温泉に入った。美人の湯という言葉があるけれども、温泉に入って変わるのは肌質くらいだろう。薄暗い日本家屋の温泉宿に来てまで、顔の造作に囚われることもあるまい。引きよせて、組み敷いてしまえばいいのだ。大きなお風呂の石のふちに座って、私が男だったら、「文豪が愛した箱根」みたいなキャッチコピーで、パナマ帽でもかぶって着流しで原稿用紙持って温泉宿にしけこみたい、女だったら日傘をさして石畳を歩きたい、と思ってしばらく不埒なことを考える時間にあてた。しかし露天風呂に移動するまでのあの裸で歩いていく感じはどうにかならないのだろうか。このまぬけさは何かに似ているのだけど、コンドームをつけるのを待ってるあいだっていうのが一番近いかな、まあ、露天風呂はただ寒くて、たとえ周りに誰もいなくても恥ずかしいからこっちのほうが全然だめだな、など、心底どうでもいいことを考えた。
このインタビューを読んだ。
女の子は生理があるからやばい、と言われているけれど、私は生理より男性器のほうが怖いし嫌いだったよ、お互い様だよ、と思った。本題じゃないところに逸れるけれど、異物(自分の身体じゃない、見たことがない、という意味)として、あれに出会うのは、結構人生に一度レベルの驚きだ。初めて男の子と抱き合ってあの感覚に気づいたときのやばさ。噂には聞いてたけど、ちょっとあれほどやばいと思ったことはかつてなかった気がする。どうしようよくわかんない見て見ぬふりしたいけどでも無視できないよどうすればいいの、という、頭の中をめぐる生々しい恐怖と嫌悪感、葛藤。笑い事じゃない。
今の時代、女性が頼るものがない、というのはまあそれはそうなんだけど、私はやっぱりそういうふうに自分を女性性の中に閉じたいとは思わない。意外に思われるかもしれないが、本当にそう思っている。職場できついこともいっぱいあるし言われるけど、男性だって大変だと思っているので、子育てだって仕事だってそれぞれの社会での生きづらさに向き合って、せっかくなら優しくしてあげたい。そして、優しくしてもらえたらいい。しかしそれも歪んでいるのかもしれない、という自覚はある。
いったいどうしたいのか、という問いには答えを用意できていないのでこのまま続ける。
大人(特に会社員)になってからはどうせ男性に値踏みされるなら上のほうにランク付けされてこっちから蹂躙したい、と思って仕事していたこともあった。しない(できない?それはどうでしょう)けど。昔ある人にうっかりその話をしたら、それがすでに負けてるんじゃない、と言われて、うるさいそんなの分かってるんだから黙ってろよどうせこのあと私とセックスしようと思ってるくせに何なんだよお前は、と思った。あまりよくない思い出である。しなければよかった恋はないが、しなくてよかったセックスはある。
だいたい男に敵意を持つ時点で負けてるんですよ、だから私永遠に勝てないんです、と先々週だったか、ケーキを食べながら私は某氏に言ったのだった。蔓延する男性性の"濃さ"に窒息し、私は女の"深さ"から這い上がれなくて行きづまっている。愚かしい。これは書くしかない。しかし、そんなことはあまり表に出さず(にじむのはしかたない)9月の芸術劇場の企画はじっくり観ようと思う。何だこの結論は。
男性器は、今は怖いというよりは(当たり前だが)気持ち悪いか、無か、好ましいかのどれかだ。私だって年がら年中苛立っているわけではないし、好きな人には敬愛の情のもとに降伏したい。律儀に自分でごみばこまで行く人もいるが、気だるさに負けてティッシュにくるんで置いたままの人もいて、そういうとき私は、何でもないふうにしてそれを拾って、先端に溜まった10ccの液体を眺めてからそっと捨てる。ルーティンワークみたいな生理と違って、反応と交流によって放出されるものならすごく愛おしい。
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