置き去りにしたり、保留しているものが多すぎて、後悔と申し訳なさで、自分が誰なのか不覚になるほどの夜を何とか越える。スーパーマーケットで、品物に手を伸ばそうとしてためらう。いっぱいにふくれあがったスーパーのビニール袋を持って帰る家、そこに帰って来る人のことを思い出すから。もう買えないもの、行けないところ、見られない写真、はめられない指輪だけが増えていく人生だ。まだ死んでいない人が死んでしまったあとの世界を思って「もっと一緒に生きていたかった」と言いながら泣く。
怒りのあまり手が震え、煙草を2本も折ってしまった。長いままの吸い殻が不格好に灰皿からはみ出している。怒りに燃えている時は何本吸っても平気だ。酒が飲めないかわり、私は煙草で気持ちを散らす。「きみって煙草が似合うんだよな」と、当の怒りの対象である男から言われたこともある。本当に怒っていない時は上手に吸えず、気分が悪くなる。寝る前にうっかり煙草に口をつけてしまった夜は、どうしてそんなことしたのかと、地獄のような吐き気と頭痛に後悔しながら眠る努力をしなければならない。なのにあの人はどうして、朝起きてすぐに煙草を吸ったり、夜寝る前に煙草を吸ったりしても平気だったんだろう。
それはつまりぼくのことを好きじゃないんじゃないの、と、男はとうとう気がついたように言った。そうかもしれない、と答えてから、本当にそうなのかどうか考え始めた。それなのに翌朝、彼は、子どもを育てる夢を見た、と言いながら起きた。二人目も生まれたよ。ぼくひとりでは産めないと思うから、たぶんきみとの子じゃないかな、などと言って。
2016年1月6日水曜日
2015年12月29日火曜日
しずかな気持ち
夢。病気の検診で病院に行ったのに、子どもがいますね、と医者は言った。私の腫瘍はどうなっているのか、あんなに大きい腫瘍があるのに子どもなんて産めるのか、つい最近も痛んでいたのに、とまず思った。特に「困った」とは思わなかった。10か月後に産まれてしまうから、いろいろ急がなければなあ、それにしても最近生理来たばっかりなのにどうしてかなあ、とは考えた。エコーの写真を見せてください、と医者に頼んで、プリントしたものをもらった。母や男や、いろんな人の顔を思い浮かべてから、誰にも言わずに一晩考えようと思って、しずかな気持ちで歩き出した。夢。
2015年12月23日水曜日
こわいもの
片手ですくうように抱けるほどの仔犬を見て、殺してしまったらどうしようと思う。あまりに可愛く小さいのが恐ろしい。もちろん、全然、ぜったい殺したくない。大切に大切に育てたい。でも、ああかわいい、と口にした途端、踏みつぶしたり蹴ったりしてしまいそうだ、という気持ちがすぐ後を追いかける波のようにやってくる。怖い、怖い、と思いながら抱く。くろくとがったうぶげ、しろくてやわらかい腹、その下にあるほそい骨、1分間に200回のみゃくはく、ぜんぶをゆだねるように甘えて跳びはねる、こいぬ。ごはんをあげようとすると、よろこびのあまり立ちあがってバランスをくずし、背中からのけぞってころぶ、こいぬ。
一緒にいても人は孤独なものさ、と言う人がいる。それを了解しあった者同士なら、もしかしたら一緒にいて孤独でもましなのかもしれない。これは例のあれなんだ、人は誰と一緒にいても寂しい時があって、今がその時なんだって、お互いわかることができるだろう。孤独なのが人の真理だとして、そういう孤独すら味わってほしくないほど愛していると、今わかったところでどうにもならない。
一緒にいても人は孤独なものさ、と言う人がいる。それを了解しあった者同士なら、もしかしたら一緒にいて孤独でもましなのかもしれない。これは例のあれなんだ、人は誰と一緒にいても寂しい時があって、今がその時なんだって、お互いわかることができるだろう。孤独なのが人の真理だとして、そういう孤独すら味わってほしくないほど愛していると、今わかったところでどうにもならない。
2015年12月22日火曜日
褥瘡
