』がフェミニズムを題材とした戯曲であること、その戯曲を執筆したのが岡田利規という男性であること、それら様々なファクターが絡み合ってクリエイションの中で、俳優おのおのが抱えたもどかしさを私は瞬時に想像した。二度目の私の返事に、岡田智代はやっとほっとした顔を見せた。


▼

劇団ダンサーズは、2018 年 10 月に生まれた「ダンス作戦会議」から派生した、ダンサーによる演劇プロジェクトである。今回上演された『都庁前』を含む岡田利規の『NŌ THEATER』は 2017 年にドイツのミュンヘン・カンマーシュピーレで初演された。同作は 2018 年に京都でドイツ人俳優による輸入公演が行われたが、劇作家岡田の書いた「日本語の原文」で『都庁前』が上演されるのは今回が初めてのことだ。『都庁前』は、夢幻能のかたちを取って書かれた戯曲で、40 分ほどの短い作品になる。

まず地謡、アイを兼ねる岡田智代がグレーのセーターに黒のパンツという装いで、椅子を持って現れた。彼女はマスクを付けており、上演中は外すのかと思ったがどうやらそのままのようだ。続いて、青年(ワキ)を演じるたくみちゃんが壁沿いを這うように変形クラブステップで登場する。オレンジとグリーンのジャケットにジーンズというラフな服装だが、やはりマスクをつけている。(その後登場するふたりの女も同様だったことも付記しておく。)

青年は、自分は広島の出身で東京見物に来たと話す。羽田空港からモノレールに乗って都庁前に来たということは、浜松町・大門駅から都営大江戸線に乗ったのであろう。東京でもっとも地下深くを走る大江戸線。路線図を見るとわかるのだが、大江戸線は不完全な環状線で、ひらがなの「の」のような形をしている。その「の」の字の交差地点にある都庁前駅は、終着駅のようでもあるが実際は練馬方面・両国方面への分岐点となっており、非常に使い勝手が悪く乗換も難しい、東京の吹き溜まりのような場所である。

青年が、ソフィア・コッポラ監督の映画『ロスト・イン・トランスレーション』(2003)の舞台になった西新宿のパークハイアット東京を見てみたいと語りながら地下鉄の出口を探しているところに、女1(シテ)を演じる神村恵が黒い服をまとって現れ、下手にうずくまった。照明も薄暗くなり、女1を蛍光灯で下から照らすように変化する。女1は喋っているあいだ青年に一瞥もくれないが、青年の方は、急に自分に話しかけてきた女1をきちんと見ているのが印象深かった。きちんと、とは言っても堅さや真剣さがあるわけではなく、色素の抜かれた好奇心とでも言うべき、ピュアネスによるものである。

神村は足先でわずかに床を摺ったり、壁に触れたり、しゃがんだりという小さな動きを繰り返しており、そこはかとなくその土地に張り付いている地縛霊のような粘着性を感じさせる。女1は広島出身の女性都議会議員の話を唐突に始め、その議員を知らないという青年に「物を知らないですね」などと冷たく言い放つ。神村の話し方はやや冷淡過ぎるが、これはマンスプレイニングの構造を青年女逆にしたものではないか。だとすると皮肉に見せかけた権力構造(社会的強者が弱者にこれ見よがしに説明する)の反復強化になりかねず、女性がかつて男性に苦しめられてきたやり方で、男性である青年を苦しめることになってしまう。そんな不安を抱きかけたとき、客席でひとりの男性客が声を出して笑うのが聞こえた。

青年が「どうして僕今こんなに非難されてる状況にいつのまにか置かれてるんですかね」と言ったときのことである。

演者やほかの観客がどうかは知らないが、私はこうした笑い声を聞き逃さない。女性から男性へパンチのある台詞や状況が繰り出され、男性が女性からある種の攻撃に遭うシーンのとき、あるいは、自分が思いもよらない、つまり自分の知る「女」、そうであってほしい「女」の範疇を超えた言動をしてきたとき、客席で男性客が声を出して笑うことは珍しくない。今まで数えきれないほどそうした場面に出くわしてきたし、それは女性劇作家・演出家の作品で見受けられる傾向がある。何がおかしいのかわからないし、黙って観て受け止めていればいいのにといつも思うが、女性から痛烈に非難されたり、過激な台詞を浴びせられたりして、ショックを受ける状況に精神が慣れていない脊椎反射なのだろう。不均衡だ。悲しい。男性の笑い声を聞くといつも思う。

話を本筋に戻す。女1は、都庁に行くなら議事堂の前の広場に立っている女の姿を見なければならないと告げ、姿を消した。両手をゆっくり広げたり、閉じたり、下げたり、まるで空気を包んでその場の温度を操るかのような動きで。

すばやく駅員に扮した岡田は青年に、今の女はフェミニズムの幽霊だと説明する。ここで語られるのは、2014 年に都議会で起きたセクハラ野次問題だ。ある女性議員が東京都の妊娠・出産への支援体制について質問をおこなっていたさなか、男性の声で「自分が早く結婚したらいいんじゃないか?」「お前は子供産めないのか?」という野次が飛び、その後、自民党が批判にさらされて対応に追われたという一連の出来事のことである。その後「フェミニズムの幽霊」が都庁前駅ホームに出るようになったと駅員は語るが、その呼称を広めたのは駅でべろべろに酔っていた品のないおっさんだという説明には何ともやるせない気持ちにさせられた。下品なおっさんが「フェミニズム」なんていう言葉を知っているとも思えないし、それならおっさんの吐いたゲロに滑ってホームに転落死して幽霊になった女性の方が、メタファーとしてはえげつないが、まだ説得力はあるんじゃないか……と私が考えてしまうほどには、徹頭徹尾リアリティが排除された戯曲であった。男性の中にあるミソジニー(女性嫌悪)を、観客に見せるための構成である可能性も否定できないが、たった 40 分の中でこうした小さな違和感を蓄積させる様は、女性が社会で日々直面する小さな理不尽の蓄積によく似ていて、わざとなら岡田利規の技巧に感嘆するとともに嫌悪感をも抱く。そう、わざとなら。

▼さて、素直な青年は議事堂の前の広場に向かった。木村玲奈演じる女2(ツレ)が、入場する。ベージュのインナーにグレーカーディガンを羽織り、ボトムスはデニムのロングスカートという、女1とはまた異なった雰囲気だ。木村の長い髪はそのまま垂らされている。女2は、野次を受けた女性議員のくやしさを胸に、日々その広場に立ち続けているらしい。青年はここで客席に移動し、観客と同じ方向から女2を眺め始める。舞台中央の女に明かりが当たり、影が出来る。女2は、議会での野次騒動の顛末を饒舌に語り始める。

たいして長い場面ではない。それなのに私は、女2が台詞を発し続けることに苦しさが募った。あまりに直截的な台詞と詳細な説明。お願いもう黙って、大丈夫だから、そんなにつらいことを話さなくていいから、とわずかな時間で何度も思った。

野次を飛ばした男は、対象の議員個人を見ていたのではなく、彼女を通して「女」の総体を罵っていた。女性という性別に属していたこと、ただそれだけで女性議員は個人性をはぎ取られ、主体性をなくした存在に貶められた。極度の暴言や暴力によって深い傷を負ったとき、人は沈黙するか笑ってやり過ごしてしまうパターンが多く、それが暴力の発覚を遅らせる構造にもつながっている。主体として語る能力と気力を奪われてしまうこと。それは性的不均衡に基づくものに限らず、暴言・暴行の被害者にとっての大きな苦しみなのである。

それでいてなぜ女2は、語れるのだろう? 尊厳と主体性を奪われ、毎日毎日どこかで、これからもそれらを奪われていくであろう「女」は、何を拠り所にしてこの戯曲を発話すればよいのだろう? それこそが、劇団ダンサーズの出演者たちが、今回いちばん苦しんだ点ではないか? 

どこを見渡しても、自分の話を聞いて理解してくれる人がいると思えない世界で、自分が受けた屈辱について話して何になる? (私を含む)女たちは、今この台詞を客席に向かって言えるほどに、他者を、男性を信頼できている? 女として生きてきた中で、幾度も幾度も打ち砕かれてきた他者への信頼を、こんななめらかに言葉にできるほど、回復できている?  

でもわかっている。これは演劇だから、台詞で俳優が何を発話していても、本当にそれが発話されているかどうかは確かなことではない。女2はずっと黙ったまま広場に立っていると、女1は言った。だから女2が滔滔と台詞で説明をするのは観客のためであって、彼女は「本当は」ずっと黙っている。これは心の声にすぎない。そう戯曲を読むこともできる。 

しかし戯曲に台詞が書いてある以上、発話される声は聞こえるし、俳優は台詞を言い続ける。そのことに木村玲奈は、身体で対抗した。床に横たわったのである。体重を地面に預け、ダンサーのアイデンティティとも言える、動こうとする体の能動性を、無にした。地謡の台詞が挟まれつつ、横になったまま台詞を続ける木村。そして彼女は体の軸を回転させ、人間のさらなる受動的体勢である、うつ伏せになった。語りはやめない。そうして女たちの無念が頂点に達したとき、女2はたったひとりの女ではなくなった。女性たちがこれまで社会で味わわされてきた屈辱の総体である幽霊、女1が再びあらわれ、女2はすっと立ち上がった。女1が女2の手をにぎる。そして青年はふたりの女に吸い寄せられるように、客席から舞台に戻っていった。 

女1が憑依した女2は、ゆっくり、緩慢といっていいほどの遅さでこぶしを持ち上げた。「突き上げた」という動詞はふさわしくなかった。ただ、目線よりも高い位置にこぶしを「持ち上げた」のだった。これは沈黙という抗議をつづけるに至った、女2の傷ついた内面を、神村と木村が本能的かつ緻密に表出させた動作だった。それを青年は、見つめていた。 


▼ 後日、オンラインでのポストトークにて木村に質問をする機会があった。「一連の女2の台詞を発話するのは、つらくなかったですか」と私が尋ねたところ、彼女から興味深い返答を得た。 

「なんかでも不思議でした。自分自身でもあったし役の女でもあるしこれをここで言うことってどういうことなんだろうみたいなこととか……お客さんに向けてもちろん台詞は言っているんですけど、(私は)俳優じゃないので言葉がお客さんに伝えられないんじゃないか、内容が入っていかないんじゃないかって心配で、あのシーンは情景というか、議員の人たちの話を淡々と伝える大事なシーンかなと思っていたので、自分や女2の感情よりも、本に書いてあることをお客さんに理解してもらえるだろうか? ということに意識がいっていたんですね。だから、言っていてしんどかったというのは正直なかったですけど……でも一回だけ稽古中に、すごい涙がぶわーって出てきたことがあって、自分でも結構それはすごいびっくりな状況で、ダンスしてても突然泣き出すなんてことは、ないので。(技術的に)出来なくて泣くっていうことはあったけど、自分の言葉じゃない言葉を言っているのによくわからない涙が出てくるのは、もしかしたら(女たちの)そのつらさみたいなのが溜まって放出されたのかなっていう感覚は、あったかな」 

https://www.youtube.com/watch?v=58LgX8MfoSs&feature=youtu.be 

(※1:33:00から抜き出し) 

先ほど私は、暴力に遭った人間が主体性を奪われる話をした。数えきれない暴言や暴力にさらされてきた女たちの歴史を感じながらも、ダンサー・俳優として、舞台上での主体性を手放さない方法に体でたどり着いたのが、あの地面に伏し台詞を言い続ける場面だったのだと私は思う。 


▼ フェミニズムの戦いは(ほかの多くの権利をめぐる戦いと同様に)終わりがなく、一歩ずつ進んではまた退いて、途方もない時間がかかる。私はもう、自分が生きているうちに女性の権利が今以上に向上することは無理だとすら考えることがある。そういう意味では、私は自分がフェミニズムの幽霊になることに、すでに覚悟を持っている。なぜ戦いは進まないか。その理由のひとつが、女性が女性であるということでこうむる不利益には、時期および内容の流動性があるということである。 

若い時分には、異性から性的に搾取されることを処世術として使って生き抜くしかない場合もある。結婚すれば嫁ぎ先の慣習に従うことや、妻としてのふるまいが求められ、時には「女のくせに」と婚家の人間から貶められることもある。保育園の待機児童問題で悩んでいるワーキングマザーも、子どもが小学生になれば保育園を必要としなくなる。自分が性差に基づく偏見に晒されてきたことに気づくこと、更にそれを言語化できるようになるまでには(前述した、暴力への抵抗としての沈黙も含めて)時間がかかるし、言葉にしないまま一生を終える女性もいるだろう。 

私たちは、生きている限り女であることから降りることはできない。しかし私たちがこうむる不利益はあまりに多様だ。不利益は次から次へやってきて、ひとりの女性の一生を、フェミニズムの目覚めは流動的に通過する。経験が相互に蓄積せず、ひとりひとりの苦しみは捨て置かれたままになる。そうした時間的空白、非連続の上に立つ未完の城がフェミニズムだ。 

本作で、その通過に重ねられるのは、霊化である。女の幽霊が都庁前に現れることについて地謡は言う。 

 

それがなんのためなのか、男たちよ、考えてみたらいい。 


 

「男たちよ」? 私は台詞に強烈な違和を覚えた。続いて、絶望に似た悲しみに襲われた。違う。男たちに考えてほしいのではない。私たち女が失った主体性と傷つけられた尊厳を回復する方法を、女といっしょに考えてほしい。 


 

私たちを弔うためにはこの都市の、この国の、 


メカニズムが、変わらなければいけない。 


そうでなければ私たちの魂が鎮まることはない。 


人口が減り、経済がやせ細り、 


あなたたちは滅びていく。 


(中略) 


それはもう、<女性の問題>ではない。 


私たちの魂を、あなたたちは鎮められるのか?  


