2015年9月8日火曜日

ある日(危なさについて)

座禅は終わったけれど、ラジオ体操は8月31日までやるのだった。気がかりだったけれど、さすがに起きられなかった。6時ごろ目をさました時には雨の音がしていて、まあ、雨の吹き込まないところで体操はやるかもしれないけど、ちょっと行かれないな、と思って最後の最後で怠けてしまった。8時過ぎ、やっと起きだして雨の中自転車をこぎ、最後の地蔵湯。
Fが先に戻り、私は商店街でみやげものを見てからアートセンターに戻った。すると中から、フォトスタジオの三姉妹の声がする! あわててアートセンター入口に自転車を乗り捨て(その後、館長がしまってくださる)、駆けこむ。三姉妹が、夏休み最後の今日、水族館に行くことは昨夜聞いていたが、その前に私たちを見送るために立ち寄ってくれたのだった。三姉妹の母からは手ぬぐいを、次女と三女からはお手紙をもらった。忘れられてもいいなんて言ったって、涙が出るほど嬉しい。みんなで記念写真を撮って、今度こそ本当にお別れした。
『演劇クエスト』は「誰にでも人生があって、それがおもしろい」ということを表現したいのではない。ひとの人生から物語を見出して、無理にはぎ合わせたりもしない。誰もが劇的な人生を生きなくてもいいのだし、リアルな人生と、練られたフィクションの価値を比べようなんて思わない。私たちは人々とただ出会うために町を歩いていたのではなく、出会った人たちの目に映る「日常」というフレームを、揺るがすための言葉を探していたのだ。
「城崎の女性たちはアートを必要としている。町おこしや過疎対策のためではない、日々の自分の暮らしをみずみずしく変容させるものを、心から求めている。」と、私はこの城崎日記の中でかつて書いた。その気持ちは変わらないし、忙しさに心が渇いて寂しげな女性たちはどの町にもいる。しかし忘れることなかれ。芸術とは、いつでもあなたの生活をすくって転覆させる可能性をもつ、危険なものなのだ。ただ楽しい時間をもたらすのではなく、身を滅ぼす場所にあなたを招き入れることだってある。杉田久女が夫との不和をかえりみず俳句に打ち込み、最期は狂って死んだこと、金子みすゞが創作を禁じられ、子と引き離された果てに服毒自殺したこと、瀬戸内晴美が子を捨てて同志と決めた男のもとに逃げ、文学にその身を捧げたことなどは、本当にあなたに関係のないことだろうか? ひとりの時間を持って芸術に耽溺することの真の怖さ、そうしなくては生きられない人間の業の深さを、覗きこむ勇気があなたにあるか?
芸術は、現実逃避のためのしろものではない。かぎりなく、現実と地続きにあるものだ。その恐ろしさ、そして何にも代えがたい安心感。私たちはそういう本を書くために城崎に来て、とどまり、そして去ったのである。

2015年9月7日月曜日

ある日(バス、たこ焼き)

とにかく早起きして、駅前のバス停を目指す。ガイドのおばさんからきっぷ、バスのパンフレットなどをもらって、夏の土日しか運行していない、周遊バスに乗る。まず到着したのは水族館だが、朝が早すぎたので海を見ながら開園を20分ほど待つ。先日のHO氏のレクチャーによれば、高度経済成長を遂げているうちは、人は動物園をこのむが、ひとたび経済が落ち着いて、停滞を始めると今度は水族館にあつまるようになると言う。体重300kgのトドがプールにダイブするショー、アシカやイルカがジャンプしたり水上を華麗に舞うショーなどを見る。今度、横浜で作品をつくる時には八景島シーパラダイスも入れようと誓う。

周遊バスで、昼前に竹野の海のそばまで辿りつく。心残りだった場所をあらかた探索してまわり、町中にある記念館のご主人に母屋を案内していただいたりする。漁村の静けさは、農村の静けさとは種類が異なる。漁村がにぎやかなのは、沖から船が帰ってきたり、競りにくる業者が出入りするためで、つまり移動が生じるがゆえのにぎやかさである。だから漁村が静かな時は、海も波ひとつ立たず、しんとしている。農村だと、風がいつも稲を揺らしたりするので、人がいなくても何となく目に音を感じる。

