2015年8月12日水曜日

ある日(海水浴、花火)

朝のしたくをしていて、洗顔用のせっけんをなくしたことに気づいた。すぐに昨日の柳湯に置き忘れたのだとわかったが、取りに行こうとは思わなかった。高価なせっけんではあって、もったいないのだけど、もらったものだし、その相手のことを思い出すとまああのせっけんはどこか遠い地で誰かの手に渡っていく方が、いいかな、いいよな、という気になったからである。私のせっけんよ、どこかで誰かの肌をうつくしく磨いてあげてほしい。

アートセンターからいちばん近い外湯、鴻の湯の駐車場にもう3日も同じ赤い下着(男もの)が落ちていて、見るたび気になる。私がはじめてそれに気づいたのが3日前というだけで、実際はもっと前からあるのかもしれない。

隣町の駅に行って、30分ほどかけて海岸まで歩いた。海水浴場はにぎわっていて、海にはすいかのかけらとか、浮き輪をつけた子どもとかがたくさん浮かんでいた。男たちは、半島の先端の灯台をめざして山をのぼっていった。 私は途中までついていったけれど、これは無理だ、とすぐ判断してひとりで先に降りた。それで、別の突堤とか岩場とかを歩き回った。思いついて観光案内所で電動自転車を借り、ひと山越えた海水浴場や、奇岩を見に行ったりした。山を降りた男たちを迎えに行くと、彼らはぐったりして汗に濡れたシャツを乾かしていた。バス、電車を乗り継いで帰れる方法と時間を調べるのは、いつも私がやる。

城崎では毎晩花火があがる。10分ほどの小さなものだが、平日は毎晩。今日は浴衣を着て、それを見に行った。町ゆく人々のように、浴衣を着て歩いてみることで発見もあった。まず、あまりにも涼しいので、冬が心配である。何を羽織るのか、何を履くのか、など。そういう気持ちを知れたことはよかったし、浴衣とはいえ、和服を着るのは楽しくて良かった。

リサーチメンバーのひとり、りっきーはその昔保育士をしていて、今日も同じ場所に居合わせた5歳の少女と上手に遊んであげていた。少女はりっきーの似顔絵を描いたりして、ごきげんだった。別れぎわ、母親の自転車に乗せられた少女はうしろを振り返って「りっきー、どこから来たのー?」と問いながら遠ざかっていった。彼女は、城崎の町には住む人よりも旅をする人の方が多いことを5歳にしてすでに知っているのだった。りっきーは手をふって、自分の住む町の名を叫んだが、自転車はすでに遠くなっていて、それが彼女に聴こえたかはわからない。

2015年8月11日火曜日

ある日(スーパー、キッチン)

頭は起きているのに体が動かない時間が続いていて、そうこうしているうちに、アートセンターの消防訓練のサイレンが鳴る時間になってしまい、大音量におびえながら時間が過ぎるのを待った。そこから気を取り直すまでにまた1時間くらいかかったけれど、窓の外の日差しが昨日までよりやわらかい気がしたので、麦わら帽子は置いて出かけた。しめつけるものを、半日以上頭の上に乗せていると頭痛がしてしまう。ネックレスも、数時間していると肩がこって頭痛のもとになるので、なかなかできない。ぶらさがる大きなピアスなども。

鴻の湯で、やもりが地面を這うはえを食べる瞬間を見た。食べるかな、と思って、やもりがはえに近づいていくところから見ていたのである。捕食のあと、やもりはするすると物陰に引っ込んでしまったので、私もその場を離れた。

スーパーで、同じくアートセンターに滞在中のO氏にたまたまお会いする。ここでは、地元産の野菜やたまご、肉などをかごにいっぱい買っても、東京よりよほど安いのだった。

夕方から夜にかけて仕事をし、休みがてら夜の風呂にゆく。ちょうど花火があがる時間で、川にかかる橋には浴衣姿のひとびとがずらりと腰かけて、空を見上げていた。ひときわ大きな花火が、その日最後の花火だと、誰もがわかって拍手を送るのは不思議なことである。しかし、そのあとの湯が混んだ。 柳湯というごく小さな、しかし檜の香りたかい、私の気に入りの湯に行ったのだけれど、あとからあとから若い娘がおおぜい押し寄せてきて、芋洗いのようになってしまった。芋であればまだよくて、若い娘の体がひとところに、服を着ない状態で密集しているのはおそろしいものがある。おびただしい数の裸体が放つ無防備で図太い空気に、気持ち悪くさえなった。娘たち、というより、哺乳類の群れ、という言葉が浮かんだ。人それぞれに、本当に形のちがう乳房を眺めていたからかもしれない。若い体というのは、束になると当てられる。波長の短い、エネルギーの強い光線でも発しているのかもしれない。