それはあなたたちの問題だ。 


私たちの魂を、あなたたちは鎮められるのか? 


 

地謡の台詞の中、女1と2は地謡のいる舞台の隅へ集まる。青年は舞台中央に立ち尽くし、ぼけっと聞いているようでいて、目線を女たちから逸らしていない。それが救いだった。女1と女2が舞台から去っても青年は動かない。そして静かに、先ほど女2がそうしたように、右手を上に伸ばした。自分の意志ではなく、何者かに上から吊られるような重力の操り方で、青年はそれをおこなった。 

ラストシーン、青年は都庁へ向かうべく、駅員にあらためて出口を聞いて退場していった。手を頭上に「持ち上げ」たまま、彼はトコトコと袖に消えていった。 


▼ 明るくなった劇場で私はまず、自分たちを鎮めてほしいとは考えない、と思った。「滅びていくことにおいてジェンダー間に格差はない」という台詞もあったが、女は(男がそうでないのと同様に)、この国が滅びないためのメカニズムの歯車でもない。 

それに、幽霊という言葉が、どうしても引っかかった。能だから、幽霊が登場する形式なのはわかる。でも今を生きる私たち女の意志は、干からびた死体や焼かれた骨に宿る未練ではない。積み重なった無念の歴史は確かにあるが、数えきれない殴打によって世界への信頼を失い続ける日々は、これからも女を待っている。その無念さを、霊化した形で登場させてほしくはなかった。今も女たちの心からは鮮血が噴き出し、流れつづけている事実を、もっと直視してはくれないのか? 集合体の霊として、個人の男性を攻め立てたいなんてこれっぽっちも思っていない。ただ屈辱を味わい、「幽霊」というよりは「非人間」とされ、生きたまま折り重なって倒れている女たちを、幽霊ではない形で、人間としてよみがえらせるような演劇を誰か見せてはくれまいか? 

とはいえ、戯曲には「女2は生きた人物として描かれているし、女1は自分は『死んだ特定の女ひとりの幽霊ではない』と言っていて、整合性もバランスも取れている」という回答がしっかり示されている。その事実には隙がなく、大変明晰に理解できる。 

でもこの感覚的な違和感、拒否感、反発を私は無視できない。正論であることによって反論を防御する、能的なる構造と戯曲の言葉選びに、私は苦闘してこの劇評を書き上げた。恐らくはクリエイションのさなか、俳優たちも同じ心持ちだったのではないかと思う。 


都庁前で遭遇した女たちの無念を無意識にインプットされたかのような青年の右手。頼りなく、しかし高く、青年の手が女2と同じ位置に掲げられたエンディングは、希望だった。今を生きるどの世代の人間も、虐げられ非人間化された女性がふたたび人間として生きられるような、言葉や身体表現を見つけなければならない。女の無念を「鎮める」のではなく、これから先、男性と女性が共に生きて理解しあい、違和感を少しずつ解消しあって生きる未来を望みたい。切に、望みたい。 


◎プロフィール 

落 雅季子 

1983年東京生まれ。批評家。LittleSophy主宰。2009年から演劇・ダンス批評を始め、2017年からは文体と拮抗する身体の獲得のため、クラシックバレエの学びを積極的に行なっている。 

Twitter:@maki_co 

<引用> 

岡田利規『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』白水社(2020)より 


 

2022年9月28日水曜日

流行り病

 週末から何か、起きにくくて眠りすぎる感じがあった。


▼8月15日(月)

普段ならしないような寝坊。多摩永山病院へぎりぎり向かう。12:30出社。バレエレッスンにも行けた。この時点では特段の体調不良を感じてはいない。


▼8月16日(火)

起き抜けに、エアコンで乾燥したときのような喉の痛み。少し不思議に思いながら出社。問題なく業務をおこなう。海外出張に向けて一応受けようと思い、PCR郵送の手続きを9:30に出す。何となく予感がしていたのかもしれない。上司は15:30ごろ帰宅。喉がチリチリ傷む、と母には14:30にはLINEで一報。咽頭痛は良くならないまま退社時間。帰りの地下鉄でやけに眠い気がして、普段なら寝ないのに座ったまま寝てしまう。喉の違和感消えず。

嫌な予感が消えないのでクイーンズ伊勢丹でアイスクリーム、ゼリーを買い込む。帰宅してホワイトシチューを作り、一人前食べきるが最後の方、飲み込むのが少し難しい心持ちがしたので熱を測ると37.7ほどあり、これはと思いつつ母に電話。その後37.8~38度くらいに上がる。咳も出ていて、喉が、これは絶対エアコンのせいでは無いなというぐらいには痛い。

取り急ぎ上司に連絡。明朝また電話することにする。風呂を済ませ21時頃眠るが、数時間と続けて寝付けない。ネットスーパーアプリで買い物をする。

深夜1時、寒いので脚立を持ち出し、冬用の毛布を出してくるまる。目が覚めるたび喉が痛い。カロナールを飲み、熱は3時過ぎ現在、37度に落ち着いている。


▼8月17日(水)

発症二日目

4:51 体温37.6度 咽頭痛のため声が潰れる。関節痛あり。そこから体温上昇と痛み、体調の異変により眠れなくなる。

5:10 バレエの先生に一報を入れる。しばらくクラスはお休みし、引き続き注視して連絡することになる。

5:16 寝付けないので、いつも早起きの上司にWhatsAppし、6:15に電話。その時点で熱は37.8ほど。上司は枯れた私の声に驚いていて、出張はキャンセルとする。朦朧としていたので、上司がすべてアメリカへのメールを書いてくれて助かった。アメリカはまだ前日午後なのでレスポンスも早く、ホテルのキャンセレーション・コンファームがすぐに来た。

カロナールのおかげで、37.2まで下がる。日本の旅行代理店や、大使館関連でいくつかメールを書く。10:00からのオンラインミーティングはとても傍聴もできない状態なのでキャンセル。ここから解熱剤をいったん止める。

家族、3-4日以内に会った友人には状況を連絡し、気をつけてほしいと頼む。

13:00前に自治体に電話相談。東京都陽性者登録センターの案内を受ける。

38.9まで上昇した熱は下がらず。パルスオキシメーター97。発熱、咽頭痛、痰、悪寒、頭痛。14:30にいつものネットスーパーのおじさんが来てくれるがインターホン越しに、今は話せないから置いてくれと頼んだ。おじさんが帰ってから、届けられたばかりの雪見だいふくのごく小さいのを3つ食べた。

暇なので体温を測ってしまう。38.8から、39.4まで上がったのが17日のピーク。


▼8月18日(木)発症三日

激烈な喉の痛みは昨日よりあるが、起き抜けの体温は37.3まで下がる。

調子の良いうちに風呂に湯を張り、洗髪と入浴。閉めたままのカーテンの向こうから雨の音が途切れず聞こえるので洗濯はしない。

その後36.9まで落ち着くなどし、会社とのメールやり取りも進める。食欲が特になく固形物ではなくゼリー、果物を食べる。アイスクリームは重そうなので今日は控える。

火曜朝に出していた唾液検体では時期が早すぎたこともあって陰性だった。にわかには信じがたく、また何か証明書がないといろいろ困る、と思い、病院紹介ダイヤルにかけて近所のクリニックを20:15に予約。

16:00 平熱近くまで下がったのがまた38度前後を行き来するようになる。熱っぽく怠い。

17:15 38.2、その後38.3まで上がって病院の時間まで何とか少し眠ろうと思うが、1時間半ほどで目が覚める。都の案内者には「公共交通機関はなるべく避けて」と言われていたので、私的交通機関であるところの自転車で行こうと決める。何とか運転もできるだろう。

なんとか時間をやり過ごし、予約時間にクリニック到着。外で診察するから中には入らないでくれと言われていたので、まず到着を知らせる電話。先客の付き添いがベンチを占領していたのでクリニック横の道端ににへたり込んでしまった。しばらくすると医師がガレージに招き入れてくれ、医療用抗原検査。これは自分で鼻腔を拭いとるもので「しっかり取らないと陰性出ちゃうから、しっかり取って」と言われる。見た感じ、声の感じ、様子の全てで私が陽性なのはわかるのだろう。そのかいあって、即座に陽性が出る。あっさり出てほっとした。解熱剤、喉の痛み軽減、痰切り、咳止め薬などももらって帰る。帰宅後すぐに厚生労働省からのSMSが来た。

 陽性が確定したので、バレエの先生にもお詫びとお休みの連絡メールを書いて眠る。

 

▼8月19日(金)発症四日目

喉の激痛で1時すぎから断続的に目が覚める。まんじりともしないまま明け方5:00過ぎから仕事のメールをいくつか書く。夜通し回していた洗濯槽のクリーニングがやっと終わる。声はかなり出にくい。

一眠りして8:53。体温は38.4。洗濯機を回してみる。二度目の宅急便が母から届く。飲料多めで何ものどを通らない身としてはありがたい。母が何度も電話をしてくるので、声がほとんど出ないから閉口した。

厚生労働省からのSMSに従ってシステム登録をする。眠るとストーリーの入り乱れたおかしな夢を見ながら眠る。

昨夜内科で処方された薬のおかげで喉の痛み、たんの絡みは少しましになるが、痛いことに変わりは無い。発熱は午後に至るまでずっと38度を下回らず。14:08時点で38.2。以降そのようなラインがずっと続く。

悪寒が強くなったので湯たんぽをつくる。不思議と良く眠れる。

ゼリーは飲みこめるがプリンとアイスクリームは吐く。甘さと濃度の問題なのだろう。喉の奥のひどい炎症のせいで、何を飲んでも苦みを感じる。体温37.7を確認して就寝。テレビ、YouTubeのたぐいは見る気が起きない。ラジオなど音声メディアは聞くことができる。


▼8月20日(土)発症五日目

ついにいっさいの声が出なくなる。昨日までわずかにここに残ってくれていた私の声も、どこかへ避難してしまったようだ。すかすかささやき、テグスのような細さの糸で空気を震わせるのが精一杯である。熱は下がり、36.6となる。今日の夜上司は米国へ出張へ出る。そう思うと同行はとても無理であった。13:48 ちょっと顔が熱くなってきたので測ると37.3。36度代との違いは大きい。14時過ぎにまた37.4でそこから貼り付き。午後になると上がる傾向なのだろうか。熱はあるが、レッグウォーマーにひざ掛け、長袖のパジャマを着て、籐椅子でかぎ針編みをはじめるくらいの落ち着きは取り戻した。固形物は受け付けず、むしろゼリーの中の果物も食べられず、水とナトリウム飲料を混ぜてひたすらストローで吸っている。ちょうど医療保険担当者から連絡が来たので、自宅療養でも出るという入院日額給付について尋ねる。37.5から張り付きで今日も日が暮れる。深夜1:21に目が覚め、習慣で体温を測るも37.1のまま。今ひとつ調子出ず。


▼8月21日(日)

