実家に帰りたい、と思って夜中にさめざめ泣いた次の日、腫れた目で実家に帰った。郵便受けを見ると、同人雑誌が届いていた。去年の11月に逝去した大伯父が、投稿を続けていた哲学系の批評同人誌であった。いつも大伯父から私宛に送ってもらっていたのだが、今回は大伯父の娘であるところの母の従姉が、送ってくれたらしかった。大伯父の名で、テオドール・W・アドルノに関する短い文章が載っていた。
「私はね、父の書いてるものも読んでるものも全然わからないから」と、母の従姉はいつも言っていた。それは、私には過剰なほどの反応に見えた。「わからない」という言葉は「知りたくない」という拒絶にも思えて、その遠ざけ方が私はいつも少し悲しかった。どんなことだってわからないはずがないのだ。わかろうとさえすれば、そこからどれだけのことが始まっただろう。彼が死んだ今になってますます、子供たちからそんなふうに思われて、彼の心の一部分は、さぞかし孤独なものだっただろうという思いが募る。でも、「父と娘」という関係性は一言では言えないものが絶対にあるから、他人である私に簡単にはとやかくは言えない。私くらい、世代も血筋の上でも離れた距離であってこそ、大伯父も私に会うのを心待ちにしてくれたのかもしれない。それでも、彼の喜ぶ顔は、逆説的に「私にはわからないから」という拒み方が人を大きく傷つけるということを私に教えた。
雑誌に同封されていた手紙には、こう書かれていた。
「父が投稿を続けておりました雑誌が、暮れに送られてまいりまして、その一冊をもらっていただけたらなあと思いお送りするものです。内容は、相変わらず私にはちんぷんかんぷんですが、納骨の日に兄弟で「まさかもう投稿していたりしないでしょうね」などと話しておりましたのに、「いつの間に…」の一冊であります。」
手紙を読んで涙が出た。彼女は知らないのだ。この原稿を、もうペンが持てなくなっていた大伯父のかわりに、私が聞き取って代書したということ。発行人のもとに、代書の旨を書いた手紙を同封して郵送したこと。原稿の複写を欲しがっていた大伯父にコピーを渡せなかったのを、今も悔やんでいること。
私は、彼の終の住処となった老人ホームの隣駅に三年暮らした。そこから越す一週間前に彼が亡くなったのは「もうここに来なくてもいいんだよ」という彼のメッセージであるような気がしていて、今になるとあれが私の娘時代の、本当の終わりだったのだと思う。
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