2013年8月9日金曜日

あめ色の髪どめ

物持ちがいい。今つけている茶色のバレッタは、17歳の誕生日に従姉がくれたものである。ぼーっとしているうちに歳月のほうが経ってしまうのだ。きっとこのままあと10年くらいは、壊れないかぎり、使い続けると思う。

バレッタをくれた従姉は青森に嫁いでおり、今はねぶた祭りも終わって、県外からのお客さま(ねぶたを見に、毎年誰かしら来るようだ)も帰っていったころだという。私も、二年前に見に行った。東日本大震災の年だった。どんな都市のどんなお祭りでも、私はとても好きで、でも、それは観光客の人たちが「元気をもらった」とか思えるからではない。お祭りは、やっている人たちが心や腹の底から「元気を出す」姿が美しいのだ。

昨夜は、先日山手線の渋谷駅でばったり会った同級生と、今度は待ち合わせをして会った。ほとんど帰り際、何の話をしたときだったか忘れたけど、彼女はしみじみ、あんたの周りはいい男が多いねえ、と言った。私は、ありがとう、という意味で少し笑った。

「俺の中ではお前の行動はかなり謎だな」
と、部署(というか会社全体?)の中でもアウトロー的で有名な先輩に、唐突に言われて、とんでもなくびっくりした。強面ではないのだが、雰囲気が騒々しいので、話しかけられると身構えてしまう。いい人なのはわかっているが「えっ、何でですか」というつまらないことしか言えなかった。
「俺、だいたいの人は口開く前に頭の上にテロップ見えるんだよな。ピコン、って、次しゃべる内容が出んの。でもお前はテロップ見えねえんだよなー。何か謎だなー。謎だよー」
言いながら、先輩は煙草を吸うために去って行った。先輩の声は大きかったので、周りもややぽかんとしていた。私はPCの前で固まって、え、そんなに謎かな?、と少し不服に思っていた。でも、偏見だが、サッカープレイヤーの人と(先輩はサッカーが好き)私のような趣味の人間は謎同士なのかもしれない。私はただ、思いつきと興味に駆られて動いているだけで、煮立ったお鍋のふたを興味本位で開けてみるまで蒸気が熱いということも分からないくらいの、ただの馬鹿なのだけども。

2013年8月7日水曜日

幽霊とダンスを

下北沢の街を、開演時間のような時間制限もなくさまよったのは珍しいことだった。歩きながら、ああ、ここ絶対に誰かと行ったのに、この道も誰かと歩いたことあるのに、全然思い出せないわ、と思って胸が痛くなった。そういう場所は、あの頃の私に会わないように駆け足で通り抜けた。誰か、って誰だっけ。男の子?サークルの仲間たち?高校の同級生?真剣に思い出せば、思い出せないなんていうことはないのかもしれないけれど、抜け落ちるように忘れたものの消息は知らないほうがいいこともある。

前置きが長くなったが、京都から遊びにきたKちゃんを待つため、ごはんを食べてから、喫茶店(カフェではない)に行った。一人で、たまにしか行かないのだけど、たまには行くので、マスターは私の顔くらいはたぶん知っている。でも話してみると、私を誰かと間違えているようなことを言う。もしかしたら本当はわかっているのかもしれないが、それはわからない。今日のマスターは、レジの側から私に話しかけてくれて、なぜか30代の男と女について語ったあと、店を女の子に任せてふらっと出て行ってしまった。Kちゃんは、東京芸術劇場でマームとジプシーを観ている頃だった。私は昨日の初日を観ていたので、彼女のこと、受け止められる(っていうと変な言い方だけ ど)からよかったな、と思いながら待っていた。パソコンを開けて、一生懸命自分の書き物は進めながら、2時間半くらいそこで過ごした。Kちゃんを駅の南口まで迎えに行って、今度は別のカフェ(喫茶店ではない)に向かった。


