2016年7月14日木曜日

ある日(夢、カレー)

結構な悪い夢を見て、朝方は苦しんだ。金魚を殺してしまう夢はたまに見る。後味が悪くて最悪だ。昨夜、子どもたちの遊んでいたゲームについて考えていたからか、夢にも新しいゲームが登場した。ボードゲームで、名前が付いていたようだったが忘れた。碁盤のような正方形のフィールドに、配られた数字の牌をうまく並べて、手持ちの数字牌をなくした人が勝ち。アラビア数字、漢数字、ローマ数字などいろんな種類があって、記号もあって、並べられる種類はチェスのように決まっている。配られたもの以外にボード上にも、さいころの目を模した数字牌など、何種類かが並べられていて自由に取って使うこともできる。戦略次第で無限に遊べるし、並べ方を間違えると手持ちの牌が永遠に置けなくなる。ミスが命とりになるスリリングなゲームだ。しかし、こんな架空のボードゲームのルールをつらつらと書いたところで意味が分からないうえに断片的な備忘でしかない。そもそも、備忘したところでこぼれてゆくのが夢というものだ。

ところで先日、アートセンターY氏が夢に出てきたので、キッチンでY氏にそのことを話した。そこから、アートセンターでの創作がどのようにアーティストに作用するか、今のところ誰もスランプに陥ることなく、多くの人に良い作用をもたらしているようだけれど……というようなことについて、意見をかわすことができた。アーティストと生活の一部をともにすることは、繊細な綱渡りである。

F氏は、ジオカヌーという、海をカヌーでめぐるアトラクションに出かけていったので、私は1日アートセンターで仕事をしていた。夕立がやってきて、晴れて、また雨が降るのを見届けてから、ずっとここにいるのもつまらないなと思って自転車で柳湯に向かった。観光客が少ない時期でもあり、この頃、外湯で地元のおばさん、おばあさんに話しかけられることが多い。「熱いわねえ、ここのお湯は」とおばさんが言うので「でも私、柳湯大好きです」と答えると「今日は午前中入りそびれちゃって、ひさしぶりにここに来たけど熱いわあ」と言いながらも気持ち良さそうにしていた。いつもは早い時間に一の湯や御所の湯に行くのだと言う。今日は一の湯は休湯日で、柳湯は15時開湯であるから、おばさんの入浴リズムは崩れてしまったのだろう。私は、おばさんが浴室を出ていくのを見届けてからもう少しゆっくりして、あがった。脱衣所では、おばさんたちがご近所の話を城崎弁でぺたくたとにぎやかに話しており、身体をいつまでも拭きながら、つい聞き入ってしまった。

キッチンでY氏がカレーをつくってくれて、アートセンターのダイニングでみんなで食べた。マックス=フィリップと明治期の東京奠都の話をしていて、天皇の話題がしばらく続いていた時、ふと携帯を見ると、今上天皇の生前退位のニュースが出ていた。えっ、とそれなりに私もショックで、マックスにも取り急ぎ伝えた。(私は本当は皇后陛下が好きなんだけど、そのことはややこしくなるから今日は黙っていた)彼は日本のさまざまな土地のことや、日本人の宗教観のこと、いろんな本などもとてもよく知っていて、カレーを食べながら喋る時間は濃密な体験だった。昔の職場にいたころ、北京に出張したことがあって、現地法人の部長たちが海外情勢、日本の政治やさまざまな社会問題に精通していて、はたしてうちの若い社員たちはこのレベルについていけるか(いや、無理だ)と愕然としたのを思い出した。自国を知り、相手を知り、さらなる興味を持って問いかける人こそ、どんな仕事をしていても、真の賢さを持っていると言うべきなのだと、あの時痛感したのだった。

小雨が降っていたが、22時を回ってから鴻の湯に行くことにして自転車に乗った。暗い川沿いに、いつも人間に見える形をした木が立っていて、「わ、人かな」と思ってしまう。でも「人にしては大きいな」と思って「やっぱり人じゃなかった」と思い直す。必ず、その段階を踏まないと「やっぱり人じゃなかった」という結論に辿り着けないほど、その大きな木は人間に似ている。