竹野海水浴場から香住への道で、平家の落人が流れついた場所で、今も人が住む小さな集落を見る。平氏が滅びたのは1185年。始めのうちは、落ち延びて隠れ住んでいたのだからここから出られなかったのも、わかる。でももう830年も経っているのに、と思う。なぜ人は根を張った場所から動かなくなるのだろう。この周遊バスの走る道路が開通したのは、ここ数十年とのことだった。でも。いろんな疑問が頭をめぐる。人が、居場所から移動するのはかんたんではないのだ。そのことに疑問を抱く、私のような人間があつまって暮らすために、都市というものはできたのかもしれない。

バスで鉄橋のある町まで行き、電車に乗り換えて城崎まで帰った。帰った、という言葉がこの町に対して自然と胸にきざしたのは、いつだっただろう。こんなにもすぐ、人は居場所に根を張ろうとしてしまう。温泉のあとになじみの酒屋にゆき、ビールを買って飲む。Fと滞在制作を振りかえって話す。日記には書けないほど悩んだことも困ったこともあったし、未だにわだかまりもあるところにはある、と、いつわらざる気持ちをこぼしかけたところで、車に乗ったグルーニカさんの夫が通りかかった。そう、この町にはこうして、すれちがって声をかけてくれる友人がたくさん出来たのだった。もう会えないかと思っていた山頂のお寺のお坊さんも、車で通りかかり、窓をあけて話しかけてくださった。今はこのことだけで、手を携えて作品をつくる気持ちをじゅうぶん持つことができる。あとは移動しながら、走りながら、考えるのだ。アートセンターまでの帰り道に古美術屋に寄り、少女Aに再び会い、お父さんにこの町にまつわる資料のコピーをいただいた。Fをこの店に連れてくることができてよかった。

Fと私の送別会を、町の方がしてくださることになった。フォトスタジオの三姉妹が、母と台車を押して現れた。三女と一緒に台車に乗せられていたのは、たこやき器と、その材料であった。私は、たこやきをつくったことがない。それどころかお祭りで買ったものしか食べたことがないので、これが「家庭用たこやき器」か! と、しみじみ見入った。三姉妹の母はてきぱきと粉と水、紅しょうがなどを混ぜて下地をつくり、中に入れるたこやソーセージを手際よく小皿に並べていった。教えてもらいながら、はじめて私もたこやきを焼いた。鉄板に、丸のかたちのくぼみがいくつも並んだたこやき器に、盛大に溢れさせながら生地を流しこむ。ふつふつと固まってきたら、竹串でひょいひょいと生地を等分し、端を折りこむように丸めてひっくり返していく。この動作は、私の体の中に蓄積のないものであり、きわめてぎこちないものになってしまった。

関西の女たちは、たこやきをくるくる焼きながら、面と向かって言い合うには少し苦しい愚痴や、話しづらいことを打ち明けあうのだと言う。三姉妹の母と、少女たちの遊ぶ声を聞きながら、子を持つことについて話をした。私はやはり、子を産みたい気持ちを抑えがたく持っている。そのことが、城崎に来てよくわかった。三姉妹の母は、たこやきをひっくり返す手を止めず、しかし静かに話し始めた。「自分のおなかから産まれた子でも、当たり前に他人で」「こないだ産んだと思ったのに、ホントにあっという間に大きくなっちゃって」「高校卒業したら、この町からもきっと出ていく時が来るでしょう」「いちばん上の子がもう9歳で……。そうなるとね、半分過ぎちゃったんだよね、18歳まで」それを聞いて私ははっとして、エントランスホールで笑い声をあげている長女の姿を、見やった。母と子の間を結び、やがてすうっと消えてゆく糸が、見えたような気がした。

子どもたちは、Fの大きな体にまとわりつくようにして、遊んでもらっていた。エントランスホールでいつも以上に楽しそうにはしゃぐ子どもたちの声が、食堂にまで響いていた。必要以上に子どもを興奮させたり図に乗らせることを好まない男であるが、たぶんFも、今宵かぎりは、と思って遊ばせていたのだと思う。隙を見てFのiPhoneを動画モードにして、次女に「彼に向けてなにか言って」と頼んでみると、 しばらくはにかんで「ええー」と笑っていたが、最後にひとことだけ「きのさき、きてね」とメッセージを残してくれた。(Fはあとでそれを見つけて「泣ける」と言っていた)