マームとジプシーを初めて観たKちゃんと、いくつか話をした。Twitterでは、書いた瞬間目に入ってしまうので、昨日は控えたことも言葉にした。週末にもう一度観るので、そうしたらもっと書くけれど、一応、以下に書く部分は色を変えておく。読んでも差し支えない量と質です。

藤田貴大の『cocoon』は、今日マチ子の漫画を圧倒的に超えた、と私は思う。その超え方は、今日マチ子の最近の、マームへの飲まれぶりを見ていれば予想は出来たけれど、そもそも原作とは別物になるよね、とか、音楽が入ると変わるね、とかいう次元の話ではなかった。漫画で、今日マチ子が描けなかった(描かなかったのではない。恐らく)空白を全て全て埋めて、螺旋状に音階が上がるように、風景を眼前に広げ、えぐり、叩きつけるようだった。現実とファンタジーの距離の測り方には一寸の容赦もなく、彼岸として描かれていた漫画を、思い切り此岸に引き寄せ、さらした。舞台上に現れたその状態は、苛烈を極めた。

Kちゃんの名前は、劇中で何度も呼ばれていた子の名前と同じで、その感覚でcocoonを観る、というのはどういうことだろうと想像した。(余談だが、私はその感覚はチェルフィッチュの『クーラー』で味わったことがある。あれは「マキコさん」がクーラーを寒がる話で、私に特別な実感を残した)

そこから、ダンスの話をした。京都のデザイナーであるところのKちゃんは、ライブハウス通いの音楽ガールでもあるので「最近ね、歌詞とかタイトルとかに”踊る”とか”ダンス”っていう言葉が増えてるんですよ」と言う話をしてくれた。ミュージシャンたちは演劇作家たちよりもムードをすぐ察知して演奏に落とし込むから、その敏感なスピードは信頼してもいいと私も思っている。しかし、踊るしかないところに時代が来ているのだとすれば、それはとても危ない。言葉でも身体でも制御ができない、暴走の別の意味としてのダンスが、すぐそこに迫っているのではないかと思って怖くなった。比喩にせよ実際の行動にせよ、もう他に手段がなくて踊るしかない、というときに人は踊るのではないか、というのは発見だ。

続いて幽霊の話になった。 ゴースト、という言葉の付くバンドも最近になって二つくらい見かけた、とKちゃんは言った。(あと「川本真琴and幽霊」とか?)私は、演劇でも、幽霊の話をしたりそういうものを扱う作品は、思うに2011年から明確に増えているよ、と言った。現実の裂け目から溢れ出るやわらかい、傷つきやすい、壊れやすいものに、名前をつける必要がみんなに生じているのだ。

ちょっとそれるけど、ゾンビについて。三野くんの写真展での、ゾンビとゴーストのパフォーマンスの話をしながら、でも、ゾンビのほうが健康的だし手に負える、と思った。幽霊は浮かんでるけど、ゾンビは地に足がついているからだ。腐ってるけど、撃てば殺せるし、殺しても起き上がってくる実体がある。

さっきの、傷つきやすくて壊れやすいものを仮に「幽霊」と名付ける話だが、幽霊に出会って時間が経った人たちは、それに実体を与えることを試みたりもしているようだ。だから範宙遊泳が大阪でやった『おばけのおさしみ』というタイトルは、素晴らしいと私は思う。いや、観ていないし、あらすじもわからないけれど、幽霊(おばけ)に実体を与えるのみならず、さばいて食らうタイトルをつけるとは、一体どういうメンタリティなのだ、山本卓卓よ。

話は戻るけど『cocoon』がやっていたのも、端的に言ってそういう意義があるのだ。私たちの世代にとって、想像も届かないほどの遠い沖縄の戦争に、あれだけの肉体的実感と負荷を作り出して、観客をその風圧で立ち上がれないほどに竦ませる、という。

