2017/9/8(金)
明日のチケットを取っていたが、先生とメールしていたところ「私は今、文化会館に向かっています」と返ってきて、えっ、いいな! やっぱり行っちゃおうかな、当日券……と思いながらぼやぼやしていたら、17:30からの当日券発売時間になってもまだ家にいるという状態で、何だかんだまだぼやぼやしていて、19:00開演だというのに、上野駅に着いたのは18:58だった。最短ルートで文化会館に駆込み、入口の当日券売り場でA席を衝動買い。1時間近くかけて上野までやってきて衝動買いも何もないが、とにかく1階席の下手側を確保した。パンフレットは明日買えばいい、すぐに休憩があるのはわかってるから大丈夫、配役表だけとりあえず奪い取るようにもらって、ホールに飛び込んだ。
▼イリ・キリアン振付『小さな死』(原題:Petite Mort)
東京バレエ団初演のこの演目。
本日のファーストキャストでは、岡崎隼也、川島麻実子と柄本弾、崔美実とブラウリオ・アルバレス、秋本康臣が印象深かった。冒頭で男たちがかざす剣が、ヒュッと空を切る音が耳に残る中、モーツァルトの二つのピアノ協奏曲(第23番、第21番)で男女が一組ずつ踊り始める。
タイトルが示唆するとおり性的でもあるけれど、清らかさもあって、まだ残りの2演目観てないけど私はこれがいちばん好きだな、と最初に直感した。ありふれた言葉で申し訳ないけれど「エロス」と「タナトス」、このふたつの言葉に集約できると思う。でもバレエダンサーという人々はとてもストイックだし、バレエというのはバランスの芸術だから、そしてセックスというものはバランスを崩して乱れてこそ溺れられるものだから、どちらかというとやはりタナトスが勝る。
▼ローラン・プティ振付『アルルの女』
こちらも東バ初演。ビゼーの艶やかなファランドールが響く中、フレデリ(ロベルト・ボッレ)、ヴィヴェット(上野水香)、男たちと女たちの群舞は牧歌的にも見える。しかしだんだん不穏な空気が漂ってきて、フレデリとヴィヴェットがすれ違う様子、村人の男のひとりがフレデリに何かを耳打ちした様子(もちろん、アルルの女が他の男と駆け落ちする、という話だろう)など、舞台は破裂しそうな緊張感に満ちていく。
装置デザインのルネ・アリオはゴッホの絵画『刈り入れをする人のいる麦畑』(どうでもいいが今変換する時に「刈り入れ」が「借り入れ」と表示されたのは悲しかった)に着想を得て、背景幕をつくったらしい。ダンサーの上空にある大きな板が、農村ののどかさと、閉塞感の両方をあらわしていて秀逸だった。
窓枠からフレデリが飛び降りる……というよりは飛び込む、一瞬の幕切れのカタルシスがとてつもない。
▼モーリス・ベジャール振付『春の祭典』
秋だけど春の祭典が上演されるのであった。
この作品は、「男と女」や「雄と雌」という概念を超越して最終的には「人類」とか「いのち」に見えるのがいちばん良いところだと思う。私自身が今、女としての自分が結構どうでもよくなっているため、それに救われるのだろう……と真剣に考えていたのに、隣のおばさん二人が、幕が開くなり「蛙の群れみたい」とかなり聞こえる感じの声で言い出して、いや確かにどう観ても蛙の大群ですけどそういうことは口には出さないでほしかった。
男性の生贄は岸本秀雄で、優美ながらも覚悟を決めて舞台中央に向かう姿に胸打たれた。リーダーと若い男(ブラウリオ・アルバレス、和田康佑、岡崎隼也、杉山優一)の中では岡崎隼也がいちばん残酷だった。
女性の生贄は奈良春夏。6月の『ラ・バヤデール』でガムザッティを演じたのを観たのを思い出しながら見とれる。でも、強烈な個性とインパクトのようなものが彼女には、ちょっと足りないかなと思う。
男性群が曲線的、女性群が直線的、つまり一般的な男女の身体の造形のあり方と逆の振付がなされており、それが性的にいやらしく見えないどころか、崇高にさえ感じられる秘密だろうと思う。