発症六日目にしてようやく少し底を打った感。喉の痛み、微熱の気配はあるものの、声以外はだいぶ元に戻ったような気がする。声はスカスカで大変小さい。起きたときの体温は36.6から37度前後。編み物などをしたい気が起きる。10:00前後で、37.3ある。横になる。ここから午後までうとうとするが、毎週見ているお昼のテレビ番組がないのでまた寝る。長袖のパジャマで汗をかく。適当な時間にゼリー飲料、ナトリウム飲料、水を取る。小さいハーゲンダッツも食べた。マルチパックという、コンビニで売っているよりもっと小さいハーゲンダッツである。かわいいので心の慰めになる。編み物をやってみたが毛糸が絡まってあきらめ、残りの毛糸もろとも、まるごと捨ててしまった。36.7を確認して就寝。


▼8月22日(月)

7:30起床、体温36.8。起き抜けにかなり咳込む。コーヒーを飲んでみるがマグカップ一杯飲むのに午前中いっぱいかかる。声と食欲がとにかく戻らない。17:00の時点でやはりまだ37度。平熱と行ったり来たりといったところである。夕方以降は37.3まで上がることもある。かぎ針編みを再開する。夕食に粉末タイプのスープと、薄い食パン(10枚切りの1枚)を食べる。友人がプライベートな音声データで励ましてくれて、非常に心強い気持ちになれた。


▼8月23日(火)

夢見が悪い。まだ見知らぬ人に期待したい願望が自分にもあるのかと考えながら起床。体温は36.6。平熱に戻ってきて、声も少しずつ出るようになる。しかし療養期間、日ごと体力が低下してゆくのを感じる。風呂を沸かす。体を流す気力体力は幸い毎日あったが、三日ぶりの洗髪と入浴だろうかと思う。相変わらず疲れやすくて食欲がない。無調整豆乳のオートミール粥、コーヒーを食べるが胸焼けする。ベッドパッド、シーツを洗濯して干すまでは元気だった。12:30ごろ、体力が尽きて横になる。しかしまたもや食べたヨーグルトで胃がもたれ、気持ち悪い。寝付けるわけでもないので、起きて少しかぎ針編みをしたりするが気持ちが続かない。18:00前に卵粥を食べて、活動限界。体温37度。咳き込むたび身体の熱を感じるのがつらい。

やはり夕方は37.2度まで上がる。結局37度台が4日間続いているとも言える。母が玄関越しに白米を届けてくれた。


▼8月24日(水)

平熱で目覚め、午前中をやり過ごして昼前に微熱を出しながら一日乗り切る流れが定着。体力は戻らない。ビブラートの効いたような状態ではあるが、不安定な発声が戻りつつある。ストレッチ、アラベスク、パッセバランスなどをやってみる。腸腰筋の疲労が取れて、もしかしたら身体の柔軟性は左右対称になっているかもしれない。22日前後の、バレエの先生とのメールやり取りを見返しながら現実味のなさに、ぽかんとしている。「31日から復帰したい」と自分は一応言っていたが、復帰して何がしたいのか、いやもちろんバレエである、しかしそのことが理解にうまく繋がらなくて呆然としてしまう。誰が、どこに、何のために復帰するというのだろう。


▼8月25日(木)

アイスクリームは喉が焼ける。午後は14〜15時にはだいたい37.2度出てしまう。夕方から続けて眠って連絡がつかなくなり、母を心配させる。起きた合間に電話を折り返したが、そのときには夜9時を過ぎていた。ストレッチは諦めて寝続けることにする。だってこのときは、自分がもうバレエを踊りたいと思う日なんか来ないだろう、何が良いと思って舞台芸術を知ろうとしていたのかまったく思い出せない、と思っていたから。演劇はともかくとして、私は本当にバレエをやっていたのか? あの自分と今の自分がずいぶん隔絶されてしまって全然思い出せない、と本気で混乱していることを、やっと考えはじめて、絶望して、眠るしかなかった。バレエの先生の顔も何だかおぼろげな記憶になってしまった。


▼8月26日(金)

目覚め36.6。アメリカの上司から陰性の連絡がきて、ほっとする。仕事ではないがそれ以上に重要(と言える)メールのやり取りに疲れきって10:30には37度を超えてしまう。どうせ効かないけれどカロナールを飲んで、パソコンは切る。



<療養期間10日間を終えての簡単な所感>

典型的な症状はいくつかあれど、重さは本当に人それぞれ、ひとりひとりのものである。この傷の個人性と、人生観に影響を及ぼす感じは、災害や戦争の体験と少し似ているのではないか。帰還した人間が何も話せない状態とたぶん今、少し似ている。誰も同じ目に遭ってほしくない思いは強くある。でも、話してもわかってもらえないならあの時のつらさは人に話したくない。


 

▼8月29日(土)

バレエが好き、と夕べ急に思った気持ちが、朝起きてからも残っていたことが嬉しくて泣いた。夕方、地下鉄に乗って職場に行ってみる。少し作業をして20時前後に帰宅。


 ▼8月28日(日)

感染して以降、はじめてバリエーションの振りをさらってみた。そうできる体力が戻ってきたからとも言えるし、さらってみたいと初めて、そうこの12日間で初めて思えたからである。

 

▼8月29日(月)

以降出社。弱りきって疲れやすくなりすぎた自分の体を何とかオフィスまで運ぶ。運んだら終わりたいぐらい、それだけで疲れてしまう。余計なことを考えさせてくるものがあまり視野にいないのは良い。

 

▼8月31日(水)

出社三日目。まだ朝一36.8度ほどある。微熱は一週間以上続いたが、徐々に退いていくのだろうか。今日からバレエクラスに戻る緊張のために昼間からずっと手が冷たかった。息切れが不安だったが、プティ・ジャンプを少し休んだだけであとはついていくことができた。ピルエットは回って降りるときに着地がかなりずれた。


そこから後に1週間ほどかけて体と心のリカバリをし、再び踊るモチベーションを取り戻すことになる。そうして誕生日を迎えたころの私は、憑き物が落ちたように、視界がクリアだった。


▼9月28日(水)

久しぶりに日記。朝夕に微熱が出る症状は残っていて、長く喋るとのども痛むので何かの炎症反応が続いていることを感じている。微熱の収まる時期はまだ予想がつかない。


2022年1月31日月曜日

2014年7月10日

 この時間の電車には、帰り道の高校生がたくさんいて、絶え間なくしゃべっている。時々、部活の先輩を見つけては挨拶したりしている子もいる。「子」もいる、などと今書いたが、高校生たちを「子」と感じるようになったのはいつからだろう。

私の母校では、うるさくするとすぐバスの乗客から学校に電話があるので(とてつもなく目立つ制服なのだ)しょっちゅうバスの中での沈黙キャンペーンみたいのがあった。正直、うっとうしいとしか思わなかった。私はバスの中では静かにしているつもりだったし、大勢で帰る(=そういう友だちがたくさんいるタイプの)子どもでもなかった。でも今はわかる。子どもとは、そこにいるだけである種のむせかえるような音波を発している。それは弱った大人にはてきめんに響く。
高校生のころはあんなに喋ることがあったはずなのに、今は家でもどこでもほとんど黙っていて、話すことがあんまりない。今は日ノ出町のカフェでひとりぼやっとしていて、隣の席の小学生が親に「あたし幼稚園のころとは違うんだから!」と力説するのを聴いている。少女よ、君の何倍年を取ろうとも、私はあのころとは違うって、思い続けて人は生きていくみたいだよ。

2021年9月12日日曜日

情景とストーリー(2021.08.29)

青木さんはなぜ今、車の免許を取ろうとしているのだろうと思う。機会を逸し続けて今決意したのか、何らか必要に迫られているのか。ともかく青木さんは学科教習のあと(おそらく食事の時間を挟んで)第一回目のリハーサルとなるスタジオにやってきた。マーチに向けた資料、音源を放り込むGoogleドライブもでき、私はそれらをのぞき込みながら創作の準備段階のスープのようなものの匂いをかいでいる。

青木さんと宮永氏は先日おこなわれていたフジロックフェスティバルの配信について盛り上がっていた。「三日三晩YouTubeを付けっぱなしにしていた」と熱く語る青木さんの言葉を、後日友だちのフジロック愛好家に話したところ「や、フジロッカーみんなそんなもんやったよ」と返ってきたのでやはりそういう熱量が音楽人にはあるのだと思う。私自身はオリンピックも世界バレエフェスティバルも、なぜ能天気に楽しめる人がいるのかわからなくなっていて、というか楽しんでいいのか、どう振る舞っていいのかまったくわからずに、この時期は硬直していた。前述のフジロック愛好家は「わかる。配慮しきった人が軒並み今崩れてんねや。年末年始もゴールデンウイークもオリンピックのときも、ずっとずっと黙っとったアーティストが、フジロック開催で崩れたのをわたしは見た」と言っていて、その会話を交わしたはこのリハの日よりあとのことだったから、つまり8月29日時点では私はまだもやもやを抱えていて、でも青木さんと宮永氏がフェスティバルを楽しんだ様子を知ることができて、ひとりだけの霧が少し晴れた。東京パラリンピック開会式も同月24日におこなわれていて、ウォーリー木下さんとか蓮沼執太さんとか、見知った顔が並んでいたので少しリラックスしてそれについて宮永氏と話すこともできた。

さて練習である。今泉仁誠さんのつくった合唱曲「オリーブ」を歌うことになっているので、パートに分かれて音程を取ってみる。女子高だったころの音楽の授業しか経験のない私には、混声合唱が初めてだ。パウンチホイールは高校の合唱部が母体になっているバンドなので合唱には強い。「オリーブ」の伴奏ピアノは和音とアルペジオの組合せが浜に寄せる波を思わせる。

私は、坂手に住むある夫婦のことを歌にしたいと申し出て快諾してもらったのでそれを練ることにして、そのあとは街の紹介ラップづくりのためにホワイトボードに案を出しあう若人たちを見ていた。今夏のみなとまつりを訪れたこゆっきー主導で、島の新鮮な印象が次々語られるのがまぶしかった。

まだ上演の全貌は固まらず、ストックの曲やレパートリーをさらったりもする。神戸港と坂手港を結ぶフェリーの中で流れる「二人を結ぶジャンボフェリー」を初めて聞いたときはなかなか衝撃を受けたものだったと思い返す。海で隔てられた遠距離恋愛を描いた歌謡曲だが、瀬戸内海の穏やかな雰囲気と相まって知らないうちに忘れがたいものとなってしまう名曲である。しばらくは歌が流れ始めるとすぐに下船準備をしたものだったが、慣れてからは、早く列に並んでもしょうがないし、港に船を舫うまでには時間があるからワンコーラスほどは聞き流すようになった。私は夜行便で早朝に坂手に着くスケジュールが多いから、この歌を聞くと否が応でも目を覚まさねばという気になる。

ちょうど10年前、『わが星』を成功させて『朝がある』を生み出す手前だった、ままごと主宰の柴幸男にインタビューしたことがある。同人誌向けのインタビューで今は私の手元にしかない冊子だがそこで彼はこう語っている。「やっぱり死ぬこと、生まれることのどっちかだったら感動する。両方体験したことある人いないんで。だからちょっとでも動くと、感傷に引き寄せられちゃうんですね。いて、いなくなると人は"いなくなった"ことに感動できるんですよ。」その言葉は折に触れて思い出している。訪れる。また離れる。別れがもたらす時間の有限性に感動する。でも島には、そこで生まれて生きて死ぬ人がいる。その何にも起こらない様子を、私は書き留めたい。一瞬のきらめきを、肌寒さを、通り雨を閉じ込めて、時間が流れなくても感動したい、のかもしれない。

始動(2021.8.15)

9日にグループラインが早くも整備されてしばらく経っていたが、今日、まとめ係を担当することになったほんなつから全員向けにやりたいことを募るメッセージが来た。26歳を昨日迎えた、とメッセージの余白に書いてあってそれで私も自分の26歳のころのことを思い出してみた。しかし12年前の自分はシステムエンジニアの業務に追われすぎて、いったん体内ミトコンドリアが崩壊するがごとく演劇創作から遠くなり、ようやっとフィクションの文章や人に読ませる観劇記録を細々書く覚悟を決めたというかその業から一生逃れられぬことに悠長に絶望していた頃だったので、めぐまれた早熟の才というものは見ていてとてもすがすがしい心地がする。

青木さんは、2014年に小豆島・坂手で上演されたおさんぽ演劇『やねにねこ』の余韻を今も胸に熱く持っていて、その主題歌を作りたいと言っていた。初期衝動をそのかたちのまま持ち続けるのは青木さんの素晴らしい美徳である。たいていは時の風に吹かれてさらさらなくなったり、自我が邪魔をして姿を変えたりしてしまうものだから。