薬で眠った夜の翌朝は、しゃっくりが出る。頭を振って起き上がり、のど元で鳴るまぬけな音を聞く。口を濯いで顔をあらって、冷凍庫からチョコレートミントバーを取り出す頃には、もう止まっている。
早足で追いかける。どうして並んで歩くことができなくなったのか今もわからない。後ろ姿を追って泣く。幸せにできなくてごめんなさい、と思う。幸せに、なんて傲慢さを押し付けたいくらい、あなたのことを好きだった。私のせいで嫌な思いをしないでほしいと思っていた。私の体のほとんどがあなたを愛しているけど、私の心の、あなたと重ならないほんの少しの部分が、私の半身を腐らせる。大丈夫、ほんの少しのはずだから、と思っていたのだ。腐るのは私だけなんだから、とも。
早足で追いかける。どうして並んで歩くことができなくなったのか今もわからない。後ろ姿を追って泣く。幸せにできなくてごめんなさい、と思う。幸せに、なんて傲慢さを押し付けたいくらい、あなたのことを好きだった。私のせいで嫌な思いをしないでほしいと思っていた。私の体のほとんどがあなたを愛しているけど、私の心の、あなたと重ならないほんの少しの部分が、私の半身を腐らせる。大丈夫、ほんの少しのはずだから、と思っていたのだ。腐るのは私だけなんだから、とも。
2015年12月21日月曜日
言葉のセンス
昔は、嫌なことがあると自分で髪を切っていた。うしろがわの髪の束を、ほんの少し。あるいは、前髪をばっさり。痛くはない。寂しいだけ。吐くよりはまし、何も無駄にはならないから。愛する人が思うように愛してくれないのは昔から。
考えの痕跡を知りたいから、人の書いたものは何でも読む。中でも、好きな人の書いたプログラム設計書がいちばん好きだった。好きな人の書く文章を読むのは怖い。好きな人の文章を読みたくないから、プログラム設計書を書く人を好きになった。
恋愛体質と人は言うが、べつに依存しているわけでも中毒なのでもない。自分が決めた相手に、心も身体も全部ひらいて委ねることができるだけだ。逆上がりと同じで、できる人には何という事もないが、できない人には絶対できない。
2015年12月20日日曜日
夜の電話
こんな時間に電話かけてくるのは君だけよ、と言いながら久しぶりの煙草に火をつける。君の言葉に耳を傾け、世界でいちばんドラマティックな愛の告白があるとしたら、きっとこういうのではないかしら、と思う。
君からの電話は二度と取らない。僕のひそかな決意は伝わらない。そう決めた時には、君と話す機会は永遠に失われた後だから。君の人生の中で、僕はいつでも都合よく呼び出せるおまけみたいなものだった。おまけから無視されることがあるなんて、軽く見ていた男が自分を救ってくれなくなることがあるなんて、君はびっくりしたかもしれないね。まあ、君ももう僕を忘れているとは思うけど、君のことを執念深く覚えてる女がいるから、彼女には気をつけたほうがいいな。
本当に、重要な時は絶対に電話を取るからね。私を信じて、掛けてきて。
どんなに君が途方に暮れても、君と話すことはもうないよ。そのことはとても残念なことだし、大きな損失かもしれない。でも僕はもう何とも思ってないし、何も感じることがない。
君からの電話は二度と取らない。僕のひそかな決意は伝わらない。そう決めた時には、君と話す機会は永遠に失われた後だから。君の人生の中で、僕はいつでも都合よく呼び出せるおまけみたいなものだった。おまけから無視されることがあるなんて、軽く見ていた男が自分を救ってくれなくなることがあるなんて、君はびっくりしたかもしれないね。まあ、君ももう僕を忘れているとは思うけど、君のことを執念深く覚えてる女がいるから、彼女には気をつけたほうがいいな。
本当に、重要な時は絶対に電話を取るからね。私を信じて、掛けてきて。
どんなに君が途方に暮れても、君と話すことはもうないよ。そのことはとても残念なことだし、大きな損失かもしれない。でも僕はもう何とも思ってないし、何も感じることがない。
2015年12月3日木曜日
メフィストフェレス
