2013年8月7日水曜日

幽霊とダンスを

下北沢の街を、開演時間のような時間制限もなくさまよったのは珍しいことだった。歩きながら、ああ、ここ絶対に誰かと行ったのに、この道も誰かと歩いたことあるのに、全然思い出せないわ、と思って胸が痛くなった。そういう場所は、あの頃の私に会わないように駆け足で通り抜けた。誰か、って誰だっけ。男の子?サークルの仲間たち?高校の同級生?真剣に思い出せば、思い出せないなんていうことはないのかもしれないけれど、抜け落ちるように忘れたものの消息は知らないほうがいいこともある。

前置きが長くなったが、京都から遊びにきたKちゃんを待つため、ごはんを食べてから、喫茶店(カフェではない)に行った。一人で、たまにしか行かないのだけど、たまには行くので、マスターは私の顔くらいはたぶん知っている。でも話してみると、私を誰かと間違えているようなことを言う。もしかしたら本当はわかっているのかもしれないが、それはわからない。今日のマスターは、レジの側から私に話しかけてくれて、なぜか30代の男と女について語ったあと、店を女の子に任せてふらっと出て行ってしまった。Kちゃんは、東京芸術劇場でマームとジプシーを観ている頃だった。私は昨日の初日を観ていたので、彼女のこと、受け止められる(っていうと変な言い方だけ ど)からよかったな、と思いながら待っていた。パソコンを開けて、一生懸命自分の書き物は進めながら、2時間半くらいそこで過ごした。Kちゃんを駅の南口まで迎えに行って、今度は別のカフェ(喫茶店ではない)に向かった。


マームとジプシーを初めて観たKちゃんと、いくつか話をした。Twitterでは、書いた瞬間目に入ってしまうので、昨日は控えたことも言葉にした。週末にもう一度観るので、そうしたらもっと書くけれど、一応、以下に書く部分は色を変えておく。読んでも差し支えない量と質です。

藤田貴大の『cocoon』は、今日マチ子の漫画を圧倒的に超えた、と私は思う。その超え方は、今日マチ子の最近の、マームへの飲まれぶりを見ていれば予想は出来たけれど、そもそも原作とは別物になるよね、とか、音楽が入ると変わるね、とかいう次元の話ではなかった。漫画で、今日マチ子が描けなかった(描かなかったのではない。恐らく)空白を全て全て埋めて、螺旋状に音階が上がるように、風景を眼前に広げ、えぐり、叩きつけるようだった。現実とファンタジーの距離の測り方には一寸の容赦もなく、彼岸として描かれていた漫画を、思い切り此岸に引き寄せ、さらした。舞台上に現れたその状態は、苛烈を極めた。

Kちゃんの名前は、劇中で何度も呼ばれていた子の名前と同じで、その感覚でcocoonを観る、というのはどういうことだろうと想像した。(余談だが、私はその感覚はチェルフィッチュの『クーラー』で味わったことがある。あれは「マキコさん」がクーラーを寒がる話で、私に特別な実感を残した)

そこから、ダンスの話をした。京都のデザイナーであるところのKちゃんは、ライブハウス通いの音楽ガールでもあるので「最近ね、歌詞とかタイトルとかに”踊る”とか”ダンス”っていう言葉が増えてるんですよ」と言う話をしてくれた。ミュージシャンたちは演劇作家たちよりもムードをすぐ察知して演奏に落とし込むから、その敏感なスピードは信頼してもいいと私も思っている。しかし、踊るしかないところに時代が来ているのだとすれば、それはとても危ない。言葉でも身体でも制御ができない、暴走の別の意味としてのダンスが、すぐそこに迫っているのではないかと思って怖くなった。比喩にせよ実際の行動にせよ、もう他に手段がなくて踊るしかない、というときに人は踊るのではないか、というのは発見だ。

続いて幽霊の話になった。 ゴースト、という言葉の付くバンドも最近になって二つくらい見かけた、とKちゃんは言った。(あと「川本真琴and幽霊」とか?)私は、演劇でも、幽霊の話をしたりそういうものを扱う作品は、思うに2011年から明確に増えているよ、と言った。現実の裂け目から溢れ出るやわらかい、傷つきやすい、壊れやすいものに、名前をつける必要がみんなに生じているのだ。

ちょっとそれるけど、ゾンビについて。三野くんの写真展での、ゾンビとゴーストのパフォーマンスの話をしながら、でも、ゾンビのほうが健康的だし手に負える、と思った。幽霊は浮かんでるけど、ゾンビは地に足がついているからだ。腐ってるけど、撃てば殺せるし、殺しても起き上がってくる実体がある。

さっきの、傷つきやすくて壊れやすいものを仮に「幽霊」と名付ける話だが、幽霊に出会って時間が経った人たちは、それに実体を与えることを試みたりもしているようだ。だから範宙遊泳が大阪でやった『おばけのおさしみ』というタイトルは、素晴らしいと私は思う。いや、観ていないし、あらすじもわからないけれど、幽霊(おばけ)に実体を与えるのみならず、さばいて食らうタイトルをつけるとは、一体どういうメンタリティなのだ、山本卓卓よ。

話は戻るけど『cocoon』がやっていたのも、端的に言ってそういう意義があるのだ。私たちの世代にとって、想像も届かないほどの遠い沖縄の戦争に、あれだけの肉体的実感と負荷を作り出して、観客をその風圧で立ち上がれないほどに竦ませる、という。

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