パーティが終わり、われわれ大人たちが連れ立って鴻の湯に向かう頃、三姉妹の長女と次女は一足さきに、竜巻のごとく、家に帰ってしまった。三姉妹の母と、まだ小さい三女を家まで送りながら、明日はもう午前中に発つので会えないかもしれませんね、とあいさつを交わした。フォトスタジオに着くと、玄関先に次女がほんの少し姿を見せて手を振ってくれたが、長女は奥にもう引っ込んでしまっていた。

子どもたちよ、私たちのことを、忘れてもよいのだ。やがて心も体も成長し、はるか彼方へ飛びさるきみたちのことは、母や父やアートセンタースタッフや町の人、私やFが覚えている。それが大人の役目である。9歳や7歳の夏に出会った風変わりな大人のことなんて、覚えていなくていい。2015年の8月、盆踊りの夜に初めて会ってから今日まで、私はとても楽しかった。毎日日記をつけていた。今、城崎の地で育ちつつある芸術の芽は、いつかきみの胸の中にも種を飛ばすかもしれないし、それがきみの人生を左右する大きな花になりうるかもしれない。そんな日が来て困ったらいつでも頼りにしてねって伝えたいけど、たとえそんな日が来ないまま会えなくなっても、私はあなたのことを覚えておくと約束するよ。

2015年9月2日水曜日

ある日(出石、食卓)

館長の車で、出石にある永楽館という芝居小屋を見に行く。関西最古の芝居小屋とのこと。小屋の中のあまりのすばらしさに、城崎に来てからいちばんというほど顔がにやけてしまい、ついには頬が痛くなるほど、夢中になって見て回った。ひとりの芝居好きの人間が歴史を変えてきた例をまたも目撃できた嬉しさでいっぱいになる。しびれるほどの劇場の魔法。

コウノトリをまだ見ていない、というFの一言で、コウノトリの郷公園にも連れていっていただく。羽をちょっと切られて飼われているコウノトリ(羽が伸びたら飛んでいけるとのこと)に餌をやる時刻、空からゆうゆうと、野生のコウノトリが舞い降りてきた。聞きしにまさる、グライダーのような姿だった。白く、赤く、黒く、大きく、美しい。公園の入口にあった記念碑には、何かの折にここを訪れた皇族の方の和歌が刻まれていた。いろんなことを平等に讃えたり願ったりする、品行方正な歌だった。

城崎の町に戻り、お魚屋さんの奥さんにコーヒーショップで会ってから、Fと文学館に行った。私は二度目だが、Fは温泉ばかり入っていたので未だに文学館を訪れたことがなかった。さまざまな展示がある中で、城崎を訪れた文人たちの俳句や和歌、小説の抜粋などを見る。
しほらしよ山わけ衣春雨に 雫も花も匂ふたもとは  吉田兼好
浜坂の遠き砂丘の中にして 侘しき我を見出でつるかな  有島武郎
日没を円山川に見てもなほ 夜明けめきたり城の崎くれば  与謝野晶子
先ほどの皇族の人の歌に比べると、私欲や美意識が優先されているのが良い。

文学館を出て、お蕎麦屋さんの奥さんのところへ行く。こちらも取材。娘さんふたりも同席。3歳の少女の話は、脈絡も結論もないのがたいへんおもしろい。方言のにじむ語尾が愛らしい。

雨足がだんだん強まる。夕食はアンナさん&グルーニカさん姉妹にお呼ばれ。グルーニカさんの旦那さまであるD氏、1歳の娘さんも一緒に食卓をかこむ。旅人を食卓に招き、明るくもてなしてこの町の物語を語ってくれる姉妹の温かさは、今思い出しても身に余るしあわせである。

2015年9月1日火曜日

ある日(座禅、レクチャー)

夏休み座禅の会、最後の朝である。三日前から始めて今日が最後だし、座禅は寺でおこなうし、これを本当の三日坊主と言う。座禅ではいつも何をしているかというと、まずみんなで般若心経の読経。そこから5〜10分ほど座禅をして心を落ち着けて、ご住職の子ども向けのお話。そしてしりとりや、リレーでお話をつくる遊び、九九の暗唱などをして朝8時に終わり。
 
