2013年9月25日水曜日

港町の魔法

九月の連休は、大半の時間を横浜で過ごした。魅力的な催しが密集していたからだ。このブログでは、個別の作品のすばらしさについてはあまり言及しない。それよりは、自分からわいた感慨とか風景に触発されて何か書きたい。でも、すばらしくないときは言及もしないので、この複雑な思いは処理が難しい。

悪魔のしるしを観に行って、出演者の中に古い友達を発見した。先日も別の作品で同じことがあったのだが、大学時代から通算して12年ほども小劇場演劇に(ごくごく細々と)関わっているうちに、こういう「再会」に遭遇する年齢になってきたように思われる。それぞれ来し方は様々で、向こうからしてみても私と再会することは驚きの一言だろう。でも、久しぶりすぎて会話がぎこちなくたって、私は私と彼らのうしろに連なる、不連続なプロセスが結実した今がうれしい。

ハイバイの『月光のつゝしみ』 を観ながらぐっと心臓を掴まれて、息をしながら、身体が劇場の中に満ちた空気に溶けていくような心持ちがした。こういうお芝居があるから、許せはしないけど、遠くから見つめることくらいはできるようになる人がいるのかもしれないと思った。「あの人は子ども生んだことがないからああなのよ」って、いつか母が言っていたこととかをぼんやり思い出していた。

横浜の海沿いのカフェで行われる、ままごとのワークショップ公演に滑り込みで行けたことが連休のいちばんの特別なできごとだった。発表が終わって、カフェがそのままバーになったので、私は残ることにした。お酒を少し飲んで音楽を聞いて、胸が締めつけられるように好きな人がたくさんいて、それだけで見放されてしまいそうになり、とても人と話せない、と思ったので、窓のほうを向いてひとりで座り、ノートを開いて書き物をしたりした。カードゲームに興じる人々の声を背中で聞いて、飲みながら意見を交わし合っている人が窓ガラスに映り込む様子を眺めた。結びついては離れ、いつか忘れ忘れられてしまう今日。こんなに、過ぎてゆくそばから寂しい時間があるというのは、こんなにすばらしい時間はかつて自分の人生になかったと告白しているに等しい。12月、また来て下さいねってみんなが言ってくれて、でもその時の私は今と同じ私ではないはずで、それは何だか目の前が霞むような未来なのだった。憧れの人が私のノートをのぞき込んで「何書いてるの?」と話しかけてくれたときには、いわゆるネクラ文芸部少女みたいな根性になっていたところだったので、びっくりして飛び上がるような思いがした。その後しばらく話をしたけれど、ここで過ごした時間を後で振り返ることまでも想像しながら、私が、今ここにいる人やすれ違った人が作り出す時間をどれほどうつくしいと思い、そのせいで苦しくなっているかはきっと伝わらない。だからこそ、そういう自分を懸命に外から(未来から?)眺めて、自分が今日この場に立ち会って流した涙も自分だけのものにしないでノートに残そうとしていたのだが、私のその気持ちだって、彼は永遠に知ることはないだろう。それはもちろんそうあるべきだし、いつだって何かに愛を注ぐというのは、それぞれの孤独な営みなのだ。
 

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