それで18日の夜、zoomで顔合わせをすることになった。「夕飯を食べてから20時スタート」という青木さんの言葉で、青木さんは食事をとても大事にしているんだなあと思う。この言い回しはあとあとも使われ、前述の仮説を補強していくことになる。そういえば4月に下北沢のスタジオでメンバーとライブのリハをしたときも、青木さんはよくラーメン屋に寄ってから来ていた。私は、食と命に頓着がないので平気で「ゼリーだけ」というカブトムシみたいな食事とか、「フライドポテトだけ」という家畜豚みたいな食事をしてしまう。生きることを大切にしたいと青木さんにはよく思わされる。

打合せにはこゆっきー(パウンチホイール)を除くメンバーが参加し、9月末に島に滞在する予定を確認したり、宿泊場所の手配などを検討したりした。既存の曲と、あらたに作りたい曲のアイデアを自由に出して、とにかく幅を広げる。宮永氏から「島で生まれ育った人と一曲作りたい」という言葉が出て、それは島の外から来て一過性の音楽を奏でて楽しい時間をつくるだけのことではないから、とても良いだろうと思った。

演劇は楽しい。音楽も楽しい。あまりにその作用が強く、あとに訪れる悲しみを忘れてしまうほどに楽しい。日常に光を当て、つかのま輝くのが嬉しくて、光の消えたあとのことまでなかなか形に残せない。私たちは旅人だ。自分たちが去ったあとにもそこで暮らす人たちに、敬意を持っていることをずっと忘れないでいてもらえる、そんな曲をつくりたい。とにかくそれだけを強く思った。あなたたちの暮らしのにぎやかしではない、どうせ自分たちのことを忘れると思われたくない、それを示した上で忘れたり忘れなかったり、変わったり変わらなかったりしたい、そういう恩返しを、したい。

その後グループラインで調整が進み、8月29日に下北沢のスタジオで一度試しにリハーサルしてみることになった。いずれも手練れの音楽家たちだ。集まれば音が生まれるだろう。

あなたもマーチに(2021.8.9)

ほんなつと映画に行った。彼女の誕生日が近かったのでアイシングクッキーをいくつかデパートの地下で買って、待ち合せの場所で待っていた。映画は中国の古い伝承をモチーフにしたもので、主演声優も主題歌もとてもよかったし、私もほんなつも満足してパンフレットを買って映画館を出た。

そのあと近くのモスバーガーで、軽い食事をした。店には映画の主題歌をうたっていたグループメンバーの等身大パネルがあって、夏のスパイシーバーガーを華麗に宣伝していた。ほほえむことなく、唇の端を引き結んだ表情で夏を熱く彩ることのできる男に私はあこがれる。

ハンバーガーを食べ終えたところで、実は小豆島に行く計画があって、とほんなつが話を切り出した。小豆島で、街にまつわる演劇と音楽のライブをする予定だという。マーチというタイトルで、彼女の所属するバンドであるところのパウンチホイールがこれまで下北沢でおこなってきたシリーズになる。2015年から断続的におこなわれていて、2017年11月24日以来、4年ぶりに創作することになったらしい。昨年から続く世界的な混乱情勢の影響で資金あれこれの都合がつき、初めて下北沢を飛び出してマーチをするのだが、わたしは小豆島に行ったことがないのです、と言うほんなつの話を聞き終わらないうちに同行やら共作やらすべてを含めて承諾していた。詳しくはいずれ書くが、ほんなつにも島にも恩がある。

パウンチホイールメンバーの青木拓磨さんと小豆島の縁は深い。2014年の「港の劇場」での音楽活動をわたしは観ていたし、その母体となった劇団ままごとの活動にその後青木さんが携わる場、たとえば横浜の象の鼻テラスにもよく居合わせた。歌う人、奏でる人のことは、演じる人のことを眺めるよりもっと遠くから、畏敬の念をもって見つめてきた。そんな彼らと私の言葉が、重なる日が来ようとは。5年前の夏に過ごした時間で得た劇団ままごとへの深い感謝はもはや私の血肉となり、それがかつて自分から切り離された恩義だったことさえもう区別がつかないほどになっている。今なら、青木さんがままごとを通して感じ取った演劇と音楽の交差する可能性を、私もすこしは理解でき、力になれるような気がする。そう思ったし、自分も島には行きたいし、ほんなつに見せたい景色はたくさんあるし、それですぐに承知したのだった。

ほんなつからはその夜「クッキーおいしかったです!」と連絡が来た。もらったクッキーをすぐに食す、彼女のそうした素直さが好ましい。もうすぐひとつ大人になる彼女の一年に、幸多からんことを。

2020年12月11日金曜日

▼カテゴリについて

日常の記録のほかに、旅をした時は特別に記録をつけています。以下、カテゴリ別に説明を記載。

▼2018シビウ国際演劇祭日記
初めて単独で批評家として招聘していただいた、ルーマニアのフェスティバル滞在記。だいぶ文体が変わっているのが自分でも分かります。

▼2016デュッセルドルフ滞在記
FFT Düsseldorf NIPPON PERFORMACE NIGHTに招聘され、ドラマトゥルクとして会期終わりにドイツを訪ねた時の記録。この2か月前から藤原ちからはひとりでリサーチを繰り返し、本を製作していたので、私のこの日記は、彼が仕事を終えたあとのもので、彼の苦労や孤独を汲み取ることがうまくできていなくて申し訳ないです。フェスティバルの様子やデュッセルドルフの街のこと、毎日のたべものなどの備忘録と思ってお読み下さい。

▼小豆島滞在記
瀬戸内国際芸術祭2016年夏会期に、劇団ままごとに帯同して「喫茶ままごと」の店員をしていた時の記録。劇団員の話はときどき出てきますが、坂手港の人々との交流が中心となっています。文中の固有名詞はあえて統一していないので、最初に出てきたあの人が、次はそれとわからない形で再登場していたりもします。


▼城崎再訪記
2016年7月に、ふたたび城崎国際アートセンターに滞在した時の記録。『演劇クエスト』改訂を目的に滞在しました。昨年出会った人々との関係がより成熟し、「ただいま」「おかえり」と言えるようになってからの日常です。


▼城崎日記
2015年8月に、『演劇クエスト』制作のために城崎国際アートセンターに滞在した時の記録。はじめて訪れた但馬で、だんだん人々との交流が深まっていく様子を書いています。

▼批評家ワークショップレポート
2015年春に世田谷パブリックシアターでおこなった批評ワークショップの記録です。7日間、すべて違う文体で記録するというミッションを自分に課していました。

▼2012年北京日記
2012年6月に、まだ会社員だったころ、北京に出張した時にノートにつけていた日記メモを転記したもの。食べたものの話や、現地法人の中国人社員さんとの会話などの記録。天安門事件が起きた記念の日に北京に居合わせたことは、忘れがたいことです。


▼2012北京再訪日記
同年9月に北京にふたたび出張した時の記録。この年は、反日デモが大変に盛り上がって、危険ではないかと言われつつも、ひとりで現地に送り込まれたのでした。

2020年4月25日土曜日

April 24.2020

振り返りで使うものは以下の通り.

・手帳による予定(手書き)
・LINEの履歴
・Instagram等のメッセージ履歴
・落合陽一のnote(https://note.com/ochyai/m/m41f58d360230)
・登録しているYouTubeチャンネルのいくつか


***
2月の春節の頃から気配を感じていた.バレエクラスで一緒になる人に銀座の宝石商がいて,中国からの旅行者が来ずに需要が上がらない,銀座でも全然,中国の人を見かけないと言うので少し身に迫って感じられた.

2月19日(水)に配信されたnoteで,落合陽一が初めてコロナウイルスによる世界の変化を語り始めた.この頃は単発で終わるのか,シリーズ化するか,先行きの見えない感じ.

2/22(土)ごろには,3月半ばと,4月頭のアメリカからのチーム来日予定が延期・中止検討となり,翌週,ホテルと通訳者に調整を入れるメールをしている.

少ししてから,3/2(月)に予定していた製粉会社との会食が,先方からの提案を受けて中止になった.率直に言えば,その時は「そんなに神経質になることなのか」と思っていた.時を同じくして,4/29(水)から予定されていた製粉業界のチーム訪米ミッションが取りやめになることになり,航空券のキャンセルの手配をした.

2/29(土)になるとだいぶ落合noteの切迫感は増してきていて,美術界を中心にイベントの中止なども相次ぎ始めていた.

3/1(日)には野田秀樹が上演中止の相次ぐ演劇界の不安定さを「演劇の死」として訴えた新聞記事が拡散され,その扇情的な物言いが炎上した.平田オリザがのちに火消しのために大量の液体(たる言葉)をTwitterに注いだら実はそれはガソリンだった……というような出来事もあり,私は,本当に本気で,もうどう思われてもいいから年齢で区切る,50歳以上の人間の言葉に踊らされたりましてや信用しない,絶対に,と誓いを立てた.それくらい私は荒れるSNSに心を痛めていた.ということは今書き起こしていて気づいた.どおりで3月頭から少しずつ会社に行けなくなる日が増えていたわけだ.

しかしこの頃にはまだバレエのレッスンが出来ていた.消毒液をまくおばさまを,少し神経質に感じるくらい.でもこの頃から少しずつ,明確になんらかの影響が表れるようになってきた.自身が観劇を予定していたもので初めに中止になったものは,3/7(土)に予定していた,ままごと『タワー』だった.


***
3/1(日),友人である母子から夕食の誘いを受ける.自宅から3分歩いて最寄駅,7分電車に乗って,5分歩けば着く距離だ.子は休校が突如決まり,4日(水)から自宅にいることになったという.復習ドリルやひとり遊びの時間割などを書いていて,私もまだ気兼ねなく遊びにゆくことができ,児童館や学童はどうなるのかしら,とまだ検討もつかないような疑問を口にした.児童館は閉まるらしい,と噂に聞いた.

3/5(木)には妹から,蘇づくりがブームになっているらしいよ,と面白半分のLINEが来ている.その頃私は,胃炎を繰り返すようになり,時たま会社を休むようになっていた.徐々にマスクなどが品切れを起こし,ボスが,毎朝の階下のドラッグストア開店時の状況などを教えてくれるようになった.

パリ・オペラ座の来日公演がその週末に『ジゼル』,翌週に『オネーギン』と予定されていて,私はチケットを取っていなかったけれどバレエクラスでもたびたび開催を危ぶむ声が上がっていた.既に日本のロックバンドなどは軒並みライブの中止を発表,あるいは強行によってバッシングを受けたりするなど物議を醸していた.無事にオペラ座は終演まで漕ぎ着けたが,今となっては本当にギリギリ,もはやアウトだったと感じている.踏切が閉まりかけているのを走って渡り始め,最後は閉まったバーを手でこじ開けて彼岸へ無理矢理帰ったような有様だった.後になって悪い知らせ(誰かの感染など)として返ってこなくて良かったと思う.

3/9(月)に上司をハワイでの予算会議に送り出した.直前まで台湾,中国,韓国のディレクターたちとも話していたが,東京オフィスのディレクターたる上司だけは現地に向かうことになった.他のアジア諸国は全員キャンセルしたように思う.アメリカ側のメンバーは「別に気にしないから自分たちでどうするか決めたら?(だってアジアの疫病でしょ?)(あとイタリア)」というような雰囲気を出していたのを私は覚えている.同じ日に私は個人的に,イタリアに住む梨乃にメッセージをしており「近くの町が封鎖されたりしてるよ!もうすぐ日本政府はイタリアからの渡航制限もするのかなあ」という返信を受け取っている.

3/12(木)には今年大学生になるという子を連れて六本木にゆき,食事と食後のコーヒーと,乃木坂までの散歩をした.入学式中止や授業開始が遅れる話題はここで出た記憶がない.

3/14(日)には自宅に客人が来た.雪の日だった.このあたりから着実に会社に行けなくなる日が増え,妹に相談などを何度かしている.

3/20(金)にもふたたびイタリア・チェゼーナの梨乃にメッセージをしている.

3/22(日)は花見をした.目黒駅から目黒川沿いを歩いて中目黒駅まで行った.


***
次の週あたりから,体感として日を追うごとに状況が悪化していく一途となる.

3/24(火)には今年大学を卒業する人を祝いに出かけた.高田馬場駅から神田川を歩いて早稲田駅まで行った.

3/25(水)は夕方に心療内科に行った記述が手帳にあるから,おそらく会社は休んだ.

3/26(木),31日に予定されていた岸田國士戯曲賞の授賞式の中止が白水社から発表される.急なことであった.直前まで模索が続いていたのではないだろうか.