フォトスタジオの次女が小さなリュックをしょってこちらに近づいてきて「お風呂の用意もってきた」とこっそり言う。いつも座禅を終えて朝風呂に向かうFと私をうらやましく思っていたらしく、「明日はいっしょに行く」と昨日言っていたのだった。というわけで、長女と次女を連れて鴻の湯。女の子をふたり、ほんの一瞬、神さまから預かっているような不思議な心持ち。

アートセンターで一休みしてから、ランチに出かける。をり鶴で、上海鮮丼という贅沢をこころみる。錦糸卵、糸のように細切りの大葉が乗った甘海老など、見目よい素晴らしいお食事をいただいた。Fが昼寝に帰ったので、私はひとりで駅向こうのコンビニまで振込の用にゆき、スーパーで買い物したのち、さっと一の湯に寄る。アートセンターに戻り、冷蔵庫に肉などの生ものをしまってから、近所の古美術屋へ。

古美術屋は、座禅会で知り合った少女Aの家である。少女Aは数日前、店で扱っているアクセサリーの中からおすすめの品物について話してくれた。「ぜひ来てください」と控えめに締めくくられた彼女の話がずっと気になっていて、訪れたいと思っていたのだ。店先に彼女の祖母がいらして、私が名乗るとすぐ少女Aを呼んできてくれた。店には、茶道具や掛け軸のほかに、トルコの伝統的な編み方でつくられた飾り紐のアクセサリーがたくさん並べてある。その中から、少女Aのお気に入りのものを教えてもらっていると、彼女の父、すなわち店主が現れた。なんと店主は横浜で仕事をしていたことがおありで、私たちの作品づくりの活動にも、とても興味を持ってくださった。話しながらトルコのアクセサリーをいろいろ選ばせてもらい、花のかたちのピアスをひとつ買った。少女Aはとてもおとなしく、静かな子だけれど、私がその場でピアスをつけて「どう?」と見せると、嬉しそうににこにこしてくれた。でも彼女自身は、こわいからピアスはしたくない、とのこと。

夜は、アートセンターでFによる現代演劇のレクチャー。2時間足らずでは話しきれないことも多くあるが、ある切り口を定め、覚悟をもって語られたレクチャーと思った。フォトスタジオの三姉妹たちも、両親と一緒に来ていた。9歳の長女は、ああ見えてFが人前で話すのをかなり楽しみにしており、昼間からずっと「ちゃんと話せるのかなあ、大丈夫かなあ」と言っていたらしかった。レクチャーが始まる前についとFのもとに寄ってきて「むずかしい顔してむずかしいこと言わないでよね」と言っているのが聞こえた。その横で次女は無邪気に「おうち帰ったら、ぽんぽこ見るの」と笑っていた。今宵は夏休み最後の金曜日。子どもたちのお楽しみであるジブリ映画の放映が、夜9時からあるのだった。

レクチャーを終えての長女の感想は「むずかしくない顔してむずかしいこと言ってた……」というものだった。冷戦構造の終わりだの、ロストジェネレーションだの、彼女にはまだわからないことも多いだろう。しかし重要なのは、自分といつも遊んでくれるFが、大人向けに語ったレクチャーを、1時間以上も、とりあえずは聴いたという事実のほうだ。

子どもたちがテレビを見に帰ったあと、レクチャーを聴きに来てくれた町の方々と、アートセンター食堂で飲む。なじんだ顔ぶれが多くいて、私もめずらしく、力を込めて演劇について話したりしてしまった。ひとりの僧が、このようなことを言った。
「アートセンターが町にできる時、私は全面的に賛成した。しかし、アーティストなら誰でも歓迎という意味ではない。たとえば壁に人糞を塗ったものを『これはアートだ』と言う人が来るのは困る」
人糞は極端な例であるものの、地域と芸術の不安な関係をぐっと突いた言葉であると、感じた。美しいものだけが芸術ではない。だけど、奇抜で汚くて混沌としたものだけが芸術でもない。たえまない対話と、理解をうながす翻訳的な交流がなければ、芸術は人の心に根を張れない。先日のレクチャーの中で、HO氏が残した言葉がある。
「現代芸術は、わからなくても、いいんです」
それは、どうせ考えてもわからないからわからなくていいという意味ではない。わかろうとし続ける、作り手と鑑賞者の、相互の思いがあるという前提において、芸術とはわからなくてもいいものでいられるのだ。