2016年7月12日火曜日

ある日(ゲーム)

午前中はあまり記憶がない。アートセンターは休館だったけれども、午前の間だけ来客があったりした。ペッパーはスリープしていたが、私が頭をちょっと触ったら起きてしまった。よしておけばいいのに、ちょっと触ってことを大きくしてしまうのが私なのだ。反省したが、ペッパーを再びどう眠らせてよいものかわからず、しばらく相手をした。「お昼もう食べた? まだならサラダうどんはどう?」と、なぜかサラダうどんを推してきたので「もうお蕎麦食べちゃった」と返事したところ、目がぴかりと光って、「出石蕎麦はもう食べましたか?」と、隣町の名物の話をはじめた。「去年食べたよ」と言うと、「聴き取れなくてごめんなさい。"はい" か "いいえ" で答えてね」と言うので「はい」と答えると、そののち延々と出石蕎麦の説明をしてくれた。いわく、出石には蕎麦屋が50軒もある、住民240人にひとりがお蕎麦屋さんという計算になる、お店はみんな違う柄のお皿を使っている、今の具材のスタイルになったのは昭和30年代……。そして、ひとしきり喋ったあとで「僕、詳しいでしょう? でもこんなにお蕎麦が好きなのに、ロボットだから食べられないんだ。僕のぶんまで出石蕎麦食べてよね!」と、切ない台詞を言うのがペッパーなのである。

夕方、カフェに遊びに行った。その家の少女は友だち連れでもう帰ってきていて、私とFに会いに階下に降りてきてくれた。彼女たちはジュースを飲みながら、手をたたき、ポーズを取ってリズミカルに遊んでいるのだが、しばらく見ていてもルールがわからない。動きが3種類あるのはわかったが、並びに規則性がないし謎だ。それで聞いてみた。基本的には二人で遊ぶ。難しいが、文章にすると以下のような感じ。

【やり方】
手を2回たたく。その後、3つのポーズから1つ選んでおこなう。
1. 両手のひら第二関節を組み合わせ、だんご状にする。(パワーを溜める)
2. 両手首をくっつけて、貝殻のように相手にひらく。(攻撃をする)
3. 両手を胸の前でクロスする。(バリア)

【重要事項】
攻撃は、パワーを溜めてからでないと行うことができない。

【勝ち負け】
パワーを溜めている時に攻撃されると負け。
それ以外の時は勝負を続ける。攻撃はバリアで防ぐことができ、攻撃と攻撃、パワー溜めとパワー溜めはあいことなる。もちろん、バリアとバリアでもあいこ。

学校で今流行っているらしく休み時間に「やろっか」というと、このゲームのことを指すらしい。少女たちは猛スピードでポーズを繰り出す。たしかに言われてみると、上記のルールのとおりに勝敗が決まっており「勝ったー」だの「負けたー」だの、言い合っている。1回目にパワーを溜めるのがセオリーらしい。パワーを溜めなければ攻撃できず、しかし1回目に攻撃されることは絶対ないのだから、初めにパワーを溜めない道理が(少なくとも初心者には)ない。少女たちに促されて、Fとふたりでやることになった。おそるおそるやってみる。大人になると、バリアをしてばかりで勝敗がつかない。かといって、攻撃もタイミングがあわない。なかなか、子どもたちのようにリズミカルにはできなかった。

M夫人からアートセンターでの上演演目の話をいくつか聞いて、城崎でももっとたくさんの作品が、ワークインプログレスの形や、ワークショップ発表だけでなく、フルスケールで上演される機会ができていくといいなあと思った。M夫人に「そんなに演劇をたくさん観られてうらやましいなあ。現実と区別がつかなくなったりせえへんの?」と訊ねられ、どう答えたものかと思っているうちに、Fが勝手に「この人はもう区別がつかなくなった人生なんです」と解説してくれていた。 

