利一兄の、私にあてた手紙を読んでくれた由、うれしいかぎりです。
あの手紙は、検閲をうけずに、兄の隊にいた別の人の家族に、外に出たら投函してくれといって、その後私の手元に届いたという代物です。
兄は、私にはほとんど直接は教えてはくれず、ほとんどは、兄の入隊後に、兄の友人たちから色々と、今後どのように学ぶべきかということを聞かされて来ただけですが。兄から直接聞いた話としては「この戦争では日本は敗ける」ということを聞いただけで、しかもはじめそれを聞いた時は、一種反撥と怒りさえ感じたものです。兄(立也兄も)は早稲田大学政経学部在学中に、立也兄と一緒に学徒出陣という形で行き、立也兄は帰ってきたものの利一兄は、フィリピン方面に行った様ですが、上陸できたのか、それとも海没したのかはさだかではありません。兄のものだといわれている骨壺は政府から手渡されましたが、母は中を見ようともせず、私達も同様でした。
どうせ中には、土塊が入っているだろうということで、中を見ても腹が立つだけだ、と云っていました。
あなたが利一兄の手記を読んだというので、私も読み返して見ました。今度は、兄のだけではなく他の人のものも読んで見ました。
他の人たちのものは、妻に、そしてもう一つは恋人に、他の手記には戦争に対する疑いを持つ人、死への怖れ、などです。
しかし、兄は結婚はしていなかったし、愛人がいなかった(もしかしたら一人いたのかもしれないが、それはもはやたしかめようもありません。)ようで、兄の眼はもっぱら社会へむけていたようです。それでなくても兄は友人をかばうような処があったらしく、そういう兄の性格を知っていた別の友人は、兄が他者の犠牲になるのも何とも思わぬ人間だったと云っていたのを思うと、兄ははじめから生きては帰らぬ予感を持っていたのかもしれません。
私も昭和二十年六月、敗戦を決定づけられる一ヶ月半前に応召を受け、福井敦賀の聯隊に入隊して、そこを一週間から十日後に、どこへ行くともわからぬ列車につめ込まれ、行きついた処が、九州宮崎の都城、そこから行軍して途中で「志布志」という駅名を発見して、大隈半島の鹿屋という所の学校の雨天体操場の中へ入れられることになりました。しかも兵隊とは名ばかりの、銃もゴンボ剣もなく飯盒もなく、上はカーキ色のシャツ、下はズボン、それにゲートルを巻き、持たされたのは小さな柳行李で、その中に飯と沢庵を入れるだけの、いわば弁当箱だったわけです。こんな装備でアメリカ軍と戦うというのは、無茶もいい所です。これでは兄の言う通り、戦争は敗けるしかない、と思わざるを得ないのです。そして訓練といえば、これは敦賀の聯隊にいたころでは、敷地の端の方に木製のアメリカ軍のM4型戦車をしつらえて、そこへ匍匐前進して持って行く爆薬箱を敵戦車のキャタピラ目掛けて投げつける、ということでした。しかしこんなことをしていて敵に勝てるわけがない。そんなことをしているうちに、敵戦車は地上を機銃で撃ちつづけてやって来る。そういうことを私は何かの雑誌で読んでいました。
こんなことをしていたら、私たち兵隊は敵に立ち向かう前に殺されると思うと、その時はじめて絶望感に、うちすえられてしまっていました。
それでなくても、大隈半島の鹿屋地図では、敵の戦斗機が低空飛行でやって来て、機銃掃射で私の身体の伏せている横をパラパラッと撃って来るのです。これはまさに身の毛のよだつ、という光景だったのでしょう。
兄でさえフィリピンに到達できたかもわからぬ時に、私が外地に行くわけでもないのですが、内地でさえこんな状況だったわけです。
今、兄の手記を読んでおわりに「知子にたくす」と書いてあることに気がつきました。ということは、どうも手記は二通あったらしく思われ、もう一通がどうも見当たらぬことになります。
しかし、このコピーを私にくれた人は「群像」掲載の号をさがし出して、それをコピーしてくれたので、当時の編集者ではないわけですから、昭和二十四年の十二月に編集した人などはさがしようがないわけです。この一通だけでも残っていたことを幸いとしなければならぬでしょう。
お母さんへの手紙にも書きましたが、最近はモーツァルト生誕二五〇年ということで昨年はモツァルトだらけだったので、そのモツァルトのものを五、六枚購入したり、ショスタコヴィッチ生誕百年とかで、彼のものも聞いたりしています。二人ともなかなかわかりにくい面を持っていますが、「ショスタコヴィチの証言」などというものも読んだりして、彼がスターリンといかに戦ったかということを知り、彼のものを知る手掛りにしています。
まだまだ書き足りない所もありますが、まずは母上と一緒にでも遊びに来て下さい。その時にまたお話をさせて下さい。ではまた。
九月十日
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