2015年8月30日日曜日

ある日(砂丘)

砂丘へ行くと決めていた。準備をして列車に乗り込んだ。斜め前の席では、さぞかし鉄道が好きなんだろうな、という風貌の男が時刻表を読んでいた。彼は早めに弁当を食べてコンディションを整え、くつろいでいた。そして眺めのいい鉄橋がある駅で停車のわずかな時間にホームに降り、一眼レフのシャッターを切っていた。私も真似して、ホームに片足だけ降りてみて、携帯電話で写真を撮った。

鳥取に着いて、そこらじゅうにあふれる、ちびっこ名探偵の人気漫画ポスターを横目にバスに乗った。バスには夏休みの子どもたちがまだ多く乗っていて、ひとりの翁がにこにこと彼らに話しかけていた。「何歳?」と子どもから訊かれた翁は「二十歳だよ」と答えたりして、子どもを混乱に陥れていた。ごくごく小さな子には、二十歳も八十歳も、自分の想像をはるかに超える年齢という点では同じである。

砂丘の入口に「砂に落書きをしないでください」などという注意書きがあって、そのひとつに「砂を持ち帰らないでください」というものがあった。ショベルカーなんかでお持ち帰りされたら困るし、砂丘にとって砂は大切なものだから(というか、不可欠)持ち出しの禁止はなんら不当ではないな、と考えていたところに、初老の男が家族連れでやってきて、その表記に怒り始めた。「なんだよこれは、砂くらいご自由にお持ち帰りくださいって書けよ、気分わりいなあ、なんで砂取っちゃいけねえんだよ」と家族の前で延々と言っている。所有する権利を否定されただけなのにここまで怒るなんて、強欲だ。みずからの所有物やなわばりが侵されることに過剰な拒否反応を示す人間こそが田舎者である。

巨大な砂丘は、馬のたてがみが流れるさまに似ている。馬が伏せ、顔を地にうずめたその背中に、登ってみた。サンダルではなく、日を浴びた砂の温度にも耐えるスニーカーを履いてきて正解だった。みんな家族や友だち、恋人といて、日傘をさしながらひとり黙々と砂山をのぼっているのは私だけだった。私の前を歩いていた中学生の少女が振り返ってカメラを構え、あとから来る両親、妹、弟の写真を撮った。「撮るよー、こっち向いてー」と言う少女の言葉に、家族は立ち止まって肩を寄せあった。ついそれを見てしまって、ああ、私はひとりでこんなところまで来てしまって、二度と家族といっしょにあんなふうに写真に収まることは、できないのかもしれないと思った。

城崎に来てから、猪苗代湖のことをよく思い出す。子どものころ、よく行った湖である。私は海と川にほとんど行かずに育った。原風景として心の中にある水辺、それはいつでも湖だ。だから、大きな海を、流れる川を見ると、なんて遠いところに来てしまったんだろうと思って帰りたくなる。どこに帰ったらいいのかわからないのに、ただ帰りたいとだけ思うのだ。馬のたてがみのような巨大な砂山のてっぺんにたどりつき、荒ぶる群青の日本海をはるか下にのぞみながら、いったいどうしたらいいのか途方に暮れた。日を遮るものが何一つない砂丘の上で、北国の湖のことをひたすら考えていた。ずいぶん長くそうしていた。

帰りの山陰本線の中で、日がどんどん暮れていくのを味わった。知らない町で、夜を迎えるのはとても寂しい。飛び去るように過ぎてゆく景色を眺めながら、この町に隠れ住んだら、きっと誰にも見つからずに別人になってしまうのではないかと怖くなった。もう私には何の重しもなくて、砂丘の砂みたいに、ただ風に吹かれて風紋をつくるような生き方しかないのかもしれないと思いつめたところで、列車は城崎温泉駅に到着した。

ある日(こども園)