3/27(金)に配信されたマガジンでは,落合陽一が初めて「アフターコロナ」から「ウィズコロナ」と用語を使い替えている.この日のバレエクラスの後,先生が誘ってくれて4人で中華料理屋に行った.明日も来週も踊りたい,そんなふうに願っていた.緑ヶ丘の中華料理屋は週末だから人がいっぱいいて,そんな風景を,少しずつ不謹慎だなって,いや不快だなって,そっちに近い方の気持ちで見るようになっていた.自分たちはおなかがすいたから来たのであって,週末の憂さ晴らしにここに来たんじゃない,と思った.

妹に上司と話し合いに行ってもらい,私の精神疾患の話などをしてくれた報告を聞いたのが3/29(日)だった.本格的にテレワークに切り替えを命じられた矢先のことだった.そして3月の終わり,ひとりのコメディアンがコロナウイルスによる肺炎で死んだ.

4/1(水)は職場に復帰した.しかし帰宅途中,東横線でバレエの先生から,4/13までの全クラスを休講にするむねメールが入り,マスクをしたまま初めて,コロナの影響で何かが中止になったことで,泣いた.その夜はEnglish National Balletのタマラ・ロホによるオンラインレッスンを頑張った.

4/2(木)も職場に行く日にしていて,上司は休みの予定で,しかし私は寝坊をしてしまった.8時半近かっただろうか,とりあえず可燃ゴミを出さなければと焦り,赤いチェックの寝巻きにネイビーのハイヒールを突っかけて,部屋を出たのがいけなかった.その赤い寝巻きは,2013年6月だか8月だかに西荻窪のマンションの階段で同じシチュエーションで足をすべらせた時にも履いていたから,もう本当にハイヒールとの相性が致命的なんだと思う(でも妹のニューヨーク土産だから,捨てるわけにはいかなかった).そのままアパートの外階段を,いちばん上から下まで転がり落ちた.頭の中で一瞬にして西荻窪での失敗がフラッシュバックし,ああやっぱり私って会社に行けなくなる時は朝のゴミ出しで階段から落ちるようにできているのか,いやでもこれいつ止まるの,うわああ,と思っているうちにコンクリートに打ち付けられ私は止まった.駅に向かう女性が3人ほど手を差し伸べてくれて,ゴミを持って行ってくれたりした.私は立ち上がって,本能的に流血がものすごい量になっていることを悟ったが,骨は折れていない,捻挫も大丈夫そうだ,と冷静に考えた.経験から言って,必ずこれは,すごい量の血が出ている.間違いない.一刻も早く室内に戻り,対応しなければ.救急車を呼んでくれるという女性に丁重に礼を言って,ハイヒールの中が温かい血で濡れていくのを感じながら部屋まで戻った.玄関で手を伸ばして,なんでもいい,タオルを取り,床に敷いてから靴を脱いでその上に乗った.タオルを引きずるようにして部屋の中に入る.とにかく血が止まらなかった.でも何度も言うけど,私は過去にも精神状態が劣悪になった時には階段から落ちたり転倒したりして,たくさん血を流してきたから,どうすればいいかは分かっていた.それで救急外来で近くの総合病院の整形外科にゆき,ただちに傷を縫合する運びとなった.深かった右膝の傷は骨まで到達していたらしく,内側を3針,表面を5針.左膝はそれよりは浅く,3針.左半身を大きく打ち付けたようで,左腕の打撲,擦過も酷かった.首も軽く捻挫した.骨折と捻挫がなければ,傷さえ塞がればまたバレエができると,局所麻酔での施術を受けながら思った.包帯でぐるぐる巻きにされて終わり.夕方ごろ,よくよく舌でさわってみると左の前歯がすこし欠けていることに気づいた.

4/3(金)も,整形外科で傷を見せる.痛みによって背中にも擦過傷があることに気づいたが捻挫のため首が回らず自分ではよく見えない.孤独とは,背中の傷の様子を見てくれる人がいないと言うことでもある.そんな中,星野源がInstagramに「うちで踊ろう」の投稿をした.生まれながらにパンデミックを運命づけられた呪われしポップミュージックの誕生だった.

4/4(土),駅までのろのろ歩いていって電車に乗り,歯医者に行って前歯を治してもらう.

4/5(日),クレマチスを2鉢買う.ジゼルとミルタと名付ける.会計をしながら私がミニバラの白とピンクの鉢を物欲しそうに見ていると,花屋の親父は「入学式も何もかんも中止でさあ,売れないよ」と嘆きながら黙ってその2つも袋に入れてくれた.白をシルフィード,ピンクをジェームズと名付けることにする.

そこからは怪我のための自主的な運動制限と,ウイルスによる社会的外出制限の区別が判然とせず,植物の世話や読書などに明け暮れるようになる.会社には週2回ほど赴き,封書の整理などをする.毎朝のマーケットチェックメールなどの送信は自宅からも行える.



***
4/24(金)もいつものように自宅勤務していて,昼間散歩に出た.人通りは少なく,しかしあまりに天気がよくて,ああ外出制限や死者が続出している世界はもしかして夢なのではないだろうか,人類の悪い夢,と考えながら自由が丘駅の方までゆき,ほとんどの店が閉まっている,あるいは短縮営業でしかないのを確認してから,園芸用の土を3キロと,ばらの花を買って帰宅した.それで夕方,とつぜん気持ちが溢れた.陽性で苦しんでいる人間がすぐそばにいて人ごとではない,と思った.怖いと思った.何が? と考えて,自分の死をコントロールできないことが怖いというのが言葉にするといちばん近い.しかしその考えは,じゃあ私は自分の死をコントロールしようとしていたと言うのか? という疑問も同時に連れてきたため,夜になったら友達に電話しようと思う.

私のかわいい弟,いとしい弟.お前をこんな疫病で死なせるために育てたわけではないのだ,医師になれるよう願って社に詣でたわけではないのだ,国家試験を受けてすぐの早い結婚を祝福したわけではないのだ.何もかもお前の未来,長く続く人生を思えばこそなのに,

2020年3月15日日曜日

恋愛問題集(酸いも甘いも大人のたしなみ編)

問1
恋人を信用することと信頼することの違いについて、具体例を用いて説明せよ。

問2
「あなたのことが好き」という文章と同じ意味のものを選べ。
1.こっちに来ないで。
2.あっちに行って。
3.もう嫌い。

問3
いちばん美しい愛の終わりの言葉は次のうちどれか。
1.今まで本当にありがとう
2.これからも友だちでいよう
3.二度と会わないようにしよう

次のうち、人生で避けるべきものはどれか。
1.罪な男
2.危ない橋
3.ずるい女

次のうち、自分自身で選べるものはどれか。
恋の終わり
恋の始まり
結婚相手

あなたの心に響くものは次のうちどちらか
自分を好きでいてくれる人の優しい言葉
恋した相手のそっけない一言

問4
次の英文を日本語に訳せ。
Love is not enough.
1.十分に愛されていない。
2.愛は十分足りている。
3.愛だけでは十分ではない。

2019年9月24日火曜日

祖母の長兄からの手紙

祖母の、戦死なさった兄がお書きになった手紙。(戦後、兵士たちの遺稿集として「群像」に掲載されたもの)

 



***

敬夫へ。

 先日は外泊の折皆の元気な姿に接し兄として嬉びこの上もないものでした。

 今日はお前に私の考へてゐること及びお前に言つておきたい事を、東京行の列車の中で書きます。よくよく熟読玩味して下さい。兄さんも学校に居る時は、自分の力を少くとも他の学生達の如くにでなく、自分の思ふ方向に対して向けてきたと今でも自覚してゐます。先日お前の買つたといふ本を見せて貰ひ、お前の勉強の対象が、私のそれを同じものに向けられてゐることを見て、一面嬉しさを禁じ得ないとともに反面ある意味での怖しさに駆られました。

 まことに現代の学生の宿命とでも言ふべきものを感ぜずには居られません。

 矛盾を社会の機構の中に見出した時、若い血が命がけでそれを解決しようとする。その姿は美しいものです。その姿はたゝへられねばなりません。命がけでやることに何で悪いことがありませう。

(中略)

お前は史学に専念すると言ひましたね。歴史を読む事は良い事です。人間が今迄に経てきた足跡を静かに想ひ、その中から、社会を歴史を世界史を人生を観照し、その中から自己の使命を見出すのです。

(中略)

もう少し現実的であれ。学校の机上の空論から離れた本当の勉強に入る様お願ひします。また少しむづかしい事を書いてしまひましたね。要するに私が軍隊に入り学生生活と比べてみて感じた事を書くのです。軍隊という処は一口では云へないが、とにかく愉快な場所ではありません。しかし、それが如何なる批判をうけると受けぬとに限らず、それはこの社会に現実に存在するのです。だから云ひたい事は、お前が正しいと信じた事も、正しいと想つた様には行かないのです。お前も坂梨と同様に素直な境遇に育つた人間なのです。少くとも私と同様に社会の逆境の中に居らない人です。

 前置きが長くなりましたが、具体的な事を書きます。現在の日本を見ながら、現代の学生の仕事はいさゝか変化したのではないでせうか。学生が学生の本分のみに専心するには余りにも慌しき社会をみます。それでお願ひします。私のゐない家の者の、男の子のお前が中心となり、自分の身辺の者の為に動く様にして下さい。お前には未だ未だ解らないと思ふが親の愛と云ふものを痛感するのは自分が逆境に入つた時始めて解るのです。

 どうか、父母上に、

「また機会ある日に」知子にたくす。

2018年11月7日水曜日

11/3/2018 シビウ演劇祭報告会にて

初めまして。

お手元に写真をプリントした物をお配りしておりますのでそれにそって、今日これまで発表されてきた方の話とは違う方面から、ルーマニアについて、シビウについて、文化についてどう考えるかお話しようと思います。

まずは今年の演劇祭滞在にお声かけくださった、北川大輔さん、谷口真由美さん、ありがとうございます。

あっ、実は今日着ているこれ、ルーマニアで買った服なんです。海外では、そこのもの買ってみる、着てみる、みたいなのことを私は結構大事にしてまして。この白いワンピース、一目惚れして買ったんですけど、日本だと着どころがないから(笑)。あとは、シビウの街でこのストールかぶって歩いてたら謎の家族に絡まれてごはん3000円くらい奢らされましたけどね。ストールは50レイでした、安いでしょ。赤、黒、白って揃えました。



▼自己紹介
実は私は大学時代、演劇を専門に学んでいたわけではありません。法学部を出てから、ITエンジニアとなって死ぬほど働いたのち、演劇批評やインタビュー記事を書く仕事にたずさわりつつ、フリーランスの演劇批評をしています。

法学部にいたと今言ったのですが、ゼミは国際関係論でして、卒論を、当時拡大途中だったEUをテーマにして書きました。実は私、高校生の頃から東欧革命が大好きで……。

今から説明しますが、東欧革命というのは、1989年に起きた東欧諸国の一連の民主化の革命の話です。なので、ルーマニアはずっと行ってみたかったのですが、何しろ治安が悪い。シビウはそんなことないんですけどね。だからほぼ15年〜20年越しに念願かなって、初めてのルーマニアに行ってきたというわけなのです。

これは現地の人から教わったのですが、私の名前のochiというのはルーマニア語で「オキ」と読み、「目」という意味だそうです。とってもいいですよね。それを聞いた時、この目を使ってきちんとルーマニアの風景を目に焼き付けないといけないなっていう思いを新たにしたのを覚えています。


▼ルーマニアの歴史
共産主義時代のルーマニアについて、国際政治専攻だった私から少し解説します。

シビウ演劇祭が25周年ということは、始まったのが1993年になりますね。ルーマニア革命が1989年なので、シビウ演劇祭は革命からわずか4年後に始まっているわけです。それがどれほど大変なことだったかは、想像を絶するものがあります。そして25年……四半世紀、ひとつの演劇祭が続いてきたということは、人ひとりが大人になって余りある時間が演劇祭とともに刻まれてきたということになります。

1989年がどんな年だったかというと、まず6月4日に天安門事件がありました。未だに中国では6月4日の天安門の警備はとても厳しいです。話が逸れて申し訳ないけど、当時の仕事で付き合いのあった40代の中国人部長は、中学で習ったのはロシア語だったって言ってましたね。中学生が英語習うのと同じ感覚で。今(の中国人の中学生)は英語やってるらしいですけどね。