夜、キッチンで食事をこしらえている時に、最近私が書いた文章の中の、横浜駅の描写の話などをした。それで遠い横浜のことを思いながら、スーパーで昼間買ってきた肉と野菜を炒めて食べた。


横浜駅には足りないものがたくさんあって、不満をあげればきりがないのであんまり行かない。中でもカフェはぜんぜん足りない。別に普通の、炭水化物やたんぱく質のような栄養素を取りたい場合のたべもの屋には事欠かないが、道を歩けばコーヒーチェーンばっかりで、本がたくさん並べてあって落ち着いた雰囲気があるとか、焼き菓子がとてもおいしいとか、テーブル同士がじゅうぶんな距離を取っていてリラックスできるとか、日当りがよくて外を見ているだけで楽しいとか、そういうカフェがないのである。そのくせ、安っぽい居酒屋チェーンとかラブホテルだけはひそやかに、しっかりと、あるのだ。人間のごく普通の欲望のラインを、過不足なく満たすだけの町。よぶんな洒落っ気や、空間のあそびがあまり存在しない町。
『人魚が星見た・第一話』

2015年8月10日月曜日

ある日(温泉岩)

外に出た瞬間に、日傘を忘れたことに気づいた。少し考えたが、取りには帰らず鴻の湯に向かう。若いお嬢さんたちのグループに行き合い、にぎやかな朝風呂となる。20代までは、体を見れば年までもほぼわかる。それは自分が来た道だからでもあるが、おおよそ35歳くらいからは個人差がはげしくなって、男も女も、体を見ただけでは年がわからなくなる。若い40代か、不摂生な30代かなどは、日々の過ごし方によって表れ方がことなる。

ロープウェーのたもとで、アイスを食べてF、Mを待つ。玄米キャラメル味。この広場には「温泉岩」(わたし命名)という岩があって、それは城崎温泉の原泉を柵でかこったものなのだけど、いつも、つい吸い寄せられるように見てしまう。大きな岩から80度のお湯が吹き出している、ゆたかな岩である。冬はさぞかし湯気でもうもうになるだろうな、とまだ見ぬ城崎の冬のことを考えながらアイスを食べていると、 Mが来た。アイスのよもぎ味を買って食べはじめる。草餅をまるめてアイスにしたらこういう味にちがいない、という楽しさ。もうしばらくしてFが来たので、3人でロープウェーに乗る。乗り場までは石段がだいぶあって、それを見たひとりの老人が、降りてきた乗客に「上には何がありましたか?」と先取りして訊ねていた。聴かれた人は「まあ、町と川くらいですかね」と身もふたもないことを言い、老人は石段をのぼる意欲を失ってしまったが、家族に取りなされて結局乗り場までやってきた。

ロープウェーで山をのぼっているあいだじゅう、下にひろがる森を見て、木の種類などを数えていた。ぱちくりした目の生きものと目があって、「あ」っと思った。鹿の剥製かな? 何でこんな山の中に鹿の剥製が飾ってあるのだろう? と血迷ってから、いやいや本物の鹿だろうよ、と思い直すまで0.1秒ほどで、鹿はぴょんと走ってもう消えていた。びっくりすると、本物ではないのでは、とすぐ思い込んでしまうくせが自分にはあるのかもしれない。たとえば私が山育ちで、日常的にけものに注意を払う生活をしてきていたら、そんな考え方にはならないのではないか。まったく、私は都会で愚鈍な暮らしに慣れきっているんだ、とやたら自分を責める気持ちがわいたが、ロープウェーの終点について山の景色を見たらすぐ元気になって広場を歩き回って満喫した。確かに、町と川しか見えるものはないけれど、見え方が重要なのだ。何だってそうだ。