5歳の少女と交わした約束は重い。その一心で、7時に中学校昇降口でおこなわれるラジオ体操に行った。少女と目が合って、手を振りあった。ラジオ体操第二を、見よう見まねで初めてやった。体をほぐす画期的な動きがいくつか含まれていて、蒙が啓かれる思いだった。そのあと、寺での子ども座禅会にも付いていった。Fはすでに子どもたちと顔見知りで、何だか人気があった。

アートセンターは、大きな貸し館案件が入っていて騒がしかった。今日明日と使用されるらしい。ここが、大会議館と呼ばれていたころから毎年行われている泊まりがけの集まりとのこと。駐車場を整理している人々の中に、見知った若旦那を何人もみつける。旅館組合で、宿泊と運営の対応にあたっているそうだ。荷物だけ置いて、滞在初日に私を駅からアートセンターまで送ってくださった旅館のご主人、H氏を訪ねてお話を訊きにいく。昔の町並みのこと、H氏が城崎に戻ってきた1995年という時代のこと、城崎独特の "世代" の感覚についてなど。

すっかりH氏の旅館に長居してしまい、急いで座禅会をしている寺のそばの、こども園に向かう。座禅会のごほうび会として、そこで子どもたちがピザづくりをしているので混ざる。園長である寺の副住職は、機械に強く、行動力がある。ピザを焼くための石釜は、園庭の隅に副住職がレンガを積んでつくったものである、というのは、町の人から聞いてすでに知っていた。Fは一週間くらいもう座禅に通っていたからいいけど、私は今朝、たった一回しか行っていないのにお邪魔していいのかな、と思った。しかし、次の瞬間にはこども園のぞうぐみの部屋の床に座り、子どもたちと生地をこねて具を選んでは乗せていた。この町では、ためらうよりも先に、人々が受け入れてくれるのだ。園長へのごあいさつは、ごうごうと燃える石釜の前でおこなった。「アートセンターに滞在しているものです。よろしくお願いします。あの、これ、私のピザです」「どうもどうも。ピザ、ここに乗せちゃってください」「はい」という感じで、園長にピザを焼いてもらった。

フォトスタジオの長女が、盆に乗せて焼けたピザを次々にぞうぐみまで運んでゆく。子どもたちの母や父もいて、私に缶ビールを分けてくれた。こども園で、幼児向けサイズの低い木の椅子に腰かけてビールを飲んだ。ご住職もあらわれ、旦那衆、お嫁さんたちが男女のグループにわかれておしゃべりしている中で、私は子どもたちと大いに遊んだ。手をつないで走ったり、でんぐり返しを手伝ったり、絵本を読んであげたりなど。男の子は、楽しくなると熱くなって図に乗り、制御不能になるなあと思った。人見知りの女の子が、私に抱っこされるのを嫌がらなかったのがいちばん嬉しかった。フォトスタジオの三姉妹と、明日もラジオ体操で会う約束をして、帰った。

2015年8月28日金曜日

ある日(台風)

今日もFは律儀にラジオ体操と座禅に行った。フォトスタジオの次女がとうとう、私は来ないのかとFに10回も訊ねたというので、明日は行かねばなるまいと決意する。

台風の来そうな気配。昼前にFとフォトスタジオに行く。先客がいらした。旅館の若女将と、その娘さん(5)。子どもたちが2階で遊んでいるすきに、店舗併設のカフェスペースで紅茶とチーズケーキをいただきながら若女将と少しお話しする。

城崎の女性たちはアートを必要としている。町おこしや過疎対策のためではない、日々の自分の暮らしをみずみずしく変容させるものを、心から求めている。芸術にはそれができると私は知っている。だけど、さまざまな要因が彼女たちを芸術から遠ざけている。私は城崎にいて、今それがいちばん苦しい。

Fは町中まで用があってどうしても行くと言う。私も同行する予定を立てていたが、あまりに雨風が強いのであきらめてカフェで待つことにした。子どもたちは強風の中しゃぼん玉をつくっていた。Fが帰ってくるまで、子どもたちとタブレットで動画撮影をして遊んだ。別れ際、「明日ラジオ体操来る?」と次女に訊かれて「うん、行くよ」と言わないわけにはいかなかった。この世に生まれてまだ5年しか経っていない、つぶらかなあの瞳を裏切ることは、誰だってできない。

ある日(レクチャー、花火)