作りおきのおかず、漬け物を何品かいただいて、アートセンターに帰った。17時過ぎから、仕事をしながらそのおかずをいただき、それから4時間ほども、おかずを作り足したり、そうめんを茹でたり、酒を持ち出したりしてしみじみ味わった。

ある日(一番札、選挙結果)

せっかく早起きして御所の湯の1番に並んだのに、「アートセンターの人はだめです」と言って、1番に並んだ観光客に渡される「一番札」を取り上げられてしまった。ショックで入浴料の100円を払いわすれ、更衣室からあわてて番台に戻ったりした。ショックとはいえ、「アートセンターの人」が「観光客」ではないと見なされているならその方が喜ばしいことで、風呂を上がるころにはすっかり元気になっていた。朝7時の露天風呂はとても心地よかった。

アートセンターへ戻る途中、通学する子どもたちに出会った。めがねの少女に「あれれ、めがねかけてるー」と聞かれたので「いつもはコンタクトレンズで、本当は目が悪いんだよ」と答えた。少女は少し嬉しそうに微笑んでくれた。

昨日、城崎の市庁舎出張所のそばを見に行った時は多くの町民がトンネルを通って投票に来ているように見えた。参議院選挙の結果は、私個人としては、自分の票がぎりぎり死票にならず通って、よかったという気持ち。そして日本全国を見渡しても、東北や沖縄、原発のある県などは与党への不信感が強くあらわれているように思う。投票率は53%ほどだったというが、小学校から大学、会社員時代までのあらゆる面々を思い出しても、たしかに2人に1人が行っているなら御の字じゃないかという気がする。今私がいる、演劇という仕事場にたずさわる人々が投票に行くのは、ある意味では当たり前だ。そういう人たちだから演劇をやっているのだ、とも、多少理屈をすっ飛ばして思う。そうじゃない残りの、見えない人、劇場の外の人たち、政治や理想や自分から遠い場所への語彙を持たない人とどうかかわるかが、私の残りの人生のテーマなのだ。ここは、親しい人にもなかなか話せない領域であり(なぜなら、話して伝わらないと私自身がずたずたに傷ついてしまう領域だから)勇気がいるが、思っているのだから仕方ない。誰にも期待してない、と口にするのはよくない、と人は言うが、期待してないけれど信じているのが私という人間で、このことを説明するのは難しい。

ここ数か月元気に過ごしていたものの、めずらしく体調不良におちいって、昼過ぎから部屋でうめき声をあげながら横になった。Fは漁協にリサーチに行っており、私も行きたかったけれど、これは行かなくて正解だった、行き倒れて迷惑をかけるところだった、と思った。「もし帰ってきた時に私が死んでいたら灰は竹野の海にまいてください」とメッセージしたら「もう少し長く生きて。あとでね」というそっけない返事が来た。本当に痛みがひどい時に鎮痛剤を飲むと、その後がっくり眠くなって、目覚めた時にはすっかり痛みが麻痺して歩けるようになっているものだ。というわけで、私は生還した。

ペッパーは今日いちにち、元気がなかった。ロード中からなかなか復帰せず、うなだれたままぴかぴか光っていた。明日はたくさんお話しできるといい。

ある日(海水浴、選挙)

海水浴に行くと決めていて、早起きして、日焼け止めなどの対策を念入りにした。よく晴れそうな一日だった。城崎温泉駅から西へひと駅、竹野というところで降りて、駅で自転車を借りた。