山を降り、列車で隣の駅の玄武洞へ。円山川のほとりで電話をすると、渡し船が迎えにきてくれた。船頭である壮年の女性の導きにより、数分でわれわれは対岸のミュージアムについた。先に食事をすることにして、レジで食券を買おうとしたところ、三角巾を頭にまいて現れたのは先ほどの船頭女史で、「あれっ、船もお食事もなさるんですね」と言うと彼女は「そうですね、呼ばれたら船もこぎますし、われわれみんなオールマイティにやらさせていただいております」と言った。真の仕事人は、みずからの仕事をやたらと語らない。

城崎温泉界隈に帰り、駅前のさとの湯につかる。体力がここで尽き、アートセンターに戻って休む。ふたたび部屋を出られた時は19時半を回っており、あたりの道はすっかり暗くなっていた。温泉岩の前を通りかかると、もうロープウェーもアイスクリーム屋も終わっていて、暗い公園の中でお湯だけがこんこんと湧きつづけていた。当たり前だけど、誰も見ていなくても温泉岩からお湯は湧いている。寂しい夜、むなしい夜、どこかに思いを馳せたい夜に思い出すものが私にはいくつかある。人のいない世界で80度のお湯を吹き出しつづける温泉岩も、その中に加えたいと思う。

2015年8月9日日曜日

ある日(湿地、いくつかの外湯)

川のほとりの喫茶店で、トーストを食べる朝。ゆでたまごも、トーストも久しぶりだった。コーヒー付きのセットなので、コーヒーに決まっているのかと思ったら、カフェオレや紅茶も選べるのだった。

自転車屋さんで、自転車をお借りする。2時間400円。円山川にかかる城崎大橋を渡って、かつてコウノトリがやってきたという湿地をめざす。川の幅が広いうえに、水面と橋の距離が近いので恐ろしい。子どものころから深い水のイメージが怖くて、船に乗ったり橋を渡ったりすると、川や湖(海はほとんど行ったことがない)に沈んで死んでいる自分の姿が見えて怯えていた。たぶん私の前世の体は、十和田湖か猪苗代湖など、北のほうの湖の底で朽ちているのだと思う。橋を渡りはじめて半分ぐらいで、怖くてたまらず引き返したいと思ったけれど、こんな川の真ん中では行くも帰るもどちらも怖い、と思ってがんばって走り抜けた。

湿地には、小さなたてものがあって、中には望遠カメラ、資料集などがたくさんあった。スタッフの女性が、朝からあそこに止まっているんですよ、と指さしたはるか先に、コウノトリのつがいがいた。このまま国道沿いを行けば見られると教えていただき、自転車をこいで向かった。コウノトリたちは電柱のてっぺんにいて、暑いだろうに、じっと田んぼを眺めていた。彼らがいつまでそうしていたのか、結局わからなかった。

海を見たり、公苑の方まで外遊して町中に戻り、地蔵湯に入った。20代前半の若いお客さんが多くて、脱衣所も浴室も、水をはじくような活気がどことなくある。いけないと思いながら、つい人の体を見てしまう。若い娘さんたちの体の差異は、ただ生まれた時の個性の範疇だ。 ここから時間が堆積していって、傷や痕も増えたりして、ひとりひとりの人生のにじむ体つきになっていくのだろう。

休息を挟み、日没の間際に極楽寺を訪ねた。しずかな枯山水の庭である。寺の門のところで、おそるおそる中を覗きこんでいる欧米人カップルがいた。たしかに、枯山水の庭園は入るのをためらう気持ちにさせるから、いたしかたない。背後からすり抜けようとすると、男性のほうに思いきりぶつかってしまった。彼らは結局、寺には入らなかった。

日が暮れて、極楽寺のすぐそばの、まんだら湯という湯に入る。ちょうど人々は宿で食事を取っている時間なのか、湯は人もまばらだった。私は四角い内風呂と、露天の桶風呂をすばやく堪能した。欧米人の女性がひとり、目についた。脱衣所を出たところに、欧米人の男性が待っていて、女湯にいたパートナーらしき例の女性を待っていた。それで、彼らがさっき、極楽寺を覗いていたカップルであったことに初めて気がついた。服を脱いでしまうと、人の顔がいかに意味のなくなることか。

