優しい人がいいです、という言葉の意味のなさに愕然とする。優しさなんて、私にはほとんど必要ない。そんなこの世に存在しない概念よりも、知性と少しの想像力を持っていてほしい。それで見た目がもともと好みもしくは思いの外好みというのが、素敵なんじゃないの。え、違うの。
東京デスロックの『シンポジウム』を観て以来、一人で閉じ込めようと思ってた気持ちが燻って困る。なのでこつこつ考えて、書く。 あの場所に連れて行きたい女の子のことを思い出してメールしたのであと一度は観る。
彼の日、劇場でYさんに、最近私が書いた二種類の文章A・Bについて言及された。Aは先日書いた劇評。Bは演劇作品のおすすめ文。要は、印象が全く違うので「どうしてAみたいなものを書いたあとにBが出て来るのか」ということを聞かれた(と思った)のだが、それぞれ違う部分を使って書いてるから、とも言えるし、源泉の気持ちは同じだから読んだ印象が違っても本当は同じ、というのが正しい気もする。
愛について考えると、対象になる様々な人、もの、生き物について考えることになる。たとえば私は弟(7歳も離れている)を溺愛していて、これまでどんな恋人も弟の地位を超えたことはない。たとえば男の人に、私の料理について「味が薄い」みたいなことを言われたとしても私は「ごめんね、自分でお塩ふってね」とかで済ませるだろう。でも弟に一言「おいしくない」と言われようものならただちに作り直すし、まあそういうのが愛かもなあ、と思っている。(弟は格別に味にうるさいので、彼を満足させておけばたいていの場合は大丈夫なのではないか、という話でもある)
話がそれたが、愛する人のことを考えながら、その甘美な沼から這い上がって、愛そのものについて近づけるよう、考えを束ねる作業をしなければならない。溺れる人について語る際に自分が溺れていてはいけない。などというのは簡単だが、私が本当にしたいのは、溺れている自分を岸でじっと見ているもうひとりの自分を得る、ということなので、今の話も関係あるような、ないような。
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