2017/9/9(土)
セカンドキャストの日。24時間も経たずに同じ演目を観る自分。しかもセンターブロック3列目という良い席を確保していた。なぜなら明日は私の誕生日だから、贅沢をしたのだ。
▼イリ・キリアン振付『小さな死』(原題:Petite Mort)
冒頭、男たちが剣を頭上に掲げて後ろ向きに歩いてくる。前を向いて、剣を足下に置き、足を使ってぐるりと捌く。剣がうまく回せているか、足下に目線を落とすダンサーがいる中で、安楽葵だけが(たぶん。でも記憶に鮮烈に残ってるから、たぶんそうだ)前方を見つめたままこなしていて、しかも彼は東バのダンサーにしては上半身下半身ともにかなり強そうな筋肉(全体的に日本のバレエ男子は細身過ぎる気がしている)で、ものすごく惹き付けられた。冒頭の印象が鮮烈で、榊優美枝とのペアで踊るところはぼうっとしてよく覚えていない。吉川瑠衣と宮川新大ペアの美しさに息をのむ。ちなみに宮川新大は日本一美脚な男性バレエダンサーである(私個人の認定)。あと、岸本夏未ってとても洗練された外見だな、と気づいた。
隣に座っていた若い女性ふたりが「この人しかわかんなかった」と言って、配役表のブラウリオ・アルバレスの名前を指差していた。おい、きみたちはブラウリオしかわからないのになぜこんないい席で観ているのか、訊ねたくなったが黙っていた。
▼ローラン・プティ振付『アルルの女』
今日はフレデリが柄本弾、ヴィヴェットが川島麻実子。ヴィヴェットのむくわれなさ、健気さは川島麻実子の方が見応えあると思って、今日のチケットにしたのだった。柄本弾は、不幸にも(これは幸福にも、と同じ意味である)イケメンすぎに生まれたせいでいつも表情に頼って踊ってる傾向がある、うまく言えないけどミュージカル俳優みたいな時がある、と思っていたのだけれど、このフレデリのキャラクターではその表情の豊かさが存分に良い方向に発揮された。幻のアルルの女に魅入られるフレデリの狂気は、これくらい顔で演じないと伝わってこないのだ。なぜならアルルの女は登場しないからだ。演劇など、ほかのパフォーミングアーツでもしばしば「舞台に登場しない人物」「台詞のみで語られる人物」が鍵を握ることがあるが、言葉を用いないバレエにおいて本作の柄本の表情はとても雄弁だった。
女性たちの中では、個人的に注目している秋山瑛(あきやま・あきら)、足立真里亜がやはりきらめきを放っていた。
思ったとおり、川島麻実子の薄幸さは際立っていて、バレエ界の薄幸美人ぶりで言えば川島麻実子の右に出る者はもはや川島麻実子である。
▼モーリス・ベジャール振付『春の祭典』
今日の生贄は入戸野伊織(にっとの・いおり) 。儚げな雰囲気を持つ彼が、生贄に決まった時の、よろよろと絶望して歩く悲壮感に、ぞっとした。昨日よりずっと、リーダーと若い男(ブラウリオ・アルバレス、和田康佑、高橋慈生、樋口祐輝)の4人のサディスティックさが恐ろしく見えた。特にブラウリオは今まで、とっても協調性のある(それゆえ逸脱しない)ダンサーだなと思っていたけれど、とにかくこの作品、男性パートの生贄の決め方がエグくて、入戸野に決まった瞬間、びしーっと指差すブラウリオがマジで怖すぎた。
女性の生贄、今日は伝田陽美だったけど明日の10日は渡辺理恵か……さぞかし良いだろうな……と個人的な未練を残してフィナーレ。集中しすぎたため、あまり批評言語化できない。
もし何も知らない人にベジャール作品を説明するとしたら「最後の一瞬を見逃しちゃ絶対ダメだから油断せず集中して」とアドバイスを送りたい。間違ってないと思う。
そういえば、今回は前衛的な演目のためか、いつもより、というか全然、親子連れがいなかった。子どもの時にこそベジャールとか観て人生踏み外したらいいのに。
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