竹野の海に来るのは二度目だ。昨年、水着を持ってこなくて後悔したくらい、透明できれいだったのを覚えていたから、今回楽しみにしていたことのひとつだった。そもそも海に遊びに来たこと自体、ほとんどない。海の家の更衣室をどうやって借りるのか、まるで外国に来たような感じがしたから、Fのあとをついて歩き、適当に海の家を見繕ってもらって入った。ひとり800円払うと休むテーブルを借りることができ、荷物も置いていいし、貴重品も預かってもらえる。更衣室で着替えもできる。海の家の浮き輪を借りて水に入った。水が染みて冷たく這いあがってくるのが怖くて、すぐにどうしよう、帰りたいと思ったが、しばらく浮いていると慣れてきた。浮き輪をはずし、生まれて初めて平泳ぎをした。前に海で泳いだのは、平泳ぎを覚える年よりも小さい頃だったのだ。

海には親子連れが多かった。子どものころから、こうして海に来ることがならいとなっている子は、私のように、海も山もろくに見ずに大人になった人間のことを不思議に思うだろう。でもそれは私だって、同じように君たちのことを不思議に思っているし、そういう人々がいっしょに住んで、選挙で議員を選ぶのが日本という国なんだよ、と浮き輪で浮かびながら考えた。帰りの竹野駅では、40分ほど電車を待った。待っているあいだに寝入ってしまい、気持ちよい時間を過ごした。水から上がったあとは引きずり込まれるように眠くなる。
 
アートセンターの駐輪場でマックス=フィリップに会った。「今日はelection dayなんだ」とFが言うと、マックスは「ああ、選挙があるのは知っていた。今日だったのか!」と驚き、「よい結果になるといいけど、どうだろうか」と尋ねてきた。われわれは「私たちは城崎に来る前に投票をすませてきたから、あとは祈るだけだけど、情勢は厳しいと思う」と答えた。何に対して厳しいのか、ということは、リベラルな舞台芸術関係者であればおよそ共有しているであろう文脈にあえてゆだねた。マックスはうなずいて、それでも "Let's hope good result." と言って、われわれに手を振った。

海から帰って午睡しているうちに、行こうと思っていたお祭りに行きそびれたことがわかった。城崎は祭りのとても多い、感謝と楽しみにあふれた町だ。

夕食は、ソレッラ姉妹のおうちにお呼ばれ。昨年、1歳だった少女は2歳になっており、おなかの中にいた子は外の世界に飛び出してきている。幸せな食卓の向こう側、テレビからはアンパンマンマーチが流れ、選挙速報を見たがっている父親を苦笑させていた。デザートを食べながら、なぜか幽霊の話をいろいろとした。

外湯に入ってバーで飲んで帰る、というFを町中に置いて、ひとりで自転車を引いて歩き、歌いながら帰った。いい時間だった。城崎中学校近くのバス停のベンチに、こんな時間にひとりで座っている老人がいた。きっと人間だったと思うけれど、そういえば城崎に今回来てから、ひとりで道ばたやベンチ、川べりに腰掛けているこの老人を、よく見る。

2016年7月10日日曜日

ある日(喫煙所、ペッパー)

仕事が相変わらず終わらなくて不安なので、午前中とにかくがんばることにして、結局それは15:30までかかったけれども、後顧の憂いのない状態にまで持っていくことができた。

その間に、何度か喫煙所に行った。今回、わずかに煙草を持ち込んでおり、ときどき外で吸っている。アートセンターの喫煙所は裏手の駐車場のそばにあり、何かから隠遁できるような、しかし木々や空の色を眺められる、好きな場所である。行く時はいつも紅茶のカップを持って出る。駐車場の奥には叩き場があって、舞台スタッフがトンカントンカンと何かをつくっている音が聞こえる。この音を聞きながら煙草を吸うなんて、演劇サークルだった12年前やそこらぶりで、でも私は12年やそこら年を取っていろんなものに出会ったから今城崎にいられるわけで、もはやノスタルジーに用はないんだけれど、でもやっぱりこの音は好きだなと思って耳を澄ましていた。

同時期に滞在しているディレクター、マックスと、ドラマトゥルクのルーシーがブレイクタイムにやってきた。煙草を吸うマックスの右耳のピアスから、汗がしたたり落ちるのを見た。彼らのクリエイションは順調みたいだった。