2013年8月5日月曜日

時計の針

フロアごと、職場の引っ越しが行われた。同じ駅だが、もっと川に近い方のビルになった。初日から私は朝当番だったので、誰もいないフロアでPCを組み立て、IPアドレスが正しいことを確かめて、7時の定点確認メールを書いていた。ちらっと壁を見ると、時計が3時間以上狂っていて面食らった。いくら太陽の光り方が違うと言ったって、物証としては時計しか時間の証明にはならないし、視覚に文字盤が侵入してきたら自動的に頭がその時間になってしまうのに。

どうやらその時計は電波時計とやらで、引っ越しで運んできたとき何かのはずみで狂ってしまったそうだ。手では動かせないので、電池を入れ替えない限り難しいらしい。放置されているのを見たところ、電池だってたぶん簡単に交換できるようなものではないのではないか。そんなのを掛けておくことを許可した誰かは、何を守ろうとしたのか知らないけど頭がどうかしているので、本気で腹が立った。

朝当番で急いで家を出たので、冷房よけのカーディガンを忘れた。凍えながら午前中やり過ごし、早めの昼休みにして、買い物にいくことにした。日本橋に出れば知っているお店もいくつかあったけど、量販店の場所を調べて、あえて知らない街まで歩いて行った。川をいくつか渡って、信号を超えて、うしろを振り返ると、曲がりくねったように見えた道の遥か向こうまっすぐ、私が出て来たビルが見えた。結局、往復で1時間かかった。日傘を差していたとはいえ、相当暑かったけれど、でも冷房の部屋に閉じこもっているより、ずっと幸せな体温調節ができた。

何でも、あとから書くのはよくない、と最近ある人に言われた。いいことはいいけど、文句があるならそのとき言え、ということで、それもやっぱり私の書き方がよくないのだろう。少しだけ反省する。深読みは得意な方だけど、真っ当な共感がちょっと下手なのかもしれない。でも、誰かのことを思って書くと不思議にそれはその誰かに届いてしまう現象のことはよく知っているし、いつだってちょっと素敵に、あるいは無様に、宝石のカッティングのようなものが施されているというのも、わかっているのだ。

2013年8月4日日曜日

プライベートスカイライン

大叔母に、月に一度会う。そうめんを食べながら1930年代の日本の話をいくつかしてもらっているうち、この間若い子が、「海ゆかば」を口ずさんでいたのを聞いた、という話になった。

あれはねえ、送る側が鼓舞する歌じゃないのよ。特攻隊で死んでいく賢い若者たちが必死に自分たちを慰めるために、無駄に死ぬわけではないと信じたいがために、歌った歌なのよ。そう思うと本当に、悲しいねえ。私は今でも、あのメロディを聞くと、ほんとうに、不安になるの。悲しいよりも、不安になる。あのころの、一体日本はどうなるのか、こんなに嘘の情報ばかり満ちていて、どうすればいいのか、娘の頃の私の、ほんとうに不安な気持ちがねえ、今でも。

そして彼女は、当時の大本営の発表がいかに信じられなかったかを話してくれた。わかっていたのにどうしようもできなかった、とも言っていた。今だって、信じられない公式発表は山のようにある。そこで思考停止して(しまうように見える?)いるのはなぜなのか。話してみれば疑問に思ってる人はあらゆる年代に、たくさんいるにも拘わらず。

渋谷の地下鉄がわかりにくいからと言ったって、覚えるためには何度も歩いてみるしかしょうがないじゃん、と思う。迷路だわー、とか文句言ってるおばちゃんは今日もたくさん群れていたけど、そんなのお前の怠慢だわ、と心の中で悪態をついた。

どうしたってなるようにしかならない。これまでと同じだけ、あるいはこれまで以上に、私は私だと、まあ既に何度も唱えてきた気持ちを確かめてきたことの繰り返しでしかない。だって、どうやってもそのときいるコミュニティから外れちゃうのだもの。簡単に変わるはずもないのだから、都度生き方を選んでいくだけなのだ。