フォトスタジオの三姉妹と指切りをしたために、Fは毎朝ラジオ体操を第一、第二までこなしたのち、極楽寺の子供座禅に参加してアートセンターに戻ってくる。次女(7)が、私は来ないのかと、毎朝Fに訊ねているらしい。

駅前のカフェにはすっかり通いつめている。代々城崎で暮らす、この店の姉妹に助けていただくことは大変多い。児童書のクレヨン王国シリーズに登場するレストラン「サザンクロス」のアンナとグルーニカ姉妹を思い出す。長々とお茶をしてから柳湯に行き、すっかり体の力が抜けた感じで自転車に乗ってアートセンターに帰る。

アートセンターで、早めの夕食の準備をしていると、芸術監督HO氏が登場した。私がHO氏を始めて知ったのは、子供の頃にやっていた土曜夜のニュース番組「ブロードキャスター」のコメンテーターとしてである。カタカナの名前が子供心に不思議だったし、男だろうけど女の人にも見える気がしたし、劇作家っていう職業も謎だし、HO氏はとにかく子供の私にとって印象深い人物だった。そのHO氏が今、私の真横で、アートセンターの面々と打合せもかねて食事をしていた。特に急いで箸を口に運んでいるわけでもないのに、いつのまにか食べ物が消え、皿が空になっていくのが不思議だった。速すぎて逆に止まって見える、みたいなことかもしれないと思った。

『光速・日本近代演劇史』講義は、最前列にすわって、聞き漏らすことなく学んだ。HO氏の話す速度は光のように、早く、狂いがなく、質疑応答の時間に至るまでタイムマネジメントは完璧だった。

今夜は、毎晩打ち上がっていた花火の最後の日。灯籠流しもおこなわれる。講義が終わったのが20:40頃だったので、すぐに自転車でアートセンターを飛び出した。浴衣の人々を追い越して、大谿川をめざす。一の湯に自転車を置いて、川下のほうまで歩いてゆく途中でアンナ・グルーニカ姉妹の姿を見つけた。川のない町にしか暮らしたことのない私は、灯籠流しが珍しい。ほとんどはもう川下の網にかかって回収されようとしているところだったけれど、もっと時間があったら、ゆっくり立ち止まって、水面をすべるたくさんの灯籠のひとつひとつを眺めたかった。やわらかい灯籠のあかりは、晩夏のさみしさをかき立てるようでもあり、なぐさめてくれるようでもある。

姉妹と別れ、Fとふたりで川下からさらに踏切を越えたところにある屋外のバーに向かった。ここからは、花火がよく見えるのだ。HO氏も何人かの人と一緒にバーに現れた。たこ焼き、ビール、野性的などぶろくなどで皆で2時間ほども話した。HO氏の言葉はこれまでも書物、雑誌などで見聞きしているが、彼が理論立てて、「どうして芸術が社会に必要なのか」とか「芸術はどのように意義深いのか」というように 「芸術のちから」を語る時が、私はいちばん感動する。

2015年8月26日水曜日

ある日(写真)

朝、フォトスタジオの奥さんからメールをもらう。店舗に併設のカフェが、本日は営業しているとのことなので伺う。ここの長女(9)はFに懐いている。私が先にカフェに着くと、Fは来ないのかと、まっさきに訊ねてきた。城崎の子供たちはまったく人見知りをしない。お話をつくって遊ぶのが好きな長女は、物を書いて暮らしているらしい大人の男を、珍しく思いながら慕っている。その様子がかわいくて、つい応援するような気持ちで見てしまう。その長女が、子供のころ生まれる前の記憶を持っていた、というような話を聞きながら、自家製梅ジュースをいただく。日替わりおやつは、グレープフルーツのくりぬきゼリーで、長女と次女が揃って「お母さんのゼリーすごいよ。ほんとのグレープフルーツみたいだよ。見る?見てみる?」 と嬉しそうに教えてくれるので、一切れ注文した。ゼリーをすくって食べているところに、遅れてFが来たので、子供たちはいっそうはしゃいだ。

13時半の列車に乗って一時帰京。東京にいる間に演劇を4本観る。2日後の22時過ぎに城崎温泉駅に到着。Fは私のいない間、山の上の寺のバーベキューにお呼ばれしたり、老舗旅館を見学したり、京都に演劇を観に行ったり、古い城跡に登ったりしていて、執筆は全然しなかった(やや誇張あり) 。

