本当にやりたいこととか、本当にそばにいたい人とか、って言葉に窒息させられそうになっているけど、私が今いる場所、人、やってること、送っている人生が結局本当の私の人生なのだと思わなければいけない。そうじゃない本当のことなんてやってこないし、最初から全部本当なのだ。
誰かに浸食されたことによって守られる領域があって、それをこの人は知らない、という形の抵抗を試みることがある。別にその時々の恋人に対してというわけでなく、どちらかというと普遍の敵に向けられたもの。私の表面はいざ知らず、身体はあなたの自由にはならないという意思のあり方として。それから、心底私だけを見てほしいけれどそれが叶えられないときの拠り所として。間違ってるかどうかなんて聞いてない。他人を通して知る自分、というのがあるというだけだ。でも思えばずっと、理解されない武器を身につけることで、何かを守ってきたような気もするな。
どれだけ強く抱きしめたら言葉を使わなくても伝わるのか、やってみたところできっとよくわからない。 私の愛は、甘く見合うことと許し合うこと。その相互的なバランスなしにはあり得ない。私が甘く見る余地を持たせてくれない人、私を許してくれない人とはやはりだめだと思う。ひとりで出来る愛と言えば、あなたに長生きしてほしいと願うことくらいである。
どれだけ強く抱きしめたら言葉を使わなくても伝わるのか、やってみたところできっとよくわからない。 私の愛は、甘く見合うことと許し合うこと。その相互的なバランスなしにはあり得ない。私が甘く見る余地を持たせてくれない人、私を許してくれない人とはやはりだめだと思う。ひとりで出来る愛と言えば、あなたに長生きしてほしいと願うことくらいである。
女に対してすることは三つしかない。女を愛するか、女のために苦しむか、女を文学に変えてしまうかだ。( ロレンス・ダレル『アレクサンドリア四重奏』)
※上記引用は、来世で男に生まれたときのための備忘です。
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