ねむるか、ピザを頼むかしか思いつかなかったので、昨日郵便受けに入っていたチラシの電話番号にかけてピザの宅配を頼んでみた。電話でピザを頼んだのは5年ぶりほどになる。最近はひとりでラーメンもたべたし、銭湯にも行ったし、行動力がついてなかなか広がりのある暮らしをしているのではないかと思う。私は寿司屋や居酒屋で注文するのがなかなかできなくて、いつも隣の人に耳打ちして「かんぱちを下さい」などと言ってもらっているので、たべたいものを人に伝えるだけで、一大決心が必要なのだ。ピザは、それから45分ほどしてからやってきた。1000円引きのクーポンを渡してお兄さんに代金を支払った。ピザ代というよりは、圧倒的に、原付の燃料代なのだろうな、と思った。
私は根拠のない即決をすることがたまにあって、それは前述の居酒屋でのしめの注文で「焼うどんと焼きそばどっちにしよう?」と聞かれたときに、どちらも同じくらい好きでどちらでもいいのだけど「焼うどん」と即答する、くらいの判断なのだけれど、そのことが日常に小さな決壊をもたらすことを狙っているので、そうするのである。論理立てるのでなく、好みによるのでもなく、ただ「決める」瞬間に何かが綻ぶ気がするのがうれしいのだ。服も家電も即決に次ぐ即決だし、本当は借りる部屋さえそれでもいいと思っている。
女がひとりでピザを頼んで食べる演劇とかありそうだな、と、トマトピザを咀嚼しながら考えた。食事時でもないのに、いったい私は何をたべているのだろう、と思った。でも、何らかの孤独や悲しみの描写に宅配ピザを使うなんていうのは古今東西しぬほどいろんな人が考えてきただろうし、あるいは陳腐すぎて考えもしないくらいの話で、そういう陳腐さにささやかな抵抗をするために私は思いつきでピザを頼んだり、この日記を書いたりしている。冗談ではない。私のくだらない、5年に一度程度の行動力など、底抜けに食いやぶる演劇が観たい。そういう、リアリティよりも説得力のある言葉と身体があるということを、私は知ってしまっているのだから。
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