数日前が誕生日だった。母が家のごみ置き場に置いて行った花は無事見つかった。(※二つ前の記事参照)
その日は、15歳になるまでの15年間と、その後の15年間が果たして本当に同じ長さだったのか、頭の中で検証していたら一日が終わった。そして夜のだいぶ遅い時間から、MN嬢の部屋に遊びに行って、またいろいろ話をしたのだった。本当にぶっ壊れたやばい男は、まわりにどれだけ人がいても瞳の光ですぐわかる。
ここのところ、女性が何かを書いたり、芸術作品を作ったりするときに感じる様々な抵抗の話をいろんな人として有意義だったけど、有意義であるということは疲れるという意味でもあるので、なかなか消耗もした。語り方がいくら新しくたって、語られることが新しいわけではないこともあるし、バリエーションはそうそう増えるものではない。
だからって何でもあきらめていいわけではないけれど、いつだって腕枕は男の余裕だし、膝枕は女の甘やかしと決まっていて、それくらいは分担してもいい。私たち、他人の身体を通して自分を見る、ということが、彼らよりは少し得意。
だからって何でもあきらめていいわけではないけれど、いつだって腕枕は男の余裕だし、膝枕は女の甘やかしと決まっていて、それくらいは分担してもいい。私たち、他人の身体を通して自分を見る、ということが、彼らよりは少し得意。
最近記憶にあるだけでも、 携帯電話のカメラが壊れ、給湯器に落雷があって電気が通らなくなり、冷蔵庫が原因不明で冷えなくなった。家電が身代わりになってくれているとか、自分を見つめ直せという印だとか言われるけれど、一連の故障が何を示唆しているのか、考えてもよくわからない。わかりたくないだけだったらどうしよう。それでは重ねた年の意味が、あまりないように思われる。
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