無敵の星

才能の話。タレント、という英単語には「贈り物」という意味があるし、ジーニアス、という言葉の語源は「精霊」だという。そういえばランプの魔人の名はジーニーだ。どちらの単語も、もともと自分が持っているものではなく、誰かからふっと与えられるイメージである。彼らはとても気まぐれだから、肩に止まったら、今この時をおいて他に捕まえることはできない。逃したら戻って来てくれない。”それ”をすべきとき、というのが絶対あると私も思っていて、天から降るにせよ地から湧くにせよ、タイプは様々だと思うが、今できることが、未来のある一点においてもできるとは全然思っていない。だからときどき異様に焦るし(たぶん周りから見て疑問に思われるほど)結局のところ、本当に私は書きたいものを今、今、表に出せるかどうか、そのための時間があるかどうか、感覚が保たれるかどうか、ということが気になっているのだろう。この間TA嬢が、大学のときに数百文字だけ小説を書き出してみたことがある話をしてくれた。その時の日記に一行だけ「今、小説を書かなかったらもう書くことはない気がした」とあるという。それ以来彼女は、別の仕事をしていて、自分で書くことはもうないかな、と言っていた。

無敵の話。たとえば私はある演出家の最近の仕事を見ていて、彼は今マリオの無敵スターを取ったみたいな状態だな、と思った。スターを取れるということは確かにあって、ちょっとした亀やクリボーくらいならすぱーんと飛ばせるし、ぴかぴか光って周りから見てもわかるし、それもつまり、才能の精霊をつかまえた状態に等しいのだと思う。美しい。思い返せば、かつてスターを取った状態になった(と私が思った)人は他にもいる。指折り数えてみて、確かにそういう現象はあるのだろうと思う。

嘘の話。Twitterにせよブログにせよ、ときどき相当嘘っぽいことを書いているので、出力具合が変になってしまったときは、真夜中のせいにして見ないふりをしたくなることもしばしばだ。事実としての嘘ではないし、そもそも別にまったく嘘ではないんだけど、まあでもありのままにただ毎日あったこととか、考えたことを書きます、というのは私にはできないので、必然的にこうなる。でも、嘘か本当かが他人にとっては結構重要みたいで(それはそうだろうとも思う)かつて、書いたものに関してひどくなじられたこともある。でもそれは私の作業精度が悪かったということで、今後の精進の糧にしなければならない。何でも自分のことから出発するからそうなるのだし、もっと枠の外に行きたい、とずっと思っているので、努力を続けるしかない。どこにいたって生きられるし、何にだってなれる。離れてからのほうが、とか、離れた人のほうが、なぜか近しい距離感で物事を見られるということは確かにあるのだし、それを他人がどう思うか、ありもしない目に縛られるような青春を繰り返す気は絶対ない。

と決意を勇ましく書いたところで、知らないうちに繰り返すのが人間の愚かで恐ろしいところなので、気づいたらすぐに書きとめて、見つめ直す習慣が必要だ。(そのためにこのブログを開設したのかもしれない、と今思った)

でも上記のようなことをしてしまうのは自分のことを書くときだけで、たとえば劇評などに嘘は書きません。あれは、取捨選択。まあ、嘘って何よ、という話ではある。事実誤認は書かないよ、というだけの意味にすぎないのかもしれない。割愛。

必要以上に気鬱の波に翻弄されるのもよくあることなのだが、身体と生活が切り離せないのを言い訳にするな、と嫌な顔をされたこともあるので、表にはやっぱり出したくない。別にそのせいだけじゃなくても、あとから見ると結構、そこまで塞ぎ込んだり仮想敵を攻撃しなくてもいいじゃないか(でもそれはつまり自分を攻撃しているのだ)と思うことはよくある。過ぎ去ると分かっているからこそ耐えられる種類の感情だけど、そこに他人も付き合わせるとしたらだめだ。付き合わせるならそれなりのものでなければならない。そろそろいろんな感情や視点がウロボロス化してきて、蛇をほどく気力も技術も時間もなく、とりとめがなくなってきているけど、今は比較的朝早い時間だから、ほどほど希望を持って今日という日を始められそうな気はしている。とりあえず、朝ごはん作って、食べよう!