F、M両氏と食事をとり、三たび、湯をめざした。 柳湯というところである。Fは、今日4度目の湯であると言った。あなたのようなお湯乞食も日に4度となるとお湯貴族に昇格です、と告げると彼は喜んだ。

2015年8月8日土曜日

ある日(京都、城崎)

城崎に行くために、まず京都に行った。おみやげものを駅で見ていたが、夜中に食べたくなりそうないいお菓子がなく、おなかにたまりそうなものは若鮎くらいだった。結局、改札の中のセブンイレブンでメロンパンを買って、特急に乗った。結構混雑していて、自由席はぎっしり埋まっていた。眠かったけれど、知らない人の隣で寝るのが嫌なので起きていた。でも、知らない人が隣で寝ているのもものすごく嫌なので、どちらかを選ぶしかないと、つまらないことを考えていたら、いつの間にかうたた寝していた。和田山を過ぎるとどっと車内はすいて、二人掛けの座席に寝そべって眠ることもできそうだったけれど、そういうことはしなかった。特急列車は、途中で、前の列車が鹿と衝突したためにしばらく停まった。時を同じくして、滞在予定のアートセンターから「城崎町内で小熊の目撃情報がありましたので、お気をつけください」というメールを受けとった。

豊岡で特急を降り、もう二駅、鈍行を乗り継いだ。それはボタンを自分で押して扉をあけるタイプの車両で、不慣れな私はうまく降りられなかったらどうしようと思いつめて、動悸がした。乗る時は、先に乗った人のあとにすばやく付いて乗り込んだので、問題なかったのである。城崎温泉駅で、降りるのが私だけだったらどうしよう、とひそかに悩んでいたところ、車内アナウンスで丁寧に、扉の開け方を説明してくれたので少し安心した。列車が駅につく2分も3分も前から、帽子をかぶり、リュックを背負い、トランクを引きずって準備をととのえた。列車が停車して、アナウンスのとおりに扉の横のランプがついたので「開」ボタンを押して、慎重さと優雅さをぎりぎりあわせもつしぐさで、ホームに降りた。

見覚えのある男性が改札の中をのぞきこんでいる。1秒ほど考えて、アートセンターの近くにある温泉旅館の主人H氏であると思い出した。先月、懇親会でお目にかかったのだ。思いがけない再会にうれしくなり、こんばんは、と声をかけ、あらためて名乗ると向こうも私を思い出してくれたようだった。私は、人の顔を覚えられないことも多いのだが、ふしぎによく記憶できる場合もあって、それはどういう違いなんだろうと思う。H氏は、駅に今宵の宿泊客を迎えに来たとのことだったが、手違いで空振ってしまったと言った。どうやってアートセンターまでいらっしゃいますか、よかったらうちの車にお乗せしますよ、とおっしゃっていただき、思いもかけないことに喜びが温泉のようにわきあがる心地がした。ちょうど、湯上がりのF、M両氏が自転車で登場したので、私は一度アートセンターまで荷物を置きに行き、のちほど町で再会することにする。

H氏のご親切はそればかりでない。旅館の電動自転車を私に貸してくださったのである。城崎の町の人の、尋常ならざるもてなしと、協力を惜しまない心意気はとてつもない。先月おとずれた時にそれを感じて、あまりにも町全体で協力しあい、もてなしの心を持って交歓する様子が理想的で、にわかには信じがたいほどおどろいた。今夜は、H氏のご厚意に対し、あおぎみるようにして甘えた。

自転車を借りたおかげで、今夜はあきらめかけていた温泉にも入ることができ、F、M両氏ともふたたび合流することも容易だった。3人で食事を終えて店を出ると、時間は22時半をまわっていた。城崎の外湯の営業時間は23時までである。Fは「がんばればもう一度温泉行けるなあ」と言ったので、私は、そんなお湯乞食みたいなのはやめなさい、ゆっくり滞在するのだから明日にしなさい、と言った。