だからまず私は、シビウの街中を歩きながら、ボランティアをしている子供たち、遊んでいる子供たち、パフォーマンスに出演している子供たちの姿を見て、「この子たちは革命を知らないのだ」「独裁者であったニコライ・チャウシェスクを知らないのだ」と思ったんです。だから、ボランティアが、人のために働くということが、文化芸術が、欧州三大演劇祭として人々の中に浸透するまでに、どれほどの人々の尽力があったかは想像してもしつくせない。10日あまり滞在しましたが、それは毎日考えていましたね。

ニコライ・チャウシェスクという独裁者は1964年に大統領に就任し、89年に失脚するまで、24年間、独裁体制を敷いていました。だから、今年シビウ演劇祭が25周年を迎えたということは、初めてその長さを超えて、シビウ演劇祭が独裁に勝利したと、そういうことだと言えるんです。

チャウシェスクはね、息子が(体操選手の)ナディア・コマネチを無理やり愛人にしてたとかそういう話もあります。それでコマネチはアメリカに亡命したんですけど。とにかくそういう話には事欠かないです。

ルーマニア革命のもう一つ重要なことは、一連の東欧革命の中で唯一、人々の血が流された、死者が出た革命だったこと。89年の夏ごろ、ポーランドでの革命を皮切りに、東欧では次々と共産政権が倒れました。

ルーマニア革命は、シビウよりもうちょっと大きい、ティミショアラという街で起きた、今思えば小さな市民暴動が起きたのがキッカケとなって起こりました。その鎮圧のためにチャウシェスクが軍を出し、ティミショアラの人々を弾圧しろと命令した。そこからドミノ倒しです。ティミショアラの市民鎮圧に反発した、ワシーリ・ミリャという国防大臣が銃で死んだのが、数日後に発見されました。その真相は闇の中なんですがそれがチャウシェスクの粛清だったんじゃないか、許せない、という鬱憤の溜まっていた軍部の独走による、一種の集団ヒステリーで国が倒れました。

半日であっという間に大統領夫妻は捉えられ、即日、銃殺されました。2018年現在では、そんなことなかなか、考えられないですよね……。

ちなみにシビウ演劇祭で上演されたシルヴィウ・プルカレーテの作品『スカーレット・プリンセス』にあった、権助が引き回しのうえ銃殺される場面は、チャウシェスク大統領夫妻の暗喩で間違いないです。なぜかというと、それだけ共産主義の時代に弾圧されてきた演劇人が、銃殺というモチーフに無意識であることは有り得ない。

……というようなことが、様々な知識とあわせて観ると、鑑賞可能になるわけです。

ちなみにルーマニアの貨幣はレイ(レウ)、バニです。ルーマニアは、2007年にEU加盟してますけど、財政状況がまずいんでユーロは許されてません。来年導入予定らしいけど、EU幹部と言えるドイツやフランスは、ルーマニアのユーロ導入どころではないかもしれません。


▼キリヤックの言葉
正式に招聘していただいたということで、シビウ演劇祭の創始者であり、現在のディクレターでもあるコンスタンティン・キリヤックに面会する機会があったのですが、その中で私はキリヤックに訊ねました。「革命の余波が残る25年前のルーマニアで演劇祭を始めた当時と、今ではどう違うか」と。

回答の中で非常に印象深かったのは「フェスティバルを始めた当時、夜20時になると街に人通りなんかなかった」と。相互的に監視しあう中で、街中の人がフェスティバルを楽しみ、国内外から人々が集まるなんて、そんなことは有り得なかった。だから、今の華やかな演劇祭の街としてのシビウになるまでには途方もない人々の熱意と努力があったのだと思うのです。


そして、この橋。この橋の上で嘘をつくと橋がくずれるという、「嘘つきの橋」と呼ばれるいうシビウの観光名所です。あ、でもこの橋の上で市長が重要な発表とかするらしいですよ。「本当のことだ!」っていうパフォーマンスの意味で(笑)。

でもね、注目してほしいのは、この背景の屋根にある目みたいな窓。今は可愛い観光名所となっていますが、当時は隣人を相互監視するために使われていたとキリヤックは言いました。共産圏の相互監視はエグいです。隣人の誰も信用できない。すぐ密告されて連れて行かれる。

それでですね、先ほどから何度も話に出ているフェスティバルクラブ(※ナショナルシアターの裏庭でビールなどの屋台が出ており、深夜までボランティアやアーティストが交流できる場所)という場所で、40代の男性に「革命のこと覚えてる?」って聞いたんです。ただ彼は「あんまり覚えてないな。子供だったからなあ。10歳くらいかな。拳銃ごっこがめっちゃ流行った!」って言ってまして、子供ってすごいな、タフだなと思いましたけど(苦笑)。彼はきっと幸福な方だったと思うんです。暮らしていたのがシビウだったというのもあるでしょう。ブカレストだったらそうはいかなかったはず。でも、その彼でさえ「両親からは、家の中での話は外でするなって言われてた」と言ってましたね。

ブカレストに行っていない上に、危険すぎて確認不能のため、見てはいないんですがブカレストでは、今でもマンホールの下で、「チャウシェスクの子供たち」と呼ばれている青年たちがギャング化して暮らしてるらしいです。共産主義時代には国策として出産が奨励されていたんですけれど、結果的に革命後に親に捨てられた子供たちが麻薬漬け、暴力漬けでブカレストの地下に暮らしているんです。

だからルーマニアは今も非常に治安および経済状況の不安定なところであり、良い面の賞讃だけをするのは間違っています。記憶にある人も多いと思いますが、2012年にはブカレストにて、女子大生が強姦殺人で殺される事件がありました。大変心を痛めました。実は彼女は私の母校の後輩であり……だから、今回、私には彼女が見られなかったルーマニアの景色を見るという意味の旅でもありましたね。(※現在は、ブカレスト空港ではきちんとナンバーを確認したタクシーしか入れないなど、対応が取られているようです)


▼日本との違い
皆さん実感されているとおり、文化には力があります。文化芸術の浸透はとても時間がかかるものです。

最初に谷口さんがお話してくださった、オスマン・トルコからの侵略を防いでいた、武力で超えられなかった石の壁を文化が超えるという「民衆の壁」の話はまさにそれを象徴するものです。

そして、写真に戻りますが、これは街中にあふれていたお花です。メインストリートのカフェ、それからナショナルシアターの演目の初日に配られたバラの花です。一輪ずつ観客に配られました。一番下のは、初日だったり楽日だったりに、お花を渡す係の人がいて、舞台上にお花が置かれるんですよね。その自然さ、上演を寿いでいる様子に、私は文化の根付き方の違いを感じました。お花が美しいということは素晴らしいことなんです。花を贈るというのは、あなたがいてくれて嬉しい、すばらしい作品をありがとうっていう意味でしょう? お花が私たちを迎えてくれている。それは、ひいては、街が私たちを迎えてくれるということにつながるわけです。




まあ、ここまで「違い」ってさんざん言ってきましたけれども「違い」を感じるためには、比較対象が必要なわけです。

フェスティバルクラブみたいな場所、普通の日本のフェスティバルにはないです。例外はありますけど。基本的にはない! 22時になったら劇場は閉まる。だから、楽しむ、感動するだけじゃなくて、どうして日本にはそういう場が少ないのかっていう問いを持ち続けてほしいなと思います。
 
そして、この演劇祭専用アプリケーション。これは元エンジニアとして非常にエキサイトしました。チケットの予約、地図、日程まで検索可能で、これを開発してバグ無しで稼働させるのはなかなか、相当頭いい人が関わってる。ユーザインタフェースも素晴らしい。控えめに言って最高でしたね! このレベルのものは、日本では見たことない気がします。


最後に、出会いについて話そうと思います。「素劇 楢山節考」を観に行く途中で、アレクサンドラという女性と一緒になりました。上演後、彼女を見つけたので、声をかけてまた一緒に帰ることにしたんですね。アレクサンドラに、「字幕で『山の神様』っていう言葉が出てきたでしょ。 "God" と書かれていたけれど、あなたたちの神様とは意味が違うの、わかった?」と訊いたら、それは理解できた、と言っていた。「ただ、周りのみんなは拍手していたけれど、so hard story だったから私はとっても手を叩く気にはなれなかった……素晴らしかったけれど!」と言っていて、感受性豊かでとても聡明な女性だと思いました。

『楢山節考』を読んだ方はご存知かもしれませんが、小説の中には、命が惜しくて楢山に行きたくないと泣きわめく老人の描写があるんです。『素劇 楢山節考』では「蟹」の登場する歌が歌われるのみでしたが、実はこの「蟹」、とても恐ろしい意味で、そうして死にたくないと泣く老人の手足の骨を砕き、それでも這って帰ってこようとする姿を揶揄して「蟹」と言っているエグい意味なんですよ。

そのことをアレクサンドラに説明したら「(字幕の)crabがそんな恐ろしい意味だったなんて……」と震えていましたけどね。そういう意味では日本のカンパニーが作品を輸出する時の在り方を考える余地はもう少しあるかなと思いました。

その時、アレクサンドラは黒地に白い小花模様のフレアワンピースを着ていて、素敵ね、と言って褒めたら「でも、この白い花が今はおりんに降り積もった雪に見えるわ。だから今日のことは忘れないわ」と彼女は言っていました。 忘れられない出会いです。


▼楽しいだけではない
最後にひとつ言いたいのは、芸術と政治は密接に関連しているということです。厳しいこと言いますけど、批評をやる上で、無知は罪なんです。政治的な演劇もある、演劇的な政治もある、かつては演劇がプロパガンダに利用されたこともあります。そこは非常に注意深くいてほしい。

楽しいだけではないんです。1989年のルーマニア革命の時の難民受け入れ、確か日本は二人とか、三人とかだった気がします。ふざけてますよね。それって、今の外国人労働者とか移民の問題についてもまったく進歩してないんですよ。

ボランティアは大いに素晴らしい。だがしかし、ボランティアということの意義を問い直し、搾取されていないか、あるいは芸術が誰かを搾取するものになっていないか、自問自答し続けてください。それは東京オリンピックに対してどんなふうにカネが動くか、考える材料にもなるでしょう。

知識同士のコンテクストの繋がりをトレーニングすることで芸術っていうのは鑑賞可能となります。きちんと背景を知ること。知性のシナプスをつなぐこと。アンテナを張りまくること。

今日の会でもいろんな人の思いを知ることができて、本当によかったです。本当に感謝しています。日本のある種の貧しさの中で、皆さんが文化に対してどう動くか、何ができるか、苦しくても考え続けることを芸術の世界では幸せと呼ぶんです。

そしてそれは、もはやシビウ演劇祭に関わった皆さんにも他人事では、ないんです。

2018年6月18日月曜日

二度目の謁見(14.06.2018)

早起きしてしまったので、朝食はひとりで食べた。それから8時過ぎにホテルを出て、嘘つき橋の脇の階段を降り、ロウアータウンへ。
 
ウエディングドレスショップが立て続けに並んでいて、東欧風の、日本の桂由美とかハツコエンドウとかには絶対ないようなナチュラルなヴィンテージ感に、見とれていた。こうした、温かみのあるウエディングドレスなら着たい。
 
ああ、なぜひとりで(ひとりじゃないけど)こんな国に来てしまったのか、何もかもが遠すぎて、でもそれはその何もかもを手放したからであって、そうしてこなかったら今私はここに居られないし出会った人々と出会えていないのに、身体が崩れて煉瓦のひとかけらになってしまいそうな気持ちで上を見上げると、窓から白と黒のネコが二匹、顔を出していた。顔だけでなく半身を乗り出しており、のんびりと優雅に町を監視していた。
 
「にゃー」「ミャオー」など様々な鳴き方を真似して気を引き、シャッターに収める。ふらりと現れた東洋人ももともとのこの町の住民も、ネコには関係ないらしい。

両替所に行くも「9時からしかやってない」と言われる。なお、その時、時刻は9:30であった。ルーズベルト。ルーズリーフ。ルーズソックス。(これは「ルーズ」と変換するにあたり入力ソフトが提案してきた3つの単語である)OK, I'll come back later.
 