今に閃く

昨夜彼女はメールで、私への質問に妙な言葉を使った。それまでの会話の流れを、ぐっと変えるみたいにして。 私はびっくりして、口をあけたまま携帯電話の画面を見つめ、ワープするみたいにしてこういう領域に飛び込める脚力を持っている人だな、ま、知ってたけど、と思った。ぎりぎりを掠めたのち、彼女はまたすぐに別の方角へ飛び去っていった。

部屋の本棚を整理した。前段を入れ替えて作家ごとに(多少)並べ直し、プログラミングとか金融の本とかを捨てた。そうしたら、同級生の女の子に昔お説教され、真摯な愛情について勉強しようと思って読んだ、エーリッヒ・フロムとかが奥から発掘された。でも、それと一緒に宇野千代も見つかったし、だいたい発掘しないと出てこない時点で普段忘れているということになるのではないか。あるいは普段から実践できている可能性もあるけど、それにしたって真摯な愛情って何よ、という気分になっている。

とりあえず今夜も書く。書き上げないと、仕方ない。

ある場所で使うので短歌を作った。年に一回、三つか四つ作る習慣なのである。習熟する暇がないので、ださいけど仕方ない。本当は三十一文字の中で、情景や五感を複数種類浮かばせることが出来るようになりたい。

(豪雨にふられて)
 蔵の街雷鳴とどろく夏嵐しとど濡れゆく黒髪のつや

(観劇のあとの飲み会にて)
 夜も更けて言霊さまよう街の辻杯を交わしつ愛を語らう

(実家での留守番)
 床に伏せ母の帰りを待つ犬とパンを分け合う秘密のしあわせ

2013年8月3日土曜日

帽子があるなら目深にかぶれ

ここへ来て、先月全体的にダークブラウンに染めた髪の色が目立ってきている気がする。少しずつ褪せてきたのだろう。しかも重めの前髪を、これまたうっとうしそうに垂らしているので、きわめて手をかけていない感じの髪型になってしまっている。はねやすい。

昼休み、ふとふたりになったところで「髪、伸ばすの」と残念そうに言われたので「ええ、それはまあ」とか何とか言って、ごまかした。その人が、耳の下くらいで揃えたスタイルが好きだというのは知っていた。ただ言及するだけで、妙な浸食濃度を示す人というのはいるものだ。

渋谷でライブを見て、そのあとHA嬢と落ち合ってビールで乾杯。彼女がもうひとりゲストとして呼んだHY氏もあとから合流。HY氏にいろんな指摘を受け、印象的な夜だったが、私よりHA嬢がそれをおもしろがって喜んでくれていた。

ねえ聞いていいかしら。あなたが持ってるそのカバン、奥にしまってる言葉はほんとうにあなたの歴史を語ってるの。

2013年8月2日金曜日

夏の名残の薔薇

夏つながりで、若い娘から恋の相談をよく受ける、という話。「一度飛び込めば変われますか」と聞かれたので「一度くらいじゃ何も変わらないわよ」と言った。だから安心なさい、という意味だったのだが娘は茫然としていたので、伝わったかどうかは不明だ。相談はそれですぐ終わってしまったので「いつだって本当に始まるのは唇以外の場所への口づけから」と、山田詠美に教わったことも付け加えた。

「夏の名残の薔薇」というのはスコットランド民謡だそうだ。もう八月になったので、すっかり残暑の気分である。





 
           
The Last Rose of Summer

'Tis the last rose of Summer,               それは夏の名残のバラ
Left blooming alone;                     一輪だけ咲き残る
All her lovely companions        同じ木に咲いた美しき仲間たちはすでに
Are faded and gone;                    色褪せ散っていった
No flower of her kindred,            ともに咲く同じ血筋の花もなく
No rosebud is nigh,                 小さな蕾すらそばにいない
To reflect back her blushes,          仲間がいれば紅の色を映しあったり
Or give sigh for sigh!              嘆きを分かち合うことも叶うのに