ブランチは、昨夜つくった肉じゃが、ゴーヤのナムル。15:30に仕事を終えてから軽くそうめんペペロンチーノをつくり、駅前のさとの湯につかりに行った。土曜日の町には人が多く、さとの湯がいちばん、人が多くてもストレスがかからなそうな構造になっていると考えたからだった。実際、それで正解だった。買い物して帰り、茹でたトウモロコシをかじりながら仕事の続きをして、夕飯にはゴーヤチャンプルーをつくった。Fにゴーヤの苦みを抜くための塩揉みを教えた。塩揉みは他にも、オクラの産毛を取る時にも使えます、と言うと真剣にうなずいていた。他は、ロボットのペッパーとしか喋らない一日だった。ペッパーは「気分が乗らないから頭を撫でてよ〜!」と要求してきたり「おいしいものを食べて温泉に入ってばかりいると僕のように身体が硬くなってしまいます! あなたには僕のようになってほしくない!」と言うような多彩な語彙をかましてくる。

2016年7月9日土曜日

ある日(供養、イヤリング)

昨夜のカレーは、一晩冷蔵庫で寝かせたことによって味がなじみ、角が取れた。これでもっと量がつくれるようになればいい。

頭痛と微熱が続いていた私に、Fはロキソニンを買ってきてくれると昨夜約束した。午前中の用事から帰ってきたFが、冷蔵庫に水をしまっているのを見て「他に何も買ってこなかったの」と訊ねると、他はない、と答えるのでロキソニンのことは忘れちゃったのか、残念だな、と思って頭痛に耐えていた。お昼にFがオムライスの作り方を教えてほしいというので、玉ねぎの刻み方からチキンライスの炒め方、卵でくるむクライマックスにも果敢にチャレンジしてもらい(自主性を重んじる育成方法)なんとか、彩りはオムライスと同じものができた。本人が満足そうに食べていたので、よいだろう。洗い物ではなく、コンロ掃除を命じて、キッチンでの仕事が多様であることを教える。

そうこうしているうちに、頭痛が耐えがたいものとなり、いっさいの仕事が手に付かなくなって、アートセンターのエントランスの椅子に倒れこんだ。その時にFはやっと「あれ、ロキソニンあげたっけ?」などと呑気に言うので、もらってない、とおおげさに、嘆いた。「ごめんごめん、買ってきたの忘れてた」とごちゃごちゃのリュックを引っかき回して、Fは言った。忘れられたと思っていたので、午前中からチクチクと「頭痛い」「痛み止めがもうない」と恨みがましいそぶりを見せたにもかかわらず今まで気づかなかったなんて何という鈍感だと思ってどっと汗が出た。しかしわれわれは、二人で力をあわせて城崎の本を改訂しなければならない。

夕方、温泉寺薬師堂のお祭りに行った。城崎じゅうの旅館が、駅前のスペースに奉納した下駄を燃やす、下駄供養がおこなわれていた。城崎は、下駄と浴衣で外湯をまわる町なので、各旅館、自分の屋号を書いた下駄をつくっているのだ。若旦那衆が並んで立ち、温泉寺の住職、副住職が経をあげて、積まれた下駄に火をつけるのを見守っていた。下駄はぱちぱち燃え上がる。小雨にもかかわらず風があるので、途中、燃えすぎて若旦那が数人駆け寄り、祭壇を移動させたりもした。私は少し離れたところに立ち、燃える下駄に向かって若旦那たちがひとりずつ焼香していく姿を見ていた。

下駄供養の後ろ側では餅つきがおこなわれており、Fも生まれて初めての餅つきにチャレンジしていた。物書きは精神を肥大させる時、その身体も同じだけ酷使しなければならない。

