昨日あんなに嫌がっていたにもかかわらず、思い立って、はじめてfacebookに友達の写真をアップロードし、名前をリンクしてみた。食事会の風景とでもいうべき、隠し撮りみたいな写真である。みんなが楽しそうにしているのは好きなのだから、同じように楽しくならなくたって 、私は私のやり方で観察すればいいし、写真だって撮ればいいのだ。ときどき私がカメラ(携帯電話だけど)を向けているのに気がついてピースする子もいたけれど、そういう写真はボツにして載せなかった。真ん中に集まって、ピースサインで撮るのはかなり苦手だ。まあ便宜上応じることができるくらいには安い魂なのだけど、苦手というよりは興味がないと言ったほうがいい。それは昨日、三野くんの写真展でのパフォーマンス『Z/G』を観ていてあらためて気づかされたことでもある。撮られたあとの私たちは、写真の中でゾンビになるのだ。意思のない、生きているのに死んでいる物体。ゾンビのくせにピースするなんておかしいと思っているのだろう。写真が切り取るべき、流れゆく”今”に対して、のんきにピースサインで静止する姿勢は私には取れない。そのあと、幽霊にもなるなら、なおさらだ。
にきびをフランクに指摘することで、私との親密さを確認しようとする人に腹を立てた。女の肌に言及するにはその女としかるべき信頼関係を結んでからという決まりを知らないのかこのやろう、今すぐ治してやるからな(※心の声)という勢いで昼休みに近くの皮膚科に行った。よく通っている、なじみの皮膚科である。待合室で、3歳くらいのこー君と名乗る男の子が、自分の水いぼの説明を一生懸命してくれたので、そっかそっか、と成田亜佑美ばりの包容力で耳を傾けた。ふともものところに水いぼが二個できてしまって、先生に診てもらったらしかった。あのね、プール入るの、と、こー君はささやくように教えてくれた。水いぼにね、ばんそうこうしてるから入ってもいいんだよ、と話してくれた彼に、よかったねえ、暑いからプール楽しみだねえ、と言って別れた。診察室ではにきびを針でつつかれて、反射で涙が出るほど痛い思いをした。血が結構出て、顔の真ん中にばんそうこうを貼られた。薬局が混んでいたので昼休みを20分ほど超過してしまった。顔にばんそうこうを貼って歩くというのは、他人が見たら一瞬で気にしなくなるかもしれないけど、自分ではいつまでも気になるというたぐいの体験だというのがわかった。幸い血が止まって、1時間くらいではがして捨てた。でも、今も皮膚の下で白血球が戦っていて真皮のあたりまで痛い。
ずいぶん前から考えてきたし、最近また身に迫ってきたので再検討したのだが、文体と距離感の話、というテーマがいつもある。私の場合、ときどき、明晰に説明しようと試みていたはずなのに、いつのまにかひざをついてそばにすわり(ときどき肩に手をかけて、耳元に寄って)話しかけているような書き方に変わってしまう。 重要なのは、そうやって誰かのそばにすわっている自分を、部屋の扉の外から見ている私、が書くことだ。まあ、部屋の中に入って、私と誰かの顔の表情を覗き込んだり、後ろに回り込んだりしてもいいのだけど。それで明晰さを求めていくこともできるだろうし、かしこさは、まあ、難しいかもしれないけど、そういうのは他の人がやってくれるからだいじょうぶ、と思っていればいいのだ。
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