オリンピックが決まった朝のこと、ある人からメールが来た。でも私は東京にいるしかないし、この狂騒を見届ける意志を今のところ持ってる、と返事した。そのあといくつかやりとりして、結果としてひどく落ち込んだ。仮に世の中がまた戦争に向かうとして、いつだって残されるのは女で、男たちが去っていくこと、一緒には苦しんであげられないこと、彼らがもう戻らないこと、動乱の中に置いてゆかれる覚悟は、15歳のときから何度も想像している。
という話は面倒なのでしていないが、そのとき私は黙っていたわけじゃなくて、1936年のベルリンオリンピックについて調べまくっていたところだった。当時男子マラソンで金メダルを取った選手は、日本に併合されていたころの朝鮮出身なのであった。そして思い出したのはこの劇評。大学時代、東館の図書館で、ある女の子と一緒にこの作品の映像をずっと観ていて、その他様々な事情により、ある意味で私の大人になってからの(思春期という意味でなくて)人格形成に非常に影響している。こういう植民地支配にまつわる物語の影響なしに、今、演劇を観続けていたかも分からないくらい。
ベルリンオリンピックと言えば思い出すのは、レニ・リーフェンシュタールが撮った『オリンピア』という映画。独裁者の演説を撮った『意思の勝利』も、授業で観た。何でこんなこと覚えてるかというと、彼女にちなんだ名をつけられた先輩が大学にいたからだ。彼女とは、今もときどき飲みに行くので、レニ・リーフェンシュタールのことも忘れない。彼女の毀誉褒貶を思いながらWikipediaを何となく漁った。
職場に北京からの出張者が来ている。出張自体は、相互的に、しょっちゅうたくさん行われているので珍しくないが、私が去年北京で大変お世話になった人が三年ぶりに日本に来たので、この前ランチした。北京のオリンピック公園はまあまあうつくしいけれど、あんまり面白くないから私は行きません、と彼女は笑った。
他に北京で一緒に仕事をした楊さんという人のことも思い出す。彼が「中国の人は、日本みたいに、あまりえらい人のことは皆で話したりしないのです」と言ったのをよく覚えている。簡単な日本語だったので、かえってダイレクトにその日常が伝わった。そのとき楊さんと私は食事をしていて「楊さん、このつるつるしたやつ何ですか」と私が日本語で尋ねたら「五月雨です。あ、違った。春雨です」と答えてくれた。そういう日本語の知識があるのに、彼は母語で政治について語ることはないのだ。
ひとつのシステムで障害があると、部署を超越して影響が出ることも珍しくない。原因は些細なことのはずなのに、ひとつの判断ミスから思いもよらない方向に広がり、結局大きな労力がかかる。時間もかかる。テンションは下がる。金融システムでさえそうなのに、原発関連の、数十年かかるようなプロジェクトに対して本当の真摯さで取り組めるほど、人間の意識のスパンは長くない。これまで少なくない数の炎上プロジェクトを見たり、その火消しに放り込まれたりする経験をした。自慢できることではない。でも、期間と予算に基づくひとつのプロジェクトというものがどれだけ予定どおりに進まないか、その進捗管理とトラブルの制御が難しいものかは、少し知っているつもりだ。
東京オリンピックまでにはリニアモーターカーの運転開始は間に合わない、という結論が出たそうだ。今後14年ほどかかるリニアモーターカーのプロジェクトを7年でやれるかどうか、ということが言われていたらしいが、決定しなくてほっとした。原発事故の現場でも、水の処理などの特定の作業を7年で終わらせろ、ということが言われているのではないか。そうなったら、2020年という期限だけが独り歩きして、それに間に合うことだけが目的になるのだ。おそろしい。そういう、期限が目的になってしまった指示にたくさん遭ってきたけど、今さらそれを気に病むほど繊細じゃない。やるしかないんだから繊細なんかじゃいられない。そして、うまくいかなかったとしても検討されるのは新たな対応ではなくて(もちろん対応は現場で考えるけども)いかにして上に報告するか、なのである。本当にこういう世界あるんだ、と思いつつ、私だって思いっきりそこに加担して、なのに週末は演劇とか観て泣いたり、あまつさえ劇評を書いてみたりなどしている。信念と生活が乖離してんだよ、でも、どうにもできないんだよ。自分の矛盾に気づいていたって、行動できないことを贖えないことは、わかっているのだ。
で、そのあと彼は、昔死んだロックスターの話をしてくれたけど、それを聞いても私はよけい傷つくだけだった、でもそれは別に彼のせいではない、という長い説明の日記は以上。
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