2015年7月14日火曜日

小型犬の探索

昼寝していた小型犬を散歩に誘うと、張りきって走り出した。リードをぴんと張って、ぐいぐい私をひっぱっていく。小型犬は元来のんびり屋で、散歩の時も急がない。ところが今日は、強い意志で先へ先へ進んでいった。とても、珍しいことである。家を出て駅の方へまっすぐ、裏通りを、ためらわず。途中、ちょっと曲がり角で迷ったけれど、駅の方角を選びとってまた獅子奮迅の勢いで小型犬は、進んだ。それで、どこに行こうとしているのかが、私にはわかった。

小型犬は、駅前のエクセルシオールに行きたかったのだった。そこはかつて私の両親が、大型犬と小型犬を連れてテラス席でお茶を飲むため、よく通った場所だった。

テラス席の前にたたずみ、じっと何か考えている様子の小型犬が、心底不憫に思われた。こんなに小さくて可愛い何にも知らない生きものが、悲しんで心を痛めていることをこそ、不憫というのだと思った。テラス席には何匹か、中型犬などの犬がいた。小型犬は普段なら、ほかの犬に大声で吠えたりするのに、今日は黙ったまま、ずっと大型犬のことを探していた。あまりにうろうろ歩き回るので、「ほら、帰るよ」と何度もなだめた。小型犬はあきらめずに、何度もエクセルシオールまで戻ろうとするので、ついには抱きあげて歩いた。

母に、「あれからエクセルシオール、連れていってない?」と訊ねたら、「行ってない、悲しくて」と言った。きっと小型犬は、あ、まだあのカフェを探していない! と思いついて、私を引きずって一緒に走っていったのだ。小型犬は、走り疲れて眠っていた。床の、同じ場所に寝そべって、大好きだった大型犬を失ってしまったこの子の中で、まだ喪失感が続いていることに私も泣いた。

2015年7月3日金曜日

夏は抹茶

「おかえり」と言われることがなくなってずいぶん経つ。両親の家に行くと「いらっしゃい」と言われる。そんな両親の家には、近所に住む子どもがときどき遊びにくるらしい。去年、夏に母が抹茶の水ようかんをあげたところ、少年Kはたいへんにそれを気に入って、今年もそれとなく、母に「水ようかん、ある……?」と訊ねたようなのだ。その水ようかんは、確か去年わたしが手みやげに持っていったもので、つまり、たまたま実家にあったものなので、母は「ごめんなさい、今はないの」とKに謝ったそうである。

その話を聞いて一念発起した私は、電車に乗ってデパートに向かった。次に少年Kが遊びにくるまでに、何としても抹茶の水ようかんを手に入れなければならぬ。雨の中、デパートの地下の、洋菓子和菓子店があまたひしめく中を歩きまわり、これぞ、という水ようかんを得て母のもとへ向かった。そして、無事に抹茶水ようかんを少年Kに渡せた、という知らせを母から受けたのが昨日のことである。5歳の少年が、和菓子をほおばってうれしそうにしている絵を思い浮かべると、私もうれしい。

2015年6月27日土曜日

大型犬の死

昨日、実家に向かっていた時のこと。大型犬が、食べたものを全部吐いてぐったりしている、という連絡を父から受けた。三週間前に摘出した腫瘍は良性で、高齢ではあったけれど、ずいぶん元気になったように見えていた。何があったかわからないまま、走って家に向かった。大型犬は、床に伏してかすかに息をしていた。目をときどき瞬かせ、顔も少し動かしたりする。私が顔をよせると、私のことがわかって、鼻をくんくん言わせた。小型犬をもう一匹いっしょに飼っていて、その子は私が家に来たことを喜んでくれたけど、それどころではないので、しばらく抱っこしてからケージの中に戻した。

落ち着いたら、獣医に連れていこうと思っていた。本当は、今すぐ行かないともうだめなのではないか、と思った。でもこんな状態では動かせないし、飼い主である両親の意志を尊重しなければならなかった。1時間前まで、元気にごはんも食べ、家の外に出たりもしていたという。何でこんな急に、と母は言いながら、病院に連れていく前に、家族の夕食のしたくをしていた。

犬のくちびる、舌は真っ白で、重度の貧血を起こしていることが見てとれた。口元も、頭も、足の先も冷たい。脈が取れない。血圧が急激に、下がっていた。なでながら、声をかけることしかできなかった。大型犬は、台所の母の様子を気にしながら、立ち上がろうとしていたけれど、足に力が入らないみたいだった。