しばらくのち、両替は無事できた。古着屋さんにお邪魔してはワンピースを試着させてもらったりする。今日の収穫は、今のところなし。薬局で美容クリームを買えるだけ買う。
ボランティアのGS嬢からランチの誘い。広場奥のカフェでスープをふたつ頼む。私は、グリーンのペーストスープにハードボイルドエッグが乗ったもの。GS嬢はグーラッシュ。たくさん話し合い、よい意見と体験の交換ができた。
その後、14:45TK女史とKM嬢と3人でルーマニアレストランでランチ。チョルバというスープを二つ、サルマーレというロールキャベツ、肉とママリーガの盛り合わせでおなかいっぱい。
 
その後、ひとりで町いちばんの評判のジェラテリアでピスタチオアイスを食べる。ふと、スーパーマーケットの側に、特に私好みのおみやげもの屋を見つける。ルーマニア南部のロマ風の赤いストールを買った。
 
幸運なことに、同行者を探していた人をひとり見つけて "The Scarlet Princess" 二度目の観劇。

初日は歌舞伎の花道の横だったため字幕が見づらかったが、後ろの席の見やすさよ!! 助かる。プルカレーテ、やっぱり展開が早すぎるというか緩急が凄まじい。姫が権助に犯されて子供できてから、生まれたときから閉じたままだった彼女の左手が開くのが原作だけど、プルカレーテ版は逆で、もっと早く左手が開いた。
初日から大きく演出を変えた点は、見あたらない。

でも原作だと権助に犯されてから姫が彼に惚れると思っていたのだが、プルカレーテ版にはそのくだりがなかった。犯される→権助の刺青を見つける→惚れて自分の腕にも刺青入れる、が原作だったような……?

プルカレーテ版は、姫が最初に彼の刺青を見つけ、犯されずに自分で彼を誘っていた。
あとでKM嬢が調べたところ、歌舞伎では姫が権助に犯されたシーンはセリフでしか出てこないらしい。犯された時の快感が忘れられずに、姫は自分から権助を誘って、二人は抱き合う……ということで、プルカレーテ版は歌舞伎版に忠実なのかもしれなかった。
あと、白菊と死に損なって、桜姫を白菊の生まれ変わりと信じてつきまとう清玄の気持ち悪さと変態さもなかなかだった。

最初、白菊と清玄の心中の思い出から始まったため、物語は清玄の走馬灯になるのかと思いきや、生命力溢れる桜姫に乗っ取られてしまった。メインテーマは、恋した男が悪人だった女の業だった。

清玄と再会して恋に落ちる話じゃないのは謎だとかねがね思っていたが、しかし、これは白菊とともに死にきれなかった清玄の情けない人生の結末でもあり、その業が彼を幽霊に、最後には化け物にしてしまったのだ。

そう思うと清玄が、始めからひげを長く生やした老人の風貌だったり、黄色の異様な衣装で現れたり、スマートさをいっさい見せさせてもらえなかったのも分かる。死にきれなかった清玄への、罰の物語というのが裏にある。桜姫が清玄を選ばないからあんなにおじいちゃん清玄が暴走してキモくなるのだ。

毒蛇で死んでなお幽霊として姫にまとわりつき、最終的には祟り神のような全身白いモフモフになって彼は死んだ。じじい、モフモフになって死す。

モフモフは実は序盤で、娼婦になる前の桜姫を襲う役回りとして群れで登場していた。おそらくあれは、男性たちの欲望の根源のイメージ。モフモフは刀を股から出していて、あれは男性器のメタファーなのだと思った。それらモフモフを斬り捨てたのが権助であり、のちに姫は彼に惚れたものの、自分の父と弟を殺したのが権助とわかり、権助との子どもも殺し、市中引き回しのあげく権助を撃ち殺した。

引き回しの場面は、ルーマニア革命で殺されたチャウシェスク大統領夫妻の隠喩だろう。そして権助は、チャウシェスクとおなじ銃殺で死んだ。

この作品では、原作の歌舞伎よりも桜姫が強い自立した存在である。そのように「女性像」を書き換えてくれて、プルカレーテ氏、ありがとうという気持ち。桜姫は、搾取する権助をも討ち取って、自らの幸せを手に入れた。赤ちゃんは、可哀想であったが……。

桜姫の衣装が真っ赤である! という強さを改めて感じた 。最後には彼女はキャミソールドレススタイルの衣装を引き裂き、ブッダのような様相になる。あの強さは、レット・バトラーを手放して、自分の道を歩んでいくスカーレット・オハラにも見え、非常に力づけられた。クライマックス、カーテンコールでポーズを決める桜姫と権助のカッコイイことよ。なお、桜姫は男性、権助は女性が演じた。
 
衣装その他については今後随時追記。

2018年6月16日土曜日

パパとママのために僕は死ぬ(13.06.2018)

13:30より、フォーラムを聞きに行く。街中の、入口の分かりにくい、しかし内装はスタイリッシュな会場。この日のテーマは "Role of the Built Environment Shaping Visitor Experience" というもので、パネリストはディレクターや建築家など様々な職種の人物たち。デンマークのルイス・ベッカー氏、アメリカのエリック・バンジ氏、ルーマニアのアレクサンドル・ガヴォツデア氏、日本からは隈健吾氏が参加。特に印象深かった言葉をいくつか。

ルイス・ベッカー氏による「アイコニックな建築は人々のアイデンティティになる」。

エリック・バンジ氏による「劇場をつくる際、あるいはどこかを劇場と見なす場合に考えるべきことはふたつだ。そこにやってくる人々のこと。そして、コンテクストのこと」。

アレクサンドル・ガヴォツデア氏による「共産主義時代のルーマニアの劇場の建物は古かったが、人々が集まる場所としてはよかった。この20年でかなり改修が進み、(シビウ演劇祭のディレクターである)キリアックが2000年頃から演劇祭を拡大していった。人々が、演劇というものを、(※筆者補足:おそらく何かのプロパガンダとしてではなく)アートとして楽しむようになったのもその頃からだ」。

16:00近くになってから、劇場にゆくTK女史を見送って、KM嬢とファストフード店で遅いランチ。チキンライス、チョルバ・ド・プイ(鶏肉のスープ)を食べる。量が多い。そして美味しい。

17:00ごろ、ホテルのスパでひと泳ぎ。温水プール以上、温泉未満の水温。プール並みの深さがあり、スイッチを押すとジェットバスが動き出したり、滝から水が流れ出てきたり、なかなかのスケールだった。ただし、スイッチを押したものの止め方が分からず、そのまま横のオフィスの人に状況を託してスパを出た。

18:00からラドゥ・スタンカ国立劇場にて Teatrul Metropolis というルーマニアのカンパニーによる "Hamlet, The Prince of Denmark" を観劇。舞台はシンプルなソファ、古いテレビ、そして上手に生演奏のピアノや管楽器、コーラス。上演時間が休憩ありの2時間50分と知らされていたので、原作どおりに進めるのかな? と思って観始めたが、先代デンマーク王の亡霊が現れるのではなく、彼の葬式のシーンから始まったのでやや意表をつかれた。若々しく威厳のある父で、ハムレットが父をいかに慕っていたかが表される。葬儀後、先代王は舞台上に再び現れ、ハムレットに自らの死の真相をほのめかす。存在感が強い。これはエピローグへの伏線。

以下、『ハムレット』のあらすじ、登場人物は読者が知っているという前提で書き進める。

ハムレットは、父と自分の写真をロングTシャツに安全ピンで留めている服装。かなりラフである。それに対し、クローディアスやホレイショーや、ローゼンクランツ、ギルデンスターンは、王室関係者らしい服装とまではいかなくてもかっちりしたスーツ、ベルベットのようなコートを着ている。レアティーズに至っては革ジャンで、不良っぽく気が強そう。しかし不思議とちぐはぐには見えず、ハムレットがやさぐれた引きこもりだから、だらしない格好をしているように素直に受け入れることができた。マザーコンプレックスかつ、強いファザーコンプレックスを抱いており、母がすぐに再婚したことが嫌でたまらず、そのあまりコミュ障になってしまった若者がたまたま王子だった、というように受け取れる。あるいは、王室のように裕福な「家庭」だからこそ、安心して甘ったれることができたというか。

ちなみに舞台上に英語字幕が出るが、オペレーションのミスがひどく、スピードが早すぎてまったく読めない部分が多々あった。『ハムレット』でなかったら完全にストーリーを見失っていた。「弱き者、汝の名は女」を始め、有名な台詞の数々はそのまま使用。

あえて言うなら、クローディアスがくつろぐ時など、たまに舞台上のテレビが付けられて白黒映像が流れるのだけれど、ある種の現代化にしては不成功だったように思われる。

演技のスタイルは、いわゆる真っ正面からの熱演。ガートルードとクローディアスの性愛描写も肉感的である。ハムレットの悩み方が、マザコンとファザコンのミックスの上に成り立っており、内向的だが、その在り方に説得力を持たせるだけの自分勝手なキレっぷり。甘えて母に当たり散らす、狂った息子に見えた。

そんなかっこ悪めのハムレットとなぜ(表向きは隠されているけれど)相思相愛……? と感じてしまうほど、オフィーリアは魅力的。鼻っ柱が強い訳ではない、お嬢様ゆえの気の強さがにじみ出ており、第一印象がまず好感。そこから、10代の少女(ですよね、確か?)らしい、あの年代特有の熱っぽさと真正面からハムレットにぶつかっていく様子。「尼寺へ行け!」と言われて、打ち拉がれるのではなく戸惑って怒って、最終的に泣いて去っていく。まさに、リアルな恋人同士の喧嘩。「え……どうして? 何で急にこんなこと言われなきゃならないの?」という、雰囲気。

ここでのハムレットはかなり暴力的にオフィーリアを虐める。首をつかんで床に押しつけ、髪を引っぱり、罵倒する。実はそれがエロティックに私には見えて、なぜならその力の奮い方に押し殺された歪んだ愛情を感じてしまったからだ。乱暴なセックスに興じるカップルのよう。日本でここまでの暴力的な描写は見かけない。やはり、演出家が俳優に、無意識に配慮してしまうのだろうか? それとも、愛と暴力が恐ろしくも紙一重であるという感覚を表出させる演出があまり好まれないのか?

そのあと、ハムレットがクローディアスの悪事を暴くために劇中劇を上演するのだが、そこにはオフィーリアも来た。ピンクのドレスの盛装で、気丈にハムレットを無視。そのつんとした感じが私の気に入る。あとで気づいたことだが、ここでオフィーリアがただ怒っているだけであり、落ち込んでいない、むしろ恋人同士の派手な喧嘩に収まっているということは、のちに彼女が狂ってしまうのは父、ポローニアスがハムレットに殺されてしまったからで、肉親の絆というのがこの演出において重要視されていることがわかる。

最高だったのは、ポローニアスの殺し方が剣ではなく角材での撲殺だったこと。「ねずみかな?」という例の台詞のあとにハムレットが大きな角材を手に裾にさがり、下手からものすごい殴打の音。そして頭から血を流し、よろよろと現れたポローニアス。衣装で血糊で床が汚れるのをさりげなく防ぎ、ガートルードが死体を引っ張って上手にはけるのもスムーズで美しかった。

さて、ご存知のとおり、ポローニアスから怒濤の死の連鎖が始まるわけである。

気がふれてしまったあとのオフィーリアの素晴らしさを、伝えきれる気がしない。落書きだらけの乳母車をひっぱってきた彼女は、白いレースの洋服、輝くティアラを頭につけ、まるでお姫さまごっこをする幼児に退行してしまったようだった。そんな幼児じみた彼女は人形遊びをしながら、人形同士を笑いながら性交させたりする。つまりここから大切な処女を捧げたハムレットが父を殺したというショックが窺い知れるわけで、レアティーズがいくら宥めても彼女の狂気は止まらない。ちなみにこの期間、ハムレットはクローディアスの陰謀でローゼンクランツ、ギルデンスターンとともにイングランドに行っており、不在。かなりオフィーリアの狂気の過程に時間が割かれる。一度はけて、舞台上が薄暗くなり、天井から小さな滝ほどの量の水が振ってくる音がする。そこにやってくるオフィーリア。振りそそぐ水で遊び、笑い声をあげながら歌い、水たまりにばたんと倒れ込んで、溺死。俳優がひとり出てきて、オフィーリアを抱き上げて裾に下がる。

さて、身代わりにローゼンクランツ、ギルデンスターンを殺してきたハムレットがイングランドから戻ってきた。ローゼンクランツ、ギルデンスターンの二人は容姿も服装も似ていて、ボーイズラブのような描かれ方をされていたのも手が込んでいたので死んだのは寂しかった。物語上致し方ないとはいえ。