夜には悪魔がやってくる。うとうとして、ほんのわずかの合間にも。悪魔は、横断歩道の向こう、立ちすくんで声の出ない私を見捨てる。悪魔は私に隠しごとをして、ほかの女を家に泊める。悪魔は私の顔を見て、肌が黄色いから可愛くないと言う。思わず大きな声を上げて目を覚まし、こんなことがあった、とわあわあ泣くと、男は、それはぼくじゃないよ悪魔だよ、と言いながら私の背中をさすってくれて、そうか、そうか、悪魔なんだ、顔は似ているけれどこの人じゃないんだ、と思って今度こそ安心できたか、に、見えたけれど悪魔はきっとまた現れる。私の押し殺したコンプレックスと、嫉妬、衝動のぜんぶを引きずり出し、私を痛めつけるために。
2015年11月11日水曜日
家移り
いつも押し出されるようにして引っ越す。水が満ちてきてあふれるように、そこにいられなくなる繰り返しだ。心から好きな場所を選んで住み着くことが、これから先あるのだろうかとさえ思う。
今の家に越してきた頃のことを思い出す。あの頃からずっと私は眠れない生活で、朝になってやっとうつらうつらしていると、凄まじい工事の音が聴こえてきていたのを覚えている。マンションの廊下には張り紙がしてあって、階下の部屋で床の張替えをしているのを私は知っていた。でもこのマンションは新築で、どうして床の張替えなんかが生じるのかぜんぜんわからなかった。ドリルで穴を開けまわるような轟音が一日中響き、私を蝕んだ。家から逃げて、いろんな場所に避難した。体は重く、心も塞いでいてとても外に出たくなんかなかったのだけど、ドリル音に気が狂ってきたので、枕元に服を用意して、朝起きたらとにかく逃げることだけをがんばった。3か月の間に、階下の部屋に住む人は二度もそんな工事をした。気が狂っているのは私だけはなかったのだ。
狂人は他にもいて、昼間はずっと女の叫び声が聴こえていた。女は長く叫ぶ。何かに抵抗するとか、意思表示をしている感じはぜんぜんなくて、ただ長く長く、金切り声を上げて叫ぶ。それは同居人も聴いたので間違いないと思うが、同居人が休日にちらっと聴いただけなのに比べて、私は毎日毎日朝から叫び声とドリル音を聴いていたので、神経がすっかり参ってしまったのだった。
あの頃は、日の射さないこの部屋でとても暮らすことなどできないと思った。長い長い廊下を経て、マンションの外に出ないとその日の天気もわからないほど、奥まった部屋なのだ。毎日泣いていた。追いつめられて、川や線路を見るたびに飛び込みたいと言うので、同伴者は私を止めるのに苦労していた。 そういう二年間であった。
今の家に越してきた頃のことを思い出す。あの頃からずっと私は眠れない生活で、朝になってやっとうつらうつらしていると、凄まじい工事の音が聴こえてきていたのを覚えている。マンションの廊下には張り紙がしてあって、階下の部屋で床の張替えをしているのを私は知っていた。でもこのマンションは新築で、どうして床の張替えなんかが生じるのかぜんぜんわからなかった。ドリルで穴を開けまわるような轟音が一日中響き、私を蝕んだ。家から逃げて、いろんな場所に避難した。体は重く、心も塞いでいてとても外に出たくなんかなかったのだけど、ドリル音に気が狂ってきたので、枕元に服を用意して、朝起きたらとにかく逃げることだけをがんばった。3か月の間に、階下の部屋に住む人は二度もそんな工事をした。気が狂っているのは私だけはなかったのだ。
狂人は他にもいて、昼間はずっと女の叫び声が聴こえていた。女は長く叫ぶ。何かに抵抗するとか、意思表示をしている感じはぜんぜんなくて、ただ長く長く、金切り声を上げて叫ぶ。それは同居人も聴いたので間違いないと思うが、同居人が休日にちらっと聴いただけなのに比べて、私は毎日毎日朝から叫び声とドリル音を聴いていたので、神経がすっかり参ってしまったのだった。
あの頃は、日の射さないこの部屋でとても暮らすことなどできないと思った。長い長い廊下を経て、マンションの外に出ないとその日の天気もわからないほど、奥まった部屋なのだ。毎日泣いていた。追いつめられて、川や線路を見るたびに飛び込みたいと言うので、同伴者は私を止めるのに苦労していた。 そういう二年間であった。
