2015年8月11日火曜日

ある日(スーパー、キッチン)

頭は起きているのに体が動かない時間が続いていて、そうこうしているうちに、アートセンターの消防訓練のサイレンが鳴る時間になってしまい、大音量におびえながら時間が過ぎるのを待った。そこから気を取り直すまでにまた1時間くらいかかったけれど、窓の外の日差しが昨日までよりやわらかい気がしたので、麦わら帽子は置いて出かけた。しめつけるものを、半日以上頭の上に乗せていると頭痛がしてしまう。ネックレスも、数時間していると肩がこって頭痛のもとになるので、なかなかできない。ぶらさがる大きなピアスなども。

鴻の湯で、やもりが地面を這うはえを食べる瞬間を見た。食べるかな、と思って、やもりがはえに近づいていくところから見ていたのである。捕食のあと、やもりはするすると物陰に引っ込んでしまったので、私もその場を離れた。

スーパーで、同じくアートセンターに滞在中のO氏にたまたまお会いする。ここでは、地元産の野菜やたまご、肉などをかごにいっぱい買っても、東京よりよほど安いのだった。

夕方から夜にかけて仕事をし、休みがてら夜の風呂にゆく。ちょうど花火があがる時間で、川にかかる橋には浴衣姿のひとびとがずらりと腰かけて、空を見上げていた。ひときわ大きな花火が、その日最後の花火だと、誰もがわかって拍手を送るのは不思議なことである。しかし、そのあとの湯が混んだ。 柳湯というごく小さな、しかし檜の香りたかい、私の気に入りの湯に行ったのだけれど、あとからあとから若い娘がおおぜい押し寄せてきて、芋洗いのようになってしまった。芋であればまだよくて、若い娘の体がひとところに、服を着ない状態で密集しているのはおそろしいものがある。おびただしい数の裸体が放つ無防備で図太い空気に、気持ち悪くさえなった。娘たち、というより、哺乳類の群れ、という言葉が浮かんだ。人それぞれに、本当に形のちがう乳房を眺めていたからかもしれない。若い体というのは、束になると当てられる。波長の短い、エネルギーの強い光線でも発しているのかもしれない。

夜、キッチンで食事をこしらえている時に、最近私が書いた文章の中の、横浜駅の描写の話などをした。それで遠い横浜のことを思いながら、スーパーで昼間買ってきた肉と野菜を炒めて食べた。


横浜駅には足りないものがたくさんあって、不満をあげればきりがないのであんまり行かない。中でもカフェはぜんぜん足りない。別に普通の、炭水化物やたんぱく質のような栄養素を取りたい場合のたべもの屋には事欠かないが、道を歩けばコーヒーチェーンばっかりで、本がたくさん並べてあって落ち着いた雰囲気があるとか、焼き菓子がとてもおいしいとか、テーブル同士がじゅうぶんな距離を取っていてリラックスできるとか、日当りがよくて外を見ているだけで楽しいとか、そういうカフェがないのである。そのくせ、安っぽい居酒屋チェーンとかラブホテルだけはひそやかに、しっかりと、あるのだ。人間のごく普通の欲望のラインを、過不足なく満たすだけの町。よぶんな洒落っ気や、空間のあそびがあまり存在しない町。
『人魚が星見た・第一話』

0 件のコメント:

コメントを投稿