2015年8月23日日曜日

ある日(一番札、野球)

Fと朝から桃島地区に行く。田の水を流しに来た翁と話し込む。道路幅拡張の話、水害対策の話など。また会えるだろうか。田に張り巡らされた電気柵の近くまで、初めて行く。子供がこのあたりを歩いたら危険ではないだろうか。不安に思ってしまうのは、私がいかに農業を知らないかという証にも思える。(調べたら、よほど心臓が弱くないかぎり、びりっとして驚くくらいで、死にはしないとのこと)

ランチは寿司屋。高校野球の準決勝。第一試合は7対0の大差で終わった。私とFが寿司を食べていると第二試合が始まって、1回裏であっという間に点がたくさん入った。ご主人も、観光客も、私たちもみんなテレビを観ていた。高校野球が人の感動を誘うのは、若さのためだけではないと思う。一度負けたら終わり。その一回の勝負が人を引きつけ、酔わせる。若い選手であるというだけで眩しいのに、彼らのこの戦いが一度きりだなんて! でも、私が感動を分析するのは、そういう感動の消費から逃れるためでもある。

思いたって、前から並びたいと思っていた、外湯の「一番札」に並んだ。7つの外湯のうち、7時に開くものが4つ、13時が1つ、15時が2つある。そのうち15時に開く柳湯の、一番乗りの客をめざしたのである。お盆のあいだは、2時間も前から並んでいる人がいたりして、手が出なかった。今日なら如何、ということで14時10分にひとりで駅前のカフェを出て、向かってみた。Fはまだカフェに残って執筆していた。一番札という目標ができると、柳湯方面に向かって歩く人間のすべてが柳湯をめざしているように見える。小走りにたどりつくと、まだ誰もいなかった。入口の引き戸の前に陣取る。時折、足湯に浸かりにくる親子連れやカップルがいるけれども、彼らは家族や恋人を置いてまで一番札に並ぶことはないので警戒に値しない。問題は、ひとりでふらふら現れる、見巧者ならぬ湯巧者である。できれば、Fが来るまで待って、ふたりで男湯と女湯の札を制覇したい。私のひそかな野望もむなしく、頭に手ぬぐいをまき、アロハシャツを着たパンクな男が自転車で現れた。こなれた手ぬぐいのまき方。観光客の衣装とも言うべき浴衣ではなく、通気性のよいアロハシャツ。そして単独行動に便利な自転車。完全なる、温泉街の猛者の姿だった。Fも柳湯をめざしてカフェを出たと連絡をよこしてきたが、すでに猛者が男湯に並ぼうとしていた。しかし……! 男は看板の営業時間を確かめると「なんだ、15時からか。あと10分もあるじゃねえか」と捨て台詞を吐き、「じゃあ一の湯行くか」と自転車で走り去ったのである。湯へのこだわりがなく、一刻も早く浸かれることを重視するタイプの猛者であったため助かった。ほどなくしてFが柳湯に到着し、無事に男湯一番乗りの座を手中におさめた。Fが並んで数十秒後には次の客が来たので、危ないところだった。手にした一番札は、木で出来た絵馬のような形をしていて、こんなにも嬉しいものかと思った。

Fは、おなかがすいて観劇に集中できないという状態を恐れるたちである。朝、ミートソースを煮込んでおいたので、夕方アートセンターに戻ってからスパゲティを茹でて食べた。ほどなくして「God Bless Baseball」のショーイング。東京、神戸、城崎から集まった観客たちが、浮遊する言語とポーズ、アイデンティティに翻弄されていた。本番を観た8歳の少年が終演後に「おもしろかった。満足しました!」と出演者のN嬢に直接伝えてきたという話を、あとで鴻の湯の脱衣所でN嬢から聞いた。そんなふうに彼女と外湯で会えるのも、今夜限りだった。

人の大勢いた打ち上げは深夜まで続き、さらに客人が皆帰って夜が更けたあとは、観光人俳優Y氏から寄せられた「日本語における『きれい』『美しい』の違い」というテーマを大いに議論したりして過ごした。