2015年11月9日月曜日
玄関
夏が来る前に死んだ大型犬が、玄関で私を待っていた。しっぽを振って、笑っているようだった。名前を呼び、撫でて抱きしめても大型犬は消えなかった。大型犬は変わらず、優しい子だった。小型犬もそばにいてくれた。二匹で私を励ましたり、慰めたり、近況を聞いてくれているのだった。目が覚めてから嬉しくて、でも目が覚めたことは悲しくて、ソファで少し呼吸を整えた。ほとんど眠れなかったので頭は朦朧としていた。
次に眠ると、嘘をつかれたり隠し事をされたり、その嘘を他人から教えられたりする夢を見た。
次に眠ると、嘘をつかれたり隠し事をされたり、その嘘を他人から教えられたりする夢を見た。
2015年11月1日日曜日
もう死んだものたちのこと
薬を飲むと、幻覚を見たり変な言葉を話したりしてしまって、隣にねむる人を困惑させたりひどく不安にさせてしまう。彼が私より遅く起きていたりせずに、薬の効きはじめた私を覚醒させたりしないで(つまり話しかけたりしないで)どこか遠いソファとかでねむってくれさえすればいいのだ。では君より先に寝ているのはどうか、と訊ねる人があるかもしれないが、神経質な時の私は、他人のすこやかな寝息も耳障りに感じるのでいやだ。
今朝は、6月に死んでしまった大型犬に夢の中で会えた。階段の下、はるか遠くに犬はいて、目を赤く光らせていた。もう少し降りると崖だ、あぶない、と思って私は犬を助けるために階段を駆け下りた。骨組みだけの、下の景色が透けるおそろしい階段だったが、犬のためなら何も怖くなかった。ぎりぎりのところで私は犬をつかまえたが、そのとたんに犬は手の中でくだものになってしまった。
夢には祖母もいた。このところ、もう死んだ人のことばかり頭に浮かぶ。私の夢の祖母は、いつも無言で強い警告を発するように不穏な存在感を放つ。目を覚ましてから思い返しても、しみじみ、あれは人ではない、と思って畏れを抱く。実際には、お願い事があると大好きなチョコレートを断って願掛けしたり、アイスクリームに目がなかったり、バッグにいつも森永ハイソフトキャラメルを入れていたり、庭のすずめにお米をまいたり、来客にケーキを欠かさない祖母だったというのに。
電車の中で、死んだ大伯父の、節くれだった指のことを思い出していた。彼は祖母の兄で、2年前に亡くなった。兄妹というのは、手の形がよく似ているもので、大伯父の手をにぎりしめながらいつも私は、祖母みたい、と喜んでいたのだった。どうして、大伯父のことを一度も抱きしめないまま死なれてしまったのか、思い出すたびに今も寂しい。
今朝は、6月に死んでしまった大型犬に夢の中で会えた。階段の下、はるか遠くに犬はいて、目を赤く光らせていた。もう少し降りると崖だ、あぶない、と思って私は犬を助けるために階段を駆け下りた。骨組みだけの、下の景色が透けるおそろしい階段だったが、犬のためなら何も怖くなかった。ぎりぎりのところで私は犬をつかまえたが、そのとたんに犬は手の中でくだものになってしまった。
夢には祖母もいた。このところ、もう死んだ人のことばかり頭に浮かぶ。私の夢の祖母は、いつも無言で強い警告を発するように不穏な存在感を放つ。目を覚ましてから思い返しても、しみじみ、あれは人ではない、と思って畏れを抱く。実際には、お願い事があると大好きなチョコレートを断って願掛けしたり、アイスクリームに目がなかったり、バッグにいつも森永ハイソフトキャラメルを入れていたり、庭のすずめにお米をまいたり、来客にケーキを欠かさない祖母だったというのに。
電車の中で、死んだ大伯父の、節くれだった指のことを思い出していた。彼は祖母の兄で、2年前に亡くなった。兄妹というのは、手の形がよく似ているもので、大伯父の手をにぎりしめながらいつも私は、祖母みたい、と喜んでいたのだった。どうして、大伯父のことを一度も抱きしめないまま死なれてしまったのか、思い出すたびに今も寂しい。
登録:
投稿 (Atom)