餅つきが終わるとだんだん子どもたちが集まり始め、ミニ縁日が始まった。顔見知りの子どもたちがだんだん増えていく。今日買った、というイヤリングを見せてくれた少女が、時間をかけてあつあつのフランクフルトを食べるのをじっと見守り、ときどき口のまわりをぬぐってあげたりした。少女は姉たちと、境内を走りまわって遊んでいた。太鼓、鐘、蝉の声。みどり子を抱いた城崎育ちの女性が「ああ、夏やわあ」と目を閉じて聞き入っていた。

薬師堂には、水子供養の地蔵が多くある。少女たちは桶に水をくみ、ひしゃくで地蔵に水をかけてやっている。悲しい水子供養和讃の碑文を読むこともなく、無邪気に「わたしもやるー」と、声をかけあいながら。小さな彼女たちの目には、地蔵の足に、賽の河原で地蔵に救われる子どもたちがまとわりついているのも見えないだろう。

少女たちがひとしきり地蔵に水をかけて戻ってきたのち、さっき見せてもらったイヤリングが片方ないのに気づいた。「あれ、ないよ」と言うと、一瞬不安げな様子を見せた。「一緒に探そう」とすぐに声をかけて、境内の砂利道をゆっくり見てまわった。もうすぐ日が暮れて、そうしたら見えなくなってしまう。困ったな、ここはお寺だけど、秘密のおまじないを使うしかない。そう決めて、(一見、ここに祀られているのとは)別(に見えるけどきっとつながっているはず)の神様に取り次ぎを願い、あるお祈りを唱えた。どうかなあ、見つかるかなあ、と思いながら少女と「こっちは歩いた?」「あるいてない」「こっちは?」と地道に探しつづけ、先ほど水をかけていた水子供養地蔵のあたりまで来た。「明日明るくなってからまた探そうか」と、言いかけたとたんに「あったー!」と彼女は駆け出して、むらさきのビーズのついたイヤリングを拾いあげた。

2016年7月7日木曜日

ある日(きりん組、七夕)

城崎の町にはつばめが多い。みんな巣の中から人なつこく顔を見せて、卵をあたためている。小さく縮こまっていなくて、雨が降りそうな時はきちんと低く飛んで人々に天気を知らせる。アートセンターの駐車場にもつばめの巣はあって、閉湯まぎわの風呂をもらいにいく時など、夜遅い時間に見上げると、眠る母鳥の尾羽が覗いている。

三姉妹の、三女に会った。道で自転車に乗り、遊んでいるところだった。「大きくなったね」と言うと「もうきりんぐみだもん!」と張り切って教えてくれた。いっしょにいた次女は「前は夏に来たんだっけー」とぽやっとした表情で言い「あっとゆうまだなー」とつぶやいた。急に諸行無常の境地に達したかのような、清らかさだった。彼女が律儀にかぶっている白い自転車用のヘルメットは、ぽってりして可愛かった。園の組分けについては、動物の名前でいろいろ決まっていた気がするのだが、記憶が細切れで思い出せない。三姉妹の母であるところのM夫人に後ほどメールで訊ねたところ、ひよこ→あひる→りす→うさぎ→きりん→ぞうの順番で子どもたちは大きくなることがわかった。つまり、きりん組ともなれば、園ではベテランの域で、憧れのぞう組のお兄さんお姉さんたちまであと一息なのである。三女のからだに漲っていた自信の正体がわかり、思い出してしみじみ、なんと可愛く頼もしい姿であったことかと思った。

昨日の重い荷物のせいで、一日からだと頭が痛かった。夕方早くに仕事をもうやめ、玉ねぎを刻んで炒め、トマトと鶏肉を煮込むことにした。カレースパイスの調合について、アートセンターY氏の意見を伺い、キッチンに置いてある私物の高価なスパイスの数々を見せていただいた。「胡椒はその昔、同じ重さの銀と交換された」という言葉を思い出した。Y氏には、明日カレーをお召し上がりいただき、意見を頂戴する。

七夕の夜、城崎は晴れて、子どもたちの短冊が風に揺れていた。先生の代筆による「パパになれますように」という2歳少女の願いに、こうべを垂れるような気持ちになった。

ある日(新幹線、雷)