ハムレット、ホレイショーが出くわしたのはオフィーリアの墓を掘っている墓掘りたち。彼女の死を知らず高揚しているハムレットは墓掘りたちとギターを引いて歌い出したりする。そこへオフィーリアの棺が運ばれてくる。このオフィーリアの遺体の美しさは、ジョン・エヴァレット・ミレーの有名な絵画を超える素晴らしいもので、薄いヴェールをかけられ息ひとつしないまま目を閉じていた。彼女の葬儀の描写が、冒頭の先代デンマーク王の葬儀と同じスタイルで執り行われたのも象徴的だった。それを目撃したハムレットはショックを受け、棺に追いすがって墓に入る。レアティーズが「お前のせいだ!」と言いながら殴りかかり、二人してオフィーリアが埋葬された墓の中で、彼女の遺体を踏み荒らしながら乱闘する様子は、死後のオフィーリアのみじめさをいっそう際立たせていた。

そして二人はフェンシングで決闘することになる。えっ、フェンシングのマスクをかぶるとどっちがハムレットでどっちがレアティーズか分からない! と思ったが、ハムレットのフェンシング服の背には王家の紋章が刺繍されていて、それで見分けた。あと、たまにマスクを外して息をつくので、それでも判別可能だった。かって飛び散る真珠の玉。お互い、毒のついた切っ先で傷を付け合い、死を覚悟したハムレットは毒の残っているグラスを手にし、クローディアスを信じられないほどの力で押さえ込んで抵抗する義父の口にグラスを押しつけ、酒を流し込む。ここも爆発的な暴力、explosive violence.......を感じて身の毛がよだつ思いがした。

死を覚悟したハムレットは「ママー!!」と叫び、ガートルードに寄り添って腕を取り、死んだ母親に抱きしめられながら息を引き取った。最後まで、父と母に執着し、母を奪われた憎しみを具現化した若者として、ハムレットは死んだ。

ここまで原作に忠実に上演されてきたように思われるが、フォーティンブラスの存在はすべてカット。王室が舞台ではあるけれど、隣国との緊張関係や軍事的、政治的な描写をなくし、ひとつの「家族」の物語に演出されていたというわけだ。ホレイショーは、フォーティンブラスではなく、観客に向けて「この悲劇を語り継ぎましょう」と言う。そこへしずしずとやってきたのは、先代デンマーク王。彼が累々と重なる死者たちの遺体の手を引き起こしたところで、終幕。

その後のエピローグシーンが秀逸だった。舞台上に、劇中で死んだ人々が全員現れ、自分たちの写真を大きく引き延ばしたネガフィルムを壁に貼って、横並びになる。赤い照明に照らされたのち、再び暗転。どれほどの死者が溢れた悲劇だったことか。毒殺、撲殺、手紙のすり替えによる殺し、溺死。どれも哀れだ。「家族」がこじれた結果、これだけの人が死んでしまった。それらを非常に情熱的に演じ切った俳優たちも見事だった。私が素晴らしいと思ったのは、特にオフィーリア、ハムレット、クローディアス。

KM嬢は22時からの別の演目のために早々に退出。私は、雨がぽつぽつ降る中、劇場側のフェスティヴァルクラブに寄って、ボランティアやゲストの友人たちと少し話した。ビールを1杯飲んでいたところ、 赤ワインを見知らぬ男性ボランティアからごちそうになる。彼は今年40歳とのことで、生まれてこのかたずっとシビウに住んでいるという。「1989年の革命を覚えている?」と訊ねると「自分はあの時子どもだったけれど、子どもたちの間でしばらくおもちゃの銃撃戦ごっこが流行ったよ」と教えてくれた。流血の記憶がすぐそこにある国。今も流血の可能性と地続きにある、この大陸。

降り出した雨は夜中に激しい雷雨に変わり、まるでこの世が終わるみたいだった。それでも、誰が死んでも、いくつ政権が変わっても、また世界に朝は来るのだ。

2018年6月14日木曜日

私はどんなふうに振る舞えばいいの?(12.06.2018)

朝食では、スクランブルエッグではなくゆで卵に挑戦。久しぶりにゆで卵を食べた。

午前中、KM嬢と今度は街の北側へ散歩。坂の上にあるアッパータウンと、下にあるロウアータウンの境目まで行く。アッパーとロウアーというのは階級を意味するのではなく、観光地であるアッパータウンか、住宅街であるロウアータウンか、という違いしかない。

昨日のように、手当たり次第に雑貨屋に入ってはおもしろそうなものを探して歩いた。嘘つき橋(The Bridge of Lies)の脇に、小さな洋服店を見つける。入ってみるととても感じのよい女性が店番をしており、ブルーの花柄のノースリーブワンピースがあったので鏡で見ていると「試着する?」と聞いてくれた。調子にのって他にも2着着てみたが、最初のブルーのワンピースがいちばん気に入ったので、買った。80レイ。

日記を読んでくださっている皆さんからは、お前は服と食べ物とコスメしか買っていないのか、とお叱りを受けそうだが、ちゃんと、評判のよい演目は追加でチケットを購入している! 演目の人気が出てしまい、取れない時もあるけれど……。

あまりにブルーのワンピースが気に入ったのと、外がとても暑かったので「このまま着ていくのでタグを取ってください」とお願いし、着替えて散歩を続けた。Tシャツ、ジーンズで歩いていた時に比べて、急に、男性たちの視線がこちらに向き出したのがわかる。あからさまに声をかけてくる男が増えた。ChineseかKoreanかJapaneseかは恐らく彼らにとってどうでもよくて、東洋人がなんかイケてるワンピース着て腕と脚を出してるぜ、フー! と言った感じなのかもしれない。やや複雑な気持ちになり、道ばたで煙草を取り出して盛大にふかしてやった。私のおしゃれは私のためだし、私の喫煙は私のためである。

チョルバ・デ・ブルタというハチノス入りのガーリックスープを近くのファストフード店で食べる。9レイ。スープだけかと思っていたらパン付きで、私の胃袋にとっては立派な軽食になった。具がめいっぱい入っていて美味しい。街には子どもがたくさん集まってきており、アイスクリームなどの屋台を含め、ここのファストフード店にも子どもが大勢来ている。いやに子どもの人数が多く、引率の大人が少ない。学校の遠足っぽいな、と分かることもあれば、これは誰がどの子の親? みんな子だくさんすぎない? と思うくらい、子どもだらけのこともある。子どもたちはアイスとレモネード、それからドーナツが大好きだ。

20時から、"LURRAK"というコンテンポラリーサーカスの演目を観る。Lurrak Antzerkiaというスペインのカンパニー。登場人物はある工場で働く労働者たち、それを統率するいけすかない上司がひとり。工場を模したステージ上で、女性が宙からぶら下がった鉄の輪で華麗にアクロバットを繰り広げたり、屈強な男性がロープパフォーマンスをおこなったりする。上司は終始、嫌みったらしく、でも肉体的には弱っちい役柄で、ときどき台詞はあるものの、字幕がなくてもジェスチャーと口調だけでシチュエーションが分かるくらい、戯画化されたものだった。その中でサーカスとしての技が次々繰り出され、最終的には上司もロープで釣られて力強くパフォーマンスし、結局、労働者と上司は和解しておしまい、という筋書き。途中で、パフォーマーたちが観客を何人かステージに上げて一緒に踊らせるシーンがあったが、中盤にそのシーンを組み込む意図は不明。そして当然かもしれないが、選ばれたのは恐らくルーマニア人(もしくはヨーロッパのどこかだ。つまり、白人だ)であり、パフォーマーたちは東洋人の私になんて目もくれなかった。

こうして朝から少しずつ蓄積してきた違和感は、次の演目を観て横溢することになる。

それが、イギリスのカンパニーである Luca Silvesrini's Protein "BORDER TALES" である。マチネ公演を観たKM嬢から「ぜひあなたの感想を聞きたい」と意味ありげな(ポジティブな意味の)連絡をもらっていたので、ドキドキしながら劇場へ向かった。ちなみにルカ・シルヴェストリーニは、城崎国際アートセンターに2015年に滞在し、街の人々と "CROSS ROAD" というコミュニティダンス作品を手がけたコレオグラファーでもある。城崎の友人たちがことあるごとに「ルカは素晴らしい人だ」「あの作品は最高だった」と今でも言うのをずっと聞いていた。彼らの話しぶりから、ルカ・シルヴェストリーニこそが、発足して2年目ほどだったアートセンターを、決定的に街に認知させたのだと私は感じている。城崎の人は愛を込めてルカを「魔法使い」と呼ぶ。ほんの少し現実を解体してねじを締め直すだけで、まったく世界を変えてしまう「魔法使い」なのだ、と。

"BORDER TALES" は、ダンスと台詞を交えた作品。初演は2013年、エジンバラにて。主人公は、典型的なイギリス人男性。ばりばりのBritish Englishを喋り、エリザベス女王を尊敬している、と語る。そこへ、Irishの男性、両親がイギリスに移民としてやってきたムスリムの男性(申し訳ない、国の設定は失念した)、同じく台湾から両親に連れられてきたアジア女性、同様の環境のナイジェリアの血を引く黒人女性、コロンビアのミュージシャン(実際に劇中でも演奏していた)などが現れる。彼らは自らのルーツとアイデンティティを語りながら、それでもイギリスに受け入れきってもらえない虚しさを抱えている。ナイジェリアにルーツを持つ女性は「私の母は昔からいつもこう言ってたの! 女はめしを作れ! 家事をしろ! って。でも私はそれが嫌だった。だからロンドンに住んでる」と言う。台湾移民2世の女性は「みんな私に聞くの。どうしてイギリスに来たの? って。でも、私はここで生まれてここで育ったから、そんなの聞かれても困る」と語る。

主人公は、そうした全員を招いて "Welcome" と書かれた風船を持ってきてパーティをしようとする。しかしそれは空回りし、彼は勝手に、客人たちの飲み物を「ジャスミン茶」とか「ウイスキー」とか決めつけてしまう。ムスリム男性が「ハラルウォーターをくれ」と言った時に戸惑ったところは、笑いどころではあった。もちろん、笑う人は誰も居なかった。随所に民族的な舞踊、それらがコンテンポラリーにアレンジされたものが交えられ、複雑な境界の問題が身体のリズムとともにダイナミックに盛り上がってくる。身体が伴っているから、頭でっかちに先走っている感じがなく、嫌みがない。

しかし、昼間から「女性であること」「東洋人であること」の、当たり前の異端さをじわじわと感じていた自分、そして狭い日本に嫌気がさしてヨーロッパで日本のことなんか忘れたいと思っていた自分にとって、 この演目はとても切実なものだった。もし私が、舞台に上げられていたら、君の宗教はShinto, 君の飲み物はgreen tea と言われていたことだろう。そして「女性ひとりでヨーロッパに何しに来たの?」とも、問われる。直接言われることはなくても、絶対に、彼らのまなざしが私にそう問う。

終盤、主人公はみんなの気持ちがわからず「どう接していいかわからないから教えてくれ!」と叫ぶ。しかし別の人物から「それは自分で考えろ」と言われてしまう。主人公以外のダンサーたちは客席、あるいは舞台の奥に散り、懊悩して落ち込む主人公を眺めている。

日本で、政治的な問いを含む作品がつくられることは珍しくない。でも、日本である以上、宗教の問題は観客に響かないし(私が宗教にかんする点において日本の観客をまったく信用していないというのもある)、これだけの人種が移民で首都に住んでいるということを可視化すること自体がおそらく難しい。いちばん近い問題は、在日韓国人の永住権にかんするテーマだと思うが、今のところ在日韓国人の現在、3世を越えてもはや4世に突入しようとしている時代、を描写している作品に出会うことは稀だ。それが私の知見不足だとしても、少なすぎる。絶対に。

脱線するけれども、日本の植民地侵略時代を描いた作品や、日本からの南米移民を描いた作品は、ある。いくつかの権威も得ている。だが、日本国内に住む外国人のこととなると、まだまだこれからだ。これからに、本気で期待したい。そうでなかったら、日本の演劇界には希望がなさすぎる。

何度か公言していることだが、私は大学生の頃の恋人が在日韓国人3世であったため、その頃から移民、在日韓国人のことを非常に自分ごととして捉えて考えてきた。考えるほど「俺とお前は違う」「絶対にお前は俺を理解できない」と言われた記憶がよみがえる。それは、打ちのめされてパーティを途中でやめてしまったあの主人公の姿に、重なるのだ。魔法使い、ルカ・シルヴェストリーニに私があらためて掛けられた呪い、あるいはまじないが日本で解ける日は、いつになるだろうか。

終演後、拍手をしながら流した涙は、感動したからではなく、悲しくて悔しくて、でもそれをルカがこんなふうに掬いあげてくれたのが何より嬉しかったからだった。