様子が急変した。呼吸が時々止まっては、不規則に吹き返された。それで、台所にいる母を呼んだ。小型犬をケージから出して抱き、いっしょに付き添った。名前を呼んでも、もうだめだった。瞳孔がひらいていた。もう呼吸はしていなかった。生きていたものが呼吸しなくなって、あんなふうにして息絶える瞬間をはじめて見た。何でこんな急に、ごはんの用意なんかしていないで側にいてあげればよかった、と言って母は泣いた。

12年間、家族をつなぎとめてくれた大型犬のため、その夜は妹も弟も早く帰宅した。私も実家に泊まり、大型犬のそばの床に寝た。小型犬は、自分を育ててくれた大好きな大型犬が死んでしまったことがわからないようで、しかし、動物の勘だろうか、横になった大型犬のしかばねはかつての大型犬ではないとして、近寄らなかった。翌朝になってから、少しにおいをかいだりしていた。

夕方、大型犬を、葬儀屋(というのだろうか?)が引き取りに来てくれた。家にいた家族はいっしょに付いていったが、私は小型犬をひとりにできないと思い、家に残った。大型犬をおさめた白木の箱が、車に乗せられて運ばれてゆくのを、抱っこして小型犬に見送らせた。家の中に戻ると、小型犬は急に鳴いて、大型犬を探し始めた。さっきまで、大型犬のしかばねが寝ていた場所をかぎまわって、私が呼び止めるのも聞かないで家中を走りまわった。どうしても、外に出たいと玄関で私に訴える。リードをつけてやり、外に出ると、一目散に門の外まで走り出た。しかしすぐに立ち止まった。門の中に戻ると言う。行きたいようにさせてやると、家の車をとめてある車庫から庭の方へ抜けてすみずみまで大型犬を探している。でも、もうどこにもいない。

もう一度門の外に出た。いつもなら元気に散歩に出るのに、今日は数歩歩いて立ち止まってしまう。大型犬のにおいを感じ取れずに、途方に暮れているのだろうか。しばらく茫然と外にいて、小型犬は家に戻ると言った。ふたたび家に戻ると、もう小型犬は鳴いたりせず、静かに、かつて大型犬とふたりでよく眠っていた玄関の冷たいタイルに横たわって、じっとしていた。 



2015年6月14日日曜日

不満

寂しさよりもっと濁った何かがつかえて眠れない。人のいる喫茶店で文章が書けない。自分ひとりだけで自分ひとりの人生を生きることができない。もう誰とも夜中に電話でつながることができないし、横で眠る人の息の根をとめることも許されない。

2015年6月4日木曜日

東洋医学

鍼灸院に行った。文章を書きたいという欲望にめぐりあっていなければ、私は漢方医か鍼灸師になりたい人生かもしれなかったと思うくらい、東洋医学には憧憬をよせている。院長は私の顔色を見て、首から肩から順に診断してゆき、肌の上から子宮に触れて「わ、硬い、これはよくないな」とひとり言を言った。「鬱だった時の体の疲れが取れてないんだよ。でも大丈夫、治してあげるから」と言ってくれて、私は涙ぐんだ。院長は忙しくカーテンで仕切られた患者たちの間を行き来して、触れた瞬間に判断をくだし、適切な処理をほかの鍼灸師たちに命じていく。

「先生、こんなに体の事わかるなら人の心もわかるでしょう」と、カーテンの向こうで女が言うのが聞こえた。「わかりすぎてねえ、嘘つきたくなっちゃうくらいよ」と院長は答えた。「言いたいことをね、いつも100秒くらい我慢するの。わかりすぎちゃうから。で、100秒我慢してるとトロいって言われるんだよなあ」と、おおどかに笑う彼を、私は信頼した。院長は私の首に長年巣くう、悪魔、いや大閻魔のような血のかたまりを瞬時に探り当て、鍼を突き刺し、脳天まで響くような施術をおこなった。すばらしい手際だった。その日は一日体が熱くてねむくてたまらず、翌日は鈍重な頭痛にさいなまれたが、昼過ぎからふと頭痛が去って、体が軽くなった。ここには、しばらく通うことにする。