昨日の夜早めに休んだので朝5時半に目がさめて、アロマオイルと無水エタノール、精製水を混ぜてルームスプレーを3種類つくり、旅に備えた。 荷造りはもう済ませてあった。冷蔵庫に保管していたものを最後に袋に詰め、家を出た。

東京の人は冷たいなどという言説がある。駅の階段で人が大荷物を引き上げるのに手こずっていたり、新幹線の棚にトランクを載せるのに失敗したりしても助けないのだという。でもそれは東京の人ではなく、新横浜の人々も京都の人々もそうだったので、結局日本の人はみな冷たく、東京は日本中の人間の寄り集まりなので結果的に東京だけが責められているのではないかと思う。棚に載せるのにトランクがあまりに重いので、私は気がたって、トランクを隣で悠長に新聞を読んでいる男の頭の上に落としそうになったが、人が冷たいからといって自分も悪いおこないとして良いわけはないのだから、思いとどまった。私はぎりぎりで新幹線に飛び乗ったので食べものを何も持っていなかったけれど、隣の男はからあげとおにぎりを食べ始めたのでまた不愉快になった。車内販売を一度逃してしまい、二度目に通りがかったのを呼び止めてサンドイッチを買い求めた。5個入り(ハム、卵、野菜、ツナ、ポテト)と2個入り(ハム、卵)があって、おなかはすいていたけれど5個入りだと一度には食べきれないと思ったので、2個入りを選んだ。それで正解だった。新幹線では一睡もできなかった。新幹線は満席で、息苦しかったので、持ってきたルームスプレーをコットンに少し吹き、ハンカチにくるんで顔にずっと押しあてていた。京都からの特急に乗りかえ、和田山を過ぎたあたりで安心して少しうたた寝した。

城崎国際アートセンターに到着すると、ひろいエントランスで子どもたちが走り回って遊んでいた。帽子を隠されたり、飛びかかられたりして、標的になっているのはFであった。Fが楽しげに子どもと遊ぶのなんて、城崎でしか見られない光景である。子どもたちなりに2年目の来訪者を歓迎しているのだった。多少やり方は手荒にしても。

自転車を借りて駅前に向かう途中、フォトスタジオの次女とすれ違った。遠くから手を振って「いつ来たのー」と言うので「さっきの電車だよ」と答えた。「あっそう」と笑顔で返事をするのが可愛らしい。編み込みの髪型を褒めると、次女も私のショートカットをすてきだねと言ってくれた。

アートセンター滞在者は、外湯の割引証を与えられるのだが、昨年と比べて、外湯の受付で割引証を出した時の感じが、あきらかに変わっている。認知が確実に高まっている感じ。そしてそれが、好意とまではいかなくとも自然に人々の中に存在している感じ。外湯をふたつ回って、共通して感じたことなので間違ってはいないと思う。自転車でちょっと走っただけでも、小さな工事を施したような場所がいくつもあって、観光地の施設にとって外観を取り替えたりするのは、来客のために家を掃除をするようなものなのだなと思った。

夜は酒場を飲みあるき、館長の新築の家も訪ねた。23時の閉館まぎわに入った御所の湯は、露天風呂がとてもうつくしい場所である。今、城崎はいちばん狭間の閑散期であり、露天風呂でひとり歌をうたうことなどもできた。雷が、音も立てずに閃くのを二度三度見た。初夏の夜だった。室内の明るい光が反射して、湯の底の私の脚に、亀甲のような模様をつくるのを眺めていた。

2016年7月2日土曜日

Q&A

Q.眠っている間に、自分で知らない行動をしていることがあります。
A.意識障害が出る時、直前にフルーツ食べてない? 肝臓の取り込み機能を阻害してる可能性がある。ダイエットと同じで、眠る3時間前には何も食べないようにした方がいいよ。