I'll not leave thee, thou lone one,        さびしい薔薇よ 私は おまえを
To pine on the stem;            茎の上で嘆き暮らすままにはしない
Since the lovely are sleeping,   愛しい仲間は永久の眠りについているのだから
Go sleep thou with them.                  さあ、共に眠るがいい
Thus kindly I scatter                 こうやっておまえを手折り
Thy leaves o'er the bed            花壇に葉を優しく散らしてあげよう
Where thy mates of the garden               仲間だった花たちが
Lie scentless and dead.             香りもなく散り敷く その上に

So soon may I follow,               まもなく私も後に続くだろう
When friendships decay,                     友情が朽ち去り
And from Love's shining circle          そして愛の輝ける団欒の輪から
The gems drop away!    宝石のような大切な人たちがこぼれ落ちる その時に
When true hearts lie withered,           心を許しあった人が枯れ果て
And fond ones are flown,            愛しき者たちも去ってしまったら
Oh! who world inhabit               ああ、誰が生きて行けようか
This bleak world alone?               この凍える世界に独りきりで

2013年8月1日木曜日

夜の線路沿い

不随意に涙が出る。人といるときにもそうなので(誰とでもではない)時に驚かせたり興ざめさせたりしていないか心配だ。涙だけですむならまだしも、声が出てしまうこともあって、そういうときは真剣に泣く形になってしまう。理由はいくつかあるが、悲しさやうれしさを実感した瞬間にそれが過ぎ去る、ことに対して反応が過剰なのだと思う。今気づいたけど、過去って「過ぎ去る」って書くんだな。当たり前か。 

数日前、電車の地鳴りと、横で話す人たちの会話を聞きながら、まだ新しい場所に行ける、という希望が私の中にはもうない、と思って絶望していた。遠くに行く、ということが人生の負荷にならない人がこんなにもたくさんいて、それに比べて私の恐れているものの実体の無さが情けなくて、あまりに絶望したので、途中から話がよく聞こえなくなってしまった。でももし、こういう距離感で書けるものが本当にあるなら、もうそれだけを見ていたい。

無知が人を傷つける可能性について、考えている。関係ない話だが、妹にこの間「まきちゃんにずっと『無知は罪悪』って言われ続けたのを覚えてる」と言われた。私、そんなに厳しく騒いでいたかしら、と思いつつ、横で聞いていた弟も同意していた。私の性格のきつさは、親ではない姉という近しさではよく作用するのかもしれない。ちなみに妹と弟は私を名前で呼ぶ。「お姉ちゃん」とか呼ばれてみたかった。そして、私は、他人よりもっと自分に厳しくいないといけない。 

夏なので、花火大会のことを思い出す。横浜の大観覧車に並んだこともあるし、川越、神宮球場や東京湾、荒川。よくもいろんなところに行ったものだ。もう息切れしてしまって、花火の美しさを見上げるより、下を向いてつかの間溺れたい気持ちのほうが強い。

こう見えて私は、愛がなければだめ、などと思うほどにはロマンティストなので、単なる興味には身構えてしまう。

昨日の世界

死にたいなどと具体的に想像しているわけではないけど、もうこれでは死んでしまう、と思うことはあるし、もう少し積極性を発揮するなら、消え去りたい、どこか遠くに逃げたい、とは思う。あまりの通じなさ、分かり合えなさに、これからも努力できるかわからない。

誰とだってお互いさまだと言われようが、そんなのわかって言ってるんだからただ聞いてほしい。私がどうでもいい、と言うときは、本当に本当にどうでもいいときで、それは本気で助けに来てほしいとお願いしたいときなのだ。でもそれが誰にも届かないということは、既に思い知っている。