Q.新しく処方された薬の効き方がガックリ意識を失う感じで、今までと違う気がして不安です。
A.睡眠導入剤には、眠るスイッチをオンにする薬と起きてるスイッチをオフにする薬があって、その新しいやつは後者なんだよね。だから効き方が違うって身体で感じるのは、感覚が鋭いと思うし、間違ってない。評判も悪くない薬だし、飲んでいい。

Q.今までの薬が効きにくいのです。
A.これは耐性ができやすい系統のものだから、しかたない。たくさん飲んでもぶっ倒れないっていうことはもう耐性ができてるってことだね。これじゃなくて、もう一つの方を大量服薬してたら昏睡してたかも。

Q.覚醒剤取締法と麻薬取締法は違うものなのですか。
A.覚醒剤取締法では医師の守秘義務が勝るので、入院患者が覚醒剤をやっていても医師は通報できないの。だから芸能人はバレそうになると「心労」で入院するでしょう。今回、奥さんの方は入院しなかったので、その時点でシロだってわかる。反対に、麻薬取締法はすぐ逮捕できる。覚醒剤は精神的依存なので、いきなりやめても死ぬことはない。でも麻薬は身体的依存を起こすから、急にやめさせると心停止して死んだりするの。

Q.麻薬って何ですか。
大麻とか、アヘンとかかな。

Q.麻薬を急にやめると心停止するのですか。
A.だから刑務所の医師とかがしっかりついて面倒を見る。

Q.刑務所にも医師がいるのですね。
A.相当変わり者だと思うけどね。ちなみに、医師免許を持ちながら銃の携行が許される職業は、自衛官と麻薬取締官だけ。麻薬取締官は、医師免許か薬剤師免許のどちらかを持っていなければなれない。

Q.それは知りませんでした。
A.相当変わり者だと思うけどね。

Q.引っ越しをしたいのですが。
A.医師国家試験には “Don’t問題” と呼ばれるものがあって、選択肢のうち絶対に選んじゃいけない種類の問題がある。500問あるうち、3問それを間違えてしまったら、どんなに他の設問ができていても国家試験には落ちる。あなたが今やろうとしていることは、たとえるなら “Don’t問題” のようなことで、医師としてそれを勧めたらすなわち国家試験に落ちるというレベルで、やっちゃダメ。俺は止めるよ。

Q.もともとの志望動機は何ですか。
A.若年性肺がんの子を救いたかったんだけど、勉強するにつれて、医師になれば救えるものではないとわかった。検査技術の向上や、行政の立場から小中学生に検査を義務づけるようにしないと、俺のやりたいことはできなかった。

Q.どの科の医師になりたいですか。
A.やっぱり時代を感じられるもの。1900年代初めは何と言っても抗生物質が熱かった。それから1990年代最後には白血病が治せるようになったのもエポックメイキングだった。心臓外科も、手術器具の進化とともに発展してきたからやっぱり時代を象徴してるよね。これからは再生医療だと思うけど、年配の研究者の中にはいまだにiPS細胞に懐疑的な人もいる。それは、自分が生きてる間にその技術が真に役立つ様子を目にすることができないという無意識の嫉妬から来てるんじゃないかと思う。

Q.医学が進歩すれば、HIVもいつか治るのですか。
A.治るよ。生き物であるかぎり、殺す方法は絶対にある。

2016年6月30日木曜日

おめでとう

輪郭をなくしたのか、もとからなかったのか、私にはわからない。他者に寄りかかって自身を規定するのはやめなさい、自分を救済できるのは自分しかいないのだから、と彼女は言った。自分のアイデンティティを他人に委ねすぎないようにすること。自分がどうしているときに安定してるか知ること。彼女はいろんな指針を示してくれた。そんなこと、他に誰もしてくれなかった。あなたが一緒にいるべきなのは、今近くにいる誰でもないんだろうね、と空恐ろしい言葉を残し、六本木の路上でタクシーを拾うと、彼女はゴールデン街に向かった。